はじめまして 最近、正信掲、歎異抄、大無量寿経、スッタニパータを読んでいます。 読んでいて、不勉強ゆえ以下の疑問が湧いています。 子供を作ることは、愛すべき我が子を、厭うべきこの世に呼び出す行為とも思われ、子を思えばこそ作るべきではないように思えます。以下、詳述しますのでどうかご指導ください。 ブッダは、欲望の支配からの自由、ひいては輪廻転生からの解脱を説かれます。 その前提として、人(を含む生き物は)煩悩具足の凡夫であって、他の生物を殺生し食べねば生きられず、醜い体をもつ哀れな存在だと捉えられていて、「再び母胎に入ることのないように」と仰います。 つまり、私達が子供を作ると、上記の哀れな存在を生むことにはならないでしょうか。子供を作らねば、輪廻転生の苦もなくなるのではないか、と思えているのです。 しかも、子を遺して自分が世を去る時後ろ髪を引かれ、絶つべきこの世への執着が、子供の存在によって強まるようにも思えます。 確かに、「人身受け難し 今既に受く」「大海に浮かぶ板の節穴から盲た亀が顔を出すより難しい」とも言われます。しかし、これは、どうせ生まれるなら、他ではなく、仏法を聞ける人身に生まれることの有難さを説かれたものであって、生まれること自体の素晴らしいとのお考えでないようにも思えます。 また、生まれることの幸不幸は本人の捉え方次第とも思われます。しかし、もし子が生まれ、「生まれたくなかった。なぜ厭うべき仮の世に産んだのか」と言われたら、答えに窮してしまいそうです。 この問に答え得るブッダのお考えをご指導ください。できれば、それが書かれている文献の名前と場所(第何章のどの辺りか)もお教えくだされば幸甚です。 どうか、宜しくお願い申し上げます。 (以下、ご参考です) 一五二 さまざまな欲望の対象への、深層の欲望から超脱するようにせよ。そうすれば、もはやふたたび母胎へ入って輪廻転生することはなくなるであろう。(スッタニパータ 荒牧典俊著) 二三五「過去の業は絶えた。未来の業もあり得ない」と、賢者は、来世に執着せず、種子を絶やし、自己存在の芽を未来にまで伸ばしたいとの願いを捨て、油の切れた灯のようにふっと消えてしまう。 三三九 二度と輪廻の世に舞いもどってはならぬ。 三四〇 たえず身体に注意を向けて、その醜さを思い知れ。厭い離れる心に満ちてあれ。
相容れない意見の僧侶の方をこき下ろしたり、お坊さん同志が白熱バトルを繰り広げたり、 他宗派を嘲笑するような投稿を目にする機会があります。 敬意が感じられない他者批判や、嘲りと悪意に満ちた投稿を全体公開にされているので、とても悲しい気持ちになります。 お坊さん同志の対立はよくある話なのですか?
私くしも、仕事の事などで 自分自身の芯をしっかりもてなくて、常に気持ちがグラグラに揺らぐので 瀧行に真剣に行きたいと思ってはいるんですが お坊様方が、行の中で 仏様の存在や何か悟られた事など ございましたら 教えて頂きたいです。瀧は心身共に清められ仏様と一体になれる様に思うので すが 、、、
大忍貫道 様 釈尊の言行(その1)で追記 を見逃して大変失礼致しました。 回答の締め切り通知を変更通知と間違えて調べて、追記があったのを知りました。申し訳ありません。 重要な問題なので、再度質問を立てます。 我々の出来ない体験を、釈尊が代わりになさって伝えて下さったのが仏教です。 「輪廻転生について」のお礼欄で、私は 「如来(釈尊)は真実を語るものであり、如来は真理を説くもの、ありのままに語るもの、誤りなく説くものだからである。如来は虚偽りを語るものではない。」 との金剛般若経の引用をしています。 輪廻は信じる信じないのレベルではなく、真実か虚偽かの問題なのです。 そこが仏教が宗教か否かの判断になると思います。 金剛般若経の続きで「前世、現世」が出てきます。 釈尊の語りですから、これは真実なのです。 これが輪廻転生に他ならないのではないでしょうか? 因みに仏教が信でなく真実であることは、仏教の基盤である「般若心経」が科学的真実を語っているので明白です。 詳細は省略しますが、ヒントは「諸法」の「空」が「不増不減」であるのは、諸法が自然界の中で唯一「閉じられた系」であるからです。
仏教の地獄には色々あるのは知っているんですがお坊さんや仏教徒の方達はその数多くの地獄の名称を全て言えたりするんですか?
姉が自殺して、はや2ヶ月になりました。 この間、姉が初めて夢に出てきてくれました。 夢の内容は 姉のお葬式をしていて、その後、場面が変わり 病院のベッドの上に姉と家族がいて、姉がビデオカメラを見ながら私に「これ見て」と言いました。 それからまた場面が変わり 私の家で私が料理をしているところに姉がいつも使っているカバンを持って「もう行かないといけない」と何処かに行こうとしていたので私が何処に行くのか、行かないでと言ったところ 困ったように笑っていました。 なんで自殺をしたのか聞いたのですが、口は動いていても何を言っているのか分からず、そのまま目が覚めました。 目が覚めて、一人で大泣きしました。 ビデオカメラを見てと言った意味は何だったのか… 行かないといけないと言う姉の言葉は何だったのか… 困ったように笑った顔が頭から離れません…。 生前の姉を思い出し、会えて嬉しいけど思い出したら涙が出ます。 今日まで夢のことを考えても答えは出ませんでした。 夢の意味はなんだったのか、教えてください。 よろしくお願いします。 カテゴリ違いでしたらすみません。
私の家は団地の4階建ての1階です。 ご先祖様の仏壇もあります。 最上階ならまだしも、1階に住んでいることから その上には人も住んでいるので、仏壇の上に 天、空、雲などの言葉の紙を貼った方がいいと思うのですが、どうなのでしょうか? 貼った方がいいのであれば、それはどこで手に入りますか? 無知で申し訳ありません。 よろしくお願いします。
こんばんは。 おみくじの学問の欄に信仰心を持って勉強に励むように書いてありました。 これはどのように受け取り、受験に向けて頑張れば良いのでしょうか? ご回答よろしくお願いします。
想像しただけでその想像した罪と同罪なのか。 ご回答をください。助けてください。悩んでいます。 私の母と私でドラマを見ていた時、親が子を殺すみたいな場面があったんです。それで「私はお母さんを殺さないよ」と伝えた時にふと、 「でももし、母がゾンビになって殺すべきだと判断した時とか、母が病気になって楽にしてあげるために薬とかで安楽死にして殺すことはあるかもしれないな。」 と考えたんです。でも、それっていくら母親のためと思っていることでも罪は罪なのかなという思いと、それに続いて私が母親を殺すなんてことを考えてしまった、という思いが出てきたんです。 そこでネットで調べてみると、「罪は想像した時点でもはやその罪を犯したのと同じ」みたいな内容を目にしまして、とても怖くなっています。無間地獄の罪状に「母親を殺すこと」というものがありますが、それに私は当てはまってしまったのでしょうか。実際に私は母親を殺したわけではないですし、そんな特別な場合ないと思っていますので殺すつもりもありません。今もキッチンで夜ご飯を作っています。 改めて質問をまとめると、 「私が母親を殺すことは、母のためになる場合ならあるかもしれないと思ってしまった。このように『母を殺す想像』をしてしまったことは、実際に母を殺した罪と同罪になり、私は無間地獄に落ちてしまうのか。」 ということです。本当に怖いです。ご回答何卒よろしくお願いします。
自分の周りの人々に、また、その他の全ての生命に自分の功徳を分けることはできるのでしょうか(自分に功徳があるのかすら分かりませんが)。 頭の中で念じるだけで回向していることになるのでしょうか。 それは先祖にも届いているのでしょうか。 実感がない、確認できないことなので、これでいいのか、と首をかしげながら念じています。 また、どんな言葉で念じるのが良いのでしょうか。
なぜ、私たちは生まれてくるのでしょうか。なぜ、生と死が一つのものだと分からないのでしょうか。 なぜ生まれたら苦しみがあるのに、生きる楽しみに浸ってしまうのか。執着とは、罠のようなものなのでしょうか。 なぜ私たちは生まれてきた理由を知らないのでしょうか。なぜ浄土や輪廻があるか否かを知るすべを持っていないのでしょうか。 どうしてこの心は、真理とは違う方向に向かってしまうのでしょうか。私たちは生きているうちに悟ることができないのでしょうか。 自分が愚かだと僅かに気が付いても、未だに愚かなのはなぜなのでしょうか。
お坊さんの年末年始は忙しいですか? 何をするのですか? 何日まで忙しいですか? 教えてください。
今日は息子が亡くなって、始めての大晦日です。 1人で横になっていたら 夢に息子が出てきてくれました。 なかなか夢にも出てきてくれず、亡くなった直後に1度くらい出てきたきりでしたから、 いつものように楽しいお喋りをする息子が夢の中にいる!と ハッと気がついて、手を握って、何か伝えなきゃと「ありがとうありがとう」と大泣きしていました。 目が覚めて、寂しくて、またお仏壇の前で涙してしまいました。 今日は、 今まで生きてきて一番寂しい大晦日です。 これから年を取り、もっともっと寂しくなるのだから、慣れていかなくてはいけませんよね 息子が亡くなってすぐ、お坊様からお言葉をいただいて、絶望の中 すがるような気持ちで読ませていただいておりました。 周りに相談できる人もおらず、子供亡くしたと話すと 皆さん かける言葉が無い…と困惑されるので、人に話すこともなくなりました。 毎日ハスノハを読むことでなんとか生きています。 お坊様ありがとうございます。 来年もよろしくお願い致します。
梵字を習うことに関して質問いたします。 先日ご縁があって児玉義隆師の著書「梵字入門」を手にする機会に恵まれました。それをきっかけに悉曇文字、サンスクリット語を学びたいと思っています。 しかしこのまま自ら書いて習ってよいものかと思い始めました。 私は在家で、在家である自分が梵字を書き、習うことは越法に当たるのではないかという疑問が湧いたのです。 実家の菩提寺などご縁があるお寺やお坊さんに聞いてみましたが、別宗門なので詳しくはわからないとのことでした。 また現在海外住まいのため、直接真言宗や真言律宗のお寺に伺うこともできず、こちらで質問いたしました。 大雑把に、梵字を書くことの在家への制限は越三昧耶罪にあり、その根拠は大日経疏にあると薄い知識ながら理解しているのですが、根拠となる原典を知る機会はありません。 しかし一方で、日本全国で僧侶の方による梵字教室が一般向けに開かれている現状もあり、僧籍を持たれる高野山大学の名誉教授が在家者に梵字の教本と自習を推奨されてもいます。 児玉師の教本には、お袈裟・衣をつけずに梵字を書いてはならないとの心構えの解説がありました。 これを僧侶の方への訓戒と受け取るべきなのか「在家には梵字を書くこと自体許されない」ととるべきなのか判断がつきません。ましてその解説が一般向けの教本に書かれているのですからますますわかりません。 そういったことで、在家でありながら悉曇文字あるいはサンスクリット語を学びまた書くことは功徳になるのか、密教の戒律に詳しい僧侶のかたにご意見を伺いたく思っております。 教条主義的になるのも良くないのでしょうが、独りよがりになることを避けたく、ご意見を賜りたくご連絡いたしました。 もし知識のあるかたから見て問題がなければ、日本に伝わっている素晴らしい文化ですし、悉曇文字を勉強したいと思っています。 僧侶の皆様、お忙しい中見ず知らずの者から長々と恐れ入ります。ご教授いただければ大変幸いです。
文殊菩薩さまの智慧とは、どのようなものでしょうか? また、現世ではどのように役に立つのでしょうか?
一切皆苦と認める事と、諦める(もう希望や見込みがないと思ってやめる。断念する。という意味)事の違いは何ですか?
質問させていただきます。 回答しづらければ、スルーでお願いします。 母の四十九日法要の和尚さんの法話でのことです。 「亡くなった人はどこへ行くか?」と和尚さんは私の甥に尋ねました。 小学生の甥は、「心の中」と答えました。 それは、亡くなった母が教えたことです。 母は「自分が死んでも、いつも見守ってるから」という意味で、生前、そのように話したのだと思います。 が、その和尚さんは、それを完全否定しました。 人は死んだら「無」になる、と。 何もなくなる、心の中ということはない、と。 実際に仏教でどのように考えられているかは知りません。 和尚さんが仰ることが正しいのかもしれません。 ですが、そこはあえて否定する必要があるのでしょうか? マチガイハ タダスベキということですか? 甥だって大人になるにつれ、母の言葉の意味は理解するだろうし、何より母の法要で母を否定されたような気がして、何とも言えない気持ちになりました。(「黙れクソ坊主がっ!」と思ったことは内緒です) また、その話の流れで、ホームレスは人間のクズだから地獄に堕ちるという話をされました。 いや、ちょっと待て! 人は死んだら無になるんじゃなかったのか? 無になったら、地獄も何もないのではないか? それとも、ソレとコレとは違うとでも言うのだろうか? それより、ホームレスが人間のクズとはどういうことなのか!? それが仏教なのか? 和尚さんの偏見ではないのか? 和尚さんに対しての怒りの感情と、母に対して申し訳ない思いと… お前が地獄に堕ちろ!とマジ思いました… ホームレスの方達に炊き出しをするボランティアをしていたので、色々と思うところがありました。 もう数年前のことですし、そのことを引きずって悩んでいる訳ではありません。 過去のことに上書きすることはできませんし、それはソレで、そういう事実があった、でよいです。 ただ、その本当のところが知りたいです。 数年前のことを、なぜ今、このタイミングで?と思われるかもしれませんが、今まで聞く人がいなかったからです。 hasunohaのサイトを最近知りました。(遅っ!) よろしくお願いいたします。
いつもお世話になっております。 私の通う病院の近くに、日蓮宗の寺院が あります。気になっていたのですが、 思い切って行ってみました。 寺庭さんも住職さんも、皆さん気さくで、 お堂も綺麗に整備されていました。 置いてあった勤行経典を読ませて 頂いたのですが、「提婆達多品」の 龍女成仏のクダリが気になりました。 女には、5つの穢れ、障りがあるとか…。 梵天、魔王、などと言われても、いまいち 理解できません。 女は菩提を得るのが困難、というのは、 何かの例えなのでしょうか? まあ確かに、男性より感情的になりやすい といわれていますが… だとしたら、化粧もせず、スカートも 履かずズボンスタイルでいると、 頻繁に男性と間違われる私は非常に 理想的と言えるかも… ご意見お待ちしております。
私は今イスラム教の国で留学中です。周りが熱心なので私も宗教について考えるようになりました。そこで現地人から神様について聞かれ「貴方は神様に何か頼んだり、願う時どの神様にしているの?」と言われました。はっきり言いますとその時の私は仏教についてがよく分かりませんでしたし、教えに今まで従っていたかも分かりません。なのでこの質問をされた時に戸惑ってしまいました。また、その時にイスラム教の教えを教えてくれましたが心は動かされませんでした。 そして最近インターネットで仏教の教えについて調べてみると仏教の教えは何となく救われた気分になり泣きそうになってしまいました。今まで全くもって宗教などに興味はありませんでしたが、もっと神様を信じたいと思いました。仏教をもっと信仰するにはどんなことから始めるのが良いですか?