私は普段『仏前勤行次第』を使用していますが、『念彼観音力』の読み方は『ねんびかんのんりき』となっています。 しかし他の観音経の経本を見ると読み方が 『ねんぴかんのんりき』となっています。 『ねんびかんのんりき』『ねんぴかんのんりき』どちらが正しいのでしょうか? 『び』と『ぴ』の違いなのであまり気にしなくて好きな方で唱えたらよいのでしょうか? 私はずっと『ねんびかんのんりき』と唱えていたので『ねんぴかんのんりき』はなんかしっくりきません。
よろしければ皆様の意見をお聞かせください。 仏教は向上心を否定するか。 向上心とは現状に満足せず、さらに高い目標を目指す心の有り様を表す言葉です。 向上心は現代社会で広く受け入れられ、むしろ向上心が無いことは悪い事という風潮すらあります。 私は向上心の動機として、欲と執着は不可欠だと感じます。 小欲知足を基本とする仏教において、向上心は否定されるでしょうか。 否定される、と言うのが私の考えです。 現代社会は、キリスト教等の禁欲思想を否定し、 欲望を肯定し、それを達成する事で発展してきたように感じます。 ゆえに、欲望を受け入れ自らを切磋琢磨する向上心は、社会の発展に有意義なために広く受け入れられていると考えます。 人の無限の欲望をエネルギー源としている現代社会は、仏教思想と相容れない部分があると思います。 よって、仏教は向上心を否定すると考えます。 皆様はどのようにお考えでしょうか。また、お弟子さんやお子さん等、身の回りの方に向上心が見られない場合、どのように指導する(あるいは指導しない)か教えていただけると助かります。
人は反省をして利他に生きる姿勢を築くのが人生だと考えています。 ですが、そのためには沢山の無駄ともいえる遠回りをして、一切皆苦の経験を必要とするのだと思えています。 沢山の無駄ともいえる遠回り。 こういう無駄を無くして、利他に生きる姿勢に、この世があって欲しいと願っています。 何故なら、最初から 人は、そういう道を求めていると考えるからです。 指針を失い迷い惑い、嘆き悲しみ、また道を探す。 それを是としなさいと、仏教では教えられるのでしょうか? 遠回りをしてきた私は、そういうものを無くしたくて仕方がありません。 悲しくて仕方ありません。 だからといって能力に優れてることもありません。 でも虐められて悲しみ苦しむ人の気持ちが痛いほど伝わります。 無視したくありません。 なのに前進することもままならず、健康や生活が損なわれ傷つきっぱなしです。 悲しくて仕方がないのです。 どうすれば良いのでしょうか?
お経を読む蛇腹の本は宗派のお寺でお金をお渡ししたらいただけるのでしょうか。 最近はネットで検索すると通販であったりしますが、私の宗派(西山浄土宗)が見当たりません。近くのお寺と連絡が取れず、遠方ですが、総本山に問い合わせをしてます。しかし、連絡が取れておりません。失礼をしてしまったのでしょうか。 余談でお経本が必要になっている理由ですが、家族が亡くなり、勤行を曽祖父などがしておりましたが、非常に古くめくるだけで破れてしまうためです。
実家が寺院です。 住職をしている父親の在り方に疑問を覚えるとともに、自分の将来について悩んでいます。 現在、人々のお寺への関心は少しずつ薄れているものと思います。そんな中、私の実家は今でも多くの檀家の方々に支えられ、お寺として成り立っています。しかし、父はその有り難さが分かっていないように思うのです。 具体的な収入(僧侶が頂くお金を収入と呼ぶのは語弊があるかもしれません)を私は知りませんが、高級車を何台も乗り継ぎ、沢山の娯楽品を購入し、暴飲暴食…。具体的な発言があったわけではありませんが、「僧侶も職業だ。稼いだ収入を好き勝手使ってもいいだろう」というような気持ちが根底にあるように思います。 お寺の管理として沢山の工事も行い、綺麗なお堂を建てる一方で、景観として素晴らしい大きな木を何本も切り倒すようなこともありました。 非常に恥ずかしく思うとともに、悲しく、また、檀家の皆様に申し訳なく思います。そんな父の「粗さ」に母親が涙する日も増えました。ただ、私もまた、そんな父の援助があって、仏教科ではない別県の大学へ進学しているため、やっていることは本質的に父と変わりないのだと思うと、苦しくなるばかりです。 父親のような僧侶にはなりたくないと思います。ただ、日々誰かの死と向き合う仕事ですし、お寺としての管理も父なりに苦しんで考えているものと思います。大きなストレスもあるでしょう。父がどんな気持ちで高級車を乗り回しているのか、分かる気もします。改めて、現代におけるお寺や僧侶というものの在り方の難しさを感じます。「苦しすぎて私にはとても継げない。」「自由に暮らしたい。」「普通の家庭に生まれたかった。」そんなことを連連と考えてしまいます。 悩みやすい性格で、父親のことも悩みの一端に過ぎません。ただ、お寺の道に進むのか否か選択を迫られる時期が近づいてきており、「お坊さん」として生きていらっしゃる方々の言葉を聞いてみたいと思い投稿しました。 お坊さんとしてお金とどう向き合っているか。お寺への関心薄れる現代において、お坊さん・お寺として、今後どう在るべきか。また、悩んだ末に実家を継いだ方がいらっしゃいましたら、その決断に至るまでのお話など、相談としては漠然としており申し訳ないですが、何かご意見頂けると有り難く思います。
本当はこれと決めた阿弥陀如来像を一体、自分の揺るぎない念持仏としたいのですがあれこれ目移りしてしまい、小さな仏像・絵像をあちこちで購入してはしばらくじっと眺めていると「白毫が中心からずれている」とか「蓮台の葉の並びが整ってない」とかの粗を見つけてしまい、それを理由に結局タンスの肥やしにしてしまうことを繰り返しています。だからといってお焚き上げに出すのもそれはそれで購入した時の思い出なんかがあって抵抗がありますし、仏様が可哀想な気もします。どうしたらいいでしょうか。 そんな状況で息が長いのが信州善光寺で頂いた手のひらサイズの善光寺如来像です。小さすぎて細部が見えないのでかえって粗も見つからないという訳ですが、僕にふさわしい念持仏はやはりこれなのでしょうか。
自分の部屋をきれいにするのはいいことでしょうが、「もっともっと」ときれいを求めて際限なく掃除をするのは貪欲でしょうか?
先日、自分の守本尊様を知る機会がありました。そこで気になったのが、干支と守本尊様との結びつきの由来?です。調べてみてもイマイチ分かりませんでした。
この世は迷い苦しみの世界であり、私たちはこの世界を生まれ変わり死に変わり、終わること無く繰り返しています。 仏教の目標は、この六道からの解脱だと伺っております。 しかし苦しみから開放された不変の世界があるとする事は諸行無常や空説に反していないでしょうか。 仏陀は「愛は苦しみの原因」と仰られました。 他にも、様々な欲求は苦しみの原因だと仰りました。 仏陀の仰る通りだと思います。 人は手に入らなければ悩み、手に入るともっと欲しくなりまた悩みます。 そして手に入れた物はいつか失います。 失うと悲しみます。 しかし何も求めず、何も持たないのが苦しみからの開放に繋がると言うのは 極端なニヒリズムに感じます。 仏陀の目指した解脱とは何だったのでしょうか。
こんにちは 私は新米SM女王様です プライベートとお仕事でこの世界を楽しんでいます。 聖職者の方々にこんな俗的な質問をぶつけてしまい大変申し訳ありません。 さて、本題なのですが、 プレイの一種に "インセクトクラッシュ"というものがあります。 インセクトは昆虫 クラッシュは潰す 要は生き物を潰すプレイです。 お店に 出来る?と聞かれ 私自身は特に興奮はしませんが、M男がそれを見て興奮しているのを見るのは好きなので OKを出しました。 使う動物ですが、哺乳類は絶対NGで、 必ず食用に用意されている子達を使う。というルールがあります。 なので、使うのは ゴキブリ・コオロギ・芋虫・ザリガニ・魚がメインだそう。 仏教に関しては無知なので、わからないのですが、魚は元々食べてるし、虫は気持ち悪いし別にいいかな...?と思ってしまいます。 勿論、虫は野生の子達ではなく、ペットショップで販売されている餌用の子達です。 その話を恋人にしたら、 「そんなことしたら地獄行きだよ!輪廻転生出来なくなるよ!!来世で私と会えなくなってもいいの?!」と冗談交じりに言われたのですが、結構考えています笑 恋人とは今月パートナーシップを取る予定で、来世もずっと一緒にいたいので、それは困ります笑 他にも 私はM男に 根性焼きをしたり、傍から見たら暴行にしか見えないこともします。 やはり、私は地獄行きなんでしょうか...笑 一般的な性癖とは違い、中々理解されづらいSMの世界。 我々女王様は日々技を磨き、精神的・肉体的に彼らを満たせるように尽力しています。 性産業は誤解されやすく、下に見られやすい職業ですが、必要な職業であると考えています。 地獄に行った時に閻魔様に釈明出来るでしょうか...笑 どうかご理解頂きたいです...笑
30代後半独身で地方田舎寺の住職をしております。 元々バイトや契約といった使い捨てのような仕事をしていたのですが、いろいろあって人付き合いなども苦手で何一つ身になりませんでした。 そんな時住職である親からそろそろ寺をやってみないかと言われ、最初はあまり乗る気ではなかったのですが、食べてはいけるということで決心、得度し行を終え、副住職となりました。 行を終えてから数年立ちます。最近親の体調があまりよくないので私が住職となり葬儀や法事などを行っています。 なんというか親の住職に無理やりはめられたといった思いが強く辞めたいと思ってます。 というのも田舎なので四六時中、朝早くや夜でも平気でいきなり他人が急に来たり、電話が鳴ったりといったことがまず多いです。 なる前はそんな話は一切聞いてなかった(私が無知で頭が悪いのも原因です)点とお布施をこちらから供用する点です。 特にお布施は住職側からこの戒名だとこれだけ寺に収めてほしいと亡くなった方に対して毎回いうのが嫌になります。 なにしろ金額が高額で相手の立場に考えたら絶対に払いたくないと住職の私でさえそう思うからです。 親の住職に言っても昔からこれでやってきた、下手に下げると今まで高額なお布施を払ってきた先代の檀家の立場もあるし、ないならないで払えるだけでいいから一応そんな感じで葬儀では伝えるべきだというのです。 まるでヤクザまがいの事を私はしているのだろうか、いや現にもう毎回してきたので今更引き返せないところまで来てしまっている思いが強いです。 いくら寺を守る為だとは言え、檀家にも生活があるのは重々承知です。最近檀家離れや葬儀に金をかけたくない檀家が多いです。 そのたびに思うのです。私はいったい何のために寺をやっているのか・・・、こんな思いを毎回するならまだバイトや契約できついながらもまじめにコツコツと働いていた方が人生よかったのではないだろうかと・・・。 現在檀家数は兼務寺も全て合わせると400件前後となります。現状専業で充分やっていけるレベルです、今後はどうなるかわかりません。兼務寺が多いのでその分もめごとも多いです。 庫裏、本堂、境内内整地などはほぼ終えてます。 できれば親を看取った後60ぐらいまでは私一人でがんばってやる気のある方(他人)に譲りたいのですが、後継者はきそうでしょうか?
女子高校生です。 おばあちゃん家が浄土真宗です。 浄土真宗の方にお答えして貰いたいです。私は次のようなことをしたことがありますが仏様は救ってくださるのでしょうか。 ・浄土真宗のお仏壇の前でふざけて南妙法蓮華経ととなえた。 後日、お母さんに南妙法蓮華経となえたの?と聞かれてとなえてないと嘘ついた。 ・帰命無量寿如来から始まるお経(お経の題名分かりません)を読みたくないといったり、ふざけて読んだりして笑わせた。 ・極楽浄土よりも人間界の方が楽しいと思ってた時があった。中学校生活が楽しかったたら。 ・仏様になりたくないと思っていた時があった。 ・お数珠をポケットにいいれたままにしちゃって洗濯しちゃった。 ・お数珠のひもがとれちゃった。 どれも、不浄説法(なんかこうい熟語あったような…)ですよね? 今はお経をちゃんと読んでるし、極楽浄土に生まれ変わって仏様になりたいと思っています。 本当に、はっきり言ってほしいです。 こんな私でも南無阿弥陀仏をとなえたら救われるのでしょうか。
毎月お参りに来てもらうお寺さんがあります。 お布施と一緒にお菓子を渡していました。 次からは「菓子はいらん、そのかわりお布施を増やしてくれ」と言われました。 お寺さんの稼ぎは少ないとそのお寺さんは仰っていますが、他に仕事もされていて年に何回か旅行に行ったりしていて、生活は全く苦しくないように思えます。 生活が苦しいわけでもなく、遊びに回す余裕があるのに、金額が少ないので増やせと言われるのかが納得いきません。 お布施は少ないよりは多いほうがいいとおもいますが、やはりお菓子や食べ物といったものよりお金がいいですか?
母が亡くなって一年経ち、最近やっと20年以上前に亡くなった父のことを思い出すようになりました。 仏壇の前で父の写真をみていると、自分が父の亡くなった年齢に近付いたせいか、父が幼くみえて…ふと疑問に思ったのですが、 賽の河原の子供って何歳位までのことをいうのでしょう? 親って産みの親?育ての親ですか? 父は50歳前に育ての母(私にとって義理の祖母)が亡くなる前に亡くなってます。 父の産みの親は大分前に亡くなっているそうです。 父は今どこにいるのでしょう? 賽の河原にいるのだとしたら、昨年亡くなった母に会えるのはいつなんでしょう? 私が死んだ時、父と母に会えるんでしょうか?
最近山登りをした際、山頂にあった神社をお参りし、記念として御朱印を頂いたのをきっかけに、趣味として御朱印を集め始めました。 最近鎌倉に行った際、お寺で新たに御朱印をいただきました。 神社でいただいた御朱印とお寺でいただいた御朱印は御朱印帳を分けているのですが、お寺でいただいた御朱印は宗派によっても御朱印帳を分けて保存した方が良いのか悩んでおります。 お参りや仏教に関する知識、作法がまだまだ未熟なため、教えていただきたいのですが、お寺でいただいた御朱印は宗派によって分けて御朱印帳を分けて保存するべきでしょうか?? 宗派がごちゃ混ぜだと仏様に対して失礼になりますか??
お世話になっておリます。 在家の人間が出家してお坊さんになることについて相談させてください。 私は現在、32歳の会社員として働いています。 昔から人よりいろいろな面で劣っていると思うことが多く、孤独感を感じたり、生きる意味がわからないなどがあり、出家するという事に強い興味がありました。(もちろん、出家したからといってすべての辛さから開放されるとは思っていません。お寺も組織ですし、人間関係の辛さ、修行の辛さもあるだろうとは認識しています。) 日々生きていく中で、どうしても何か大きな目的を求め続けてしまうのです。これは何の意味があるんだろう?いずれ死んでしまうのに、確実で変わらないことなんて無いのに、と考えてしまい、心に大きな穴が空いていてそこから生気みたいなものが抜けている感じです。 仏教や禅を本などでは学んでいますが、やはり体験にまさるものは無いのでは、と考えています。出家して修行したい、そうすべきなのでは?と考えることが最近増えています。 皆様の出家に至った経緯や、その時の心境、出家するということについて、ご意見をいただけますと幸いです。 何卒よろしくお願いいたします。 以上
こんにちは。私はとある信仰宗教の元信者です。その宗教ではその宗教のお経を毎日よんで、法名といわれるものをおさめ、つどいと称される会合に参加し、弥勒山という山に登ります。勧誘してきた人は私の20年来の付き合いのある方で、その信仰宗教をとても心から信じていました。しかし、私はこの信仰宗教に違和感を感じていました。職場の方に話してもら辞めた方が良いという回答でした。また、旦那が私には居ましたがその宗教を毛嫌いされ、彼の親族にも激怒され縁をきられてしまいました。私は今実家で幸せに暮らしています。仕事も頑張って居ます。勧誘された方は癌で若くして亡くなりました。彼女は最後までその宗教を信じていましたが、私も彼女もそのお経を毎日読みましたが、私は離婚し、彼女は命を失いました。これのなにが幸せなんでしょうか。私には弟が居ます。まだ若くこれからどうなるか分からないですがきっと結婚するだろうと思います。義理の妹は果たして私の事を理解してくれるかと不安になり、檀家になってるお寺のお坊さんに相談しました。その方は瞑想会をしていて、瞑想すると涅槃の境地に近づけるとの事で、私は毎日するようになり、瞑想会にも参加するようになり、元の信仰宗教は辞めたい。と彼女の旦那さんや支部長に言って辞めさせていただきました。しかし、彼女には本当にお世話になったし、お経を読まないと瞑想出来ない脳になってしまったので、辞めてもお経は読んでいるし、彼女のお墓にお墓参りに行こうと思っています。信仰宗教で出会った方々とはまだLINEで繋がっています。このままいくとまた、戻ってしまうかどうか心配です。私は幸せになりたいからやってるんではありません。ただ、お墓参りして、お経読んで、瞑想して、線香あげて。私は仏教なんて全然知りません。お経の意味も分かりません。でも、これから勉強したいと思います。信仰宗教であげてるのは簡易なもので独自の解釈がされていて本質ではないと思います。瞑想の檀家のお寺のお坊さんも良い方ですが、わたしが涅槃までいけるかどうかは分かりません。こんな私は社会から見ておかしな人間なのでしょうか?仏教ってなんなんでしょうか?お経読む事でしょうか?墓参りする事でしょうか?瞑想する事でしょうか?私は宗教を理由に仕事休んだ事はありません。信仰宗教勧誘は一度しかやった事がなく、家族からも止められてるので今はやってないです。
長文で失礼致します。 急ぎの相談ではありませんので、お時間のある際にお話いただければ幸いです。 もう1点、伺いたいことがあるのですが、お坊さま方もお忙しいと思い、別の機会にさせていただきます。 父親のいなかった私たちを、親代わりになって育ててくれた祖父が先日他界しました。 母や叔父と叔母にとっては、優しくも厳しい一面もある父親だったそうですが、孫全員には優しく頼もしく接してくれて、「いい思い出」しか残っていません。 ここ数年は持病が悪化し、コロナ禍ということもあり、楽しみにしていた大勢で食事を楽しむ機会を設けれなかったことだけは心残りです。 入院先の配慮で、最後にお話をする機会があり、駆けつけた祖母・母と叔父・叔母、孫全員と話をすることができたのが幸いです。 「遅くまでいると迷惑がかかる」と祖父に促され、亡くなる前日の別れの際にかけられた言葉が印象的でした。 「じーちゃんが死んだ後、コロナが収まったらな、ばーちゃんに会いに行ってやってくれ」 最後まで祖母を思う優しさ、そして。 「ありがとう……また、会おう」 この言葉は、もしかすると生きて会えるのは最後とわかっていて、「来世」でまた会おうという意味だと私は受け取りました。 葬儀をお願いした元々ご縁のあるお寺のご住職も、「今の別れは、ゆくゆくは浄土で再会するまでの一時的なもの」とお説法をされていたので、受け取り方は違ってなかったのかなと思うのですが、いかがでしょうか?
不動明王様への祈願はご真言を頂き、ご縁を頂くまではお力添えを自ら祈願しては いけないとある本で読んだ事があります。 不動明王様のご真言を頂くにはどのようにすれば良いのでしょうか? またお参りはどのようにすれば良いのでしょうか?
浄土宗を信仰していますが、先日ショックな文献に出会ってしまいました。 二祖・聖光房弁長上人の念仏名義集に 「臨終行儀と申すは一期の大事是に過たる無きたり。世の中の人の往生したるぞ、悪道に堕たるぞと申す事は、此の臨終にて知るなり。臨終の吉き人は往生したると知る、臨終の悪しきをば悪道に落ちたりと知るなり。」 とあります。 これはどうしても納得できません。日頃念仏をしているのにろくでもない死に方をした人が一人でもいたら、「念仏すれば阿弥陀仏は救ってくださる」という教えが崩れてしまいますし、現実的にそういう人が今までに一人もいないとは思えません。 念仏していたって死ぬ時に正念を保てるとは限らないし、保てていたとしてもこの目に来迎を見ることができるかはさらに自信がありません。来迎を見れなければ浄土に往けないと思うと、物凄い恐怖の中、死んでいかなければならないのではないでしょうか。 弁長さんなんでこんな暴言吐いちゃったの!?って気持ちです。 そんな疑問を抱えたまま時宗を勉強していたら、時宗では臨終とは死ぬ時だけを指すのではなく一瞬一瞬を臨終と心得、今この時に唱える平生の念仏がすなわち臨終の念仏である。 来迎が見えなくても三界虚妄のこと、惑障が邪魔をして見えないことだってあるが気にしなくていい。必ず往生できる。という教えに出会い、これだ!と思いました。 じゃあ時宗に改宗したらいいじゃんと言われそうですが、この弁長さんの発言以外は浄土宗が好きで、敬愛する徳川家康公と同じ宗派ということに魅力を感じています。時宗総本山清浄光寺より知恩院の方がずっと近くて行きやすいですし、何より近くに時宗の寺院がありません。 そこで、浄土宗檀信徒のまま、都合のいい所だけ弁長上人の言うことを無視して一遍上人の思想を取り入れるということをしてもいいでしょうか? それでも浄土宗檀信徒を名乗る資格があるでしょうか?