私は今年2019年に54歳になる中年男性です。技術系会社にシステムエンジニアとして就職して早30年以上になります。その間に30代後半から40代にかけての約15年間ほど精神的な重度の病いに罹り、仏法に教えを乞うたことも多々あります。その苦しい経験が今は人間関係に生かされ人様のために役立つようになりました。このような私ですが、ご会員様の質問に直接お答えすることなどもちろんできませんが、多忙なお坊様の手助けになることが何かしらないかと思ってこの文面を投稿しました。何卒よろしくお願いいたします。
いつもお世話になっております。 苦行は推奨しません!だけど、忍耐も忘れずにね!! という教理に疑問を抱きました。 仏様なら神通力や体の構造云々で、何をされても言われても 平気の平左かもしれませんが、私たちは生身の生き物です。 撃たれたり刺されたり、毒ガスを吸い込んだりしたら死にます。 妊娠もするし、性病にもかかります。 怪我の程度では、後遺障害も残ります。 脳と体は一対ですので、悪意の人の行動で二進も三進も 行かなくなることもあります。 忍辱って何…?ずっと疑問です。逸話などを聞くと、 殴られても耐えるとか、甚だ物騒なエピソードばかり… 自分の弱さを受け入れて、修正する努力をするのが忍辱? 風邪気味で耳鼻科行ったら、鼻に管やら長い綿棒やら 突っ込まれるじゃないですか。痛いじゃないですか。 でも、治療や感染拡大防止のため… 余裕ぶっこいて、わざわざ危ない所に突っ込んでくのが苦行? 私自身の体験談で、とある所のデーケアで、 「ロータスの信条が気に入らん」ってんで、必要な教育を 受けさせて貰えなかった。それどころか通所日減らされたり。 ちなみに他の利用者も嫌がらせを受けてました。 結局私は、本庁に通報し、今は別の施設で修行しています。 この後、この施設は本庁の偉い人からキッツイ指導を受けた、 と本庁の人から聞きました。 この、推奨される忍辱と避けるべき苦行の違い、 5年以上考えても疑問です。 「ピーマンと青酸カリ」みたいな感じなんでしょうか?
私にしてはお久しぶりです 最近ニュージーランドでテロ事件があり沢山の人々が亡くなりました 宗教を越えて祈りが捧げられているというニュースが流れています 私がhasunohaをお休みしていたのは これまで何度も挑戦してきたのですが様々な宗教を勉強する為に仏教からいったん離れていたからです 正当な宗教(?)から怪しげな宗教(?)まで其々の教えに耳を傾けてきました 旧オウム真理教のテロ事件の被害者やご遺族の方々の意見や現在の心境なども極力汲み取るよう察せられるだけ察してきました 学べば学ぶ程いろんな宗教に寄り添っていきたいなぁと思うようになり そして信仰の自由のない家庭で勝手に信仰心を持ちつつ改めて思ったことは… 今の私は仏様の教えが一番好きだということです とってもとっても大好きだということです なのでまたhasunohaに戻ってきました 巡り巡って元に戻る それだけ今の私は仏教に魅力を感じているようです 質問になりますが 仏教三昧のお坊さまにとって も~ここがたまらん!と強く強く想う仏教の素晴らしさとは何ですか? 一言では言い表せないとは思いますが お坊さまの皆様にとって ついつい熱く語りたくなる ラブラブ「これぞ私の仏教愛」をお聞かせ下さい
何かのテレビ番組で、お寺さんを粗末にあつかうと、孫の代に悪いことがおきると。 私の姑は、とにかくお寺の住職が嫌いで、口癖がお金泥棒です。月命日にお経をあげに来られるのも断り、お寺さんに納めるお金も、払わないと直談判に行く。もし、自分がなくなったら、そこら辺の坊さんにお葬式をしてもらえばいい。との考え方。その為、私達もお寺さんとは疎遠になっている状態です。しかしながら、テレビ番組の話が本当なら、私達に起こっている災難、悲しみとの関係性を疑わずにはいられません。 実際のところ、どうなんでしょうか?
日光の神橋の話で、蛇王権現が出てたので、気になります。どんなご利益があるんですか?あと、妖怪の説も、ありますが、どう思いますか?
最近思うのは、 「仏教は科学を補完するのではなく、包合するものだ」ということ。 科学は森羅万象を解き明かしますが、森羅万象は既にそこに存在し、極めて柔軟かつ精緻に動き続けています。 例えば、未踏峰に初登頂しても、既にそこには太古より山はあり、命名する前から、山なるものは山であり続けたはずです。 人間は、人間が生命として「生き延びる」為に、「生命に必ず備わる生の渇愛」という衝動を原動力に科学を発展させ、生命力の強い種に進化しました。 ただ、進化と言えるか怪しいのは、科学は「外部的要因(環境、自然)」に手を加えて、人間に利するように、供する為の手段と言うこと。 人を支配するのは心ですが、その心を軽視したが故に、あるいは物質科学と心の科学のバランスを軽視した故に、様々な問題が起きているのではないかと思います。 本題ですが、では心の科学の仏教ですが、お釈迦様や南方仏教、明治以前の多数の僧侶は結婚していませんでした。 非常な覚悟、決意のもと、正師の導きで修行しても、「お釈迦様でも七回生まれ変わって漸く…」と言われるように、医王釈尊の入滅後、人は悟りが難しくなりました。 そうした中、結婚せず、子孫も残さずというのは、「虚無」に陥り易いのではないでしょうか。 生命として、子孫を残したいという衝動は根元的なもの。 インドにあるような、人生を何期かに分けて、「林遊期」に仏教を真剣に学ぶのが、生物としての人間に無理が無い気がします。 突き詰めれば、人類という種が滅する、結婚しない生き方が良いのか、囚われずに生きた方が良いのか、どうなのでしょうか?
人柄が、大好きなお坊さんがいます。 優しくて、気を使う人です。 大切な恩人です。 いつもその人の言葉に励まされてます。 励ましてくれてありがとうって伝えたら、喜んでくれて、嬉しくてたまりません。 1つ1つは、些細な事ですが、大好きな人が 嬉しくさせてくれるから、出逢えて良かったと心から思います。 辛い事や、嫌な事があっても頑張れる力をくれるから、感謝しきれません。
ここでは様々な悩みや苦しみの相談が満ち溢れていますが、最大の苦しみは「生老病死」の四苦だろうと思います。 これは全人類に共通で、生きている限り解消不可能な宿命的な苦しみです。 般若心経の冒頭には「照見五蘊皆空 度一切苦厄」とありますが、一切苦厄には当然四苦も含まれているはずです。 そうすると度一切苦厄は、生きている間は実現不可能であるということになります。 従ってその機会は死後にあることになります。 もし死後が無ければ、「死」即「度一切苦厄」が成立します。 こんなたやすいことを釈尊が大発見のように語るでしょうか? 即ち死後が無ければ、仏教はその必要性がないことになります。 仏教成立の要件は、輪廻転生が真実であることが大前提であります。 従って自殺は、苦の清算ではなく、苦の上塗りで、死後にもっと悲惨な苦しみを受けなければなりません。 この論理を広めて、自殺を食い止めることが仏教の必要性の一つではないかと思います。
こんにちは。 いつもお応えいただき感謝です。 私は今、日蓮宗で先祖供養をしています。 しかし、出身が香川でもともと真言宗、というわけではありませんが、なんとなく真言宗が好きです。 最近ご縁があり日蓮宗のやり方で先祖供養を始めたのですが真言宗のように般若心経を読みたいなと思っています。 そこで質問です 【質問】 ・ふたつの宗派で先祖供養するのはいけないことですか? ・真言宗はどのような方法で先祖供養しますか? ・合わせる場合どのような方法で行えばいいでしょうか? 先祖供養は家で毎日できたらと思っています。 今度高野山に行く予定です。そこで先祖供養に必要なものを買えたらと思ってます。 よろしくお願いいたします。
おぼうさんにはなったものの https://hasunoha.jp/questions/28997 もご覧いただくと前の話が分かるかと思います。 昨日師僧であり、実家の寺の住職であり、本山の貫主でもある偉大な坊さんである父と腹を割って話をしました。 父は73歳になりますがもう白内障で他にも体にガタが来ていて、なんとか二つの大寺を兼務している状態です。他にも保護司の仕事も抱えていて本当にかわいそうなくらい忙しそうです。 本当は父が2003年に本山の貫主になった時に、私は実家の寺を継ぐべきだったのですが、そのころ心の病に倒れまして入院、以後現在まで17回の入院を繰り返してしまいました。 ここ最近は安定してきていて、入院には至っていませんが、薬で心の波を調整したとしても、それでも波はあって頓服が4種類あるのですがそれで操ったとしてもそれでも波があります。 私の病気は一つ一つは軽いのですが複合して重い障害になっている感じです。統合失調症・双極性障害・ADHD・ASD・不眠症・依存症など心の病気のデパートです。それを薬を飲んだり、仏教を学び実践したりして、直しています。 昔のお坊さん仲間もたくさんいますが、本当に信頼できる人とだけ連絡を取り合っています。それで、父が体力的な限界から寺を辞めると言っています。そうすると、いまだ休職扱いで寺からお給金と米他をもらっていますが、(他に障害年金も)その暮らしは維持できなくなります。 父との残された時間で何ができるのでしょうか?また今後私はどう生きていけばいいのでしょうか?所属寺院なしでお坊さんになることはできるのでしょうか?私は元時宗の寺に生まれましたので掛堂して時宗宗学林で学び直したい気持ちもあるのですがどうでしょうか?浄土宗ではかなり修行して更にお坊さんになってからも研鑽を積んできましたが、それがこんなことになって残念です。 佛教大学の通信教育学部でまなぶとか、西山短期大学で学ぶとか、浄土真宗本願寺派の中央仏教学院で学ぶとか時宗宗学林で学ぶとか仏教の勉強は続けたいです。そのためには経済的に安定していなければ無理です。 もう自己破産して生活保護を受けるしかないのでしょうか?自己破産するような借金の額ではないのですが、まず月66000円では暮らしていけません。今後、食べていくためにはどうしたらいいでしょうか?
皆さんいつもありがとうございます。 ① 如来行とは 辛く苦しい時も、自分と周りを認めて許し、全ての人に徳を積んでもらうよう感謝し続けています。 この行動は何かお地蔵様に尋ねてみたら 「如来行」と答えをいただきました。 生きて仏に成ると 如来様同様に慈悲などを感謝の気持ちで永遠に伝える修行があります。 ② 如来行と神様仏様 すべての物事は神様仏様という成分でつくられてます。 自分自身も神様仏様でできていますし、がん細胞も、嫌がらせをするという行為も神様仏様でできてます。 全てはいただきものです。自分の身体、悔しい、死にたいという感情さえいただきものです。 何かもらった時は何と言いますか? 「ありがとうございます。」です。 自分とはこの世の時空間では点です。位置を示す座標です。あとは全ていただきものです。 如来行は一神教、多神教、あらゆる宗教宗派を超えて行うので、ご本尊も、教祖様も、経典も、総本山も関係ないです。 時間場所を選ばず自由気ままに修行ができます。 お金がかからないので助かります。 修行は簡単で、目に見える見えないに関係なく「おかげさまでありがとうございます。」と思うだけです。(陰徳) この世では声をかけた方が良いこともあるので「ありがとうございました。」と言っても良いです。(陽徳) 如来行をして感じたのは、神様業仏様業はとても辛いということでした。 敵も味方も善悪関係なく、分け隔てなく平等に愛情や慈悲を注ぐことは、この世(人間社会)では全てを敵に回す覚悟が必要です。 心から感謝されることはあまりなく、「なぜ私の願いは叶わないのか」「自分はどうして苦しく死にたいくらい人生なのか」というクレーム処理に追われます。 見事なまでの「ブラック業界」です。 でも、神様仏様は皆さんのすぐそばで、一喜一憂せず穏やかな心で労わりや慈しみ、愛情を注いでいます。 そばにいることに気づき、「ありがとう」と言えば、何とかしようとします。努力の仕方とかそっと教えてくれます。 神様仏様は森羅万象の一番下にいらっしゃいました。とても謙虚です。 万物を頭の上に持ち上げ、感謝とともに愛情や慈悲を注ぐ方が良いそうです。「頂戴する」の原点です。 これからはもっと謙虚に森羅万象の下を目指し「おかげさまでありがとうございます。」を気軽に言えるよう精進したいと思います。
これまで色々お答え頂きありがとうございました。 お医者さんもカウンセラーさんもお坊さんも、考えてベストだと思えてる方法を教えてくれますが、でも届きませんでした。 自分はただ一緒に遊んでくれるだけで十分だったのだと気が付きました。でも自分には友達が元から少なく、40歳(プロフィール欄はなぜか30代で表示されてしまいますが)になってしまいましたので今から増やしていくのも簡単では無いと感じています。 後白河院の編纂した梁塵秘抄に有名な「遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん 遊ぶ子供の声聞けばわが身さへこそゆるがるれ」というお話がありますが、何やらしみじみと沸きいってくる情動に「ああ自分の中にも遊びたい気持ちがあって抑圧してたんだな」と感じ入ります。 真面目に求道されている方々には若干心苦しいですが、今度は一応ゆるめのものを選んで仏教イベントに遊びに行ってみたいと思います。
質問ではないので、投稿していいのかわかりませんが… 不謹慎だとは重々承知の上ですが、先日祖父のお葬式でお経を唱えていただいた住職さんがとても素敵な人で久しぶりにキラキラした気持ち(?)になりました。 祖父が亡くなったこと、また来月から新しい環境に行く予定で、それが苦しい日々になることが分かっているので憂鬱な気持ちが続いていましたが、そんな気持ちから少し離れることができました。 多分ですが近くのお寺の住職さんなので行こうと思えば行けますが、多分行かないしもう会うことはきっとないんだろうなぁと思うと悲しいです。(もし会えたとしても何もできない笑)が、あのキラキラした気持ちになれたこと、また心のこもった御経を唱えていたいたことに感謝したいです。祖父も嬉しいと思います。ありがとうございました。 質問ではなくて申し訳ありません。
こんにちは。 前回質問で、輪廻思想がどうも腑に落ちない、と主張した者です。 ただ、輪廻に限らず、事物が「ある」とも「無い」とも断定するのは中道の教えに反すると感じるので、輪廻思想の側からも質問させてください。 輪廻転生があるなら、私は六道あらゆる世界を見て、生きて来た事になりますよね。何しろ仏教の宇宙観は無数劫の時間スケールで成り立ってるのですから。 また、私は、いわゆる地球外生命というものも、必ずどこかの惑星で誕生し生を営んでいると信じています。 そうなると、私の魂(?)は天上界のめくるめく壮麗な世界も体験して来たし、地獄の底の恐ろしい責め苦も受けて来た事になりますよね? また想像を絶するような異星の光景も目の当たりにしてきたのではないでしょうか? 輪廻転生が教えているものって、 「そういう一切合切の有情は、別個に生きているのでなく、過去、現在通して、物質から魂のレベルまで、密接に繋がって生きてるんや。天人も地獄の衆生も、あらゆる命も決して他人事じゃおまへんで。なにせアンタがそれ自身だったんだからな。」 と言っているようにも思えるんです。なぜか関西弁ですが。 そういう所から、いわゆる慈悲って生まれるのでは無いでしょうか? 生前や死後を無記とするのは「智慧」ですが、また輪廻をわが事として受け止めるのは「慈悲」の根源なのかな?とも思います。 この2つの考えは矛盾するものではないとも、私には思えます。 お坊様方は輪廻と言うものをどのように受け止めてるのか、気になったので再び質問させて頂きます。 お考えを聞かせて頂ければ嬉しいです。
初めまして、クラウディアと申します。 私の悩みは、果たして神という存在はいるのかどうかと言うことです。 実は別の宗教にも勉学的関心があるのですが、仏教とも共通することはやはり神の存在です。 私は信じたいのです。しかし同時に信じることができないのです。 目に見えるものしか信じられないという非常に残念な性格が影響しているのかもしれませんが、とにかく神の存在を疑ってしまうのです。 例えば仏壇にお線香をあげる際、それは亡き人に向かってです。亡き人というのはもうこの世にはいません。灰になってしまったのですから。魂はあると言われていますが、どうも私には信じられません、 そうだとすると、お線香をあげる意味はあるのでしょうか? そこで、神はいるのか、またいるのだとしたら何を根拠にいると仰るのかをお尋ねさせていただきたいと思いました。
お坊さんには霊感はあるのでしょうか? 父はそこそこ強いほうですが、自分は全く視えません。 また、お坊さんには霊感というものはあるのでしょうか?
職種によって違うと思いますが 大変な状況にも関わらず 冷静な判断や対応が出来る人を見て 「さすがプロやな!」 「これぞプロの技!」 と驚かされた経験はあると思います また自分自身においても 仕事をしているときなどに 普段なら冷静さを失いそうな場面に直面しても 何故だか不思議と平穏な心が保てる 「これが私の仕事だから」 「これぐらいなら大丈夫」 と落ち着いて対応できている自分にふと気付くこともあると思います 以前お坊さまめ足が痺れますか?と質問した時にも 「そう言えば痺れないなぁ」 というようなお答えがあり 「プロだな!」 と感心させられました 私も自分でも不思議ですが仕事柄 「そう言えば焦りがない」 「全然平気だなぁ」 と思えることがあって 「これが私の仕事だから」 という"プロ意識"というか"身に付いたスキル"のようなものがあるんだなと感じました 私の場合だと 大量出血している人を見たり開腹して内臓が見えている人がいても 怖いとか焦るとかそういう心境にはならず ひたすら淡々と対処していくことが出来る それが仕事をする上で必要な訓練でありスキルなんだろうなと感じていました すごい!とか思うようなことではありません ただ何故か冷静でいるべき時に冷静でいられる お坊さま方にもそういう"プロ意識"と呼べることがあると思います 自意識過剰とか単なる慣れとかではなく 何らかの「これが自分の仕事である」と思えるようなことがあると思います どんなことに対して 自分は不思議と冷静でいられるとか 何故だか平穏な心でいられるなという 『お坊さまあるある』 (身に付いたスキル) を教えていただきたいと思いました 修行や訓練を積むことで出来ること 不思議な体験や心境などを是非お聞かせ下さい
法事の時にいつも思うのですが、お坊さんは一体幾つのお経を覚えているんですか。修行の卒業(?)までに幾つ覚えるとか決まりはあるのですか?うちは曹洞宗ですが、3人くらいお坊さんが来られる時のお通夜やお葬式で、打ち合わせとかないのに、みんなが息を合わせてシンバルや太鼓みたいのや鐘を「チーン、ドーン、シャーン!」とゆっくりしたり早くしたりしながら鳴らすのがタイミングがぴったり合っていて間違えないのがすごいと思います。 あとお通夜などでご高齢の方丈さんなんかが30分以上もわりと大きな声でお経を唱えているのに呼吸のための肩がほとんど動きません。お経を読むときの特殊な声の出し方や呼吸の仕方があるのでしょうか。