昨日四十九日を早めに閉じ魂入れをしていただいたのですが本当の四十九日まで御詠歌を続けた方が供養となりますか? 逆に魂入れをしていただいて仏さんになれたのに御詠歌を続けてたら故人に問題は、ありますか?
数日前に父が亡くなました。 いまは鳥一羽と一緒に暮らしています。 今日葬儀と火葬が終わり、お骨を自宅に持ち帰ってきて祭壇など準備をしました。 「線香の煙を絶やしていけない」と言われたのですが、鳥に線香やお香は有害なため、線香をたくことを躊躇しています。 今暮らしている家に文鳥を隔離避難できるところがありません。 父には、一膳飯や好きだったものを祭壇において、「文鳥がいるため線香を今たけないこと」と「ごめんなさい」と伝えました。 私が鳥のことを大事にしていることは、父が一番分かっているので、きっとこのことも分かってもらえていると思います。 ただ線香をたかないとよくないのではないかと悩んでおります。 でも煙や香りなどのせいで鳥が亡くなってしまっては、私はこのさき生きていくことが出来ません。 この子だけが私がこの世にとどまる理由なのです。 かわりになる供養方法などあればよいのですが...お知恵をおかりできれば幸いです。
彼とお付き合いしてまだ4ヶ月しか経っていなかったんですけど、付き合ってすぐに同棲をはじめました。 些細なことで喧嘩もすることもあったけど、いつも彼の方から「ごめんね。俺が悪かったから。」って言ってきてくれてました。 彼が亡くなった日も家で喧嘩をしました。 その時も「ごめんね。俺が悪かったから。許して。」っていつものように言ってきました。 でも私は、「前にも同じことやって、何回やれば気が済むの?!! ほんとに今回だけは許さないから!! この手離して!! もう実家帰るから!!」って彼の手を強引に離して荷物を片付けていた時に後ろの方から、「今までありがとね…」って声が聞こえて「なによ?」って振り向いたと同時に、ロフトの柵の所で、目の前で首を吊りました。 すぐ隣人の人も呼んで救急車で運ばれたんですけど、そのまま帰ってきませんでした。 まだあの日から日が浅いのもあって、お酒がないと眠れなくて、シラフの状態だとほんとに些細なことで彼のことを思い出して辛くて苦しくて、気づいた時にはお酒を飲んでしまいます。 こんな姿、彼は見たくないとは思うんです。 でも、心の整理なんてまだ全然つけられなくて、半分まだ生きてると思ってるし、でも現実にはもういないって、もう色々と心がぐちゃぐちゃで… 後追い自殺をしようとも思ってしまいます。 彼が生きる意味になってたのに、なぜ彼をもっと大事にできなかったのか… 今では、後悔ばかりしかありません… 相手方の遺族の方や友人にも謝っても謝りきれません… もうこんなことを毎日考えて、すごく辛くて苦しくて、耐えられません。 こんな私ですが、少しでも生きる希望を持ちたいです… どうすればいいのでしょうか…
昨年、父方の祖父を亡くしました。 先日、母方の祖父を亡くし、 葬儀を終えたところです。 今も悲しく辛いのですが、みなさま尽力してくださり、良い葬儀ができました。 今もそこで見守ってくれているような気がします。 おじいちゃんが大好きでした。 ずっと忘れたくありません。 お盆には必ずお墓参りをしますし、これからもそうします。 話は変わりますが、祖父たちの宗派をよく知らないのですが(無知ですみません。) 私も特定の信仰があるわけではありません(ごめんなさい) 私は死について考えるようになり、世界の考え方を少し調べました。 メキシコの死者の考え方がとても素敵だなと思い、 お盆には変わらずお墓参りはしますが、 11月も、写真を飾り祭壇を作り、祖父を思い出したいなと思いました。 そしたら年に2回祖父に会えるのでしょうか。 やはり、海外の考え方は、意味がないでしょうか。
夫の七回忌が2月にあります。その時に、お盆の時に出す、灯篭を法事で使ってもいいのでしょうか?よろしくお願いします。
以前より、亡くなったペット達に、近所のお寺で冥福を祈り週に数度お線香と水を供えて、お経を読んでいるのですが、彼らは、仏様の所(若しくは来世)で、見守ってくれているのでしょうか? ペット達は、自分に懐いていました。 自分は、宗教に対して素人なので、お坊様の考えを賜りたいと思い、hasunohaの問答にコメントしました。
昨日まで元気に鳴いていたのですが今朝になり様子を見ると息を引き取ってました。 原因はあまりお世話できなかったからかなと思うのですが...昨日は鳴き声がするのを確認しただけで、ご飯をあげ忘れてしまったのです。 自分の不注意で死なせてしまったことを深く反省しています。 若くしてこの世を去ったコザクラインコちゃんが報われるのか… だめな飼い主を、恨んでいないかと不安です。 今後生きていく上で何かいいアドバイスを頂ければ幸いです。 よろしくお願いします
尊敬していた日舞の師匠がお亡くなりになってから3日経ちました。 やっと師匠が亡くなったことが受け入れられるようになりました。 そして、師匠を思って手を合わしたら 師匠の声と笑顔な姿が浮かんできました。 師匠の弟子として自分では 師匠がご生前に教えていただいたことを 活かして舞踊を続け、後世に伝えて行こうと思いました。 亡き師匠からいただいたお着物もあり、 その着物を着て、亡き師匠を偲ぶ。 師匠のご家族のご了承をいただけたら お墓に手を合わしたいと考えています。 上に書いたようなことでも、亡き師匠の供養になりますでしょうか?
度々のご相談失礼いたします。 本日は一周忌を迎える、ご縁があった犬への供養についてお伺いしたいです。 【質問】 ・自身(人間側)が無宗教、かつ遺骨を分骨して頂いている上で【一周忌】を迎えるにあたり、どうしたら、ヒトも犬も安寧を得られるのか。 ・具体的に何に手を合わせれば良いのか。 【背景】 ・前々回のご相談内容の上で、自身はさておき、この度一周忌にあたる犬がいる。 ・依怗、自己憐憫、何かはわからないが、 その子の供養を出来る環境に今、自身がいる。 ・思いを馳せるに、諸々私に与えてくれた犬が少しでも安心出来るようにしてあげたい。 【具体的なこと】 ・犬と自身の関係はたまたまの偶然。 ・オーナーは在職だった頃の会社の先輩。 ・一時期、同居をしており犬への一通りの世話をしていた。 ・看取りこそ出来なかったが、不思議と懐いてくれていた様にも思えて、この度、一周忌を迎えるにあたり、何とか供養してあげたい。 ・先輩も私も実家の宗派はあれど、深くは知らず、遺骨は互いに手元供養(お骨の前に本尊なしで犬の写真、お水、ご飯を供え合掌している。納骨予定もなし) そんな中で、この度大阪の四天王寺様へ一周忌の区切りとして、行く運びになりました。 【質問2】 ・特段、ご縁がないお寺さんへ行く事、その上で犬の安寧を祈る事、これは良いのでしょうか? ・自身の気持ちの整理、と言う意味で馬頭観音様の前で観音経をお唱えしようと思いますが、付け焼き刃の知識の中で行って良いのでしょうか。 何を信じるかはそれぞれ。仏様に合掌すれば何となくの知識として安心できる気がする。 それだけの想いで安易に行おうとしている行為に不安あり、だがあの子にはありがとうと伝えたい。 何かご助言頂けたら幸いです。
母親が亡くなってもうすぐ1年になります。 未だに毎日のように母の事を思い出して辛いです。 母親とはずっと前から関係がよくありませんでした。 なので良いことばかりではなく 嫌だったこと、辛かったことを思い出したかと思えば、母も生きづらく辛かったろう寂しかったろうと後悔の念が巡って涙が流れたりと、ずっと複雑な気持ちで考えが堂々巡りして頭がおかしくなりそうです。 よく、忘れる必要はないとか、思い出すことが供養とかと言われますが、思い出さないといけませんか? 思い出したくないのです。 宗教には詳しくないのですが、うちは禅宗という宗派です。 禅宗とは座禅を主にする。という宗派? のようなのですが、 座禅=心を無にする=座禅の間は亡くなった人の事への思いを無にしてしまうことが供養になりますか? 思い出してしまいそうになったら心を無にしても良いですか?
2ヶ月前の夜、口喧嘩をして、家出して、そのまま彼が自死してしまいました。 今までにも自殺をほのめかして家出することが何度かあったので、彼は死なないと思っていました。あの日優しい言葉をかけれなかったこと、家出を止めなかったことを後悔しています。 彼とは10年同棲していましたが、籍はいれておらず、 亡くなってからのことはご家族が引き取られました。 私は手を合わせに行くこともできない状態です。私にできる供養はあるでしょうか? いつも隣にいた彼が急にいなくなって、まだ信じられません。帰ってくる気がしていつでも彼が帰ってこれる準備をしてしまいます。 彼のためにできることがあれば、私の気持ちを整理するためにも教えてほしいです。 よろしくお願いします。
ファンシーラットというネズミを飼っていました。今日、死んでしまいました。 夜、寒いかと思い、ケースに入れて毛布の中で一緒に寝ました。 朝、いつもは起きない時間に目が覚め、見てみると既に死んでしまっていました。暑すぎてしまったのか、息苦しくしてしまったのか、本当に後悔しかありません。人懐っこく、一緒に帰省していた時も家族から愛されていました。とてもいい子でした。本当に可愛かったのです。 上手く言葉に出来ず申し訳ありません。悲しくて仕方がありません。自分のせいでこの子は死んでしまったのだと、悔しくておかしくなってしまいそうです。この子は、きちんと成仏することができるのでしょうか。私は、この悲しみから抜け出ることができるのでしょうか。どうかご回答お願い致します。
私は長女ですが、最近家の母から私が生まれる前に流産した子がいるときかされました。私は浄土真宗東が菩提寺ですが、去年は真言宗のお寺に縁が深くありました。その子供は、供養したほうがよいでしょうか?
様々な事を回想して思う事は いくら考えても真実はわからないんだと。 一生わからないとどこかでわかっている確信のない自信があります。 生前、変な話ですがここ数年アルは人間みたいと周りの人に言われる事が何度もありました。 僕自身そう思う事もあり、むしろ神々しさすら感じていました。 アルは具合が悪くなってから1週間で亡くなりました。 それまで大きな病気もせず、丈夫で我慢強く、本当に我が家の宝物でした。 しかし、それは自分のエゴで、アルにとっては違かったなと気づきました。 亡くなった後、違う対処をしていれば、もっと生きれたんじゃないか、生きたかったんじゃないか、、。と後悔ばかり。 しかし、それがどうであれアルはもう戻って来ません。 アルは全てを受け入れたんだと、 そう選択させてしまった事が申し訳なくて申し訳なくて、、、、。 アルが亡くなって数日後、夜の散歩中に流れ星を見ました。 また幸せに生まれ変わったら会おう!また出会えたらもっと大切にするから!と願う事も出来ました。 アルが亡くなって数日は不思議な事があり、でも全然違和感もありませんでした。 今はアルと過ごした全てが、アルが準備したものだと強く感じます。 アルは色々な事を教えてくれました。 今はそれを胸に生きています。 世の中の見え方が変わり、世間の人の見方までも変わりました。 それでもやはり、アルとまた暮らしたいと強く思い、悲しみや寂しさに押しつぶされそうになります。 行き場のないこの気持ちを供養や成仏という形で先人の方々は整理してきたのかなとも思います。 胸には悲しみと寂しさの静寂があり日々をいつものように過ごしています。 自分であって自分は変わったと実感しています。 それが良いのか悪いのかもわかりません。 今の自分がずっと変わらないのか、変わってしまうのかもわかりません。 ただ命あるものに対して気持ちの変化はあります。 大切に丁寧にと。 有限なものには精一杯。 無限なものには希望を。 損得なしにただ生きているそんな状態です。 支離滅裂な文章で申し訳ありません。
母が12月末の木曜日に亡くなりました。前日まで元気に過ごしていたのに信じられません。元気な母にはいつでも会えると思っていました。その週の月曜日の私のお休みに母に電話をするとこれから皮膚科にいくとのこと(遠いところに通っていたため、皮膚科に行く日は往復2、3、時間かかります)、私はだれかと話をしたかったので友達と約束をしてしまいました。母が皮膚科から戻って電話をくれたときには友達と会っていて、「ごめんね、友達と会っているんだ」と話して電話をきってしまいました。元気な母なので、またすぐに会える、冬休みも始まるし子供たちと会いに行けるという気持ちからそのまま電話をすることもなく、その電話が最後になってしまいました。どうして友達と約束をしてしまったのか、少なくとも夕方に母と「さっきはごめんね。友達と約束しちゃて」と話せたのではないかと後悔でいっぱいです。 母が皮膚科に通っていた理由は、2018年の夏くらいから徐々に髪の毛が抜けだし、去年の春くらいにはすっかり髪の毛がなくなってしまいました。病院で検査を受けても異常はなく、本人はいろいろな心配事があるのでストレスではないかといっていたので、いつも元気に動いていたので私も病気ではないと思っていたのです。本当はもっと母と一緒に大きな病院で検査を受ければよかったのではないかと後悔ばかりです。家で倒れてなくなったので、母が亡くなった原因がわからずとてもつらいです。 結婚してから子供ができてからは孫たちの面倒、たくさんの事をしてもらい、これから私が親孝行をしてあげたいと気持ちでは思っていましたが、何もできずにお別れになってしまいました。明るく元気で、小さなことにも感謝の気持ちでいられる母にもう一度会いたいです。、突然になくなった母、気持ちの整理ができません。今から私にできることは母のように誰にでも優しく感謝の気持ちを忘れないこと。子供たちを立派に育てること。私にできることがあれば教えてください。どうかよろしくお願いいたします。
小学生の頃の話です。当時金魚を3匹飼いました。私は親に世話を任せきりでした。 ある日、金魚はまだ元気でしたが、親から「金魚はおしまい」というようなことを言われました。 当時の理解として「おしまい」というのは家から追い出すことかな…可哀想だな…と思う程度でした。 その後金魚は暗い物置へ水槽ごとしまわれ、暫くして3匹は亡くなりました。発見時あまりにも悲惨な状況で、その時にようやく残酷なことをしていたんだ…ということを理解しました。 それ以来、お魚は飼っていません。釣りや活け作りも厳しいです。 私にはとても忘れられない状況でしたが、親は記憶がないそうです。不思議ですね。 その当時、子供心にも「可哀想」と思いがあるのに、その素直な思いを親に言えなかった後悔があります。その一言で思いとどまったかもしれないのに…。 そして大人になった今、金魚を死に至らしめる結果になったのは、世話を親に任せっきりにした自分にも原因があったこともわかります。 しかし何よりも犠牲になった金魚の苦しみを思うと、今は金魚へ謝りたい気持ちでいっぱいになります。 時折家でお線香をあげて金魚へ語りかけています。それ以外に私にできる供養はあるのでしょうか?
ある方より、主人の先祖供養がされてないので○○万円で供養できるのでしたほうがいいと言われました。 この供養がされてないので私、子どもたちにまで影響がきていると。 ご先祖様の供養は大切なことは承知しておりますが、このような申し出にとまどっております。 無理強いはしないのですが供養していないために、問題があるといわれて、かなりモヤモヤしてます。 先祖供養はそんなに金額をかけないとできないのでしょうか?どうしたらよいのでしょうか。
先日愛猫の「ひめ」が14歳で天国に旅立ってしまいました。 肺に水が溜まっていたらしく、死ぬ間際も呼吸困難で呼吸ができなくなり、相当苦しい思いをしたと思います。 もっとああしておけばよかった、もっと可愛がってあげたらなど後悔が尽きません。 まず、 ・かかりつけの動物病院に行ったが主な原因がわからず、薬をもらったが一向に元気にならなかったので、その時にセカンドオピニオンで違う動物病院に連れて行けば元気になっていいたかもしれない。 ・毎週日曜日に動物病院に連れて行っていて、その前日、土曜日に猫の様態が悪くなり、日曜日の病院に連れていく1時間前に亡くなった。 土曜日にでも全然連れていけたのに日曜日じゃないとダメという謎の認識があり、土曜日に連れて行っていたらまだ死ななかったんじゃないか もっといろんな食べ物やいろんなおもちゃで遊んであげたらと後悔しています。亡くなってしまった今後悔しても遅いですが亡くなった猫のことを思うと涙が止まりません。 「死」というものがこんなにも重く、自分が猫に沢山支えられてきていたことを心の底から実感しています。 死んでしまったひめへの後悔はどうすればいいでしょうか、
父が自殺してしまいました。 なんで、助けてあげれなかったのか、悔やむばかりです。周りには病死と伝えてるので、まだ若いのに残念だね。と声をかけられる度に苦しいです。 生きることにつかれて、自ら死を選んだ人は天国には行けませんか? 突然の別れ、死後の父のこと。頭から離れなくて泣いてる日々が続いています。
お坊様に質問がございます。 自宅の庭に置いてあるネズミ取りの罠に小鳥(瀕死)がかかっておりました。 助けたいと思ったのですが、虫の息でしたので、人の勝手で命を奪ってしまって、申し訳ないと彼(彼女?)に対して観音経・般若心経・普回向・舎利礼文読みました。 その小鳥は、仏様の所へ無事行けるのでしょうか?