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「心構え・生きる智慧」を含む問答(Q&A)一覧

間違った教えの見分け方

前回の質問の回答が、よく分かりませんでした。 (※特定の宗教団体に関する書き込みがあったため、質問は削除されたみたいです。) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー Q「慈悲」は人によって全く違うのか あるお坊さんの問答にて1 「私は仏様の存在を感じることが出来ます。けれど、周囲にこの話をしても誰も信じてくれません」という人に対し、お坊さんはこう言いました。「それはとても悲しいことですね。その人はかわいそうな人です。地獄に落ちるように祈ってあげましょう。それも慈悲なのですよ」と。 別のお坊さんの問答にて2 「過去に人からされたことで苦しんでいます。どうすればいいでしょうか」という人に対し、お坊さんはこう言いました。「自分は遥かに優れていて、相手は可愛そうなのです。そのように見てあげる慈悲の心を持ちなさい」と。 どちらも実在するお坊さんの問答です。 慈悲とは何でしょうか。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー この回答で、 「そのお二人のお坊さんの言葉は慈悲の間違った使い方だ」 というご意見と 「この言葉・表現により、仏の悟りが具体的にその人にはたらくならばそこには「慈悲」があるのです。「その人の」ではなく「仏の」慈悲です。」 というご意見がありました。 双方、慈悲についての説明があり、仏教にとって「智慧」と「慈悲」はとても大切なものなのだと知りました。 しかし、間違いないのか間違いではないのか分からないまま終わりました。 非仏教徒である私や詳しくない人は、例に挙げたような話をされると、言葉通りの意味=仏教でいう慈悲なんだと信じてしまいます。 間違っているのでしたら、どのように間違っているか。 どのように見分ければよいのでしょうか。 仏教に無知な私にも分かるように教えてください。 お願いします。

有り難し有り難し 25
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諦めそうになるとき

自分に対して「死ね」と言ってしまうのが口癖で、直したいと思い、気を付けているのですが、無理そうです。 自分に関して、ばかりで申し訳無いのですが、私は自分の直したい部分がたっくさんあります。 例えば、暗いところ。感謝が足りないところ。楽しめないところ。夢や目標がないところ。体型。心。発する言葉。仕事ができないところ。その他諸々。です。 人に上手く話せないので、困ったことや直したいところ、その方法などは本で読んだり調べたりして、その都度実践しています。けれど、落ち込みが激しかったり、いつもよりやけに自分が嫌いだったり、逆に他人が嫌になったりすると、すぐ元のダメな自分に戻ってしまいます。 そんな時、私は自分に「死ね」と何回も言ってしまって、その後、あー嫌な言葉使っちゃった、やっぱり自分はダメなんだ、というマイナスのループに入ってしまって、本当に駄目です…。 家族とは上手く話せないし、友達もほとんどいないです。なので、家族と上手く話せるように、いい関係を作れるように、また、友達ができるように、明るくなりたくて、そのために調べたり本を読んだりして、初めのうちはその方法実践できるのですが、次第にできなくなってしまいます。 (実践したことは、毎日良かったこと感謝したことを書いてみるというものと、プラスの言葉を思ってなくても発するようにする、些細なことでもしてもらったら、ありがとうと忘れずに伝える、などです。) 仕事ももっとできるようになりたくて、問題点を毎日見つけて翌日直そうとしたり、そのためにノートをつけたり、最初のうちはできたのですが、次第に疲れてきたのか落ち込んでくるのか、やらなくなってしまいます。あまりにもできないことが多く、何をやってもいつまでもダメな気がしてきてしまって、自分は何をやってるんだろう、と思ってやめてしまったりします。ただ目の前の仕事をこなすだけになってしまい、また自己嫌悪のループです。 (特に、上司にどう思われるかが気になってしまったり、周りに溶け込めているか不安になったり、人間関係の妄想やら捏造やらで目の前のことに集中できなくなってしまいます。) 余計な感情、心を消して、純粋に素直に、自分がないたい方向へ行動を繰り返し続けるには、どうしたらいいのでしょうか。私はきっと、諦めが早いのだと思います。けれど、続かないんです…。 お願いします。

有り難し有り難し 29
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理不尽だと思う気持ちのやり場

半年後に入籍を考えている彼氏の単身赴任が決まり、入籍の時期が遅れることになりました。 もともと結婚願望が強く、○歳までに結婚し30歳までには子供を産みたいと婚活を頑張り、やっと一緒になりたいと思える彼に出会いました。彼がとても奥手のため、これまで全て重要なステップは私から話を切り出し、前に進めようと努力をしてきました。 やっとここまでたどり着いたのに、それが意図しない外部的な要因で台無しになること、努力が報われなくなることが、どうしても受け入れられません。 彼を手放したとしても、思い描いていたプランで結婚できるとは限らず、彼のような人に巡り合えることはもうないであろうと頭では分かっているのですが、なぜ私ばかりが我慢することになるのかと理不尽に感じてしまいます。このままだと、「あの時私はあれだけ我慢した。」という気持ちがいつまでも残ってしまいそうです。 思い描いていたプランを手放し、この事実を受け止め、彼と前向きに進んでいきたいですが、この思い通りにいかなかった悔しさ、空しさ、理不尽だと思ってしまう気持ちのやり場に困っています。 どのような考え方をすれば、この気持ちから解放されるのでしょうか?このような場合、仏教ではどのようにして前向きにとらえますか?

有り難し有り難し 13
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死を受け入れられない。

私は3年前まで介護福祉士として地元の老人ホームで6年半働いていました。 辞めるきっかけは母方の祖父が認知症になり、祖母に暴力を振るうようになり、SOSの電話が毎日かかってくるようにはなり、ある日、出勤前に電話がきて、両親は出かけていたため急きょ仕事を休み、祖父母の家に行くと祖父に蹴られ、踏みつけられ、挙げ句植木鉢を足に落とされて息がつけなくなっている祖母が茶の間に倒れていました。すぐ救急車を呼び病院へ搬送されました。 その時に入院した病院で末期の胃ガン、B型肝炎に感染していると判明しました。 余命は2か月。祖母には私の他に孫が3人いますが、私が一番可愛い孫だといつも言ってくれ、仕事で悩んでいたりした時に話を聞いてくれたり、お金に困った時も助けてくれたりと、一番可愛がってもらっていたので、今までの恩返しを込めて入院生活を余儀なくされた祖母の介護をしたいと思い、仕事を辞めました。 余命2か月と告知されていましたが、8か月生きてくれました。 亡くなる前日まで会話出来ていたのですが、いきなり急変し、吐血し意識不明になりました。 そんな状況でもうわ言で私の名前を呼び、必死で生きようとしてくれました。2回目に吐血した時にもう助からないと医師に聞かされ、家族で泣きました。集まった親戚は頑張って生きてと言っていました。でも私はもう充分頑張ったんだから、頑張らなくていいよと言いました。それから間もなく亡くなりました。 祖母が亡くなってから半年になりますが、亡くなった実感が未だになく、私も頑張ってと言えばもう少し長く生きれたのかと毎日思っています。仕事は介護の仕事だと祖母を思い出して辛くなるので、全く違う仕事をしています。 毎日それなりに充実していますが、最期にかけるべき言葉は何が良かったのか、自問自答の日々です。亡くなった祖母に会いたいと涙してまうこともあります。 どうしたら、祖母が亡くなったという事実を受け入れる事が出来るでしょうか?

有り難し有り難し 9
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人は自分自身の人生しか生きられない

親子でも親は子を100%理解出来ないし逆に子は親を100%理解出来ない。 夫婦間や他人なら尚更理解するのは難しくなる。 人は1人では生きられない。多くの人達の助けがあり、それは気づきもしないところでも助けられています。これらは事実だと思いますがやはり自分以外の人間を事を思いやるにしても心を理解するのは難しいことですよね。 助け合うが行き着くのは自分自身であり自身の人生を歩むしかない。 私はそういう事を感じてはいましたが長年目を伏せて生きてきました。 両親に助けられ1番絆が深いのは母です。 しかし母も67歳で病気持ちです。 1番の私の理解者の余命もそんなに長くはないことに目を向けた時、私は母が亡くなったら孤独になると感じました。 しかし最初に書きました人は自分自身の人生を歩むことしか出来ない。全ての人間、1人1人が違う心である。 その事を私自身受け入れたいのです。 今まで母に助けられすぎて自分は母とは心が繋がり、一生を共にするような錯覚がありました。 でもそれはやはり錯覚です。 50億人間がいるなら50億の心があり50億の孤独がある。 私の考えは間違っているのかどうか、皆様のアドバイスをよろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 56
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これからの心づもり

先日は母の事で御回答頂き有り難うございました。 あれから私なりに考え、母も私も沢山の方々に支えられ生きてきたことを再度実感しました。hasunohaさんにも。 私は東日本大震災の日に、癌の告知を受けました。色々な意味で「死」を考えざるをえない状況になり、気持ちは「死」でフリーズしました。周りには強がっていたものの、一人になれば脱け殻状態でした。 そんな中、入院生活を経験し、沢山の方が私を治すために動いて下さいました。今迄誰にも頼らずに一人で生きてきたと思っていた私(幼い頃から辛い環境でしたので)は、やっと反省することに。 見ず知らずの私にこんなに親切に。救って頂いた命は恩返しに使おうと。 そして母の介護でも沢山の方のお世話になり。 その方々に直接恩返しは出来ないものの、私が少しでも世の中の役に立つ事で、巡りめぐって恩返しができたら良いなぁと思うようになりました。 で、また思い出すのですが、母も同じように生きていたと。生前「あの人には世話になったから」と手助けに行ったり、介護を受けるようになってからは、些細なことにも感謝を言っていたようです。認知症もありましたが、そこだけは残っていました。 私も母と同じように生きていくことで、母が近くにいるようで淋しくなくなりました。これも御回答のように「共に歩み始める」に通ずる様に感じて嬉しくなりました。 勝手に良いように解釈してしまったのですが、見当違いでしょうか?「おいおい、それ違うよ」でしたら、ご回答頂戴できればと思います。 恩返し宣言なんて、偽善者で感じが悪いとは思いますが、自分の中ばかりに執着してたところ、やっと外に目を向けることができるようになりましたので。許して下さい。 こんなお花畑オバサンの書き込みは、悩みを抱える方には不快に感じるかもしれません。問題になるようでしたら、御回答は不要です。しばらくしたら削除しますので、よろしくお願い申し上げます。 嫌がらせのような長文失礼いたしました。

有り難し有り難し 30
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