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hasunoha 問答検索結果 : 「私 病気 できない」
検索結果: 6535件
2023/12/02

科学と宗教の棲み分け。仏教は科学否定?

 いつもお世話になっております。  ある日、仲良くなった女子神主さんと話していて、 「科学じゃ説明できないこともたくさんあるのよ」 「お医者さんも信用しきっちゃだめよ」 と言われました。  私はこの神主さんを怪しみ、あえて科学界隈の精神科の先生に、 神主さんからこう言われた、と伝え 「先生、科学で説明できないことって何だと思う?」 と尋ねてみました。  「たくさんあるじゃない。精神の現象なんて最たる例だよ」 と言われました。 「個々人の物事に対する捉え方とか、病気を治したいっていう 気持ちを起こさせたりとかは、科学が干渉できないってこと?」 と聞いたら、その通り、科学はあくまで目に見えるものを探求する 学問だと言われました。同時に、 「みんな、科学に期待しすぎ」 と。  精神科の先生のことは信頼しています。でも、科学のプロが 「科学に期待しすぎ」という考えなのはどうなの?とも思います。  以前こちらで、宗教心、仏教心とは何か、と質問したら、 「当たり前のことを分かるようになり、惑いをなくすこと」 とお答えいただきました。目を開けたら見える、おならは臭い、 というようなことだとご説明いただきました。  しかし、世の中の人は、 「どうしてこうなるの?どうすればいいの?怖い!」 とあらゆる事に惑います。  科学は、 「これはこうだからこうなるんだよ(当たり前の提示)。こうすれば 怖くないよ」 と人々に教えてくれます。  そして、素直にその事象を受け入れ、科学で明らかになった対応策を、 (例えば病気の治療)ありがたく実行させていただく。この謙虚さと やる気を起こさせるのが、宗教心だと思うのです。  こちらのお坊様も、 「仏教では、物事には必ず科学的原因があると説く」 「科学の発展なしに、現代社会はあり得ない」 とおっしゃいます。  時折、「科学が人を貧しくした!」と言っている宗教家を 見かけます。私は、こういう人は危険だと思うのですが。  ちなみに精神科の先生は、「僕を100%信用しないで」と言い、 神主さんも、医者を信じきるなと言いつつ「治らない人は、治そう としない人よ」と言います。  実は、長年の疑問です。私は、仏教は科学を否定する危険な宗教 だと思いたくないです。  

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【プロフィール参照】お経をあげる意味について

最近、疑問に思っていることがあり各ご僧侶様のご意見を頂きたく質問させて頂きました。 まだ小学校低学年の頃から、30年以上前に亡くなった曾祖父に会いたがったり、誰に教わるでもなく仏像をねんどで作ったり絵に描き起こしたり何かと仏教とご縁のある身なのだなとありがたく思っております。 大学でも仏教学部に在籍していたこともあり学問的な仏教にも大変興味があります。 この1か月間で無量寿経、薬師経、阿弥陀経、般若心経等、10以上の真言、経典を読んでいました。 釈尊の言葉をまとめたものがお経なのであれば、なぜ葬式や法事であげるか少し理解できずにおります。教えを書き起こしたもの(学校でたとえるならば教科書でしょうか)を故人にあげる意味とはどういうことなのでしょうか? ある本には六道の中で人間界でしか仏教を聞く事ができないと書いてありました。 人の思う天国も六道では天界というところだそうですが、苦しみもあるとのことでした。 葬式や法事等であげるお経は人間界でしか学べぬ仏教を、故人にもその教えをお経として聞かせ参列している人もまた教えを一緒に聞く、という意味合いなのかなと解釈しております。。 菩薩や天部のエピソードは多少脚色されたものもあるのかもしれないなと物語として楽しく学んでおります。 また各浄土にいらっしゃる仏様それぞれが得意とする分野をお持ちですが(薬師如来なら無病息災や病気治癒など)、病気になった時はお薬師様、強い心を持ちたい時はお不動様などそれぞれの仏様に拝んでもよいのでしょうか? 全ての仏様のお師匠様が阿弥陀様ということを本で見かけましたので基本的に元をたどれば一つであると考えればどの仏様にお祈りをしてもよいのかなと、、 仏様のご利益は願って叶うものではなく、願ったのち自身が前を向き努力した時にそっと後押しをしてくれる存在と最近は思います。 ご僧侶様のご回答ご意見を、宗派関係なくお聞かせください。 ※曾祖父時代は浄土真宗、現在は真言宗ですが私自身はどの宗派も元をたどればおおかた同じと思っておりますので気に入った仏様や宗派を勉強しているようなかたちです。

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2022/08/07

夫の事故死で変えられた人生に絶望

飲酒運転で7キロに渡って居眠りして起きてを繰り返し最後はノーブレーキの10トン車に信号待ちしてた所に追突され主人は即死でした、身体は下半身はありませんでした、加害者の謝罪もなく、現場にすら一度も行かず、裁判当日、来ない、というあり得ない加害者です、交通事故は故意ではないと世間では言うのでしょうか、そして親しい人からも言われました、ほんとにそうですか? 車は凶器になるのだから、その結果がどうなるのかは普通だったら想像出来るはずです、それで愛する人を失って故意ではないから仕方ない、なんて思える訳ないのです、裁判で実刑になりました、すぐに出て来ますが…、どうしても殺された命と寿命で亡くなった命が同じとは思えないのです、病気さえも今は羨ましく思えてしまうのです、それは誰も悪くはないから、なんて思うのは苦しいです、主人が居た時の私じゃなくなってきて、もう戻れない気がして この事故で主人も亡くし、自分のままでは苦しくて生きては行けない 加害者のせいで当たり前では生きて行けなくなりました、 夫婦を見れば未だに泣けて、日々一人きりで、その上事故のトラウマからかテレビのニュースが見れない、主人もニュースで放送され映像がフラッシュバッグする、人が殺されたりの刑事物もみれません、あの日まで毎日運転してた車も乗れてません、なにも考えず当たり前にしてた事が怖いのです、悲しい、寂しいだけではないのです、また主人が亡くなったのを人に話す事が難しくて、嫌で、でも話すならこんなにひどい事故で亡くなった、とちゃんと伝えたくて未だに言えてないのです、これが病気なら言えるのに…ってこれは経験して感じる事なんだと悲しくなります、裁判だってしたくなかった、それは辛い現実に向き合う事だった、そして犯罪被害者になってしまった、やはり他人から命を奪われた遺族は大切な人の命を失うだけではない二次被害があるのです 被害者なのに加害者が起こした事の結果そのレールの上を歩く人生になってしまった、そう思うと身体が震えます、人の言葉が怖い、なぜ被害者が不自由に生きなくてはならないのでしょうか、納得出来ず一生受け入れられない、そんな人生に意味はあるのでしょうか、いつまでこの暗闇は続くのか、心の底から笑えないなら、もう人生やめたくなります

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