宿坊に泊まった時に、若いお坊さんたちが色々とお世話をしてくださいました。 僧侶になるにはいくつかのコースがあると思うのですが(二つくらいしか知りませんが)、朝の勤行などでお経を読めるようになるまで、何年くらい経験が必要なのでしょうか。 大体、皆さん20代くらいとお若く見えまして、年齢・経験を積むことで地位や出来るお仕事も違ってくと思いますが、ざっくりとどんな流れで僧侶と言う職を人生の中でしていくのでしょうか。 ふと、気になったので質問させて頂きました。
私は仏教のことに気になってることがーつあります。 それが大乗仏教の 教徒がチベット仏教のお寺に 行ってもいいのかと言う 問題です。 プロフィールを見てもらえばわかるとおり現在私はネパール在住です。 ネパールにはヒンドゥー教よりかは少ない とはいえ、 仏教のお寺があります。 でもほとんどがチベット仏教のお寺です。 私は東京都出身で 家が浄土宗なので 大乗仏教 の 教徒が チベット仏教のお寺に行ってもいいのでしょうか? 実はもうすでに何回も行っていて、 なぜこの質問をしているかと言うと今ふと気になったからです。 私は大乗仏教もチベット仏教もどっちも仏教だしお釈迦様が始めたんだから仏教は仏教に変わりない と思っているので、 行ってもいいと思うのですが、 一度本格的なアドバイスが欲しいと思いこうして質問をさせていただきました。 個人的な質問ではあるのですがどうかご回答をよろしくお願いします。
肺に持病があり念仏が難しいとお坊さんに相談したところ、なんまんだぶではなくて「ナーナーナー」でもいいと教えてもらいました 他にも肺に負担がかからないような念仏のやり方工夫があれば教えてください
最近、仏教に興味があり、仏教の本を読もうと思っているのですが、大学図書館においてある本は仏教史などが多く、読みづらいです。仏教の教えについての本で、お坊さん視点でオススメの本はありますか? それから、仏教の中でも曹洞宗に興味があるのでそちらの本も教えていただけるとありがたいです。
こんばんは。 何人ものお坊さんとお話する機会があった訳ではないですが、お坊さんは話し方が穏やかで、話すスピードも落ち着いていて柔和なイメージがあります。 話し方に、何か心掛けている事はあるのでしょうか? 私は油断すると早口になりがちで、 声のトーンが低く、方言丸出しのキツい口調になりがちです。 また、私は推敲している際はしかめっ面になりがちで、相手にとっつきにくい印象を与えているように感じてしまい、結果、空回りしてしまう事が多々あります。 話し方のコツ等あればお聞かせ願いたく、質問いたしました。
仏教徒になるとは出家して僧侶になることですか? 出家するのは主にお寺を継ぐ方なのでしょうか? お坊さんではないけれど仏教を信仰している方(在家と呼ぶ?)とお寺との関わりや、そういった方が普段どういう風にすごされているのか知りたいです。 歴史上ではよく引退した人が出家したり、お坊さんの芸術家や作家さんもいますよね。 そういった仏教の仕組みが、いまいちよく分かりません。 10代の頃からそういう道に惹かれており、最近また思い立って色々と検索していたところ、ハスノハを知りました。 まだ曖昧な気持ちのまま投稿するのもためらわれたのですが、あまりにも分からないことだらけなので思い切って質問しました。 今でも仕事を辞めたりして、お寺の人ではないけれど出家する方はいますか? 継ぐお寺がない場合、僧侶という職に専念して生活できるのでしょうか。 また、出家すると家族と疎遠になったりしますか? 宗派にもよるのでしょうが、お教え頂けると有り難いです。
死者のことをずっと考えていたり、 悲しんでいたりすると、死者が成仏できない。 前向きな姿を。 と、よく聞きますが、自殺者の場合もそうなのでしょうか。 自分のいない世界で、家族が、平気な顔をしていたら、 「やっぱり自分なんかいなくても良かったんだ」 と余計悲しくならないのかしら。 悲しんでもらえないことが、故人には余計に寂しく感じられるのではないでしょうか。 たった一年でこんな当たり前に過ごしてしまっていたら、寂しいと思うのです。 当たり前じゃないのに。 お葬式のあと、お茶碗を割った。 その行為が、もう帰ってきても一緒に食事を囲めないから帰ってこないようにね。なんて意味だなんて知らなかった。 そんな意味ならやりたくなかった。 その気持ちが成仏の妨げになっているのでしょうか。 それとも、本人が悲しくても寂しくても、「自分なんかいなくてよかったんだ。」とマイナスな解釈だとしても、現世に未練を残さない方が本人のためになるのでしょうか。 出来ることなら、家族にもみんなにも愛されていた。と納得して成仏してほしいと思うのです。 そんなマイナスの解釈で成仏するのが幸せなのでしょうか。 寂しい気持ちにさせてしまうことにならないのですか。 私は 私だったら、それはとても寂しいです。 生きていてほしかった。と、現世と無理矢理関係をたつなんてしないでほしかったと思ってばかりです。
お世話になります。 夫の実家が真言宗でしたので 娘の供養は真言宗でさせて頂いています。今も毎月ご住職に来てもらっています。 私の実家は浄土真宗でした。 子どもの頃、 祖母の朝夕のお経を聞き 暮らしました。 近くのお寺の日曜学校にも行き 南無阿弥陀仏を唱えることが当たり前でした。 子どもですから、怖いテレビを見た日の夜のトイレや、物音など、恐怖を感じたり心配事があると、おまじないのように南無阿弥陀仏を唱えたりしていました。そうすると仏様がそばで守ってくれる気がして安心できたんです。 大人になってからも、手を合わすと南南無阿弥陀仏を唱えてしまいます。 車で走っている時に、道路で動物が轢かれているのを見ると 条件反射のように「南無阿弥陀仏」が出てきます。 でも、真言宗では南無阿弥陀仏は唱えませんよね。 ひとりで娘のお仏壇で手を合わせる時 喉元まで出る南無阿弥陀仏を止めて 今日あった出来事などを話します。 でも、やっぱり心の中で唱えてしまう。 母親がこんなんで、娘が彼方で他のご先祖に責められないか心配です。 南無阿弥陀仏は真言宗では ただの呟きなのでしょうか? 唱えても大丈夫ですか?
お坊さんは健康で長寿のイメージがあります。 病気や認知症のお坊さんは想像しづらいです。 実際に、お坊さんをされている方も、周りのお坊さんを見ていてそう感じられますか? また、お坊さんが健康長寿なのが本当だとしたら、理由は何だと思われますか? 読経 ? 粗食でしょうか? 宜しくお願い致します。
守り本尊の由来について知りたいです! それと、自分の干支の守り本尊ではない、仏様を信仰しても大丈夫なのでしょうか?
私は、自尊心が低く、自分というものがわかりません。 自分を認める事が、どーしても出来ず自分自身が嫌いです。 心が疲れてしまっている時、仏様にすがるのは、甘え?逃げなのでしょうか。 お坊さん方は、こういう気持ちになる事は無いのですが? 心が病んだ時どの様に対処なさっているのですか? お経を唱えるとよいのですか? 私なんかより、本当に苦しんでいる方がいる事も、承知しています。 平凡日々を送らせてもらってる中での、ただの甘えなのかもしれません。 けれど、変えたい変わりたいと思うだけで、どーしたらよいのかがわからないのです。
おぼうさんはどんな修行をされていますか? また、なんのためにされていますか?
私は、曹洞宗の南直哉和尚の著作が好きでよく読んでいます。 南和尚の著作で「超越と実存」という本がありますが、その中での親鸞聖人の信仰のとらえ方が非常に興味深かったです。 曰く、 「親鸞聖人の悪人の自覚は、肉食でも妻帯でもなく、阿弥陀仏の救いを信じられぬことが根本にあったのではないか、そのため謗法をした者をも救われるという根拠を教行信証で示そうとしたのではないか」 ということです。 また、南和尚は 「ゆえに、親鸞の称名念仏はそれ自体無常で無意味な発声行為であり、超越を排しながらも実存を受容する方法として、道元と並び日本思想史上でも希有なものである。」 と結論づけています。 真宗のお坊さんでこの本を読まれた方、また読まれていない方でも南和尚のこのような解釈についてどのように考えられますか? 私はとても心打たれ、やはり真宗もただものの宗教ではない、深淵があるものだと感じました。
仏様には、如来、菩薩、明王、天部、その他があり、仏様に1位、2位、3位、と言うような上下関係はなく、それぞれに役割の違いがあり、コンピュータに例えれば、如来がコンピュータ本体、菩薩は基本OS、明王は応用ソフト、天部は支援ソフトとの事ですが、コンピュータ本体である如来様がなくなった場合、仏様の世界はどのようになりますか?
仏教の教えを忠実に実践すると植物のような存在になるなと感じました。 しかし仏性は人間にしか無いとも知りました。 なぜ元から罪のない動物や植物は仏になれない(なっていない)のでしょうか。 「仏性の自覚」とは「罪を持っている」という自覚のことでしょうか? 切れ端のような知識で申し訳ありません。 気になったので質問させていただきました。
藤岡俊彦 様 から「色即是空」の空は「空性」であるとのお話がありましたが、私がある宗教学者から教えてもらったのは次のようでした。 「空の実名」〔解説〕 ところで、空が形容詞か名詞かということに関してですが、サンスクリット原典で言えば、五蘊皆空の場合は「五蘊の自性はみな空(ZUnya)」となり、ここで空は形容詞です。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色、諸法空相、是故空中は、いずれもサンスクリット原典では空性(ZUnyatA)であり、これは「空であること・その性質・その状態」といった抽象名詞です。 空がそのまま空であれば一意に決まりますが、空性となれば、具体的に何かを決定しなければなりません。 それは般若心経に明確に記述されています。 そのキーワードが「諸法空相」です。 花山勝友先生の解説によれば諸法とは「この世の中のあらゆる存在や現象」となっていますから、星座やオーロラも含まれて「宇宙」と考えるのが妥当と思います。 般若心経はその大部分が「色(身体)」と「受想行識(心)」に関する記述です。 その中で「諸法(宇宙)」という突拍子もない巨大な話が割り込んでいますから、その必然性が問われます。 花山勝友先生は「諸法空相」を「諸法は空であるから」と解釈していますが、「空である」と言う理由では「色」も空ですから色で代用して充分だと思いますので諸法の必然性はありません。 諸法の必然性は自然界の中で唯一「閉じた系」であるからです。 「閉じた系」の利用価値は皆さんも中学か高校で学んだように「エネルギー保存の法則」ですね。 これから推測して、「空性」は「エネルギー」と断定して間違いないと思います。 その傍証として、それに続く「不生不滅」は「初めに空(性)ありき」ですから、エネルギーは宇宙の生成元として適合しています。 そして「不増不減」は空性が計量単位を持っていることを示しています。 エネルギーも計量単位を持っています。 因みに「不垢不浄」は直接エネルギーとは関係ありませんが、諸法実相との顕著な対比として例を挙げたと考えます。 空性をエネルギーとしてみれば、「色即是空」は「e=mc^2」を示していると考えられます。 このように般若心経は、最後の呪文を除いて、人体の空性の科学的記述に満ちていると思います。
かってある宗教学者から「諸法実相は空」と言う仏教用語があるから諸法実相を他の意味で使ってはならないと言われましたが、私にはどうにも理解できません。 多分「諸法の本質は空」という意味だと思いますが、「実相」ではそのように受け取れません。 「相」は姿という意味で、一つの物が複数の姿を見せることだと思います。 実相に対比するのは常識的には「空相」でしょう。 般若心経に「諸法空相」とありますから、その対比だとすれば、「空相」が空で、「実相」も空ならば、複数の姿にはなりません。 「空相」が縁起で「実相(現実の相)」に変化したと考えるのが、妥当だと思います。 従って、「諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減」の対比として「諸法実相 生滅 垢浄 増減」(諸行無常)とすべきではないでょうか? この仏教用語のためか、ある般若心経の解説に「我々が見ている現実の風景は空の錯覚である」と言われて唖然としました。
ある一つの疑念が強迫観念のように頭の中に張り付いていて、阿弥陀仏の本願がうまく聞けないのです。 それは「18願によって信心決定した者は救われるが、信心決定したものは諸根が具足する」というものです。 荒唐無稽かもしれませんが、第41願に信心決定したものは諸根が具足するととある本に書いてあって、それを見た瞬間諸根が具足しないかもしれない自分は救われないかもしれないとショックでした いろんな本を読んだ結果、これは初住以上の菩薩のための願だとか、聖道門の菩薩を引き入れるための願だとか、他の訳では仏刹(浄土)と書かれてあるから、娑婆世界には関係ないとか、頭では納得できて、そっちのほうが正当な理解なんだろうな、と分かるのですが、頭の片隅に「体の弱い自分は救われないかもしれない」というのが絶えず渦巻いています 自分でも自分のこの疑念は完全に間違った教義理解だとは考えているのですが…。 「18願によって十方衆生の信心決定したものは救われる」「信心決定したものは諸根が具足する」「よって諸根の具足していないものは信心決定していない」「諸根の具足していないものは救われない」 という自分の誤った疑念を間違っていると言ってほしいです。 同じような投稿を前にもしたのですが、専門家のお坊さんに「それは間違ってるよ」と言ってほしいのです。わがままですみません 自力で変な解釈をしてしまう自分に嫌気がさします…。 こういうのを「自力のはからい」というのでしょうか 早く自力をからせたいです
最近、祈願寺で先達さんから 何度も雷を落とされています。 お花を持って行ったら、 「お墓に持って行くなら それでもいいが、うちの様に 墓を持たない寺は最上級の 荘厳具を備える場合が多い。 持ってくる人は皆、 『持ってくるんだからいい でしょう』って言ってポンと 持ってくるけど、管理に困る。 今回は受け取るが、次からは この様な無造作な仕方ではなく 瓶などに入れてくる様に」 とのこと…。 突然だったので情報処理が 追いつかず、「知らなかった」 と言って泣いてしまいました。 「失礼なのは承知だが、 (私の下の名前)さんと俺は 親子くらい歳が離れている。 実際俺には、貴女と同年代の 息子がいて、貴女のことは 娘の様に思っていて、【親心】 からの発言だ」と始まり、 マナー意識に対する訓戒が 続きました。 私自身、改善に努めていることも 伝えましたが… 最後は、私は泣きながら何度も 頭を下げて、「ごめんなさい」 と連呼していました。 私は特に 人からの「優しさ」や「親心」 が一番理解できません。 支援者たちには共有済みで、 指導を受けながら詫び状(先達 さんの御心に気がつけなかった ことに対する謝罪)も作り、 後日持って行きます。 実は、持って行ったのですが 先達さんはご不在、代理の方に 渡して貰おうとしたら、 「気まずくなる、自分で渡した 方がいい。それと、金券や お布施は同封しない様に」 と指示されました。 入れてません、と伝えると、 「そっか!俺の取り越し苦労! ゴメンネ(笑)」と言って くれました。 こんな体たらくが続く私如き が、一丁前に格好を付けて、 輪袈裟や数珠を持って、 お寺に行ってもいいのか… 葛藤しています。
仏教では殺生はいけないという風に教わっています。 細菌やウィルスも殺生はいけないという類いに入るのでしょうか?