僕は最近家の仏壇でお参りしているのですがお参りしている最中に考えていることと逆のことが浮かんでくることがあります それで仏様に対してとても不謹慎なことが浮かんできて考えるなと雑念を消そうとしていたのです。ちなみにうちは浄土真宗です。 仏様は本当の僕の気持ちをわかってくれると思いますか? あと浄土真宗は死んだら極楽浄土にどんな悪人の人でも更生して南無阿弥陀と唱えれば行けるのでしょうか?
僕は浄土真宗の家なのですが 僕は最近仏様に対して思ってもいない不謹慎で冒涜するかのような考えが浮かんできて、考えるな考えるなと思うほど考えてしまいます それで考えないように努力していたのですが 前に友達と仏様に対してとても不謹慎な会話をしてしまいました。 僕は前に家の仏壇でもうこのような会話をしないと仏様にお参りしました その不謹慎なことが浮かんできたりすることや不謹慎な会話のことなどをお母さんに言ったら 「仏様はそんなことで怒らないよ」って言われてその通りだと思ったのですが でも、その後も仏様に不謹慎で冒涜するかのような考えが浮かんでくることがあります。本心ではないので仏様もわかってくれると思うのですけどやはり不安です だから僕は最近毎日仏壇で阿弥陀様にお参りをして謝っています こんな僕を仏様や阿弥陀様は許してくださると思いますか?
どのカテゴリーか分からなかったので、こちらに書きました。 TV、雑誌等で顔や名が知れて有名人と言われている僧侶や神主の方々がいくつか出版されている本があると思いますが、ある有名な神主の方の本に、それこそ一冊20以上の御札が書いてある本があるのですが、その本には、身を清め精神を落ち着かせ、一人の時にその方が直筆で書いた(コピーの直筆)御札の上から自分で筆ペン等でなぞり、自分の目的の気を入れて書き、その御札を切り取って常に身に付けると効果がある等と記されています。 もちろん、効果はそれぞれで、一番は自分の気持ちが一番大切と書いてはありますが、こんなに何十種類もの御札の文言を一般人が真似事のように使用することや、効果を期待させて、何千円もの金額を何億人から徴収させて、本当に世のため人のためと言えるのでしょうか? 御札の文言をそんなに簡単に扱っていいものなのでしょうか?皆様はどう思われますか。
来月、母の一周忌です。 浄土真宗 大谷派ですが、 お坊さんを呼びお経を唱えていただいた方が母のためには良いのでしょうか? 一周忌には弟、祖母、私のみでお参り予定です。
度々、質問させていただいております。今回も宜しくお願いいたしします。 ハスノハの先生方は、『美坊主図鑑』なる書籍をご存知でしょうか。いろんな宗派のハンサムな僧侶を紹介している本です。 私はそれを数年前に書店で手に取り、サーッと目を通しました(立ち読みです)。その書籍に対する、私の個人的感情(くだらん!)はさておき、宗派によって(所属している僧侶が)、たくさん掲載されていたり、逆に、まったく掲載されていなかったりしました。 この違いは、ハンサムな僧侶が、その宗派にいる、いない、ではなく、”宗派ごとの姿勢のあらわれ”だろうな、と私は推測しました。 この推測は間違っていますか? また、そのとおりであったとしても、「だから、どうした」といわれれば、それだけのことですが・・・。 この投稿は私個人の(私の推測が正しいという前提での、遠回しな)各宗派への称賛と批判です。この思いに対する先生方の率直な意見をお聞きしたいです。 よろしくお願いいたします。
以前にも質問された方がおられるようですが、現在の日本仏教において「仏」とはどんな存在というか、”もの“なのですか?先生方は、どのような概念をおもちでしょうか? 私のように僧呂でない者の多くは、“神”に近い形而上的存在のイメージでとらえている人が少なくないと思います。 僧侶の方にもそのようなイメージでとらえている方はいらっしゃいますか? また、いらっしゃるなら、”仏”を信じるに至るまでに(当然、信じておられるでしょうから)、なにか不思議な出来事を経験されましたか?そのようなことがありましたら、お聞きしたいです。 自分でいうのもなんですが、私は自身を、わりと信心深い方だと思っているのですが、自宅の仏壇の前に座り、お勤めをしているときにふと、なにか虚しいことをしているように思ってしまうことが多々あります。そのたびに「信心が弱いんだなぁ」とガッカリしてしまいます。そんな私の信心を強固にしてくれる証というか、サインというか、そんなものが欲しいのです。 以上のような理由で、今回質問させていただきました。 何卒、よろしくお願いいたします。
ウチの家は西本願寺系なので、ペットの供養を頼みにそこそこ有名な寺に行きました。 するとどうでしょう、御坊が言うには「あなたの気持ちはわからないこともないですが、そもそも宗教というものは、人の幸せを願ってできたもの。ゆえに人の供養、御先祖様の供養はしても、動物は言葉も発せず、理解もできず、ただただ人が擬人化したものにすぎません。人は人、動物は動物とお考えて下さい。ゆえにその動物のための法要はしません。」と・・・ 以前猫の死んでここで相談した時、「必ずやそのこは仏様のもとにて心安らかに成仏なさいます。そしてこらからもあなたをお見守りなさってくださいます。 いずれあなたの生命が全うされた時にはあなたは仏様のもとにてそのこに必ず巡り会います。そして以前のように親しくなさることでしょう。 」と書かれておられ私も喜んで頼みに行ったのですが・・・ その時は口では言いませんでしたが、「御坊だって、木や金属でできた像を拝んでるじゃないか!思いが大切なんだよ、思いが!オマエさんにはガッカリした!」と思って帰りました。 ウチが火葬を頼んだ東本願寺系は予約をすれば猫の法要しますと書いてあるのですが、動物に対する供養は、同じ仏教の浄土系のお寺、お坊さんでも考え方は違うのですか?
お恥ずかしいのですが自分は学歴が高校中退です。 今は学歴の関係無い職に就いています。 高校中退の私でも日蓮宗の僧侶にはなれるのでしょうか?
お寺にいらっしゃるお坊さん… 呼び方は、和尚様がよいのか御住職がよいのか教えてください。 また、これから写経をしてみたいと思っているのですが、何から始めたらよろしいでしょうか? また、お寺、宗派により、お経は違うものなのでしょうか? 何も知らず、お恥ずかしいですが、ご指導いただけると幸いでございます。 よろしくお願いいたします。
宗派によっては、お盆の際には、迎え盆、送り盆でお墓に行きますが、仕事で迎えには行けたものの送りが難しい場合など、どうしようかと困る場合があります。先日は遅い時間になり、おまけにどしゃ降りでした。お盆だけお客様として迎え入れるのではなく、毎日がお盆のようにしてはいけないのでしょうか?
こんにちは。 私は、高校・大学と仏教(曹洞宗)の学校を卒業しております。 高校卒業時には禅師様直々に戒名を頂いたりと、かなり本格的な学校でした。 社会人になってからも仏教に関する本を読んだり、時には座禅会に参加したりと、仏教については興味を失わずに来ました。 しかし、先日インターネットで 「在家僧侶養成講座」 という、初めて目にする通信講座を見付け、これが仏教に興味を持つ方に役立つ物なのかどうか全く分からず、頭の中が「?」だらけになってしまいました。 どなたかに 「僧侶って通信教育でなれるの?」 もしくは 「仏教の修行は通信教育でできるの?」 と質問されても、今の私には答えられる自信がありません。 実際、通信教育で「在家僧侶」と認定されているお坊さんもいらっしゃるのでしょうか?
今年で20才になります 僧侶(尼さん?)になりたいのですが 私自身資格も知識もなく 調べてもみましたが情報を得られず 質問させて頂きます 私の家は神とうです 身内にもお寺に関わる人物は いないと思います 仏教に通じていないと ダメなのでしょうか 宗派によって変わってきたりしますか もしなれるとしたら、どこに 何と言って相談したら良いのでしょうか ただの社会人が転職(?)できるものなのでしょうか 質問が多くなってしまい 申し訳ありません 世を儚んでいるとか ただ漠然と人の役に立ちたいと考えているわけではありません 僧侶になりたい と思ったのには理由がいくつかありますが、意志はしっかりとあります 修行が辛いものでも耐えられます 質問に関わらすアドバイスなども 頂けたらと思います どうかよろしくお願いします
本日、仕事中にお客様が「僧侶にさえ袈裟の色で階級をつけたりしているのはおかしい。本来仏教とは身分差別したりしないはずだ」とおっしゃっているのを聴き、疑問に思いましたので質問させて下さい。 僧侶によって?宗派に違いはあれど袈裟の色で階級があるのは何の為でしょうか? また、それは誰が判断、ジャッジし決められるものなのでしょうか?
我が家の檀家のお寺は(お墓は別の所)大阪府内にあります。しかしお盆、お彼岸などお坊さんの忙しい時に同じ大阪府内に同じ宗教のお寺があるのにいつも滋賀県や和歌山県など遠くからお坊さんが来てくれます。どうしてこんなに遠くのお寺から来てくれるのでしょうか? どうしてうちの決まったお寺のお坊さんは来ないのでしょうか? 遠くから来てくれるお坊さんにも自分のお寺の檀家さんがあるのでそちらで忙しいと思うのですが・・。 どうしてですか? それに時によって一人で来たり二人で来たり、家に来るまでわからないので(最低二人分用意しておいて)お坊さんが来てから人数分お茶やお菓子を用意します。 どうして毎回来るお坊さんの人数が違うのでしょうか? うちの実家に来るお坊さんはいつも一人なのに。 こんなときお布施はその時に来たお坊さんに入るんですよね。 うちに来たお坊さんがうちの決まったお寺さんに渡すんですか? 高速で遠くから来たお坊さんには御車代は少し多くした方がいいのでしょうか?
真言に関する質問です。 光明真言や大日如来の真言など様々あるかと思いますが、スローテンポのもの・アップテンポなもの…音楽の楽譜のようなものが存在するのでしょうか?それとも師からの口伝なのでしょうか? もし宜しければ、どのように学んでおられるのかを教えて下さい。 宜しくお願い申し上げます。
臨済宗妙心寺派なのですがお彼岸、お盆、法事などの時にお坊さんにお経をあげて頂いているのですが、臨済宗のお経の本を見ながら「今どのお経をあげているのか?」と思いながら探しているのですがわかりません。開経偈、般若心経、大悲咒、四弘誓願文、坐禅和讚などいろいろたくさんのお経が本に書いてありますがお彼岸、お盆、法事などの時に読むお経は決まっているのでしょうか? 同じ時(たとえばお彼岸)でも家に来るお坊さんによって読むお経が違うように思う時もあるのですが 決まっているのであればそれぞれの時に(お彼岸、お盆、法事などの時)読むお経の名前と順番を教えて欲しいのですがよろしいですか? お願いします。 それと私の父がなくなってから毎日母と一緒に般若心経、舎利らい文、延命十句観音経、坐禅和讚を仏壇の前で呼んでました。これだけお経をあげないとだめなのでしょうか? 般若心経だけでもよいのでしょうか? またお墓参りに行った時にはこの4つのお経を読んでも良いのでしょうか? それとも他の(何の)お経を読めば良いのでしょうか? 教えて下さい。
輪廻転生するのならば、亡くなった人はもう違う人生を歩んでることもあるのでしょうか? あるいは、転生まちでいるのでしょうか? もしそうだとしたら、お墓参りにいったとき、「いまはこういうことをがんばってるよ、見守ってね」と言うと、転生するのを引き留めていることになってしまいますか? また、もう生まれ変わっていたら、語りかけてしまったら邪魔になってしまうでしょうか? それとも、付喪神のように、その人の骨などに気持ちが残っている感じになるのでしょうか? 子供のころからふとしたときにやたらと寂しくなることがあります。 それが、もし私が前世で転生するまえに知り合った人とかが辛いことがあって、私のお墓とかで「守って、助けて」と願っているのが伝わっているのだとしたら、何もできないのは悲しいです。 それに、私がなくなった人にそう願ってしまって、同じように寂しい気持ちにさせてしまうのだとしたら、それはとてもつらいです。
70台の母が迷信深く困っています。母の実家は曹洞宗で、結婚後は浄土真宗です。父はすでに他界しました。母の両親も他界しており、実家のお墓や仏壇の世話もしています。母にとっての信仰とは仏事をとにかくつつがなくこなすことのようで、仏壇に線香を上げたり、墓参りをしたり、法事をこなしたりは熱心ですが、お経をあげたり仏教書を読んだりしているところはみたことがありません。毎月のお坊さんへの謝礼や、法事の出費に加えて、本山に分骨したり、収入にみあわない出費をしています。そのような生活スタイルはもう変わらないと諦めていますが、自分の死語に私に法事を引き継いでもらいたいと思っているようです。しかし私は無信心なので儀式を引き継ぐつもりはありません。母に信仰の自由を認めさせるにはどうしたらよいでしょうか?
「縁」という言葉ですが、人との出会いや別れ、子供を授かるなど様々な出来事や物へなどいろいろな事柄で使われていますよね? 何となくですが、よくわからない事柄を「縁」という言葉で片付けてしまっている人が多いような気がするのです。悪いことが続くと悪縁が、、、とか。 本来、「縁」とはどのようなことをいうのでしょうか?「運命」とは違うように思うので、気になってしまいました。
相談者が倫理的・常識的・一般論的に間違っていようと、立場に理解を示しアドバイスをするという姿勢に、カウンセラーっぽさを感じました。 そういった姿勢はお寺の修行で身に着けられるのでしょうか?