質問ではなくお礼なのですが……。 彼女との初デートで失敗して死ぬほど落ち込んでいたときに助けてくれたのがハスノハのお坊さんです。 今は立ち直ったのですが、落ち込むときも元気なときも両方ある。 だから落ち込んだときはハスノハを頼って、今はみたいに元気なときはハスノハのお坊さんのように自分が他人のためになることをしたいと思います。 良い自分も悪い自分もどちらも大切なんだと気づかせていただきありがとうございます。 全く質問になっていませんが、お坊さんに対するお礼のコメントってどこに送ればいいのかわからなかったので投稿させていただきました。
素朴な疑問ですみませんが… お坊さまというのは、お寺さんのお家に生まれたからお坊さまの道へ進むことになった方や、お寺さんのお家に生まれていないけれどお坊さまになった方など、いろいろあって「お坊さま」をしているのだろうと思うのですが… サンタさんにクリスマスプレゼントをもらったことがないお坊さまはいらっしゃいますか? また、もしサンタさんにプレゼントをもらったことがない方がいらっしゃるなら、子どもの頃、何故、他の友達がプレゼントをもらっているに、自分のところにはサンタさんが来ないのかなぁ?と不思議に思ったことがありますか? わたしにもサンタさんの存在を信じてやまない時期がありましたので、翌日目覚めた時のワクワク感を一度も感じたことのないお坊さまがいらっしゃいましたら、理解出来るまでの間、どんな気持ちを抱いていたのか教えていただきたいなぁと思いまして… 昨日、サンタさんの形をした(と書いてある)チョコレートをいただいたのですが、私には、どこからどう見ても、モコモコのお髭をはやした仏様に見えてしまうのです。 ベルギーのチョコレートなのですが…。 一応、お菓子をいただいたら、まずはお仏壇にお供えしてから、という風にしているので、一応、いつも通りお供えしてみたのですが…15個入りのサンタさんのチョコレートが、15体の仏様みたいで、「なんだこの景色は!」みたいになっているのです。 今夜は恵方巻を食べる予定で、今月はバレンタインデーがあって、クリスマスでもないのにサンタさんがいて、でも15体の仏様にしか見えなくて… 家の中が騒がしい… その仏様みたいなチョコレートを見ているうちに、ふと、お坊さまの世界にサンタさんが存在していた幼き過去があるのかな、全くないのかな、という疑問がわいてきまして、それなら教えていただけたらなぁと…。 宜しくお願い致します。
少し突飛な質問かもしれませんが…… 現在訳あって、縄文土器や、古い農具や民具、道具類(江戸時代~昭和)が大量に飾ってあるところで、1日の大半を過ごしています。 ですが、そういう古い「物」に、人の精神を不安定にさせたり、運気を下げたり等の悪影響ってあったりするのでしょうか…? 仏教的な立場や考え方の中では、昔の人たちが使用していた古い道具って、どういう位置づけがなされうるのですか? 大切にすべきものですか? いち早く手放すべきものですか? 使い古された道具は、生きている人間に何か影響を与えるものなのですか? 幽霊がいるらしい、と噂されるほど建物自体も古いので、そもそもの環境自体が精神的に悪影響を及ぼしたりすることってありますか? また、今度、髪が乱れていたり、装飾が破損している古い雛人形(怖い)を6セットほど物置から取り出さなければならず、少しドキドキしています。 古い人形を取り扱う際の心構えなども、アドバイスいただけると有り難いです。 この場所で過ごすようになってから、精神的に不安定になることが多発しているので、 ついつい「土器のせいでは(笑)」と精神的不安定さの原因を物になすりつけてしまいます。
去年からの数ヶ月の間に、数名のお坊さんに出逢いました。 hasunohaのお坊さんにも話を聞いてもらい、 親切にしてもらって、励まされ、背中を押してもらって、たくさんの愛をもらい、少しずつですが、自力で前に進めるようになりました。 感謝してもしきれないくらいです。 なので、微力ながら、恩返しがしたい、役にたちたいと思いました。 直接お坊さんに聞くのは、どうかなと思ったのですが、何かできることは、ないでしょうか??
仏教には様々な逸話がありますが、阿修羅像の逸話についてずっと気になっていました。 逸話を端的に言うと「阿修羅の娘を帝釈天が無理やり連れ去り、激怒した正義の神・阿修羅が帝釈天に戦いを挑むも戦闘神の帝釈天には到底敵わない、そんな中で娘は帝釈天を愛し妻になる、戦う必要がなくなったにも関わらず怒りに我を忘れ戦い続ける阿修羅」 初めて見た時は結果オーライか⁈ なんだそりゃ‼︎ と思いましたがこの逸話の言わんとすることはよく見かける解説で 「阿修羅は怒りで自分を忘れ、戦いに目を奪われて、すでに娘が帝釈天の正式な奥さんだったのにも関わらず、相手を赦す心を失っていました。たとえ、正義であってもそれに固執すれば、善の心を忘れ、妄執の悪・復讐の鬼になってしまいます。過去を水に流し、人を赦すことは大切なのです。」 とあり理解出来るとこもありますが、この逸話を初めて見た時はいくら例え話しだとしてもこの話しを納得することは犯罪を容認するようで、なんとも気分が悪くこの逸話を簡単にそうかと理解するのは無神経なようでずっと引っかかってました。 程度は違いますが私の毎日はずっとこの引っかかっりです、私の煩悩が怒りなのか杓子定規な正義への固執なのか、両方ですかね? ここから質問なんですが、この逸話の中で娘が帝釈天を愛し娘に関してはある意味で結果オーライですが、実は最悪娘は帝釈天に連れ去られた後に殺されたとしてもこの逸話の言わんとすることは同じ(憎しみの先に救いはない)ような気がして、結果オーライはまだましな話しだったのかなと最近思うようになったんですがどうなんでしょうか。 上記とは違う解説等ありますか。
辛いことが、たくさんあって、独りで、泣いて生きてきました。 辛さに耐えられず、死のうとして、夜に高い場所に行った事もあります。 (お巡りさんに見つかり怒られました。) 無意識に呼吸をしないときもあります。 私は、どうして生きているのか。悩んでいました。 ある日、テレビで、お坊さんの本を紹介していたので、人は苦手ですが(苦手過ぎて震えます)、お坊さんだけは、何故か平気だったので、本に載ってたお坊さんに会いに行き話を聞いてもらいました。 SNSで、知り合ったお坊さんにも、直接会い、色々相談させてもらい、励まされ、応援してもらい、世の中には、こんなに優しくて、親切な人がいるんだなと思いました。 独りで、立ち上がれずにいた時に、生きる力を、心の安心をもらえました。 感謝してもしきれないほど、救われました。 今でも、私のほしい言葉をくれます。 めぐり逢えて本当によかった。 生きていてよかった。 生かされてきてよかった。 そう思いました。 大好きな存在になりました。 心の支えになってくれる存在(私が勝手に支えにしてます。)がいると、精神的に強くなれた気がします。 優しくしてもらった分、 お坊さんのように、私も微力ながら、人に優しくできるよう、役にたてないか模索中です。 子供の頃からですが、私の中で、何故こんなにお坊さんが、特別なのか良い存在になってるのか?わかりません(´・ω・`) 気付いたら、安心安全な存在になっていました。
正信偈を読んでいて疑問に思ったことを質問します。 1) 仏様の師弟関係は、世自在王、法蔵菩薩、釈迦如来の順だと思うのですが、世自在王は何をしていらっしゃるのでしょうか?阿弥陀仏のように浄土をお持ちなのでしょうか?世自在王を御本尊とする宗派はありますか? 2) 釈迦如来は、今、どこにいて何をしていらっしゃるのでしょうか?阿弥陀仏のように浄土をお持ちなのでしょうか? 3) 「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」と言われ、地球上で仏の悟りを開かれたのは釈迦牟尼だけと聞きましたが、法蔵菩薩は人間の世界から出た方ではないのですか? 法蔵菩薩は国を捨て王位を捨てて出家されたそうで、お釈迦様のようにこの地球上の国王であったような気がします。 勉強不足の質問ですが、よろしくお願い致します。
お釈迦様は親から虐待される子供になんと仰っておられますか。また、子供を虐待する親のことはどのように仰っておられますか。 また、宗祖のお坊様など過去にいらっしゃった高僧の方々で、虐待について書いたり言われたりなさったものはありますでしょうか。 親への愛着を持ちながら親から虐められる子の苦しみはいかばかりかとよく考えます。現代では親子愛が称揚されることしきりですが、慈悲の心を欠いた親もいます。
以前テレビで島田紳助さんが以下のように述べていました。(ブログからの抜粋です) 「仏教っていうのはね、自分のための拝む人へのもの。 両手を合わせた瞬間に、自分の心の中が穏やかになる。 そこに極楽が生まれんねん。例えば、あーもうムカつくわ、競馬まけた博打負けたから墓参り行こうって思う人はいないのよ。心が乱れてるから墓参り行こうとは思わない。ある日、ふとあ、長いこと行ってないな。お墓参り行こうか。と思う。その、お墓参り行こうか、と思った時、自分の心が穏やかになる。その瞬間、心に極楽が生まれんねん。だから、お墓参りの行為自体よりも、行こうと思った時の穏やかな心、それが大事なの。仏壇だってね、仏様が中にいるけど、あれは職人さんか誰かが木かなんかを彫ったものだよ。所詮。もしあれがほんとに仏様なんだったら、供えてある花も、仏様の方を向けて供えなくちゃいけない。でも実際はそうなっていないでしょ。向こうからしたら、花の裏、葉っぱの裏しか見えないよ。拝む人に向かって、拝む人の心に向かって供えてあるから。だから仏教っていうのは、心の中、拝む人の心の中に極楽があり、仏があるという教え。」 私はこのような考えに感銘を受けました。実際、極楽というにはこのようなものなのでしょうか?お坊さんたちの意見が聞きたいです。
今も、心の支えとして仏さまのお人形を持っています。 これは信じる心ではないんですね。なんだろう……持っていたところで何も奇跡はないけど、自分が少しでも変われたら嬉しいです。自分を変えるのは難しく簡単にできたらみんな苦労しません。これからは、「自分の取扱説明書」というのをつくり、自分の決めたことはやりとげることを続けたいです。 別の話になりますが、今でも心に乗っている「痛いこと」は、太っていることに恥ずかしくないの?と言われたことです。自分が痩せたことは一度もないし、食べるイベントてきなものがあるとそれに流れて乗ってる自分……好きなことで頭一杯にすれば少しは、楽なのになーと思っています。
いつもお世話になっております。プロフィール通りのことを しでかして、デーケアは1ヶ月間の休養を余儀なくされました。 病院に行って、 「怖くて道もまともに歩けない。医者や支援者、坊さん、 警察官や保健師といったお役人しか信じられない。 これ以外の人たちはみんな、パソコンやスマホのウイルスや ランサムウェアーと同じで、一見いい顔をして『その機会』 を狙ってる、泥棒や痴漢やテロ犯だ!」と溢したら、 「さすがにその状態は危険です。直ちに修正をする必要が あります。カウンセリングや入院治療も視野に入れるとして、 せっかくお経が読めるなら、その手の状態を解決するヒント的な 経典はないのかしら?」 「実践プログラム的な修行や法語みたいなの、あるんじゃない?」 と言われました。 しかし、経典は数がありすぎて探し方すらわかりません。 浄土宗の教義については理解しているつもりですが… 密教と顕教の違いすら理解していません。 どこからどうやって、何を目安にしてお経を学べば いいんでしょうか?
最近お坊さんに相談したい悩みが出来ました。出来れば、自分の足でお寺に行って話をしたいのですが、私は大学進学を機に実家を出ています。 近所にあるお寺は実家が信仰している宗派とは違うようなんですが相談できますか?
以前は念仏を度々行っていたのですが、次第にめんどうになりすっかり幽霊念仏員と化してしまいました。 ところが久々に思い出して行ってみると読みながら自分の抑揚や音読速度を感じて、「オレ、別に焦ってないと思ってたけど、何か急いでる感じするし焦ってるんだろうな」とか「何か妙に抑揚強くてアピってなくね?もしかして飢えてるの?」 などと、どこか俯瞰した目線でまだ意識に登っていない無意識下の悩みと言いますか、或いは自分の中の別の自分の愚痴を聞くと言いますか・・・くすぶりだした欲求不満の様なものをある程度察してあげられる効果がある事に気が付いて驚いています。 仏教と言いますと、何かドグマチックな信仰や仏教哲学から入らなければならないという気がしてしまうのですが(勿論仏教には素晴らしい教えが沢山有る事は承知しています。本棚には半分くらいに栞が挟まった仏教の本が沢山有ります!)、なにせズボラなもので・・・単に健康に良いからとか、メンタルケアをモチベーションとして関わっていくのはイケない事なのでしょうか?
私は経営学部の3年生で現在、お寺の経営に関する卒論に取り組んでいます。ですが研究に煮詰まってしまいました。 本来なら地元のお寺様に取材をすべきなのですが、残念ながら未だ出来ておりません。なので藁にもすがる思いでここに質問させて頂きます。 なぜ、お寺の経営について調べようと思ったのかと言うと第一に私がお寺が好きだから、第二に宗教というベールに包まれ実情があまり知られない経営に興味があったからです。 調べていくうちにお寺には観光寺、信者寺と檀家寺があることを知りました。 ・観光寺のお坊さまで経営に気を付けることはなんでしょうか?観光寺のメリット、デメリットなど。また以前までは檀家寺だったという場合の方は観光寺にしたことによる変化など教えてください。 ・檀家寺のお坊さまで経営に気を付けていることはなんでしょうか?檀家寺のメリット、デメリットなど。また依然観光寺だった、もしくは今後、観光寺に変えようと思っているなどありますか? ・今後、お寺の経営を調べる際に気を付けたほうがいいこと、おすすめの書籍、論文などがありましたら教えてください。 なお、研究と関係ない個人情報などについては明かさず十分な配慮をします。 お忙しい中、不躾な質問になりますが、どうかお答えいただければ幸いです。
先日、 主人のお母さんが亡くなり 葬儀を行いました。 その時に、 お経をあげてくれた お坊さんは、葬儀の間ずっとマスク。 お経の途中で お茶を飲む時だけ、 マスクをずらし それ以外は マスクをしたまま。 お坊さんも人間だから、 マスクをしなきゃいけない事もあるだろうと思います。 でも、 檀家さんの葬儀でお経をあげる時くらい 外せばいいのに… と、思ってしまいました。 なんだか、 有難いはずのお経も そう思う気持ちが半減してしまいました。 そう思う私がおかしいのでしょうか?
子供の頃から、お寺とお坊さんが大好きで、大人になってからは、よくお寺に行き、事前に確認をしてお坊さんとお話をさせていただくようになりました。 イベントに参加したりしてます。 人見知りと緊張しいが、重症で、人がものすごく苦手で、怖くて、喋れなくなるし、滑舌がものすごく悪いのですが、とても優しく、親切にしてもらいました。 笑顔で、対応してくれたので、近寄りがたいイメージがありましたが、子供の頃よりずっと大好きになり、仲良しになりたいなと思いました。 人苦手だけど、お坊さんだと、他の人より緊張しないです。 Facebookで、投稿されたものにコメントして多少の交流が、ある人は、知人だけど、友達未満な距離です(´・ω・`) お寺に行かないとお話できない方もいます。 仲良く(友達)なりたいって言われたら、嫌ですか??? 自分のお坊さんのイメージが、近寄りがたいけど、優しくて安全な存在。なのです(*´ω`*) 子供の時に観た映画の影響です。
私の祖父は非常に信心深い人でした。 毎日かなり長い時間、仏壇と神棚、信仰している仏像におつとめをしておりました。内容は家族の平和でした。 そのためか、問題のない家ではありませんでしたが、平穏だったと思います。 ただだいぶ前に祖父が亡くなってから熱心に祈る者はいなくなりました。 最近は家の中でいろいろ問題がおきることが増えてきたように思っています。 祖父のようにはできませんが、自分ができることはないでしょうか?
こんにちは なつと申します。 今回は宗教を信仰する意義についてご相談したいです。 私は祖父母の代から信仰を持っていて、仏教徒です。とても熱心に修行をしているとはいえないですが、少し修行に参加しています。 しかし、最近信仰することに対して疑問を持つようになりました。 病気、失業、お金のトラブルと悪いことが続き、信仰していても仏様は守ってくださらないと思うようになってしまいました。 辛いことが起きたら、それは仏様がくださった試練ですよ、と一緒に信仰をしている信者さんにご助言いただきました。 しかし、その理論でいくと信仰をしていると試練が下されて辛い思いをしなくてはならなくて、信仰していなければ試練もないということになり、信仰していないほうが幸せなのではないか、と思うようになりました。 信仰している意義がわかりません。 私は生まれたときには親のはからいで入信していたため、自分で信仰したいと思って信仰し始めたわけでもありません。 なぜ信仰するのでしょうか。 わかりません。 よろしくお願いします。
三宅聖章様回答ありがとうございました 凄く気持ちが楽になりました 妻が余命1ヶ月と言われた 地獄に落とされた日からそろそろ2ヶ月になります。 妻の看病をしっかり最後までやれば 一緒に行けると夢のようなものも見ました。 妻が旅立った後 一緒に殉ずるつもりです。 和尚様には 二人一緒に行けるようお経を唱えてください。 和尚様のように偉いお坊様に唱えてもらいたいのです。質問ではなく お願いになってしまいますが よろしくお願いいたします。 やぶ医者に騙された私を信じていてくれた妻 私のせいで亡くなるようなものです。 ひとりで逝かすわけにはいかないです。 17才16才から一緒に住み 結婚して35年ずっと妻の笑顔を見るのが嬉しく 私の生き甲斐は妻でした。私にとって妻がお釈迦様です。 どうかお願いします 二人で一緒に旅立てるように唱えてください。 子供 親 頑固親父に 死んだらおしまいと 言うかたもいるかもしれませんが 私は次の世界があると信じます 誰がなんと言おうと 妻ひとりで逝かしません お願いです 唱えてください
生きるのがつらくて、阿弥陀様になんとか救って頂きたくてお縋りしています。 でも阿弥陀様が約束された救済は死後の救済、今生ではありません。なので阿弥陀様を拝んで顔を見上げる時に「死んだ後と言わずに今救われたい…」と思ってしまいます。 阿弥陀様に良くなりますようにと祈っても現世利益はないと言いますし、私はどんな気持ちで阿弥陀様と向き合えばいいのでしょうか? とても恥ずかしいし苦しいし、阿弥陀様に申し訳なくてご本尊の前にいられません。私は地獄に落ちるのでしょうか。