ログインしてください。
徳についてお聞きしたいです。 徳という言葉を目にしたり、聞いたりします。辞書で調べると身についた品性や社会的に価値のあるもの等と出てきます。また西洋でも徳というものについて色々と議論されていたようでした。仏教では徳とはどのような教えでどのように議論されているのですか? 勇気や自信、名誉、温情などは徳に入ると目にしました。勇気や名誉など度を超えると人に害を与えるように感じるのですが、度を超えないように徳を積むにはどのような姿勢でいれば良いのでしょうか?
宗教戦争、宗派闘争はもはや、時代遅れだと思います。 特に日蓮宗と浄土真宗の僧侶方、これについての打開策を述べてみてください。
お疲れ様です。またご相談があり相談させていただきます。 正直今回は、確かめようがないですし、本当なのかも分かりません。 とあるサイトのコラムにこのような記事がありました。 女性のほうが死後、地獄に行くことが決まっているという話です。 本当なのか、嘘なのかは分かりません。 その文章には、女性特有の月経や出産などは穢れとしてみられるそうで。 じゃあ、子供なんて生まなくていいんじゃないかと思えばそれもダメだそうで・・。 親よりも先に死んでもそれもダメで・・・。 そのあとも色々と、仏教を信じてない人も罪らしく。 不安になりました。 本当なのかは分かりません。実際問題本当にあるのかどうかも 分からないので・・何とも言えません・・。 本当なのかそれも本当じゃないのか教えていただけると嬉しいです。
hasunohaとは全く関係がないお坊様の事で困っています。 ご縁があり毎年お仲間とあるお寺さんに伺っていたのですがお坊様がある時からお金の話をご法話の時にするようになりました。(ご法話になっていないと思うのですが) 私も言いにくいのですがお坊様はご家族がご病気になり金銭的に大変なのでなんとかならないか?という事を皆さんの前で遠回しにされました。 私は伺う時には必ず心ばかりではありますがお土産を持って伺っていました。 お坊様は別のお寺でもお仕事をされています。お給料アップを願い出た所断られてしまったそうです。 皆さんその事には触れずにいつもと変わらずにいますがこのまま黙ってお寺さんに通ってもよいのかな?と私は疑問に思っています。 私は一般庶民でお金持ちではないのでお坊様に差し上げるお金などありません。 (お坊様は昔、お檀家さんから100万円渡されて返さなくても良いと言われた経験があるそうです。) 私を含めお仲間は檀家さんではありません。 もうお寺さんに行かない方が良いのか悩んでいます。 どのように思われますか?hasunohaのお坊様のお考えをお聞きしたいです。 物凄く曖昧な文章ですみません。
「慢」と「貪瞋痴」が発生した時の鎮め方を教えて下さい。
私は、お寺巡りをして色々なすごい人たちが作った仏様のみまえで手を合わせるのが趣味というか、日常になっています。 今、私自身とてもしんどい状況下にあり、最近はそのことを思いながら「助けてください」と心の中で呟きながら手を合わせています。 しかし、しんどいことに変わりはなく、仏様がずっと見守っていてくださるという安心感すら得られずにいます。 それどころか、お祈りを捧げることによって、しんどいことを思い出してしまって逆にしんどさが悪化するパターンすらありました。 私の祈り方が間違っているのでしょうか? 正しいお祈りの仕方、作法や、お祈りする時の心の在り方についてアドバイス願いたいです。
質問1 思考を挟まず「ただ感じるまま」でいる状態、つまり「その様であるものはその様である」という絶対安心の境地において、六根の「意」に対応する、リアルタイムで湧き流れるこの「法(思考・想像)」すらも「ただその様であるだけ」という認識なのですか? 質問2 禅宗では「自他の区別分別が無くなる」系の悟りエピソードをよく聞きますが、これはあくまで禅定が深まった状態なのではなく、悟りが完成した際に起こる心理的または精神的体験であり、まさにそのような体験・感覚こそが「悟りの本質」であり「悟りそのもの」であり「悟りの境地の証左」でもあるという認識でよろしいでしょうか? 御回答よろしくお願いします。
私の知人が今月、車で煉炭自殺をしました。 その車は私たち夫婦が売ったもので まだ名義変更も済んでない車でした。 その現場に行き行った行為、現状です。 1. 後輩、同級、主人、私で 自殺車両を自走した (車両を動かす前に供養など何もせず動かしました) 2.車両外に酒と塩を撒き線香を 1人2本ずつ焚き盛り塩も添えた (ジュースや酒は帰り際にその場に流し お菓子などは車内に置いたまま車屋に受け渡した) (車内に私物や酒や塩、供えたお菓子が残っていたがそのまま受け渡した為、解体屋が処分した) (車内に釣竿なども置いてあり、こざこざの物を後輩の方が供養はせず持ち帰った) 3.代表者2人のみ自走後に神社にて供養済み (残り2人は、何もせず過ごしてます) 4.知人の私物は大事にしてた物を 親族の方に相談をして譲り受けた 5.ある日を境に、主人、同級、後輩の身に 怪奇現象らしき事が起きはじめた。 (夜中に目が覚める、数珠がちぎれる、真っ黒な夢を見る、金縛り、足音など) 投稿者は気配っぽいのは感じるのだが 気になるほどではありません。 (自殺された知人が夢に出てきて笑っていた) 6.知人の親族は葬儀はせず、火葬だけされました。知人はお経も読まれず火葬だけされ 本当に成仏できるのでしょうか。 以上です。 近いうち寺院の住職の元に行きます。 行くまでの間、間があるので ダメだった点や、住職の元に行くまでの間 気をつけるべき点などがあったら 教えて頂けないでしょうか? 気持ちの問題とはみんな思っていますが 色んな情報に今、右往左往しており 恐怖心が勝っている為、私以外の方々が 毎日不安になりながら生活しています。 怒らせてしまった霊魂を鎮める為には まず、謝るべきでしょうか。 どなたか寺院に行くまでの間お力添え 頂けないでしょうか。
仏教における転生のシステムについて質問です 死後、魂は一度クラウド上にアップロードされ、統合された魂から一部が来世へダウンロードされる クラウド上の魂は、泥水の入ったバケツのような状態で、そこからコップ一杯分の泥水をすくったのが今世 今世で良い行いをして泥水を浄化していって、死後、浄化できるだけ浄化した魂をバケツに戻す 悪行は、水をより汚くして戻してしまう(徳と業システム) バケツの泥水を綺麗にして次のステップに行くのが目的(次の階級に上がる? 解脱するための準備?) という認識を持ってるのですが、これは正しいのでしょうか? 宗派によって異なるかとは思いますが、よろしくお願いいたします
ご真言には、大呪、中呪、小呪があります。私は、不動明王様のそれしか存じないのですが、この使い分けはどうしたらいいでしょうか?
過去に仏教徒である事を誇りにしている男性と友人で、男性の仏教の勧めを断ったら非常に激怒され、以来DV?をされた過去を忘れられません。 彼とは趣味が合う事で友達になり、相手はSNSで趣味関係を語る際仏教の教えに絡めたりしていました。 当初私は仏教を勧める彼を無視していましたが、次第に仏教を信じないとあなたの大切な俺に不幸が起こるという言葉や、仏教の縁を解説しながらクソ野郎と言われる等して精神を病み、 まさに坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、という状態にまでなってしまいました。 持病で食事を多く取らないといけない私にしつこく断食を勧めたり、こちらが肉を食べるだけで「僕は禁欲してるから賢いんだけどね」と言われたりやらしました。 現在は別れて?います。相手いわく仏教を恐れるあまり人間不信になっていた私は暴力されても仕方なかった哀れな人ようです。 むしろ相手からしたら私は「怨憎会苦」らしいですが… そこで、お坊さん達から、仏教徒の人から酷い仕打ちを受けた際のケア?を聞きたいです。 何かの縁なのか、仏教的にこう考えればよいのか、トラウマを負うほど酷い仕打ちを受けても仏教なら許したり感謝したりするのか…等。 すみません、仏教徒の相手の仕打ちを思い出して書いているので、少し読みづらかったり、仏教に対して攻撃的すぎる文かもしれません。 仏教的に、仏教徒から酷い仕打ちを受けたらどうしたら良いのか教えていただきたいです。 実際にはこの字数には書けないほど、仏教を盾にされて色々な束縛を受けていました。
こんにちは。こちらは私の知的好奇心からの質問になります。少しSFチックになってしまうのですが、このような疑問を他にどこでぶつけていいかわからず、ここに投稿させて頂きました。 近代、人類は科学技術を大幅に発展させています。近未来の人類には、「不老不死」の可能性があると考えられます。 ある研究では、若いマウスの細胞を老いたマウスのものと接続したところ、老マウスの体に一定の若返りが見られたとの結果が出たそうです。 また、AI技術の発達により、故人の人格を「再出現」させる実験も一定の成功を収めたように思います。例えば、AI手塚治虫が描く新作漫画や、AIレンブラントが描く新作油画が発表されました。 私はその道に明るくないので確かなことは言えないのですが、今後の人類の未来に「不老不死」の選択肢が出現することは大いに考えられるものだと思います。細胞技術で、老いない体を手に入れるかも知れませんし、AIに自分の人格を託して、機械の体で生き延びるかも知れません。 そこで疑問に思うのが、「お釈迦様の説かれた老苦・死苦は未来人にも通用するのか」ということです。四苦八苦というと、お釈迦様が定義された、人間誰しも被る苦しみのように思います。 しかし、「老」と「死」に大変革がもたらされつつある今、老苦・死苦の未来についてhasunohaのお坊様方は思うところはお有りでしょうか? 未来人に老苦・死苦を免れる可能性はあるのでしょうか。それとも、お釈迦様の説かれた普遍の真理の通り、いつの時代でも人間は老苦・死苦からは逃れられないのでしょうか。 (誤解などありましたら未熟な私をお許し下さい。)
浄土真宗を学ばせてもらって、信心を頂きました。 とても幸せな身なのですが、とあるSNSで仏教とは洗脳なんじゃないのかと言われて色々と言い合いになってしまいました。 それでモヤモヤしています。 「南無阿弥陀仏と言って救われるという洗脳を受けてるだけだと疑わないのか?」と何度も言われ、 私は「疑うのは阿弥陀仏の本願を知らないからだ、阿弥陀仏の本願は疑いようもない真実のものだから、それを疑ってしまうのは知らないだけだ」と言いましたが 「それは釈迦の言ったことを全部本当だと“仮定して”の話でしょ?」 と言い返されて返す言葉もありません。 (所々端折ってます) 質問になってないかもしれないですが、仏教は洗脳だと言われたときどうすればいいのでしょうか? 多くの人は言わないだけでこういう事を仏教に対して思っているのかもしれないと思うと悲しいです。 お坊さん方の考えをお聞かせ頂けると幸いです。
先日、祖父が亡くなりました。 その際にお世話になったお寺のお坊さんは 祖父が亡くなった日に枕お経を頼んだところ17時頃なのに、営業時間外と断られてしまいました。 その他にも葬儀中でお経を唱えてくれている時に数珠の紐が切れて、床に玉が転がりました。 縁起が悪いと思ってしまいました。 葬儀が終わった後、なにか数珠の紐が切れたことに対して言ってくるかなと思いきやそのままスルーでした。 調べた所によると縁起が悪いのではなく悪縁が切れた、数珠に守ってもらったなど良い意味もあるそうですね。 普通、誰もが不振に思うことならお坊さんがフォローの言葉など言うべきだと思います。 あと、腕時計を外しながらお経を唱えていました。 他にも葬儀が終わった後、喪主である私の父に「お礼を言ってください。」と言い、 父が「ありがとうございました」と言うと 「立って言ってください」と言われました。 葬儀にきてくれた親戚や祖父の知り合いなどがいる前で…… 恥をかかせたいのかな?と思ってしまいました。 確かにお礼を言わない父も父ですが、 違う言い方があったのではないかと思ってしまいます。 今回お世話になったお坊さんに対して とても不快な思いになってしまいました。 いくらお坊さんでも失礼ではないでしょうか? どこのお坊さんもそんな感じなんでしょうか? 今後関わりたくないのですが、どうすればいいですか?
いつもこちらではお世話になっております。 沢山の教えの中に日々気づきを頂いております。 ありがとうございます。 今日相談させていただきたいのは、檀家というお寺との関わりに関してです。 以前にも相談したことがあるのですが、私には歳の近い親戚が突然死したこともあり、不安症なところがあり、発作的に「家族の死」を考えて落ち込みます。 ですが、従姉妹の死が「その時が来たら、自分が見送られる側じゃなくて、見送る側だったことを見つめるんだよ」「あなたがこっちにきたら私も、祖父母も、みんないるから、会えるから寂しくないからね」と、教えてくれているようで、時間を要しながらも、今目の前にいる家族を大事にしよう。と、顔を上げることが出来ています。 そして、いつも思うのが、 わたしには今恋人も、自分の家族もいないので、いつか一人になった時に、誰にもこの悲しみを言えずに悲しみから抜け出せずに潰れていくのではないかということにも不安の要素があるのだと気付きました。 そこで思ったのが、 自分が日頃から関わっているお寺があれば、日頃からもっと仏教に触れることはもちろんですし、葬儀でお経をあげていただくことになっても、知っているお寺の方でしたら気持ちが落ち着きますし、法名の相談もできるかもしれません。 何より一人で辛い時には説法を聞きに行けたりして、孤独ではない、自分が生きているのは今であるということを感じる時間を持つことができるのではないかと思いました。 ですが、我が家は既に地域の納骨堂を用意しており、お墓のことを含めて檀家にというのは難しく思います。 更にお寺によるかと思いますが、お金もだいぶ掛かると聞きます(収入はそんなに高くないので) この場合、檀家になったり、馴染みのお寺を見つけることは難しいことなのでしょうか。 もちろん一番大事なのは場所ではなく、気持ちだというのはわかっているのですが、未熟者ゆえ、このように考えてしまいます。
子供の頃から、仏教の教えにおいて人は死んだら極楽浄土に行けたなら、先になくなった懐かしい人と会って楽しくえる。だとか仏さまにお仕えするために修行をつんでいる。とか輪廻転生だとか、いろいろなことを噂には聞いてきました。 先日主人の一周忌の法要の折、菩提寺(禅宗)の方に主人は今ごろあちらの世界でどうしているのでしょう?こちらの宗派の死後の世界の教えはどんなでしょうか? と伺ったところ 『わかりません。』とひとこと。 いまだ主人を亡くした悲しみから抜け出せず、少しでも仏教の教えの上での主人の今が知りたかったのですが…そのお返事になんとも言われぬ悲しみでそれ以上の質問は出来ないと同時に菩提寺に対する不信感を感じました。 宗派により死後の世界の教えの違いはあるとは思いますが、仏教においての死後の世界の教えがあるのであればどうか教えて下さい。 教えの上で今ごろ主人が何をしているのか、もし知ることができたなら…。 せめてそれだけでも心の支えになるような気がしています 宜しくお願い致します
拙い日本語をお許しください。私は外国人です。私は30年ほど前から仏教に興味を持っています。しばらく前に、正式に真言宗の在家信者になりました。私は高度な密教の儀式を実践する資格を持っていませんし、僧侶でもありません。しかし、平信徒には毎日の勤行の儀式があります。私は様々な真言や祈り、般若心経などを唱えることを求められています。 私は、善良で勤勉な在家仏教徒になりたいと思っています。近年、私は法然上人、親鸞聖人、浄土についてよく読んでいます。これは私を強く感動させました。私は心の中で、ただ弥陀仏に身を委ね、念仏に頼るべきだと思うようになりました。在家信者として仏教に貢献していますが、自分は弱くて罪深いと感じています。私のような者には、シンプルな修行や念仏の方が適しているようです。 真言宗の方のご機嫌を損ねないようにしたいと思います。真言宗在家信者として修行する機会を与えられたことには深く感謝しています。 しかし、毎日の勤行の儀式については疑問と倦怠感を感じています。この修行をやめて、ただ念仏を唱えることはできないのでしょうか?それとも、一生、毎日、真言宗の勤行の儀式を続けなければならないのでしょうか?最終的には、個人的な感情に関わらず、必要なことは何でもしたいと思っています。しかし、私の気持ちは強力です。不安と恐怖を感じているので助けてください。
私は現在 16歳 ( 高校2年生 )です 。 学校には通わずに 中学卒業後すぐに働き始めました 。 最近になって 日本史や古事記の勉強にハマり、毎日勉強しています。 そこで、よく出てくる仏教が気になり、主な宗派全てを調べ まとめあげました。 様々な宗派がある中で、私は日蓮宗の教えにとても共感を得ました。 そこで、僧侶になりたいと思いました。 誰かの役に立ちたいんです。自分は中学一年生の頃に精神を病み苦しみました。しかし手を差し伸べてくれる方は誰も居ませんでした。 もし仮にそんな状況に居る人が居るのなら、少しでも力になりたいんです。 私が精神を病んだのは中学一年生ですが、卒業後も不安定になることはありました。その時に お寺に参拝することで少しでも楽になれたんです 。 自分と同じような方がいるならば、力になりたいのです。 このような理由だけで出家をしようと思うのは 安易な考えなんでしょうか 。
15歳の頃から 親の信仰をみて 神様仏様の信仰の大切さ をなんとなくわかっていましたが 若気のいたりで 散々なことをしていたにも かかわらず 今まで無事に生きています。 年齢を重ねたら 神様仏様のおかげだと 思えるように日々感じで過ごす事ができ 小さな幸せを、沢山感じ 辛い事は自分の為になるんだ と解釈しながら 自問自答して過ごしています。 最近になり浅はかな質問だと 感じますが 自分のなかで答えがほしい 疑問がでてまいりました。 是非教えてほしいです 神様、仏様は人間のために 願い事をきいてくださいます 一生懸命お導きして下さいます 人間のために 尊い事をしてくださりますが 何故なのでしょうか まだまだ浅はかな人間の たわごとですが どうぞお導きください ませ。
短期間に多くの質問をして申し訳ありません。 hasunohaに出会って、自分の心と 向き合うための知恵や方法を少しずつですが知ることができました。 特に死生観や生きる意味については お経にしめされている教えや、hasunohaでの問答で 少しずつ道が見えてきたような気がして、 仏教の教えや考え方を取り入れて生活したいと 考えるようになりました。 そこで自分は、書籍などで仏教の作法やお経を調べて 実践しやすいものを生活に取り入れてみたのですが 家が檀家ではないし、近所にお寺が少ないので 自分がしていることが仏教的によいのかがわからなくて、 自分が読んだ本についても、今までの学の範囲内で 意味を考えているかもしれないので もしかしたら解釈が違ってしまっているかも、と不安です。 生兵法は大怪我のもと、のように 檀家でない人、制式に入信していない中途半端な人 が仏教の教えや作法などを生活の中に取り入れても 効果はないのでしょうか? 信仰はどこから有効なものなのでしょうか? また、今後自分がどうしていくべきか (どのように仏教と付き合い 生活の中に生かしていくべきか) を教えてください。 この質問が、今の仏教に対する冒涜のようになってしまっていたら 申し訳ありません。 乱文失礼しました。 追伸 今自分がしていること 寝る前に念仏を唱えて、阿弥陀さまにその日のことや 次の日のことについてご報告させていただくこと。 同じように空いた時間に念仏を唱えること。 お経や教えを心に留めて日常生活をすること。