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「仏教・お坊さん」を含む問答(Q&A)一覧

因果応報? 虐待される子供の責任か。

偶然にお話しした子供さんから大変ショッキングな事を聞きました。小さな頃から虐待され続けてきたそうで、その悲惨な状況の事をあるお寺の方に話した所、前世で悪行積んだからだ。因果応報だ。本人の責任だ。と言うようなお話しをされたようです。分かりやすくする為、端的に記載してます。実際はもっと柔らかな言い回しのようでしたが内容はそのままです。虐待に関しては沢山のご相談わたし受けておりますが、ある程度、乗り越えよう、乗り越えてきた、大人の方であっても、何の仏教の予備知識もない方に対して、そんなこと言ったら相当ななショックを受けると思います。それをまだ小さな子供さんに対して言うなんて! 透視させて頂いたら子供さんが言うその通り、こちらまで吐き気が止まらなくなるような、まだ赤ちゃんのような頃からの酷い虐待の姿が沢山とれました。それもまだ現在も続いていました。本当にガムシャラに頑張って頑張って、その子なりに今できる事を精一杯やって、ご両親に嫌われないよう怒られないよう必死に生き抜いています。そんな子供さんに対して仏教を学ばれた方がその様な事を言ってしまう。そんな事言われ子供さんは未来に希望持って生きていけると思うでしょうか?子供さんは、あまりのショックで、心臓が打ち抜かれたような精神状態になっており、未来、自殺へ向かうところまで視えてしまいました。相談所への誘導と出来る限りの修正いれましたが。精神的虐待、暴力的虐待、性的虐待、アルコール依存性や、精神疾患をもったご両親で家庭崩壊、荒れた家庭に生まれてきた子供さんは、仏教の観点からみるとそのような家庭に生まれてくる事自体が、本人の過去の因果関係が影響して本人の責任となるのでしょうか? 虐待受けてきた子供さんに対し、前世だの、ご先祖さまがどうだの本人の意識にもないような話をして、悪人かのように話すことに関して憤りを感じます。一度この件に関して質問したいと思っておりました。この様なご質問あった場合、仏教学ばれた方はどのようなお話しをされているのか様々な児童虐待死亡ニュースありますがそれをどう感じるのか、上記の話でなくても、虐待に関して色んな宗派の方からのご意見を伺えたらと思います。自身、霊能に関して批判非常に多く口閉ざして生きています。こちらの問題に関してどうしてもご意見伺いたく記載しております。ご批判はご遠慮頂けますと助かります。

有り難し有り難し 22
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「言葉」なしで見る

 個人的に仏道に勤しんでいます。凡夫の一考です。  お釈迦様は、思考して達成されたのでしょうか。それとも、言葉で表現できない「体験」で真実を感得されたのでしょうか。  特定の人しか「体験」できない事を伝えたのでしょうか。誰もが「体験」できること伝えたのでしょうか。  過去から現在まで数えきれない人が存在しました。もし、「言葉」を使い、思考するだけで達成できるのなら、ほとんどの人が達成できないわけがありません。日々だれもが思考におぼれるほど思考にお世話になっています。思考によって達成することが正しければ、お釈迦様の達成された過程を「知識」として教われば、だれもが達成できるはずです。  「教外別伝」「不立文字」と言われるように教えはすべて「体験」してもらうための方便だと思います。「知識」と「体験」はまったく異なります。思考して導き出された答には千差万別があり、どれが正解なのかは個人にゆだねられています。一つしかない「真実」にいくつもの答えがあるはずがありません。思考して達成できないことは我々が身を持って実証しています。  静寂とは思考する必要のない状態であり、あるがままを感受して分別を持ち出す必要のない状態、問題がつくられない状態であると推察できます。  そもそもあらゆる対象は「言葉」による「名前」などついていません。「名前」をつけることによって自分と切り離され差別・区別・区分する対象となります。一切は「それ」や「これ」でしかありません。  「名前」をつければ個としての存在を認め個として識別可能なものになります。認識対象となれば、所有の対象としたり、得失や好き嫌いの対象となり、苦しみの種となるだけです。  「真理」という言葉は「真理」ではありません。「真理」という言葉を見たり聞いたり読んだりしても真理を理解することは無理だと思います。  我々の素は、「言葉」など持っていません。だれもが素になることができます。「言葉」を離れた真実と共にあります。

有り難し有り難し 21
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全体と一体となる具体的な修行を教えていただければ幸いです。

 お坊さんにおかれましては、一年で一番お忙しい時に恐縮です。いつも具体的で親身な回答ありがとうございます。アドバイスよろしくお願いいたします。  宇宙は「無」から生じたという物理理論があります。宇宙の一切も遡れば所詮は「無」でしかない。  宇宙の一部である我々も「無」ではないでしょうか。 地球においても、創成期から多様な生物が存在していない。単純な単細胞生物から、多様な生物が進化したようです。地球の生命の源を辿れば、一つに繋がっている。気の遠くなるような年月を経て、生存競争を生き抜いた最強の遺伝子を携えた生命が今ここに生きています。  今の我々が、より恵まれたいとかより充実して生きていたいと個々に願うことは、遺伝的な本能から湧き上がる自然の衝動のように思われます。あらゆる生命の刹那の反応は、あらかじめ生命にインプットされた生存欲による自動的なものであると思われます。  我々人間は、生命として生きるために我に固執する「小さき心」が休むことなく働いていることに気づかされます。  「無」から生じた宇宙の一切は無限に広がり、「本来の心」も無限であり穢れのないものと思われます。我欲に縛られた「小さな心」は自由で無限である「本来の心」の一つの現れであると思われます。  「小さき心」が幻であると気づくか、「本来の心」と一体になれば、今まで対峙していた「対象」と「我」という二元の境は無くなると思います。個ということをあまりに重視した生命の本能から脱し、分離など無いとの気づきが訪れるのではないかと思います。  各宗派によって異なると思いますが、全体と一体になるような具体的な修行を教えてください。

有り難し有り難し 13
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般若心経とキーマカレー

いつもお世話になっております。 ここのところ、仕事の関係で4時半起きが続いています。 窓を開け放ち、心地よい朝の風を感じ、薄暗い朝が明けてゆく風景。 お日様が上ったら手を合わすととても気持ちがいいです。 毎朝、雀にパンや米粒をあげていたら、網戸を開ける音で分かるのか、どこからか数羽やってきて、チュンチュンと催促をするのが何とも可愛らしくて。 仕事に行く前に最低限のニュースだけ観てゴシップ系が始まったらTVを消す。 あーだのこーだの余計な情報は要らないのです・・・。 毎日拝読しているhasuhohaお坊さま方のご回答と、 繰り返し読んでいる一冊の禅宗老師の本が私の仏道の全てです。 こんな私も苦労はしています。いろいろあって給料は右から左。 でももう物欲もありません。すっきりとした感覚です。 一日一日、丁寧に過ごせて、ご飯食べれて、 みんなが安寧で過ごしていてくれたらそれで幸せです。 hasunohaの常連様方にも一喜一憂したり。 あー、帰ってきれくれた!(涙)とか。 でも、それはそれ。 このサイトに出逢わなかったら「人のしたことしなかったことを見ないで、自分がしたことしなかったことを見なさい」というお言葉を知らなかったかもしれません。 私にとっては、人生において非常に大きなお教え(教訓?)なのです。 さて本題ですが、この間キーマカレーを作っていたらトントントンという音に合わせて般若心経が何度も頭の中で流れてきました。 しんむーけーげーむーけーげーこー・・・この部分からばかりなのですが。 (何年か前までは普通にJ-POPが流れてましたが(笑)) 時々キッサコさんを聴いていた影響もあるのでしょうかね。 こんな時は流れに乗せて料理を作りながら唱えていたら良いのでしょうか?たぶん延々ですが・・・。 お盆前のお忙しい時節に、お気楽極まりない質問で大変恐縮です。 お手隙の時にお教えいただけると幸いです。 あ・・・仕事・体調不全・恋などに悩んでいる我が娘に、 「こだわりが過ぎると苦しみが大きくなるよ~」とメールしたら、「悪に対しては復讐しかない」と返事がきました。 囚われずに生きていければ少しは楽になるのになと思いながら娘の中にはまだまだマーラが住んでいるようです。 困ったものですが、流れにそってボチボチやっていきます。 (余談になっちゃいました。すみません。)

有り難し有り難し 6
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お裁き

先日、最愛の母を真言宗で見送らせていただきました。 葬儀会館の方は『これからお母様は四十九日まで、家族で共に過ごされたお家や、ご自分の生まれ育った所、訪れた場所、数々の所縁のある場所を巡られます…』と、お話してくださいました。 四十九日までの、七日ごとの法要も辛さの中、こちらで皆様に教えて いただいたように個人の成仏の為にと出来る限り祈りお願いをしてまいりました。 そんな中、先日改めて四十九日までの『お裁』きにつて詳しく調べてみました。 その余りにも生々しく苦難の連続に思える道のりに、また故人への思いが溢れ出し、自責の念と共に今すぐ傍に行って助けてあげたいと思うようになりました。 そのように子供が後を追ってきたような親の魂は、更に惨い裁きを 受けてしまうのでしょうか? 稚拙かも知れませんが、このような裁きを受け苦難の四十九日の間に所縁の場所を巡るなど出来るのでしょうか? 『死』の時もあれだけ苦痛であったのに、『死後』もまたこのような 苦痛の連続だとは…あまりにも惨過ぎる気がいたします。 もうすぐ四十九日を迎えます…。 どのような気持ちで、どのような事を心掛ければ、少しでも故人の苦痛は和らぐのでしょうか?成仏させていただけるのでしょうか? 何度も同じような疑問をぶつけてしまっているかも知れませんが、どうかどなたかご教授お願いいたします。

有り難し有り難し 11
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自灯明・法灯明の真意とは

 大乗経典はあたかもお釈迦様が直接に説いたかのように書かれた物語的なものが多くあるといわれています。お釈迦様以降に悟られた方が、仏教のすばらしさを広く一般の人まで広げることを目的にしたのでしょうか。  大乗経典には、きらびやかな極楽浄土や荘厳な仏国土、功徳のすばらしさなどなど珠玉の言葉で埋め尽くされているように感じます。  先輩が口をすっぱくしていうことには、「経典に書いてあるからといって、そのまま信じてはいけない。そもそも信じるとは「知らない」ということだ。20メートルの崖から「信じて」飛び降りる人はいない。飛び降りて死ぬということは判り切っているから「信じる」必要がない。「信じる」というのは「知らない・体験がない」ということに他ならない。仏道は「体験」してなんぼのものだ。言葉はすべて方便であり、言葉では表現できない実体験で確認するものだ。坐禅和讃の最後にある「当所即ち蓮華国 此身即ち仏なり」を体験しなさいということでした。死んでから極楽浄土へ行くのではなく「今ここ」で体験する。因縁によって生まれてきた意味は、体験することだ。」ということでした。 「自灯明・法灯明」の真意は、修行を先行させ法によって確認せよということでしょうか? 体験できるかどうかもあやふやな修行よりも、お念仏によって西方浄土で修行したほうが効率的ではないでしょうか?

有り難し有り難し 53
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独学で行う“印”と“真言”について

初めまして、私は仏様を側に感じたい時やお寺で参拝する時に印を結び、真言を唱えている破戒するヒトと申します。 私の結ぶ印や唱える真言は師に習ったものではありません、ネットや書籍で調べたものです。 本当は出家をして師に習うのが一番だと言うのは分かりますが、どうしても人が苦手で集団に溶け込んで修行する自分が想像出来なくて、独学でまったりと学ぼうとしています。 このように独学で印や真言を調べるなかで「印は行者しか結んではならない」「印や真言は誰が行おうと構わない」「師に習わない印や真言に効力は無い」「軽い気持ちで印を結べば仏罰がくだる」…など様々な情報が入り乱れて混乱します。 ただそれでも私自身に「印を結び、真言を唱えたい」という欲求が合ったので都合の悪い情報は気にしないようにして印と真言をしてきました。 ちなみに理由は魔法使いみたいで格好が良いから、または自分はいま仏様に近付く修行している…といった心地のよい感覚があり、このまま根気よく続けていれば仏様との間に、より濃密なご縁を頂けるかも…なんて期待をしつつやっていました。 しかし時に後ろめたさの様な物を感じる事があります。この行為はもしかしたら仏様に対し失礼に当たるのではないかと。 とある質問サイトでこのような事を質問してみても意見はバラバラでどうすれば良いか分かりません。 このような混乱と欲求と後ろめたさが入り乱れ撹拌されてか、今朝の夢のなかでお坊さんに「真言や印は欲望で行うものではない、貴方が好意でそのように行動しても仏様は迷惑だと感じるだろう」と言われました。 すみません、あくまで夢の中のお話です でもとても鮮明な夢で「仏様は迷惑だと感じるだろう」という言葉が突き刺さり、堪らずこちらのサイトに登録を行い質問をさせてもらいました。 もしも夢など紛い物で無いお坊さんにそのように言われれば、私はキッパリと印と真言の欲求は断ち切るつもりです。 しかし私の欲求として仏様の迷惑にならないなら印を結び真言を唱えたいです。 どうしたら良いでしょうか。 分かりにくい所があったらすみません。 混乱と欲求が激しく渦巻いてそれ以外の事が考えられません。 どうか回答お願いします。

有り難し有り難し 93
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「有り難し」ボタンの押し方

いろんな人たちの悩みや問いかけを読ませていただき、それにお答えになるお坊さまのお言葉を拝読し、「なるほど!」「イイかも!」と思ったときも、「うーん…」と思ったときも、「有り難し」ボタンを押しています。 いろんな考え方があることに「有り難し」と感じたから「有り難し」ボタンを押す。 または、悩める人たちにエールを送りたい、「そう思って悩んでいるのはあなただけじゃないですよ」「あなたは1人じゃないですよ」という気持ちを込めて、「有り難し」ボタンを押す。 いろんな生き方、考え方に感謝して、「有り難し」ボタンを押させていただいております。 なので、私のように、所謂「有り難し」と思った時以外の意味合いで「有り難し」ボタンを押す、例えば前に書いたような「エールを送りたい!」等でも「有り難し」ボタンを押すのは、アリなのかナシなのか… 決して軽い気持ちでボタンを押したりはしていません。 でも、私の想いを「有り難し」ボタンに込める押し方を、このまま継続しても良いのか、ふと疑問に思いました。 私の「有り難し」ボタンの押し方は…大丈夫なのでしょうか? 「感謝」だけでなく「エール」も「有り難し」に反映させてもよろしいでしょうか? ちょっと意味不明な質問になって、すみません。 ※不思議なことに、回答の「出だし」や「言葉遣い」で、どちらのお坊さまがお答えしているのかが、最後の回答者を見なくても、分かるようになってきました。 でも、それよりもっと不思議なことに、「答えは人それぞれ」「答えは1つじゃない」のに、辿り着く答えは1つ、「仏様の道」や「仏様の教え」であるところに不思議を感じています。

有り難し有り難し 5
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一念と執着・執念*強欲と過剰な欲求

どのカテゴリーにしたら良いのか迷いましたが、質問させてください。 「一念」は、岩をも通すとか言って、良い印象があります。 何かを強く強く深く深く一筋に、寝ても覚めてもご飯を食べていても 常に念頭に置くことが出来なければ「一念」とはならない気がします。 でもそればかりで、他はどうでも良いとか、他は全く顧みないとかでは良いことでは無いですよね・・・ 一方「執着」と言うと、良い印象は無く、 こだわりが過ぎて身動きが取れないとか、怖れや邪な感じが見え隠れするような気がします・・・ でもこだわりにも、良い意味でのこだわりってありますよね。 「一念」と「執着」は、それぞれどういうことですか? 違いは何ですか? 「一念を通す」とは、具体的にどうすることですか? そして「執念」とは? 目的や目標を深く思い、諦めるという選択肢は全く無いという状態のように思いますが。 目的を果たすまで何度でも挑み続ける、みたいな。 また、「欲」ですが、 「欲」は誰でも持っていると思いますし、わたしは煩悩の塊です。 「強欲」とは、とても良くないもの、 誰かから奪ったり搾取したり、人を傷付けてでも手に入れようとすることのように思います。 「過剰な欲求」は、どこからですか? どんなことですか? 独り占め的なことは当てはまる気がします。 それから、相手の気持ちを甚だ無視した要求や押し付けみたいなこと。 大変申し訳ございませんが、 解りやすく噛み砕いてご教示頂けましたら幸いです。 もし仏教としてのそれと、社会通念上のそれに違いがあるという場合は それぞれを知りたいです。 わたしの長年の疑問です。 ご回答頂けましたら有り難く存じます。

有り難し有り難し 27
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