近年仏教に興味を持ち、機会があれば参加させていただいています。 座禅は臨済宗・曹洞宗に参加させていただき、阿字観は高野山の某宿坊でご住職自らご指導いただきました。 作法などの違いはわかるのですが、最終的に自分自身としてどちらを選択すべきかわかりません。 「梯子禅」という言葉も知りました。 ドクターショッピングに近い感覚でしょうか? 最終的にどちらを選ぶべきなのかわかりません。 それとも現状維持で、その時々にご縁をいただいた機会を生かすという形でもよろしいのでしょうか? 実家は西本願寺派、嫁ぎ先は新興宗教で、私自身は明確な信仰の宗派?を持っておりませんが、仏教徒であると幼いころから思っております。
私の食べ物に対する感覚は日本的な考えなんでしょうか? 仏教的な考え方なのでしょうか? それとも少数派なんでしょうか? 世界共通の認識だと思っていたのですが、そうではないようだと思うようになりました。 一般的に日本人の食べ物に対する感謝はいくつかの意味があると思います。 ①命を頂くことに対する感謝 ②食材を育ててくださった農家の方に対する感謝 ③食材を育んだ地球の恵みに対する感謝 ④調理人の方に対する感謝 ⑤食材を入手するための代金を稼ぐ労働に対する感謝 これらが一言で表されるのが「いただきます」という言葉だと思っていますが、特に①を強く意識していると思います。 そして食べ残すことは、奪った命をないがしろにすることだとして、食べ残さないようにします。 動物だけでなく植物に対しても同様に命を頂いていると考え、米粒一つでも無駄にしてはいけないと子供のころに教わりました。 私は「殺すのは出来るだけ少なく。食べ残すことは死ぬ必要のない生物まで殺す行為だ」「食べるために命を奪ったのだから、食べなくては無駄死にだ。」と考え、 そして動物はもちろん、植物も命を頂くと考えています。 欧米諸国では、日本とは比べ物にならないほど家畜の福祉に対する意識が高いです。 可能な限り家畜の苦しみを軽減しなければならないと考え、苦痛の少ない方法で飼育し、苦痛の少ない方法で屠殺しなければならないと考えています。 ですが、どうもそれは生きている時だけのようなのです。 食肉を食べ残すことに対しての意識がとても違うと感じています。 もちろん、もったいないとは思っているようですが、「死ななくていい分まで殺した」という風には思ってないようです。 「食べても食べなくても、いずれにしろもう死んでいる。」と考えているようです。 動物福祉に熱心な方でもです。 大乗仏教には精進料理がありますよね? 出来る限り殺生を避けるために動物性のものは取らず、植物にも命があるが感謝して無駄にしない、という考え方だと思います。 そして上座部仏教では「托鉢で頂いたら肉魚も食べてよい。食べ残してはいけない。」と聞きました。 このことから私の考え方は仏教的なのかな?と感じたのですが、仏教的でもなければ日本人の共通認識でもない、という意見の人がいて、疑問に感じ質問いたしました。 どうぞよろしくお願い致します。
仏教に生きる道を探しています。大学は仏教系で少しかじってはいます。たまにお寺にいったりする段階から、仏教に生きる道を探し、人生の悩みの解決を仏教に見いだしたいと思っています。 考え方や道筋を教えていただきたいです。自分の解決から家族などの悩みの解決に結び付けばと思います。 よろしくお願いいたします。
お寺の住職さん、お坊さんが行う修業は 実際自分自身にどんな影響を与えましたか? ・自分自身の価値化や考え方がかわった ・精神的に強くなった などといったことはありますか? あと、一般の人のお寺での修業はできますか? お待ちしてます。
悟りって本当にあるのですか?悟っているお坊さんはどのくらいいますか?
時々しかできないですが、座禅、瞑想を行っています。 正式な方法を学べてはおらず、ネットでの聞きかじりですので少し不安がでてきました。 お寺で学べれば一番ですが、近隣に宿坊や座禅会もなく、あっても最近の瞑想の流行りもあり少し怪しい主催者のセミナーくらいです。 座禅をして、少しすると身体の横揺れが繰り返されます。もしくは腰を支点に頭が少し円を描くようになります。 瞑想できている証拠とか、悩みの現れとか、動きに身を任せなさい、絶対止めるべき、宇宙と身体の繋がりが云々など色々情報があり、判断しかねます。 確かに悩みが解決した時は、ピタッとその揺れが止まったこともありました。 瞑想での身体の揺れが、仏教上で正しくは何を表しているかや、対処というような内容を教えていただきたいです。 常に回答が殺到し、回答が追いついていないとのことです。辛い悩みの方も沢山いますので、本当に時間の空いた時にでもご返答をいただけるとありがたいです。
両親の死から1年が経とうとしています。 母の葬儀、49日法要の時の事で、 ずっとモヤモヤが消えませんので ご意見をお聞きしたいです。 我が家は曹洞宗ですが、両親はお寺とは お付き合いがありませんでした。 そこで、葬儀屋さんにお坊様を依頼する 事にしたのです。 そのお坊様は名前を見るだけで、その人が 生前、どんな人だったのかを言い当てる、 不思議な力を持った方なんですよ! と葬儀屋さんから聞いていました。 そして母の戒名が決まり、葬儀屋さんは、 お坊様が、この人は~という事でしたので 良い戒名を授けて下さいましたよ、と にこやかに言って下さったので、 それは良い意味なのか、悪い意味なのか 判断に苦しみましたが、良い意味と 捉えようと思い、あえて聞き返しません でした。 そして49日法要も同じお坊様に依頼 したのですが・・・その時の事です。 母の白木位牌を手にし、この人は面倒な人 だったな!と、一言。 え?と言葉も出ない私達親族。 あれ?葬式の時、葬儀屋から聞いて なかったか? この人は面倒な人だったな!って 言ったはずだぞ。・・・と。 6日違いで亡くなった父も同じ日に 49日法要をしたのですが、父の 白木位牌には、この人は良い人だった んだけどなぁと穏やかに語りかけて いたのですが、こっち(母)はイカン!と また母を罵ったのです。 確かに、母の性格は自分の嫌な事は 何でも面倒臭がり、姉や私は母からの 愛情を感じた事もなく、ただいつも 叱られていた記憶しか残っていません。 孫の相手も苦手で、遊んでくれた事も ありませんでした。 反面、外面はとても良い人でしたが。 その時は、姉も私も言葉も返せません でした。ですが、先日、姉との電話で その話題になり、あれはダメだったよね。 確かに言ってた事は合ってたけどさ。 呆然としちゃったから何にも言えなかった けれど、普通、あんな事をお坊さんが 言うものかなぁ?と、私がずっとモヤモヤ していた事を姉も同じ様に思っていたのです。 故人の悪口は言ってはいけないと聞いた 事があります。 紫の袈裟をまとったお坊様でしたが そんな風に言われた母を可哀想に思います。 お坊様側から見たご意見をお聞きしたく 存じます。よろしくお願い致します。
浄土真宗のお坊さんと結婚を前提にお付き合いしています 彼はまだ他のお寺で修行中?下積み?中ですが、ゆくゆくは実家のお寺を継ぐ予定のようです 現住職、つまり彼のお父様がまだまだご健在なこともあり10年くらいは後の話ですが、やはりお寺の奥様というのは大変なものでしょうか 無論覚悟は出来ていますしどこまでもついていく所存です ですが今のうちにどんなお仕事をするのかや心構えなどを知っておきたいと思い質問させていただきました 私自身は家は真言宗で信心はそれほどではないと自認していますが、門前の小僧という奴でよく唱えられるものは暗唱できますしだいたいの意味を言うことが出来ます お釈迦様や各宗派を開かれた方々の教えを非常にありがたいものと考えております 浄土真宗の教えも彼のことを知りたい一心から今学ぼうとしている最中です ですがやはりリアルなことはリアルなお坊さんに聞くのが一番かと思いますので質問いたしました 御回答いただけると幸いです
家のお仏壇にお参りする際、お経を唱える際は、リンを鳴らし、そうでない時は鳴らさなくても良いような気がするのですが。 表現しずらいのですがリンをチーンと鳴らすのは、始めに出す発生練習のようなものだったような? 世間が、お経も唱えないのに当たり前のように鳴らしているのが気になりました。
気になってしまい相談させて頂きます。 よろしくお願いします。 真剣に悩んでいてお参り等をした日に自慰行為 や性交などをするのは大変よくない行為でしょうか。 ストレスからそういったことをしてしまい、大変後悔しています。精神病によるストレスが強く気晴らしにしてしまいました。強迫清障害なのですがたまに神様に関する雑念観念もでてしまい大変辛いです。
疑問に思っていることがあり教えていただきたいと思います。 我が家では祖父の葬儀はお寺で行い、法事もしました。お盆には毎年迎え盆、送り盆を家族でしています。仏壇もあります。 自分の家の宗派も認識していますが、かと言ってそれ以外に仏壇にお線香を上げる等以外は日常で仏教的な事をしている訳ではありませんし、クリスマスを祝えば、神社にお参りする事もあります。典型的な日本人だと思います。 「私は仏教徒です」と言えるのはどういう場合なのでしょうか?逆に無宗教とはどういう状態でしょうか?身内が亡くなった際はどうしているのでしょうか。 仏教の本を読んだり仏像を拝観するのは好きですが、私の場合は無宗教なのか?と思ったりします。
初めまして。 地元のわりと有名な霊場参りを初めてしている者です。(本四国ではありません) 御朱印を頂く時の事ですが、挨拶やお返事の雑なお寺の方が以外に多くて驚いています。 (こちらからは御朱印帳を差し出す時には「こんにちは、よろしくお願いします」、受け取る時には「ありがとうございました」と必ず声をかけています) ご家族やお手伝いの方ならまだしも、お坊さんに無言かつ片手で御朱印帳を返されたりするとついモヤッとしてしまいます。 自分の家が曹洞宗なので、禅宗のお坊さんの感じが悪いと余計に。 「挨拶」の由来って確か禅語ですよね〜? もちろん感じの良いお寺さんの方が多いですし、ついお坊さんやお庫裏さんと話し込むこともあります。 自分でもこんなささいな事考えながらお参りするのもどうかとは思っておりますが、是非ハスノハの感じの良いお坊さま方にお考えを聞かせていただきたいです(^^) よろしくお願いしますm(__)m
こんにちは! 初めて質問させて頂きます。 宗派は浄土真宗大谷派です。 昨年11月に父を亡くし、初仏なので初めてお仏壇を購入しました。 当初は阿弥陀様の像と仏具のみでしたが、少々寂しい気がして、 両脇に掛け軸を置きたいと考えております。 既に49日と100日の法要もご住職に来て頂き魂入れ等も済んでいる上で、 新たに追加で掛け軸をとなると、購入後にまたご住職をお呼びして 何か儀式的な事をしてからになるのでしょうか? そのまま設置して良いものか判らず、購入を見合わせてしまっています。 ちなみにお墓は他県に現在製作中で、一周忌に納骨と法要を行い、 ご住職は墓地の近隣の方にお願いする事にしています。 どうぞよろしくお願い致します。
知識のない一般人としての質問で大変申し訳無いのですが・・・ ブッダがいた時代は、大乗仏教や宗派ができる前ですが、ブッダが一番言いたかった、伝えたかったこと(メッセージ)というのは、大乗仏教の中にどう生きていると思われますか(大乗仏教の様々な宗派の中でどの部分に一番それが象徴されていますか)? 大乗仏教において、ブッダの教えとその宗教としての儀式などがどこか矛盾していると感じてしまうことがありますがそれはどう捉えればよいでしょうか。(ブッダのいう悟りから得たもの(教え)と大乗仏教の在り方が矛盾してみえることがある) 菩薩という存在は、大乗仏教のなかでどう捉えたら良いのでしょうか。
日本の主要な宗派は大乗仏教ですが、 上座部仏教のお経つまり阿含経を読誦することもあるのでしょうか? 例えば、阿含経の法句経の七仏通誡偈は天台宗や禅宗などで 読誦されたりすることはあるようですけど。 誕生偈も読誦したりする宗派・寺があると聞いたことあったりしたので。 もし、七仏通誡偈の他の上座部仏教の阿含経を読誦することもあるのでしたら、そのお経は何でしょうか? ご教示お願い致します。
大乗仏教の在り方と般若心経の空の境地は矛盾していませんか? 救済される信仰(救うものとしての菩薩・仏などの存在)と、一元の世界との矛盾で混乱しています。
僧侶の多くが妻以外の女性と関係を持っているという話を僧侶から直接聞きました。花街のようなところで使ったり出張先のホテルで女性を呼んだり、人々の大切なお布施であったりということも忘れてしまうみたいで、そういうことがあると知っていても、繰り返し十数年も、と聞くと、やはりとてもショックでした。カトリックの僧が外国ではやはり子供をあちこちにつくったり、乱れた性生活をしていますが(子供相手とか)、お金と権力と(住職などでたえずひとにあがめられるようになると)手に入れてしまうと、思うままになんでもできるようになるので、そういことが普通になってしまうのでしょうか。罪悪感がないところにとてもショックを受けました。 もうひとつ質問があるのですが、僧侶は男性社会で長期修行などをすることがあると思うのですが、男性同士で関係をもったりすることというのは頻繁にあるものなのですか?外国では、カトリック教会内部が女性禁止とはいわなくてもやはり男性社会なので、そういう傾向にあります。 不躾な質問で、多くのそうではない方々を侮辱するような内容になってしまっていますが、そういうつもりはまるでなく、本当にあくまで、そういうことがあるのはなぜなのか知りたいと思い、書かせていただきました。
こんにちは。再びこちらで質問させていただきます。 以前読んだ呉智英著「つぎはぎ仏教入門」という書物の中では、私の従来のイメージとはかけ離れた仏教観が述べられており衝撃を受けました。お釈迦様の物語では、お釈迦様は家族を捨てて出家しており、出家者に対しても①家族を捨てること・②生涯独身でいること・③労働をしないことを要求しています。また梵天勧請のお話では、お釈迦様が悟った後に「私が悟った法は、その内容はあまりにも高度なものであるから、一般の人に説いてもわかるまい。」とそのまま涅槃に入られようとしていたようです。 これらの物語を読むと、仏教とは決してヒューマニズムのような耳障りの良い教えではなく、むしろ社会の常識を揺るがす危険な思想なのではないかと思いました。また、仏教の一番の目標は、やはり「悟りを開くこと」ですが、「悟り」とは私が今まで考えていた「あるがままの世界を観じる」というような単純なものではなく、もっと峻烈で幽玄なものではないかと思いました。 これらを踏まえると、日本の仏教ではお坊さんは妻帯をして、労働されている方もいらっしゃるのが普通の光景です。社会に歩み寄るという点では、ある程度の妥協も必要であるとは思いますが、釈尊の本来の教えから見ると、修行や悟りを軽視している面があるのではないでしょうか? また、その教義が初期仏教とは異なる宗派もいくつかありますが、ある教えが仏教であると言える条件は何なのでしょうか? 日本で悟りを開かれているお坊さんはどれくらいいらっしゃるのでしょうか? その辺りを、お坊さんはどのように考えられているのか伺いたく、質問させていただきました。どうぞよろしくお願いします。
先日、大学の授業で教授が「福祉の考え方は西洋から日本に入ってきた。ヨーロッパやアメリカはキリスト教の隣人愛の精神にのっとって助け合う心が人々にあるから福祉が充実しているけれど日本ではキリスト教がメジャーではないからなかなか助け合いや福祉の精神が広まっていない。」と話していました。私は宗教についてあまり詳しい方ではありませんが隣人愛という言葉は知っていますし、確かにキリスト教を信仰する人が多い国で福祉の心が根付いているというのは何となく納得が出来ます。 でも、日本人にも助け合うという考えはあるはずだと思います。熊本の地震があった際も、火事場泥棒などひどいことをする人もいるようですが現地にボランティアに行ったり募金などの支援をしたり、困っている人を助ける動きがあるという話もたくさん聞きました。なので、教授の「キリスト教が浸透していない国では福祉の考えも浸透しない」といった話を聞いて何だかもやもやしてしまいました。 そこでお聞きしたいのですが、仏教においてもキリスト教でいう隣人愛のような、誰かと助け合う、支え合うという教えはあるのでしょうか。無宗教だという人も多いので何も宗教の考えだけが人の助け合いのベースではないと思いますが、日本は仏教が身近という人も多いと思うので、仏教にもそういった教え、精神があればぜひ教えてください。
はじめまして。 仏教はなかなか難しいイメージがあり、私自身何か自分でも仏さまの教えにそってみたいなぁ、といつも思っていたりします。 ただ、いつも仕事に子育てにと日々が過ぎて行くだけで、なかなか実行できません。 写経をしたりする人もいますが、そういったこともどのようにするのがいいのか 我が家は曹洞宗のお寺さんにお世話になっていますが、そういう宗派にも疎く、恥ずかしいのですが、宗派など問わず、仏さまに触れる日々の方法などがありましたら、教えてください。 よろしくお願いいたします。