お坊様これは対機説法の修行だと思って怒らずに聞いてくださいね 因果の法則についてですが 前回の質問の答え見て思ったんですよ 蕎麦のレシピなんか見ないで(原因)蕎麦を食え(結果) ごんぎつねは悪戯の過去を見ないで(原因)今反省して修行しろ(結果) 理屈で考えるから真理がわからない(原因)実際に修行して真理をわかれ(結果) 過去や未来や死後なんかより今という悟りの境地 これって因を無視した果の法則ですよね 前回言った、人間も娑婆の世界も全てのものは最初何に作られたのか? きっと煩悩の塊の無明でそれは 何かに作られそしてそれも何かに作られそれも何かに作られ 永遠と原因と結果が連なって最終的に本物の原因は見つからず結果だけが見つかる 因を無視した果の法則 悟りも煩悩の塊の無明も因を無視した果の法則なら 悟りも煩悩も同じフィールドにいるんじゃないですか? というかこの世界そのものを先に作った煩悩の塊の無明のほうが先に 因を無視した果の法則としてあったわけですから悟りすらこれの産物じゃないですか? だとしたらやっぱり悟りも煩悩と同じフィールドにいるんじゃないですか? 悟り開いたら煩悩はなくなるらしいんですが お釈迦様が悟り開いて涅槃の境地行ったのに梵天に頼まれて 輪廻から解脱しないでまた娑婆の世界へ戻るって話って 煩悩である梵天と悟りであるお釈迦様が同じフィールドにいるような気がします お釈迦様は本当に煩悩がなくて悟ってる根拠はなんですか?
それではさっそく質問です この世の最初の最初にあった無明それはなんの原因と結果で生まれたんですか? 無明を作った原因と結果それを作った原因と結果それすらも作った原因と結果 そうやって全ての原因を作った犯人を永遠と見つけれないでただ結果だけあったら 因果の法則というより因を無視した果の法則じゃないんですかね そしてその無明が業を作り出しこの娑婆の世界を作ったそして自分の存在も 最初の最初だった頃は自分は何の業も作ってないのに無明が勝手に業を作り 業の濡れ衣を着せられた自分はこの娑婆の世界へ落とされた これも因を無視した果の法則じゃないですか? ホントに最初の最初の状態 そこには原因の犯人がわからない結果だけがただ無明としてあり その無明は業を作り続けて 勝手に自分も業を作ったことにされるなら 悟りを開いても勝手に業を作らされれるんじゃないですか 無明は因果なんて無関係に悟りにも襲ってくると思います 無明は因果の法則というより因を無視した果の法則として 無明は最初の最初に始まりの原因と終わりの結果の全てを作ってしまった この世の法として襲ってくるからですよ まるで神のような速さで煩悩として悟りに追いつくと思います それなのになんで悟りはそこからも解脱できるんですか? 毒矢のたとえでそんなこと考えないで修行しろと説いた お釈迦様は無明からも解脱した根拠はなんですか? 人前で誰にも出来ない奇跡を起こしたりしたんですか? なぜお釈迦様は周りの娑婆僧とは完全に違うと周りは気ずいて その人の言うことが真理だとして宗教にしようとしたのですか? もしも何の根拠もないなら そこらへんの神を妄信するカルト宗教と大して変わらないですよね
宗教のことがよくわかっていません。 仏教も色々とあり、何が何だかさっぱりです。 ここで何度かご質問させていただいたのも何かのご縁だと思い、気持ちも楽にしていただいたので、少しだけ学んでみようと思いました。 だけれど…よくわからずにお寺さんへ行くと、南無阿弥陀仏だったり、南無妙法蓮華だったりしますよね? 南無阿弥陀仏の中でも、色々分かれていますよね? 先日、とりあえず南無阿弥陀仏の本を買ってみたら、浄土真宗と思っていたら、途中で浄土宗とかいてあり、少々驚きました(笑)。 例えば本を購入するのに、ごちゃ混ぜに学んでも、良いものなのでしょうか? 適当にお寺さんへお参りしても、良いものなのでしょうか? 今まで全く興味がなかったので、この年で恥ずかしいですが、本当にさっぱりわかりません。 決まりごとなどありましたら、教えて下さい。 宜しくお願い致します。
「戒名」について教えてください。 ①何故「戒名」が必要なのですか? ②もし「戒名」をつけなかったら、どうなってしまうのですか? よろしくお願い致します。
回答率99.9パーセントを誇るお坊様さすがです 毎回私の質問に答えてくれてありがとうございます それではまた輪廻転生について質問です 前回の質問で人が輪廻転生するのはその人の業によってと聞きました それはこの世に借金があって返済しなきゃいけないんですよね でも最初に作られた人間はこの世になんの業も残してないのになぜ借金を返済するためにこの娑婆の世界へ生まれるのですか?
中論では「四不生」として物事のあらゆる原因が否定されています。 この部分を読んでいつも不安に思うのは、一歩読み違えるとトンでもない意味になるかもしれないという事です。 人が他人に優しくしたり善行を積もうとするのは、自分が既に他人によって恩をを受けているとして感謝し、その恩を返そうとする恩義の心によって成り立っているからだと思います。 まず自分という肉体は両親によって与えられ、知識や教養は先生によって叩き込まれます。当たり前の事ですが、自分という存在は他者によって成り立つものですよね。 しかし中論では 「もろもろの「存在」は、どこにおいても、どのようなものでも、自身から、また他者から、また〔自身と他者との〕両者から、また無因から、生じたものとして存在することは、決してない。」 とします。 要するに他人から恩を受けたとしても、「これは貴方が原因で生じた訳ではない」とか、 自分が他人を殺したとしても、「その人の死は私が原因によって生じた訳ではない」と詭弁を弄する事も可能ではないのでしょうか? (私はそうは思いません) 自分が明らかに中論のこの説を読み違えている事は分かっているのですが、どこを読み間違えているのかが未だに分かりません・・・。 何卒よろしく御願い致します。
四恩とは、父母、師、国家、衆生ですよね? 父母への孝行→心配をかけない・義務を果たし、しっかり生きる 師 への孝行→講義に遅れない・学んだことを活かす ことだというのはなんとなくわかります。 ですが、国家と衆生への孝行が何だかわかりません。 具体的に何をすべきですか? また、父母への孝行と師への孝行は上記の内容で合っていますか? ごめんなさい、追伸です。 「百善あって孝行は一番」という言葉を聞いたことがあるのですが、百善とは具体的に何をすることですか? 誠に手間がかかってしまうような質問を投げかけてしまい申し訳ありませんが、教えて頂きたく存じます! よろしくお願い致します><
(仏壇の移設方法について) 私は東京のマンション暮らしで家族も一緒です。実家が広島にあり父が施設に実施的に永久入所のため無人の建物となりました。 木造瓦葺の古い建物であり価値もなく、放置していても万一失火等で類焼の原因になることから解体し更地にする予定です。 実家には祖父の代からの仏壇があり、管理するために東京に移そうとしていますが室内が狭く、大き目のタンス大もある設置スペースがありません。 質問1)この場合、仏壇のお釈迦様(ご本体)だけを移し、その他は適切に処分してもよろしいのでしょうか。 質問2)それとも移設するならば、お釈迦様(ご本体)だけでなく仏壇仏具含め設備一体すべてが不可分であり、このため一式をその対象としなければならないのでしょうか。 参考ですが浄土真宗安芸門徒です。
「法」と言えば、真っ先に「法律」が思い浮かびますが、 そもそもの成り立ちは、「さんずい(川)」を「去る」と書きますよね。 そしてこれは漢字、すなわち中国が統一する直前の漢の時代に、 漢字文化を輸入したと考えられます。 紀元前300年程の、2300年程前ですね。 私なりに考えると、「(架空の)川を去るもの=魂」に行き着きます。 すなわち、仏教で言うところの輪廻転生という揺るぎのない約束事で、そこに疑問を感じてはいけないことです。 ところが、現在の法律の多くは、理由が存在しています。 民法で言えば、「20を迎えてタバコやお酒を許される」など。 20を超えると日本人は体の完成に近付くからかな、というきっかけがありますし、 刑法で言えば、「他人の物(命を含む)を奪ってはいけない」など。 堕胎なんかでは平気で殺しますよね。 精進料理だってそうです。 「命を授けてくれてありがとう」という意味なため、本来は動物も食べていいことになっていると思いますが、その文化は既に廃れています。 植物だって生き物ですし。 定理でありながらも、きっかけや理由が存在する。 その事自体が疑問です。 掘り下げて考える癖がついているため、ぜひ納得行けるご説明をお願い致します。
お疲れ様です。 いつも真摯なご回答をありがとうございます。 又、日頃お忙しい中のご回答をありがたく存じます。 尚、今回のご質問も優先ではありませんので、深刻な ご相談を優先させて下さい。 仏教には色々な宗派がありますが、最初に出会った のが、初期仏教で、以下サイトから学び始め、 スマナサーラ長老の書籍も購読してまいりました。 ■根本仏教講義、パティパダー巻頭法話 http://www.j-theravada.net/kogi/index.html http://www.j-theravada.net/howa/index.html このhasunohaで、井上貫道老師の以下サイトが あることを知り、拝見させて頂きました。 ■貫道老子の言葉 http://zazen.blog.jp/archives/cat_958260.html 仏教は、苦集滅道の四聖諦、縁起などの教えが 基本となっていますが、では何を常に精進するか を考えておりました。 初期仏教では、観瞑想(身受心法の随観)を、 禅宗は座禅を重要視するように感じます。 どちらも、今この瞬間の自分の身・口・意の行為の 事実を観ることを大切にしていると思います。 (今の瞬間に気づいていること) 普段の生活でも、朝起きて朝食を摂り、歯磨き 洗顔、通勤、仕事、掃除、風呂・・・・ 色々なことをやっていますが、それぞれの行為 に集中できていないことがほとんどです。 それぞれの行為の最中にも、他のことや過去、 未来のことを思ってみたり、「今この瞬間」の 事実から離れてることが多いかと思います。 だから、考えたり、悩んだりするのかと 思いました。 貫道老子もスマナサーラ長老も、今この瞬間を 見続けていれば、変化しない「もの・こと」は ないってことが、自然と分かるでしょ。 と言っておられるように感じたのですが、 この理解で宜しいのでしょうか。 普段の修行などの内容について、ご教示頂けたら 幸いです。 勿論、慈悲の実践など利他行の善行為も修行 の実践の1つと考えています。
お坊様に質問です なぜ人は輪廻転生をするのですか? 人が生まれる理由はなんですか?
真言宗について興味がありますが、本に書いてるものは難しいく理解がしにくいです。 真言宗とはどういう教えなのですが?
ご覧いただきありがとうございます。 突然ですが、久しぶりに口内炎ができました。あまりの痛さにろくに食事を取れず、辛かったです。 仏教のいう「執着から離れる、苦しみから離れる」というのは主に「精神的な執着、精神的な苦しみ」として解釈していたのですが、何かのお話しで、お坊さんを殺すため(すいません)寺に火を付けたら、お坊さんたちは慌てたり逃げ惑ったりすることなく死ぬまでお経を唱え続けた……というのを聞いたことがあるので、「精神的な苦しみだけでなく、身体的な苦しみからも離れることができる」のだと思いますが、一体どうなっているのでしょう?どうやっている(?)のですか? 口内炎でこんなにも痛いのに、火をつけられて動じないなんて……。無我の境地というものでしょうか。
私の実家の地区は殆どが同じお寺です。法事、葬式など同じお寺で同じお坊さんです。四年前に鹿児島の父が亡くなった時にお通夜とか葬式にきて貰いました。その帰りに思ったのですが、お坊さんさんがお米を持って帰ってました。葬式とかにきてくれたおばさん達にお坊さんはなんでお米を持って帰るんですかと聞いたら、その地区のしきたりで持って帰るんだってしか教えてくれず、分からないままでした。私はそれが前から引っかかっており、なぜ葬式の帰りはお米を持って帰るのか未だに分かりません。もし良かったら教えて貰えないですか❓
1年ほど前から仏教に興味がわいて、 本を読んだり地元の浄土真宗のお坊さんをしている友人に質問したり、 自分なりに勉強しているつもりですが、全然頭に入ってきません。 過去に一度祖母の法事で初めて法話を聞かせてもらった時に とても分かりやすかったので、また実際にお坊さんから聞きたい思っておりますが、 どうしたらいいかわかりません。 インターネットで今住んでいる福岡市内の法話を調べてみても仕事が日曜日しか休みが 無いので、福岡市内で日曜日に行っている情報を見つけられません。 ですので、お寺に行って聞いてみようかなと思いますが、 急にお伺いして法話の情報等の質問をするのは迷惑でしょうか? お坊さんの友人は、よほど悪い人ではない限りどんな相談でも乗ってくれる、 と言うのですが、どうも勇気が出ません。 普通はどうやって情報を得るのでしょうか?
ブッタのことばの蛇の章「ダニヤ」について質問させて頂きたいです。 悪魔が「子のある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。執著するもとのもののない人は、実に喜ぶことがない」と言うのに対する師の「子のある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執著するもとのものである。執著するもとのもののない人は、憂うることがない。」とのお答えに、なるほど……と感動しました。 そこで気になったのが、では「執着するもとのもの以外で喜びを得ることはできないのか?」という疑問です。 あるとしたら、それは一体なにでしょうか。 ご回答宜しくお願い致します。
自性として「固定」や「流動」が存在しないと、龍樹風に説明するとどうなるのでしょうか?
よく仏教の教えとして「全ては諸行無常であり、変化しない物はない」と言いますが、これについて少し疑問に思う所があります。 たとえば仏教の中道では相対概念の一方に囚われる考えを執着として否定しますが、 「変化する」という概念も「変化しない」の相対概念ですから、 変化しないものを全面的に否定する「全ては変化する」という考えも執着とは言えないでしょうか? また、これらの言葉を「固定・流動」と置き換えて、龍樹の論理に当て嵌めて解説して頂いても構いませんでしょうか?
ご閲覧頂きありがとうございます。 仏教から見た「学問を勉強すること」についてお聞きさせて頂きたいと思います。 中村さんのブッタのことばを読んでいるのですが、賢者を説明するのに「貪りを離れ~」「妄執も存せず~」といったような文が並ぶのですが、その中に「学識あり」というものがありました。 誰だったか忘れてしまったのですが、「生きているうちに全てを学ぶことはできないし、今まで学んできたことだって(歴史など)事実かわからないんだから、そんな不確かなものに縛られるくらいなら勉強なんてやめて、今ある物事の姿から真理を見いだし自分のあり方を決める能力をつけろ」といったような内容の言葉を聞いたことがあり、またその人が確か有名な宗教家?だったので私は「宗教は学問に肯定的でない」、という偏見をもっておりました。 ブッタのことばで「学識あること」を良い意味で書かれているのを見て、「では、仏教での勉学はどのようにとらえられているのだろう?」と気になったために今回は質問させて頂きます。 仏教では勉強はするべきことなのかどうか、またするべきなら何故なのか、など仏教から見た勉強についてを教えて頂きたいです。宜しくお願い致します。
おはようございます お坊さんは負のエネルギーに流されそうになることはございませんか? どのようにして留まっていらっしゃいますか? よろしくお願いいたします