先日、祖母を亡くしたことをきっかけに信仰心が芽生えました。自宅から車で1時間ほどのところに菩提寺があり小さい頃から正月、お盆等は手を合わせに行っておりました。祖母の死をきっかけに菩提寺さんが真言宗であると理解し、今まで何となくで持っていたお念珠も真言宗のものを新調しました。 先祖代々の墓には曽祖父も眠っておりますが、その方が菩提寺で副住職をされていたと父から伝え聞き、そのことも信仰心の芽生えへと繋がっております。 そこで曽祖父が本当に副住職をしていたのか知りたくなり、菩提寺さんの寺務所で事情を説明しましたが、歴代の住職、副住職の記録はないとのことで、曽祖父の名前を伝えたところ分からないとの回答でした。自分の中ではひいおじいちゃんのお寺と愛着があったので少しショックでした。 その菩提寺は戦後に本山となったみたいで、戦前に僧侶をしていたのなら余計に分からないと言われましたので、仕方ないとは思いましたが、将来私が墓守りをしますし、自分の芽生えた信仰心をご先祖の供養に繋げたい、更には自分の子にその寺が菩提寺である所以を伝えていきたく思っております。 拙い文章で申し訳ございませんが、自分の気持ちを聞いていただきたく質問に書かせていただきました。 何か良いアドバイス等ございましたらよろしくお願いいたします。
私は平屋で一人暮しです。 実家から離れて菩提寺もなく、得度もしていないのですが、仏像を家に祀ってます。 引っ越したときに、豊川稲荷東京別院から御真体の分け御霊を頂いたことから、仏像には曹洞宗のお経を上げています。 曹洞宗のお経を上げていることから、本尊は釈迦如来、そのほか、実家の菩提寺が真言宗であることから不動明王、大日如来、弘法大師、稲荷信仰もあるために、陀枳尼天(ネットで後任)と大黒天も祀っています。 大日如来、不動明王、薬師如来、吉祥天、南海観音の5体は神棚に祀って神仏習合の形にしてます。 陀枳尼天と大黒天は、成田山の出世稲荷さまの神棚に祀っています。(この2体は真言宗のお坊さんによって開眼) 吉祥天は仏像ドットコム(日蓮宗のお坊さん)、その他の仏像は浄土宗のお坊さんによって開眼していただいたものです。 私の行い、お坊様から見たらどのように思いますか?
はじめまして。 以前ハスノハでお坊様の回答を拝見していたら、日比野雷風というお侍様と石川禅師さまの法話がありました。 禅師さまの数珠を欲しがった雷風さまに、禅師さまが「それならお前の癇癪玉と交換しよう」と仰い、以降雷風様は短気を起こしそうになるとグッと数珠を握って耐えたというお話です。 大変感動しました。 私の話になるのですが(すみません)、私の本名には「香」という漢字があります。 漢字一字一字の意味まで考え抜かれた長男長女とは異なり、次女のわたしの名前は「適当につけた」と母に幼い頃言われてから(笑)あまり自分の名前が好きではなかったのですが、「香」は仏教的にとても素敵な意味のある漢字だと知りました。 蓮のように、清浄な香りが立つような人になりたいと願っています。 そして、最近、蓮の描かれた略式念珠を頂くことになりました。もうすぐ手元に届くので、楽しみに待っているところです。 そこで標題に戻るのですが、ハスノハのお坊様方、どなたか私の癇癪玉を貰っていただけないでしょうか。 ハスノハのお坊様からいただく数珠ではないのですが、私が仏教に興味を持てたのはこちらのサイトのお陰なので、巡り巡って…(?)ということで…… 自分に対して、人に対して、世間や事柄に対してまで、何かと気が立ちやすい私の癇癪玉を、どなたか受け取っていただけたら……雷風様のように頑張れる気がするのです。 いらないと思いますが、ものすごーくいらないと思いますが……どうぞよろしくお願いいたします。
はじめまして。 よろしくお願い致します。 私は決まった宗派に属している訳ではないのですが、以前からお寺と仏像が好きで、あるお寺に月に1度程度なのですが参拝しています。 そのお寺のご本尊はお不動様なのですが、何度も通い拝んでいる内に、何とも言えない心の満足感や安らぎを感じるようになりました。 そこで、自宅でもお不動様を拝みたく、木彫りの不動明王像を購入しました。(ひと目見てとても気に入り、彫刻家の方に直接連絡をとってオーダーメイドで造って頂きました。まだ手元にはありません。) 生活状況から毎日しっかりお勤めができる自信が無い為、開眼供養はしないつもりだったのですが、調べている内にしないで拝むと魔が入るという事を目や耳にし、大変不安になっております。。。 お勤めがしっかりできなくとも開眼供養はするべきでしょうか? そもそもそんな心構えでは仏像を手元に置くこと自体間違っていますか? 魔が入るといるのはどういった事なのでしょうか? 勉強不足で申し訳ないのですが、ご助言頂けると嬉しいです。
自分はとある臨済宗建長寺派の長男です、 前々から虐められたことや時世も相まって弁護士になりたいと思っています。 反対に親は何がなんでも修行期間3年を経てからであるなら法科大学院に行っていいと言われて、もし先にやるなら縁を切るということです しかし自分は肉体の衰えや時間は取り戻せない。22から3年修行して25歳。そこからゼロから始まる勉強についていけること無理ではないかと思っています。その上に現住職が死んでしまってはどう足掻こうが住職になるしかない。 法科大学院へ親を捨て、家を捨て覚悟を決めて入ることが1番なような気もしますが罪悪感で、そのように考えると死にたいです (学費は奨学金等でギリギリ賄えそうです)
人に言えない秘密…私はいくつかあります。お坊さんにもあるのでしょうか?
分別(ふんべつ)やその分別から生ずる苦しみも悟りの現われであり、禅宗における“仏性”の一様であるのでしょうか? また、もしその通りであるのだとしたら、それを疑いなく自覚するためにお坊さんである皆さまは、日々どのような修行を行ってらっしゃるのでしょうか?
2017年に母子家庭で育ててもらった母を病で61で亡くしました。 だいぶ経ってテレビを見てると地方のダムの映像が流れていて、母が生前ダムを見てみたい。と言っていたのを思い出しました。 生前叶わなかったダムを見に行くという目標をお位牌を持って見に行きたいと思うのですが色々と調べるとお位牌をお仏壇から出すのは良くないとか賛否の情報が出回っています。 やはりお位牌を持ち出して旅行に行くのは相応しくないのでしょうか?
私は阿弥陀如来様が大好きです。 毎日救っていただくことへの感謝として念仏を唱えています。ハスノハでもたくさんの問答を見るのが楽しみです。 ところが、先日、ハスノハで真宗のお坊様が「極楽浄土があると信じていない」人への解答で、「阿弥陀如来様や浄土というのは働きのことで、実際亡くなった人が浄土という場所で生まれ変わるということではないのだろう。だから浄土とはこの世での働きのことで、死後の世界としてあるわけではないと思う」「仏様というおとぎ話を使って今生での安寧を得るのだ。だから阿弥陀如来様が実在するか否かはどうでもよい」「自分も科学的に極楽浄土の世界は懐疑的」 という旨のことを仰っているのを拝見しました。一人ではなく何人かのお坊様がそういったことを仰っているのを見ました。 誤解していただきたくないのですが私はハスノハのお坊様方のことを尊敬しております。ですが少なからずショックでした。私は今生で死んだら、阿弥陀さまに迎えに来ていただいて極楽浄土に生まれ、そこで仏となる修行をできることを嬉しく思っていたからです。 また、何があっても阿弥陀如来さまがいつも一緒にいてくださることが喜びであり、心の支えです。 法話を聞いたりしていると、「阿弥陀如来様という素晴らしい仏様がいらっしゃる(=阿弥陀如来は実在する)」「死んだら極楽浄土にいき仏になる(=極楽浄土は実在する)」とお経も親鸞様もハッキリ仰っているように思います。 阿弥陀如来様や極楽浄土の存在を確信するのが、浄土真宗ではないのですか? 私が、元はキリスト教を学んでいたこともあって、阿弥陀如来様や極楽浄土への解釈が違うのではないかと不安です。 (極楽浄土と天国は、極楽浄土は阿弥陀如来様の国(他の仏様もそれぞれ浄土をもっていらっしゃる)。という違いだと理解しています) 私はこれからも阿弥陀様といつも一緒だと思っていても良いですか?
私の嫁ぎ先も実家も浄土宗で同じお寺です。 そこのお寺は跡取りはおらず、お坊さんは病気の為病院通いで、つき命日などは来てもらえず檀家の皆さんは困っておられます。 お坊さんになるには1年は学校に通うと聞きましたがそんなに簡単になれるのですか? 最近お坊さんが浄土宗のトップの位の称号というものを与えられたそうで(定かではないですが)そのお寺を是非維持したく誇りに思います。 普通の人はどのくらいの期間修行が必要なのでしょうか?
数年前に大好きだった祖母が亡くなりました。今、祖母の信仰していた浄土真宗について学んでいます。 (本当はお寺をお尋ねし、お坊様のもとで学ぶのが良いと聞きましたが、コロナ禍で、幼い子供もおりますので、You Tubeやhasunohaでお坊様のお言葉から学ばせていただいております。いつもありがとうございます) 先日、買い物帰りに倒れた自転車を見かけました。 通り過ぎようとしましたが、ふと恐れ多くも「阿弥陀如来様なら直すかな〜」と思い、結局その自転車を直して帰りました。 帰り道はそれなりに良い気分で、仏教を学んで私も良い人間になれたのかなと思いました。 でも、ふと、これはたまたま心に余裕があって直せただけじゃん。私が良い人間になったとかそんなこと思うのおこがましいな……と思い、 「たまたま私が人に親切にできるときには、それは私の人間性が良くなったからではなく阿弥陀如来様のはたらきがあったからだ」「でも、いい人になれなくても救っていただけるんだ」と気づきました。 その時、浄土真宗や阿弥陀如来様の教え・ありがたみが、とても腑に落ちたような気がしたのです。 そしてこれからは、念仏を唱えて、お釈迦様の教えをなるべく(全部は守れない凡夫なりに)守ることが、阿弥陀如来さまの御恩に報いることだ!とも思いました。生きる指針が見つかったような気がしました。 しかし、先日歎異抄を読み、自分の腑に落ちた答えが合っているのか、自信がなくなってしまいました。 考え直すと、自分の行いが御恩に報いることになるなんて自惚れです。 そして、私は正直あまり頭が良くないので、夫から「念仏に出会わず虐待されて死んじゃった子供は救われないの?」「どんな悪人でも、信じてなくても唱えればいいの?」とか聞かれたり、仏教の本を読んでて?と思うことも、「難しいことは考えても私には分からない。私は念仏を唱えればいい!」としていたのですが、これも自分の都合のいいように解釈し、助けてもらおうとしてるんじゃないかとモヤモヤしています。 浄土真宗門徒として、どんなふうに生きていけばよいのか、混乱してきました。お坊様からアドバイスがほしいです。また、こんなふうに仏教学べばよいというアドバイスもあれば嬉しいです。よろしくお願いいたします。
以前の2回の相談では大変お世話になりました。あれから絵については難しいことはせず、3分間スケッチを続け、仕事も復帰して数ヶ月になります。お答えくださった お坊様方、ありがとうございました。 さて今回は厄年について質問があります。 付き合っている彼が今年大厄を迎えるので心配になり、神社かお寺に厄祓いに行こうと提案したところ、生来面倒くさがりで宗教を信じない彼は、迷信のためにわざわざお詣りに行くのは嫌だと拒否され、その日はケンカになってしまいました。私が本気で心配したのには、母から大厄の歳には必ず悪いことが起きる、特に身内に不幸があるという言い伝えのようなものをずっと聞かされてきたからです。実際父も大厄には遠方に転勤になり、祖父が亡くなりましたし、私も大厄には最愛のペットを亡くし、その後の厄年には(歳がバレますね(笑) 体調を崩し休職しました。 彼が厄祓いを拒否していることを当の母にポロリと話したところ、母は今度は家によって慣習が違うかもと言い出しました。 遠縁のおばさんの一家では、厄年の歳には神社に寄進し、友人親類には贈り物をし、周りの人にはとにかく親切にする、つまり施しをして厄を祓う習慣があるそうです。 少し調べた限りでは厄年に対する考えや行いは地域によって様々あるようです。厄というものはどちらかというと神道の分野ですが、仏教では厄というものをどのように見做しているのでしょうか?そして私は厄年にどう恐れずに向き合っていけば良いのでしょうか?仏教からの見解をどうかお聞かせください。
嘘ばかりつき、謝らない住職。 代金はご用意しています。→用意していない。 振り込みします→振り込みがない。 連絡しても無視。 せめて、嘘をついた事の説明と(事情があると思うので)謝罪の言葉が直接欲しいです。住職は、自分が悪かったから直接会って謝まりたいと申していました。しかし、日時を決めようとする段階から、無視されています。 お金はかかっていますが、こちらも、素直に信じてしまったのもあるし、用意してると言う言葉をうのみにし…用意してるなら、次の日直ぐでもよいのかと思って、動いてしまいましたので、請求はしません。しかし、前日には、口座番号を教えて。ネットから振り込みは直ぐだから。とおっしゃっていました。 振り込みがないので待っていると、次の日午前中に、午後に振り込みします。と二回連絡が来ました。 振り込み確認せず、午前の連絡があった時間から、信じて動いてしまいました。 しかし午後に振り込みはなく、突然、生活苦しいとか…奥さんが反対してるとか…。用意してた。とか…お金ない。とか…理由がコロコロ代わり、最後には会って謝りたいからと申していましたが、 その後、謝ってもらうのにお会いしようとの、こちらからの連絡は、無視され、返事は全くありません。 事情がおありなんだろうと思うし、信じて振り込み確認せず動いていたので、こちらも悪い為、お金を請求するわけでもありません。 何故、自分から会って謝りたいからと申していましたのに…住職は謝ってくれないのでしょうか? 何故、無視されなければならないのでしょうか? 住職という職業のプライドでしょうか? 信じていた住職なので、振り込みは事情があり嘘をついてしまったとしても、 謝る事くらいは、出来るのではないか?と思います。 住職という立場で、人に謝ると言うのは、抵抗あるのでしょうか?
いつも相談に乗っていただきありがとうございます。自分の相談へのご回答のみならず、他の方へのお坊様がたのご回答を拝見しては、納得、感心し、癒される日々を送っております。心より感謝と尊敬をお伝えさせてください。 自分もお坊さんになる、とまでは行かないのですが、日常を心健やかに過ごし、他者を元気づけるために、仏教の考えを学びたいと思っています。巷にはたくさんの書籍がありますが、初心者にも学びやすい本があれば教えていただけないでしょうか? 本屋さんで眺めてみたのですが、なかなかピンと来るものがなく。一朝一夕には身につかないものと承知しておりますが、もし何かおすすめの書籍や学びはじめの方法(お寺の法話に行ってみるとか?)がありましたら教えていただけると幸いです。
こんにちは、初めまして 僕は死ぬのが怖いです。だから救い的なものを求めて、ずっと浄土真宗の聴聞をしてきました。けれどもなかなか信心が頂けません。 ひょんなことから、坐禅で悟りを開いた方と知り合い、在家でも修行すれば悟りを開けるということを知りました。 しかし、禅で悟ったらどうなるのかがよくわかりません。初期仏教であれば、輪廻からの解脱が「救い」だったんでしょうが、僕を含めてほとんどの日本人は輪廻を信じていないと思います。一休さんが、死後は無いと言ったという話を聞いたことがありますし、どこかの老師が死にとうないと言いながら死んでいったという話も聞いたことがあります。 若くして死んでいった母親にも会いたいし、自分も死ぬのが怖い、という思いで浄土真宗を聴聞してきましたが、先程書いたように信心がなかなか頂けません 坐禅をして悟りを開くと、どういった救いがあるのでしょうか?少し不遜かもしれませんが、凡夫の僕から見れば悟った人も死ぬので、救いではないんじゃないかと思ってしまいます 長文失礼しました
最近、坐禅に興味を持ったものです。 恥ずかしながら十年間引きこもりで、障害年金で暮らしています。 井上貫道師の著作を読み、坐禅に興味を持ち、その弟子筋にあたる方に電話面談を予約しようとしたのですが、自閉症ゆえ、極度の人見知りが発生して、キャンセルしてしまいました 只管打坐と言っても、ただ坐るのが難しく、参禅は必須と聞いております けれど、田舎住みなので近くに寺もなく、本当にハッキリした方につくのは難しそうです。 坐禅をしたい理由は、お釈迦さまの見た光景をこの目で見たいというものです。 けれども坐禅は諦めるしかないのでしょうか? この本があれば大丈夫、というのもないと思いますし、電話で気軽に坐禅を訂正してもらうというのも、忙しいお坊さんには無理ですよね… 長文失礼しました
僕は真宗徒なのですが、法義が薄い土地なので、周りには真宗の人は誰もいません。 そこで質問なんですが、現代日本でぶっちゃけどれぐらいの人が信心決定してるんでしょうか?体感で教えてくださると助かります お坊さんも信じてないみたいな話も聞きますが… ちなみに僕は信心頂いてます
小学生の頃にテストで100点を取りました。嬉しかったので母に見せました。褒めてもらえませんでした。母子家庭でしたので父はいません。 私は電車に乗って祖母の家に行きました。褒めてもらうためです。祖父はいません。 私は祖母に100点のテスト用紙を見せました。 祖母は大変喜んでくれ、「私が毎日仏壇に拝んでいたおかげだ」と言いました。 更にこうも言いました。 「あんたも手を合わせてお礼を言いなさい」 私は仏壇に向かって手を合わせて「テストで100点を取らせてくれてありがとうございます」と言いました。 未だにこの一連の情景が年に数回ほどフラッシュバックします。 悔しさ、後悔、むなしさ、憤怒、悲しさ。様々な感情が込み上げてきて、自分の口を掻きむしりたくなります。 私はただ、誰でもいいから「よく頑張ったね」と言ってほしかったのです。そして他ならぬ私だけは、自分の努力を否定する言葉を自分自身で口にしてはいけなかったのです。 祖母はその出来事から数年後に鬼籍に入りました。 私はこれから、フラッシュバックを起こさずに生きていけるようになると思いますか? また、深い信仰心によって人を傷付けた祖母は地獄に落ちたでしょうか?
ひろゆき氏や堀江貴文氏のお金の考え方について。 今更ながら彼等の考えは間違ってはいないと個人的には思うが、お坊さんの立場では彼等のような人達をどう捉えているものなのでしょうか? 例えば、ごく一部引用すれば ホリエモンは有り金なんて全て使え。そもそもお金なんて要らない。なんでお金が欲しいんですか?という考え。FIREなんてボケ真っしぐら。非常に同意。 仏教ではお金はこの世でだけのただのツールに過ぎない。という点でも合致している? みんな大好きひろゆき氏はネットライブでみんなの質問に片っ端から論破し、たしかに間違った事は言っていないし同意。だが。。 お金が沸くシステムはとっくに確立され、日常生活は節約とほぼお金を使わない生活だそうです。素晴らしい。 両者ともお金に振り回されない考えは素晴らしいとは思います。自分には到底マネーできませんが。 現世は先の短いご老人方の既得権益(政治家含む)が間違ったルールを作って貧困者から血を吸う仕組みになってる為か、どうも若い世代にお金が行き渡ってないし、今後も同じ黒歴史を繰り返す事でしょう。