30代後半独身で地方田舎寺の住職をしております。 元々バイトや契約といった使い捨てのような仕事をしていたのですが、いろいろあって人付き合いなども苦手で何一つ身になりませんでした。 そんな時住職である親からそろそろ寺をやってみないかと言われ、最初はあまり乗る気ではなかったのですが、食べてはいけるということで決心、得度し行を終え、副住職となりました。 行を終えてから数年立ちます。最近親の体調があまりよくないので私が住職となり葬儀や法事などを行っています。 なんというか親の住職に無理やりはめられたといった思いが強く辞めたいと思ってます。 というのも田舎なので四六時中、朝早くや夜でも平気でいきなり他人が急に来たり、電話が鳴ったりといったことがまず多いです。 なる前はそんな話は一切聞いてなかった(私が無知で頭が悪いのも原因です)点とお布施をこちらから供用する点です。 特にお布施は住職側からこの戒名だとこれだけ寺に収めてほしいと亡くなった方に対して毎回いうのが嫌になります。 なにしろ金額が高額で相手の立場に考えたら絶対に払いたくないと住職の私でさえそう思うからです。 親の住職に言っても昔からこれでやってきた、下手に下げると今まで高額なお布施を払ってきた先代の檀家の立場もあるし、ないならないで払えるだけでいいから一応そんな感じで葬儀では伝えるべきだというのです。 まるでヤクザまがいの事を私はしているのだろうか、いや現にもう毎回してきたので今更引き返せないところまで来てしまっている思いが強いです。 いくら寺を守る為だとは言え、檀家にも生活があるのは重々承知です。最近檀家離れや葬儀に金をかけたくない檀家が多いです。 そのたびに思うのです。私はいったい何のために寺をやっているのか・・・、こんな思いを毎回するならまだバイトや契約できついながらもまじめにコツコツと働いていた方が人生よかったのではないだろうかと・・・。 現在檀家数は兼務寺も全て合わせると400件前後となります。現状専業で充分やっていけるレベルです、今後はどうなるかわかりません。兼務寺が多いのでその分もめごとも多いです。 庫裏、本堂、境内内整地などはほぼ終えてます。 できれば親を看取った後60ぐらいまでは私一人でがんばってやる気のある方(他人)に譲りたいのですが、後継者はきそうでしょうか?
女子高校生です。 おばあちゃん家が浄土真宗です。 浄土真宗の方にお答えして貰いたいです。私は次のようなことをしたことがありますが仏様は救ってくださるのでしょうか。 ・浄土真宗のお仏壇の前でふざけて南妙法蓮華経ととなえた。 後日、お母さんに南妙法蓮華経となえたの?と聞かれてとなえてないと嘘ついた。 ・帰命無量寿如来から始まるお経(お経の題名分かりません)を読みたくないといったり、ふざけて読んだりして笑わせた。 ・極楽浄土よりも人間界の方が楽しいと思ってた時があった。中学校生活が楽しかったたら。 ・仏様になりたくないと思っていた時があった。 ・お数珠をポケットにいいれたままにしちゃって洗濯しちゃった。 ・お数珠のひもがとれちゃった。 どれも、不浄説法(なんかこうい熟語あったような…)ですよね? 今はお経をちゃんと読んでるし、極楽浄土に生まれ変わって仏様になりたいと思っています。 本当に、はっきり言ってほしいです。 こんな私でも南無阿弥陀仏をとなえたら救われるのでしょうか。
毎月お参りに来てもらうお寺さんがあります。 お布施と一緒にお菓子を渡していました。 次からは「菓子はいらん、そのかわりお布施を増やしてくれ」と言われました。 お寺さんの稼ぎは少ないとそのお寺さんは仰っていますが、他に仕事もされていて年に何回か旅行に行ったりしていて、生活は全く苦しくないように思えます。 生活が苦しいわけでもなく、遊びに回す余裕があるのに、金額が少ないので増やせと言われるのかが納得いきません。 お布施は少ないよりは多いほうがいいとおもいますが、やはりお菓子や食べ物といったものよりお金がいいですか?
母が亡くなって一年経ち、最近やっと20年以上前に亡くなった父のことを思い出すようになりました。 仏壇の前で父の写真をみていると、自分が父の亡くなった年齢に近付いたせいか、父が幼くみえて…ふと疑問に思ったのですが、 賽の河原の子供って何歳位までのことをいうのでしょう? 親って産みの親?育ての親ですか? 父は50歳前に育ての母(私にとって義理の祖母)が亡くなる前に亡くなってます。 父の産みの親は大分前に亡くなっているそうです。 父は今どこにいるのでしょう? 賽の河原にいるのだとしたら、昨年亡くなった母に会えるのはいつなんでしょう? 私が死んだ時、父と母に会えるんでしょうか?
最近山登りをした際、山頂にあった神社をお参りし、記念として御朱印を頂いたのをきっかけに、趣味として御朱印を集め始めました。 最近鎌倉に行った際、お寺で新たに御朱印をいただきました。 神社でいただいた御朱印とお寺でいただいた御朱印は御朱印帳を分けているのですが、お寺でいただいた御朱印は宗派によっても御朱印帳を分けて保存した方が良いのか悩んでおります。 お参りや仏教に関する知識、作法がまだまだ未熟なため、教えていただきたいのですが、お寺でいただいた御朱印は宗派によって分けて御朱印帳を分けて保存するべきでしょうか?? 宗派がごちゃ混ぜだと仏様に対して失礼になりますか??
お世話になっておリます。 在家の人間が出家してお坊さんになることについて相談させてください。 私は現在、32歳の会社員として働いています。 昔から人よりいろいろな面で劣っていると思うことが多く、孤独感を感じたり、生きる意味がわからないなどがあり、出家するという事に強い興味がありました。(もちろん、出家したからといってすべての辛さから開放されるとは思っていません。お寺も組織ですし、人間関係の辛さ、修行の辛さもあるだろうとは認識しています。) 日々生きていく中で、どうしても何か大きな目的を求め続けてしまうのです。これは何の意味があるんだろう?いずれ死んでしまうのに、確実で変わらないことなんて無いのに、と考えてしまい、心に大きな穴が空いていてそこから生気みたいなものが抜けている感じです。 仏教や禅を本などでは学んでいますが、やはり体験にまさるものは無いのでは、と考えています。出家して修行したい、そうすべきなのでは?と考えることが最近増えています。 皆様の出家に至った経緯や、その時の心境、出家するということについて、ご意見をいただけますと幸いです。 何卒よろしくお願いいたします。 以上
こんにちは。私はとある信仰宗教の元信者です。その宗教ではその宗教のお経を毎日よんで、法名といわれるものをおさめ、つどいと称される会合に参加し、弥勒山という山に登ります。勧誘してきた人は私の20年来の付き合いのある方で、その信仰宗教をとても心から信じていました。しかし、私はこの信仰宗教に違和感を感じていました。職場の方に話してもら辞めた方が良いという回答でした。また、旦那が私には居ましたがその宗教を毛嫌いされ、彼の親族にも激怒され縁をきられてしまいました。私は今実家で幸せに暮らしています。仕事も頑張って居ます。勧誘された方は癌で若くして亡くなりました。彼女は最後までその宗教を信じていましたが、私も彼女もそのお経を毎日読みましたが、私は離婚し、彼女は命を失いました。これのなにが幸せなんでしょうか。私には弟が居ます。まだ若くこれからどうなるか分からないですがきっと結婚するだろうと思います。義理の妹は果たして私の事を理解してくれるかと不安になり、檀家になってるお寺のお坊さんに相談しました。その方は瞑想会をしていて、瞑想すると涅槃の境地に近づけるとの事で、私は毎日するようになり、瞑想会にも参加するようになり、元の信仰宗教は辞めたい。と彼女の旦那さんや支部長に言って辞めさせていただきました。しかし、彼女には本当にお世話になったし、お経を読まないと瞑想出来ない脳になってしまったので、辞めてもお経は読んでいるし、彼女のお墓にお墓参りに行こうと思っています。信仰宗教で出会った方々とはまだLINEで繋がっています。このままいくとまた、戻ってしまうかどうか心配です。私は幸せになりたいからやってるんではありません。ただ、お墓参りして、お経読んで、瞑想して、線香あげて。私は仏教なんて全然知りません。お経の意味も分かりません。でも、これから勉強したいと思います。信仰宗教であげてるのは簡易なもので独自の解釈がされていて本質ではないと思います。瞑想の檀家のお寺のお坊さんも良い方ですが、わたしが涅槃までいけるかどうかは分かりません。こんな私は社会から見ておかしな人間なのでしょうか?仏教ってなんなんでしょうか?お経読む事でしょうか?墓参りする事でしょうか?瞑想する事でしょうか?私は宗教を理由に仕事休んだ事はありません。信仰宗教勧誘は一度しかやった事がなく、家族からも止められてるので今はやってないです。
長文で失礼致します。 急ぎの相談ではありませんので、お時間のある際にお話いただければ幸いです。 もう1点、伺いたいことがあるのですが、お坊さま方もお忙しいと思い、別の機会にさせていただきます。 父親のいなかった私たちを、親代わりになって育ててくれた祖父が先日他界しました。 母や叔父と叔母にとっては、優しくも厳しい一面もある父親だったそうですが、孫全員には優しく頼もしく接してくれて、「いい思い出」しか残っていません。 ここ数年は持病が悪化し、コロナ禍ということもあり、楽しみにしていた大勢で食事を楽しむ機会を設けれなかったことだけは心残りです。 入院先の配慮で、最後にお話をする機会があり、駆けつけた祖母・母と叔父・叔母、孫全員と話をすることができたのが幸いです。 「遅くまでいると迷惑がかかる」と祖父に促され、亡くなる前日の別れの際にかけられた言葉が印象的でした。 「じーちゃんが死んだ後、コロナが収まったらな、ばーちゃんに会いに行ってやってくれ」 最後まで祖母を思う優しさ、そして。 「ありがとう……また、会おう」 この言葉は、もしかすると生きて会えるのは最後とわかっていて、「来世」でまた会おうという意味だと私は受け取りました。 葬儀をお願いした元々ご縁のあるお寺のご住職も、「今の別れは、ゆくゆくは浄土で再会するまでの一時的なもの」とお説法をされていたので、受け取り方は違ってなかったのかなと思うのですが、いかがでしょうか?
不動明王様への祈願はご真言を頂き、ご縁を頂くまではお力添えを自ら祈願しては いけないとある本で読んだ事があります。 不動明王様のご真言を頂くにはどのようにすれば良いのでしょうか? またお参りはどのようにすれば良いのでしょうか?
浄土宗を信仰していますが、先日ショックな文献に出会ってしまいました。 二祖・聖光房弁長上人の念仏名義集に 「臨終行儀と申すは一期の大事是に過たる無きたり。世の中の人の往生したるぞ、悪道に堕たるぞと申す事は、此の臨終にて知るなり。臨終の吉き人は往生したると知る、臨終の悪しきをば悪道に落ちたりと知るなり。」 とあります。 これはどうしても納得できません。日頃念仏をしているのにろくでもない死に方をした人が一人でもいたら、「念仏すれば阿弥陀仏は救ってくださる」という教えが崩れてしまいますし、現実的にそういう人が今までに一人もいないとは思えません。 念仏していたって死ぬ時に正念を保てるとは限らないし、保てていたとしてもこの目に来迎を見ることができるかはさらに自信がありません。来迎を見れなければ浄土に往けないと思うと、物凄い恐怖の中、死んでいかなければならないのではないでしょうか。 弁長さんなんでこんな暴言吐いちゃったの!?って気持ちです。 そんな疑問を抱えたまま時宗を勉強していたら、時宗では臨終とは死ぬ時だけを指すのではなく一瞬一瞬を臨終と心得、今この時に唱える平生の念仏がすなわち臨終の念仏である。 来迎が見えなくても三界虚妄のこと、惑障が邪魔をして見えないことだってあるが気にしなくていい。必ず往生できる。という教えに出会い、これだ!と思いました。 じゃあ時宗に改宗したらいいじゃんと言われそうですが、この弁長さんの発言以外は浄土宗が好きで、敬愛する徳川家康公と同じ宗派ということに魅力を感じています。時宗総本山清浄光寺より知恩院の方がずっと近くて行きやすいですし、何より近くに時宗の寺院がありません。 そこで、浄土宗檀信徒のまま、都合のいい所だけ弁長上人の言うことを無視して一遍上人の思想を取り入れるということをしてもいいでしょうか? それでも浄土宗檀信徒を名乗る資格があるでしょうか?
5月2日に兄が自死しました。 真言宗の自死について調べると、自死は地獄いき決定とでてきました。 これは本当なんでしょうか? 生前、苦しくて辛くて今回に至ったのに、まだ苦しまなくてはいけないということですか? また、供養によって救われる場合との意見もありましたが、実際の供養とはどういったことを言うのでしょうか? 私は妹の立場で、結婚しており遠方に住んでいるのですが、それですと位牌に直接、お経を唱えることができないので無意味なのでしょうか 家庭環境が複雑で兄が苦しんでいるのを知っていたはずの私が助けてあげれなかったのを今でも悔やんでいます。 なので、兄の自死が悪いことだとも思わないですし、なんなら兄は自死じゃない、病死だとも思っています。 何個か質問があります。 真言宗ですど ・自死は理由関係なく地獄いきなのか ・49日までどういった行動を兄は取るのか ・供養は離れた場所からは無意味なのか お聞きしたいです。 よろしくお願い致します。
私は、去年くらいから、悪口が聞こえてきて、その聞こえてくる言葉が死ねだったり死んでしまえだったり、鬱みたいだったり鬱みたいな顔しているって聞こえてきて気持ち悪いだったり障害や病気の名前も聞こえてきたり、みんなに嫌われてるって聞こえてきて、名前もよんでいて、何か聴こうとすると聞こえてきます。これって精神的な病気なんでしょうか?人と話す時にも聞こえて集中できないし、幻聴なのか分からないんですけど去年1人暮らしをした時にも、寝ていて自分が寝ているちょっと離れた場所にいたりご飯を食べていたら上から見られているって感じたり、お風呂やトイレに入っていたら、声が聞こえてきたり見られているとかもあって、実家でご飯を食べていたら見られている感じは、ないんですけど、1人暮らししていた時は、寝不足でノイローゼみたいな感じになって引っ越しをしたんですけど、1人暮らしをしていて、友達が家に来た時にも、友達には、聞こえていなくて、自分には、聞こえてきて気持ち悪くて、携帯で聞こえてくる声を録音して確認をしてもらっても、その声は聞こえてなかったんですけど、自分でも相談をしたり聞いてみら、幻聴や精神的な病気って言われました。どうしたらいいんでしょうか?
YouTubeなどの動画ライブ配信が最近、増えましたが、不特定多数の視聴者を受け入れず、セクト的なつまり、自らの我見に基づく運営しかできない方は、メンバー制にすべきだと思います。 特に、動画配信されている方は、これについてどうお考えになりますか? 時代はもうすぐ22世紀です。井の中の蛙から脱却すべき時です🤞
昔、私が学生だった頃、大学でインド哲学を学んだ人から、こう教えられました。「初期仏教では人に属する欲は全て良くないものと全否定されるが、時代が経てだんだんと欲は肯定されていって、仏教の最終段階である密教では「セックスは菩薩の境地だ!」と教えられるのですよ。そうやって密教では性も含めあらゆる欲が全肯定されるに至るのです!」と。 また同時に、弘法大師を信奉するある僧侶の方が「日本人は怒れないないからダメなんだ!」と仰り、その言葉を持って、先の人からは「(人に対して社会に対して)もっと怒れ!怒れ!」と、私は言われ続けました。 私は{密教では怒りの感情も人間に属する<聖なる属性>として肯定されるのか。。}と思い、それからというもの、私は何かと「怒り」を持って親や世間の人たちに接し、それが故に大きな軋轢を家族や人々との間に作ってきました。 今はそのようなことすべてを後悔しています。 私も老齢を迎えつつある今、お釈迦様の言葉や弘法大師の「四恩十善の教え」を知るなかで、実際のところ、密教では「欲」や「怒り」はどのように扱われるのだろうという疑問が頭から離れません。 彼らが言ったように、欲や怒りは密教では「善きもの」なのでしょうか? そのように肯定されるものなのでしょうか。 お釈迦様の教と密教はそれほど違うものなのでしょうか。 どうぞお教下さい。
お坊さんを怒らせてしまいました。 とある悩みについてお坊さんにメールしました。 悩みやすい性格であるため、何度もメールをしては、アドバイスをしてくれていた方でした。 その方から先日、アドバイスとともに、「1円でもよいから納めてください」「それかこれからも友だちでいてください」とメールがあったので、 私は「こちらこそ、これからも友達でお願いします」「いつもありがとうございます」と打ちました。 そしてしばらくして、新たな悩みについて相談したところ、 「なぜ1円も納めようとしないのか」というメールの返信が来ました。 「1円でもよいから納めてください」「それかこれからも友だちでいてください」の後者を選んだ理由は、 納め方がよくわからなかったからなのですが、これについてかなり怒っており、見た瞬間震えてきてしまい、メールを削除し、 今現在学業で忙しいから今度でよろしいでしょうか、と返信しました。 すると、この期に及んで言い訳するのか、とメールが来ました。 その前は、あなたの悩みやすいその性格が全ての原因だ、的なことも書いてありました。 それから返信はしていません。 ただ、信頼していた方だけにショックですし、納めることが義務だとは思いませんでした。 若干トラウマになりそうです。 この体験とどのように向き合えばよいでしょうか。
初めて質問をします。よろしくお願い致します。 先日、祖母が亡くなりました。それをきっかけに浄土真宗の教えを(ネットの情報からではありますが)学び始めました。 妙好人について書かれていることを読んで思ったことがあります。 他力信心を得ると言うことは、仏の悟りには至らなくても高いところの悟りに達しているように思い、阿弥陀様のお力を気づかせて頂くのは、簡単なことの様に説かれているものの難しいなと思っています。 他力信心によって死への恐怖や不安がなくなるのは、頭では理解できたかなとは思っています。しかし日常生活生活における死に直結しない様々な不安があります。なぜそれらも気にならないようになれるのでしょうか? ご助言をよろしくお願い致します。
へタな日本語はすみません。日本住んでいるアメリカ人です。 アブラハム系の信仰は「排他主義」だとよく言われます。例えば、多くのクリスチャンやイスラム教徒は、"自分たちだけが正しい。他の宗教の信者は永遠に地獄に落ちる" と考えています。これは公式の教義です。 中世キリスト教の十字軍、イスラム教のジハード、「異端者」の殺害、「魔女」の焼却、「異教徒」の強制改宗など : 西洋の歴史では宗教的暴力はよく見られます。このような暴力は、アジアの歴史に、欧米に比べてめずらしいだと思います。 アブラハムの「排他主義」のせいで、私は家族が信仰するキリスト教に嫌悪感を抱くようになりました。"道徳的な神は、不信者を永遠に地獄で焼かせるようなことはしない"と思った, 子供ときから。 仏教に興味を持ち始めたのは、仏教の方が洗練されていると感じたからです。仏教の方が洗練されていて、心が広く感じられたからです。慈悲深い感じがしたからです。仏教の「方便」という考え方は、真理への道がいくつもあるということですよね。 しかし、日本の仏教にも若干の「排他主義」があるのではないでしょうか?例えば、親鸞上人は「このひどい時代には念仏だけは適切です」と考えていたそうですね。 日蓮上人の「四箇格言」は、他の宗派に対して特に批判的なようです: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E7%AE%87%E6%A0%BC%E8%A8%80 私は親鸞聖人も日蓮上人も深く尊敬していますが、彼らの信者はお互いに尊敬し合えるのでしょうか? では、21世紀はどうだろう。日本の宗派は調和しているのか、それとも「排他主義」による緊張感があるのか。 親鸞聖人と日蓮上人の両方の書物を愛読することは許されるのでしょうか?どちらの説も、透き通った真実を見ているような気がします。私は、真言宗と天台宗の思想も大好。一方だけを選ぶことは必要でしょうか? 心がズタズタに引き裂かれるような感覚です。
『末法灯明記』と言うの本読みました。末法の予言が現実の社会情勢と一致したため、私の現実社会への不安は一層深まり、この不安から逃れるため厭世的な思想に傾倒していった。 もちろん、とてもいい僧侶はいっぱいいます。でも、仏教の問題より社会の問題です。社会は退廃的だと思います。日本だけではない、お金持ちのG7欧米国もおちめになります。昔いの道徳はどこですか?末法思想は多分本当に今日の世界ピッタリフィット、だんだん。。。 南無阿弥陀仏。
こんにちは。いつもハスノハを拝見させて頂いております。自分には無い視点や考えに触れることができ、様々なことに気づされます。 先週、とあるお寺を訪れました。 目的は自身の未来について九識霊断法で未来を占ってもらうためです。 お坊さんからは、親切に相談に乗って頂き占いも終わりにさしかかった時に、お守りを買わないかとの提案を受けました。そのお守りがあればより物事は上手くいくとおっしゃっていたのですが、信用できないと思いました。パワーストーンやお守りを持つだけで幸せならみんな持つのでは無いでしょうか?また、頼んでも無い品を勧めるなんてお寺もやはりビジネスなのですか? その他にもなぜ、強く願っても叶わない事があるのですかと聞いた際に祈りが足りなかったと言われた時はどこかの新興宗教かと思いました。 物事に対して純粋な視点で見ることのできない私にぜひ、お守りを買えば幸せになれるかどうか教えて頂きたいです。 お忙しい所、ぜひよろしくお願い致します。
私の質問はお坊さんアンチのように思われるかもしれませんが、これからもお坊さんにはお世話になっていきたいと思っておりますので、不安を解消したく質問をさせていただきます お坊さんはお施主様の法事で何を思って、お経を読んでいるのですか? ただお経を読んで、法話をする作業になっているだけのような気がしてしまっています。 さらには「供養します」「供養してください」供養供養言いますけど、結局の所「供養」ってなんなのですか? 宗派問いません、この質問を見て逃げるような和尚様の言葉はいりません なんなら丁寧なお言葉で書かなくても大丈夫です!! お坊さんであっても一人の人間です、私も過度な期待はしておりません、実際に思っているお言葉をください!! ハスノハにいる和尚様方を信じております 誠に我儘で勝手ですがよろしくお願いいたします。