先日、6歳の姪から「地獄ってどんなところ?」と聞かれました。最近友達から地獄の話を聞いたようです。 しかも、その友達は「少しでも悪い事をすると地獄に堕ちる」と教えられたらしく、「お茶をこぼすと地獄に堕ちる」とまで言っていたようです。 姪はすっかり怖がってしまって、1日中地獄について質問されました。 やりとりの一例として↓ 「悪い事ってどんな事?」 「誰かをわざと悲しい気持ちにさせる事かな」 「弟に意地悪したから、私は地獄に堕ちるの?」 「意地悪はよくないけど、ちゃんと謝って仲直りできたでしょ。 それに、今はまだ子どもで、これからたくさんの人とお話したりして、いい事と悪い事がわかるように勉強していく時間なんだよ。 だから、もしよくない事をしてしまっても、ちゃんと謝って『次はもうしない』って覚えていったらそれでいいんだよ。 地獄には堕ちないから大丈夫だよ」 「悪い事しても謝ったら地獄に堕ちないの?何歳までよくない事しちゃってもいいの?何回までしてもいいの?地獄に堕ちたら何されるの?」 という感じで、どうすれば地獄に堕ちないか、地獄はどんなところかを一生懸命聞いてきます。 安心させようと色々考えてみたのですが、具体的な答えを求められ困っています。 地獄が気になって仕方ない姪は、地獄が考え方の中心になってしまい、警察は「みんなが安全に暮らせるため」ではなく、「自分が地獄に堕ちたくないから」悪い人を捕まえる=いい事をしている人達だと考えていた時はとても驚きました。 そんな姪に地獄を説明したいのですが、私自身が詳しくない事もあり上手く説明できません。 また、今以上に怖がらせたり、躾と称した脅しの言葉として教えたくありません。 子どもでもわかるように説明するにはどう伝えればいいでしょうか? できれば、姪が安心するような、生活上の心掛けのようなものも教えていただけると嬉しいです。 長文となり恐縮ですが、どうぞよろしくお願いいたします。
先日もご相談したのですが愛染真言を唱えた後に元彼と付き合えました。ですが満願と同時期に彼の女友達が事故死してしまっていた事が判明しました。 私が真言を唱えたから彼が私の所へ来るべく彼女は変わりに亡くなってしまったのか。 また僧侶の彼を罵ってしまったり盗みや嘘など多くの悪いことをしてしまっています。 私は地獄地獄に落ちてしまうのでしょうか、、。 また自分では無間地獄行きだと思っているのですが仏教的に私の罪は何処に行くのでしょうか。 善行を積みたくても裏目に出てしまったり我が儘も治らず迷惑ばかりかけてしまっています。 それと最近地震が多発しておりその時に震災で亡くなってしまったら死後の行き場は極楽には到底いけない身分だなと。 地獄は存在しますよね、、
突然失礼致します。 自分は今僧侶になることを目指して勉強をしている高校生です。 現在僧侶になるにあたり色々な場所から情報を集めていると、出家したら両親の葬儀や親戚の葬儀に出られないと書いている記事を見かけました。 この記事に書いてあるのは本当なのでしょうか? ご回答よろしくお願い致します。
前月俳優の河津祐介氏が亡くなられました。 10年以上前から体調を崩されていて、その当時の近況を話されているのをネットで見て記録しましたので転載します。 あの人は今こうしている 川津祐介(ベテラン俳優) 2008年02月22日10時00分コメント(0) トラックバック(5) ブックマーク 23歳で映画「この天の虹」(木下恵介監督)の主役に抜擢されて以来、110本以上の映画に出演し、テレビドラマ「ザ・ガードマン」(TBS系)で人気者になった川津祐介さん。俳優以外にも「くいしん坊!万才」の5代目リポーター、「てれび博物館」のキャスター(ともにフジテレビ系)を務める一方、自然食レストランの経営、ダイエット本「こんなにヤセていいかしら」の出版と多方面で活躍した。しかし、最近は露出が減ったようだ。さて、今どうしているのか。 会ったのは調布市内の自宅。愛沙夫人に案内されてリビングルームに足を運ぶと、毛糸のセーターの下に何枚も重ね着をした川津さんが待っていた。 「ブカブカで驚いたでしょ。冷たい空気に5分もさらされていると、狭心症を起こす恐れがある。96年に『てれび博物館』のロケ先で心筋梗塞で倒れて以来、生きているのが不思議なくらいなんです。だって、倒れたときから余命3週間、長くて3カ月と診断され、今も心臓の下の方は壊死(えし)したままですからね。実際、心臓の機能を示す駆出力は健常者の30%、5メートル歩いただけで息苦しくなることがあって、3級の身体障害者手帳を持ってます」 もっとも、ニコニコほほ笑みながら話す様子を見る限り、深刻な状態には思えない。 「毎日、きょうが最後と思って生きています。家族といただく朝飯、昼飯、晩飯が最後の晩餐ですよ。仕事もひとつ、ひとつを大切にこなしてる。来月は『四人は姉妹』というコメディーの舞台で東京、兵庫県、新潟県を回って、5月には京王プラザホテルで趣味の絵画と陶芸の個展を開くことが決まってます」 生命を脅かす持病を抱えながら、前向きなのは、特殊な経験をしたからだという。 (つづく)
ペットを亡くした時に葬儀をお願いした近くのお寺のお坊さんが、その後もたまに話しを聞いてくださっておりました。 ペットのことだけにとどまらず、仕事のことや身内の複雑な事情なども親身になって話しを聞いて励ましてくださいました。 しかし僕が話したことを、僕の身内や周りの人たちに話していたらしく、僕が以前相談した周りからの孤立や蔑みが、そのお坊さんが話して回ったことが原因だったのがわかりました。 もしかしたら僕のためを思って窘めるつもりだったのかもしれませんが、今ではそれらの人たちと一緒になって陰で僕の悪口で盛り上がっていると知り、なにもかもが信じられなくなり、怒る気にも、生きる気力もなくなりました。 こちらに相談するのもかなり悩みました。 どうか、必死に藁をもすがる思いで明かした胸の内を、ウワサ話しのネタとしてひろめるような無責任なことをなさらないでください。
私は、お経を聞くのが好きなんです。 ある配信アプリで、読経枠をよく聞いていたのですが、なぜか、私へのあたりが強くて思い余ってそんなに私が嫌ならブロックしてくださいと、枠主のお坊さまへDMを送りました。すると、ブロックされた後に、枠内で私の名前を晒したようで、その枠主のファンと思われる人達から続々と罵詈雑言を私のアカウントへ書き込まれてしまいました。心が折れてしまった私は思わずアカウントを消しました。中には阿弥陀さまから、罰があるとまで。 アカウントを消したので、直接は聞いていませんが、今日の配信では、私の事をメンヘラと発言があったと教えてくれる知人もいて、涙が止まりません。 その枠主のお坊さまにそんなに嫌われる理由を私なりに考えました。思いあたるのは、浄土宗と日蓮宗の読経枠もファンになっていたからかなぁと。(このアプリは、アカウントからどんな枠のファンか見る事が可能) 浄土真宗のお坊さまは、他宗派のお坊さまのファンになっているリスナーは嫌なのでしょうか? 私がファンになっている浄土宗と日蓮宗のお坊さまも、内心は嫌なのでしょうか? 私は、仏教の事をよく知らずに地雷でも踏んでしまったのでしょうか。
ずっと前の事ですが、ある質問でお忙しい中せっかく相談してくださったのに御礼所かその回答を素直に受け入れられず自分の思った事を勝手に書いてしまいました 本当にすみませんでした。もう二度とそのような事はしないように心掛けます
真言宗の僧侶の方に回答頂けると幸いです 昨年にFacebookきっかけで好きな人が出来、ネットの愛染真言を唱えたり聞き流したりしていた所実際に元彼と付き合えましてその元彼の口からガールフレンドがバイクで事故死してしまったと聞き私が真言唱えたから彼女は亡くなってしまったのではないか....と考えてしまいます。 またその彼が僧侶をしていたことも知り余計に僧侶を罵ると奈落に落ちるそうで罪を増やしたと それに会うたびに体調不良が続いて愛染様の怒りをかったのではと。 今後起きる地震で命を落としたら地獄に落ちる条件全部クリアしてしまっています。 落ちるの嫌ですが無間地獄は実在するのでしょうか。 また地獄はどのような場所なのか知りたいです 優しいお言葉一切無しで事実でのご解答お待ちしています
おはようございます。個別相談について質問です。個別相談したら家に領収書とか届いたりするんですか。私は銀行振込みしか出来ないのですが、振込み用紙が届くのですか?家族には内緒で、相談したいのですが、おきもちの、支払い方法が具体的に書いてないので一歩踏み出せないでいます。
この言葉は私が最も好むこの世の処世術です。 私がこれを知ったのは数年前、法華経のCD販促の新聞広告ですが、その解釈が「現世安穏とは、自分だけが幸せになることではありません。お釈迦さまのいう幸せは、他の多くの人々の幸せがあって初めて自分の幸せがある、ということです。」 となっていました。 あまりの意訳に唖然としたのですが、釈尊の説教は判りやすく伝えていますから、直訳で充分の筈です。 これは多分最も貧しい村に、弟子らが布施が少ないと反対したのを振り切って説教に赴いたときの言葉ではないかと想像します。 貧しさで苦しみと恨みに満ちていたところを、現世は心にとって仮の姿であるから安穏な気持ちを持って過ごすようにすれば、後生は良いところに生まれるよと諭したのだろうと想像します。 貧しくなくても人間関係で苦しみや恨みも生じやすいので、それをプラス思考で安穏に過ごせば、後生は吉報が待っている気がします。 現世では生きるために直接、間接の殺生を積み重ねていますから、通常の人間にはその悪業は免れません。今生は今更悪行を我慢したり改めることなく、後生に「精進料理」を残して置いて、安穏を優先するのが良策かと思っています。 しかし果たして後生にその記憶が残っているかは心もとない限りです。 互いに安穏であれば争いも少なくなるし、自殺の心境では後生で更に悪化するので、思い止まるきっかけにもなるでしょう。
アニメ平家物語を見ました。 歴史は全然詳しくないのですが、後白河法皇や平清盛など出家した人たちが自分の家で政治をしたりしていて気になりました。 出家というと家との縁を切ってお寺等に入るというイメージがあるのですが、後白河法皇や清盛はどうして家に戻ってきているのでしょうか? 出家しても家に戻れるんですか?
以前にも質問をさせていただいた件についてです。 以前の質問はこちらです。 https://hasunoha.jp/questions/52980 この問題について自分なりに考え続けてきたのですが、もしかするとここで言う「世の中の人」とは、念仏者ではない人々という意味なのではないかという可能性が閃きました。 そう思う根拠は、法然上人が入滅の時に勧められた臨終行儀を「普通の人はそういうこともするけど、私はやらなくていいんだ」と断ったことです。これは念仏者なら死の直前になってわざわざ臨終行儀をやらなくていいという意味でしょう。 法然上人が言う「普通の人」と同じ意味で聖光上人は「世の中の人」という言葉を使っているのではないか? そうだとしたらこの言葉もやっと納得がいくのです。 僕は「念仏名義集」の前後の文を読むことができません。ぜひお坊様方の解釈をお聞きしたいです。
2ヶ月前に、妹が自宅で自死しました。遺書に葬儀をしないでとあり、義弟の意向とコロナ禍ということもあり、両方の両親と義弟、姪、甥、私の夫、私のみの家族葬で送りました。 義弟のご両親に宗派を聞いたのですが、よく分からないようで… 義弟のご両親は他県在住で、本家ではないのでお墓を持っておりません。 義弟も宗教や宗派がよく分からないとのことで、急なことでもあったので家族葬にしたのですが、お坊さんに来て頂くこともなく葬儀を終えたので、初七日や49日法要など何もしておりません。 お骨は、義弟の家にありますが戒名が無いためお位牌もありません。 妹は嫁いだ身ですから、私の両親や私は宗派や供養の仕方について、なかなか意見を言い出せずにおりますが、ずっと違和感を感じるとともに、妹が成仏しないのではと悩んでおります。 自死したうえに、読経も戒名も法要も無しでは成仏できないのでしょうか? 妹が成仏できずに彷徨っているのではと思うと…私の両親も私も心が落ち着かず、悲しみが増すばかりです。 義弟も、気持ちがまだ落ち着かず妹の死を受け入れられないこともあり、今後の供養方もきちんと決められてないようですが…義弟の相談にはのるつもりです。 今後、どのように供養していけばよろしいのでしょうか? 義弟の家の近くのお寺を探して相談するべきか、他県在住の義弟の両親の家の近くのお寺に相談するべきでしょうか? ご意見、ご見解をよろしくお願いいたします。
写経の願文について質問があります。 時間がある時に写経をしているのですが、願文で「諸人健康祈願」や「医療従事者健康(守護)祈願」と書いてるいるのですが、問題はないでしょうか?
このサイトにくるのもしばらくぶりになります。私は寺の生まれで、後継ぎとして育てられたから、仏教には親しみを感じて育ってきましたが、好きなこと本当にやりたいことは他にありました。 最近仏教の専門書はだいぶあったのを、実家の寺に送り返そうかと思っています。大量の本仏教書だけは処分するんじゃありませんよと母が言っていたから。 最近仏教のSP盤聞いて思ったんです。懐かしいなとは思えど、唱えたくないなと。今の坊さんの魚酒肉とか女とかの事情は在家とはあまり変わらない部分がありますが、(これは宗派によって違うかもしれない。私は浄土宗です。) これは還俗したほうがいいんでしょうか?また還俗は最近その概念がなくて僧籍返上というらしいですが、これはどうでしょうか? 一遍上人は(私は元時宗)還俗したあと再出家したそうですが、そういうこともまた可能なのでしょうか? 余談ですが、私の妹たちも得度を受けて?受けさせられて?いましたが、僧籍登録は妹たちはしなかったそうです。
輪廻転生が真実であるとすれば誕生の考え方が大きく変わります。 まず結論から言いますと、「心は自分自身であり、親から貰ったものではない」と言うことです。 即ち自分の生老病死は自己責任であるということです。 ことわざからはじめますと、 「身体髪膚これみな父母より賜う。あえて損傷せざるは孝の始めなり」 これは身体だけであり、心は別ということになります。 「子は授かりもの」 もし心も親譲りであれば我が子であって、授かるとは言わないでしょう。 「とんびが鷹を産む」 親子の気質は別物であるという事でしょう。 「愚兄賢弟」 もし親譲りであれば、兄弟でも性格が違うとは、遺伝子的には考えられません。 原則的には類を以って集まるはずですから、性格が似ていることは多々あります。 臨死体験者(新堂のぶ子氏)の言葉(講演会にて) 「親が子を生むのではなく、子が親を選択する。」 ある宗教学者はネットで「龍樹と輪廻転生」と題し 「ブッダは、『大縁経』で、意識が母胎に流れ込むことによって、そして、そこで身心(名称と形態)が増大することによって、この世に転生するありさまを説明した。」と述べています。 「意識」は心と同一と考えてよいと思います。 以上が結論の根拠です。
某有名ネット番組で、YouTubeにダイジェスト版が流れています。このダイジェスト版を観て怒りを覚えました。 内容は、例えば、、ある風俗嬢が「なんちゃって出家する」というもの。 ”私なりに”怒りの反応をしました(個人の感想)勿論、風俗嬢が出家とは、けしからん!っと言う薄っぺらい理由ではありません。 しかも番組に出演している住職のコメントが○○過ぎて。。(例)タレント:なぜ仏になるんですか? 住職:ヒトわぁ悩んでいるからです...(←なんだそれ) そもそも、出家って過去や家族、財産全てを捨てる事から、では... 少なくとも、私のこれまで観てきたお坊さんYouTuberや仏教を解説している動画など非常にありがたいものばかりです。でした。エンタメ番組ですから割り切ればそれまでなんですが、ムカつきました。 久々にムカついた自分に、まだまだだなと思いました。人によってはほぼ完全スルーでしょう。でも私は絶賛怒りの妄想が膨らみ中です。何か良きアドバイス頂けると嬉しいです。 個人名や番組名を特定するリンクは貼れません。。
最近また悩みが発生したため、ハスノハを訪れては様々な質問や回答を参照し、自分の将来への糧にしようと努力しています。 様々な回答を拝見していく中で、一つ疑問に思ったことがあります。 「過去に起こした過ちや罪悪感をため込んで苦しい」という趣旨の質問に対しての多くに、「仏さまに詫び、許してもらう」や「仏さまにつらいことを預ける」という主旨の回答(多少違うかもしれませんが)がありました。 確かにそうすることで、当事者は過去の懺悔を清算でき、「幸せ」とまではいかなくとも「平凡」な生活をすることができるのだろう、と思いました。 しかし、仏様がそれを受け取り、また詫びを許す、などに関して、実際にそれを視認することはほとんど不可能なのではないかと思うのですが、どうしてお坊さんはそれを認識できるのでしょうか。 ちなみに、仏様が許さなかったことや受取を拒否されたことはあるのでしょうか。 これからもつらい時にここに頼りたいからこそ、どうしても気になってしまいました。よろしくお願いします。
今回は、自分でもちょっと精神的におかしくなってるので、ご相談させていただきます。 文章が支離滅裂すぎて、申し訳ないです。 二つほどありますが、仏道を否定したらなんか色々不安な気持ちやらなんやら色々改定はあるんですが、否定しちゃだめだとぶつぶつ呪文のようにつぶやいたり、 仏教やその他色々な事を否定や悪口を言ったら無間地獄に行くと調べてしまって否定しちゃダメだ、悪口もダメだ、謗法になってしまうので、同じように呪文のように 呟いたり頭の中で自分に言い聞かせています。 だけど、否定という言葉の意味を調べた時に、肯定した方が正しいのではと思ってしまい・・、 今に至るという事になります。なんていうか・・もうダメなのかなと思ってます。 否定しちゃだめだと自分に言い聞かせていますが、否定ではなくて肯定するべきだともっと早く気が付いてればよかったのではないかなと思います。 お坊さんの方々はどう思われますか教えてください。 私はこのまま無間地獄に行くの確定になりますか・・?