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hasunoha 問答検索結果 : 「�%8」
検索結果: 2940件

地震が怖い

初めまして。初めてhasunohaを利用させていただく者です。中学生です。こんな忙しい中でも回答してくださるお坊さん達に感謝します。ありがとうございます。私が悩んでいる事は地震についてです。私は関東に住んでて地震がよくおきやすいです。でも最近とても地震が多くて夜中に2夜連続で緊急地震速報が鳴りとても怖くて過呼吸になってしまいました。それにネットでは5月11日に大地震が来るなどの予言がされていて、6日の夜の地震も当てた方がいて余計信憑性が高くなりとても怖くて地震以外の事が考えられないくらい生活に支障がでています。私は不安症や地震恐怖症で過去に心療内科に行ったこともあります。なのでまたこのような事があるとほんとに落ち着けなくなり昨日は夜ご飯も食べず眠れませんでした。勉強も出来ないくらい地震のことばかり考えてしまって、休校なので暇さえあればずっとその事を調べ不安を煽ってしまいます。自分でもダメだと分かっているのにやめられません。お母さんにも大丈夫。みんな一緒だから、あまりそういうの信じない方がいいよ。と言われてもとても怖くて本当に泣いてばかりいます。電話相談などもしましたが、それでも怖いです。死ぬのも家が崩れるのも、家族が居なくなるのも全部嫌です。本当に怖くて、、文章ももしかしたらあまり語彙がなってないかもしれません。すいません。。ずっと泣いてばかりです。どうしたらいいのでしょうか。

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夫が急死し辛くておかしくなりそうです

一昨日の夜、最愛の夫が自宅で睡眠中に心臓起因の発作で急死しました。 夫48歳、私47歳、結婚して22年、高校生の子供が2人います。 当日の夜まで特になんの兆候もなく元気だったので、あまりに突然のことに現実感がまったくありません。 しかし葬儀のことや夫の生活の跡など現実に直面すると辛くて悲しくて頭がおかしくなりそうです。 あの優しかった夫にもう二度と会えない、なんでも夫を頼っていて、高収入でもあったため、その収入も断たれ(私は身体が弱いため働くことが難しいです)、この先の生活のことも考えると不安で心細くてたまらなくなります。 今は睡眠は薬でとれているのですが、いつもより頭がぼーっといつも眠い感じがし、食事も身体が受け付けない状態で無理矢理食べてはいるのですがすぐに気持ち悪くなってしまいます。 私はこの先なんのために生きていくのでしょうか? 子供たちもいますし、強い母となって子供たちを育てなければならないことは分かっています。 でもそれを終えた先、私はいつか1人になってしまいます。早く(10代の頃)から夫と付き合い結婚し、ずっと夫との生活だけが全てだったので、他に何もありません。友人もほとんどいません。 1人になってしまうことがとても怖いです。 夫のそばに行きたい気持ちを子供たちでつなぎ止められていますが、生きている意味が分からなくなりました。 希望の光をいただけましたら幸いです。 よろしくお願い致します。

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どうしても浄土真宗のお経をネガティブな解釈してしまう

どうもこんばんは 以前からの質問を見ていただければ分かると思うのですが、無量寿経の41願について「信心決定したものは諸根が具足する。だから諸根の具足していない者は救われない」といった解釈に気を取られて、ずっともんもんとしておりました それで、ハスノハでお坊様の意見を聞いたり、本で調べたりしたところ、「その解釈ではみな救うと誓っている18願の誓いが守られないからそれは我々に関係のない菩薩様への願だ」「十住以上の菩薩様は三悪道に堕ちることがないので、浄土を願わないものもいる。そうした聖道門の方々を浄土門へ引き入れるための願」「諸根ケツルというのは念仏という大道を知らないこと。哲学者や聖道門の方々も名号を聞くことで諸根具足することができる」「42願~48願を見ると、他方国土の諸菩薩というのは名号を聞くとただちに三昧を得るような方々であるので、われわれには関係のない願」「そもそも障害というのは実体的なものではない」「身体に不自由がないというのは、浄土へ行くのに不自由がないこと」という頭では合点できるような説明がたくさんありました。ハスノハの皆さん、ありがとうございました。 けれども「けれども」なんです…。「もしも」41願が念仏者が諸根具足するという願だとしたら、体の弱い自分は救われないかもしれない…。と、この「もしも」が頭から離れないのです。おそらくこれは、阿弥陀様への疑いと、自力のはからいでもって、このような状況になっているのだと思います。 この「もしも」というのを消す方法はないでしょうか…。そんな上手い方法はないとは思いますが、なんか愚痴みたいになっちゃいました、すみません。阿弥陀様を疑ってしまい、お経をネガティブに解釈してしまう自分がいる。それが悩みです。

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社会の不安について。

こんばんは。 私は、この世界が歪んで腐って見えています。 今世界はISISなどによる国際的なテロや中国などによる領土侵犯、国内では様々な議員による汚職や失言問題など、国内外問わず何かと良からぬ事件で持ち切りな状態です。 そんな中でも一番歪み、腐っていると感じるのが、日本人についてです。 今年、解散した若者を勝手に代表していた団体では、何でもかんでも「話し合い」をしようとする、非常に綺麗なお花畑をお持ちでありました。 開かれるであろうオリンピックに関しては、後から問題が噴水の如く大量に吹き出てきました。 日本人は、よく「平和ボケしすぎ」ていると言われます。確かに、外国を旅行したことがあるとそれを痛感します。 でも、それだけじゃない。日本人は、「目を開けていない」というのが私の考えです。 ニュースで取り上げられた沖縄に関する二つの例をあげましょう。 一つは、アメリカ人による事件です。あれはかなりニュースなどでも騒ぎ立てられました。確かに酷い事件だと思います。 しかし、その後に起こった現地のアメリカ人による道路でも頭を下げていた行動は話題になったでしょうか。 もう一つは、記憶に新しい機動隊員の「土人」発言です。 確かに差別用語を口にしてしまうことは許されないことです。しかし、「土人」と呼ばれた活動家が行っている暴力や暴言など、機動隊員に対する「侮辱」は報道されたでしょうか。 事件の被害者を蔑ろにしたい訳ではありません。しかし、日本人はあるニュースのもう一つの面を見ているでしょうか。 報道されなかったから知らなかった、と大部分の人は言うでしょう。しかし、そういった記事は、多少の疑惑はあるにしても、存在はしているし、気になれば閲覧だって可能です。 しかし、人々は言います。「なんて酷い事件なんだ」「アメリカ人、機動隊員は最低だ」と。何故そんなことが起こったのかも気にすること無く、流れてきたものをただ受け取って。 私は、そういう人間が嫌いです。背景事情を知った上で、それでも批判するなら理解できます。しかし、彼等は「目を開けよう」ともせず口にします。 私の考え方は間違っているのでしょうか。加害者を支持する「悪」なのでしょうか。 長文失礼しました。何かアドバイスを頂けると幸いです。では、よろしくお願いします。

有り難し有り難し 38
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2024/11/30

人生との向き合い方

現在35歳になります。 今年誕生日を迎えた際に自分の人生は何だったんだろう、今まで何をしてきたんだろうと、後悔が一気に押し寄せてきました。 10代は実家での祖父の暴力が酷く落ち着ける時がありませんでした。 20代は3.11とリーマンショックが重なり就職がうまくいかず、なんとか就職したものの、仕事がうまくいかなかったこと、残業が月100時間を超えてしまい、新卒で入った会社を1年半で辞めてしまいました。 その後も2番目に入った会社でも人間関係がうまく続かず離職を繰り返してしまいました。 なんとか派遣会社にも入ったりしましたが、勤め先が不祥事を起こして仕事がなくなったり、派遣先をクビになることもありました。 31歳からは福祉施設で社会復帰を目指して事務の業務を行なっています。 ただ、31歳から心労なのか思い喘息を患ってしまい、コロナ禍もあり、引きこもるようになってしまいました。 特にここ数年間は喘息もあり、家にいる時はほぼ寝たきりで過ごしました。 今年になり、喘息が寛解してきたと同時に、何にも成せなかった、何にもなれなかった人生を歩んでしまったことに絶望しました。 今の事業所から独立したいと考えるようになりましたが、年齢的にも就職では足切りに該当する年齢になりました。 最近は将来に対する不安や今までの人生何だったんだろうという後悔でパニック発作を起こすようにもなりました。 若くして成功されている人達を見ると悲しくなる時があります。 福祉施設で働いていますが給料はかなり低いのでお昼ご飯は食べずに働いています。 恋愛もうまく行きませんでした。 ボーナスも今までの人生もらったことはほぼありません。 ただ、20代に諦めてしまった趣味に再度挑戦してみようかなと思います。ただし年齢的な部分があるのでどこまで続けていけるのか不安はあります。 最近は加齢からか時間の体感時間が早くなり、このまま何も成せず絶望したまま独身で1人で死ぬのかと絶望感が大きいです。 今後の人生に絶望せずに歩んでいける指標があればお願いします。

有り難し有り難し 5
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自分のことが大嫌いです

私は今まで一瞬でも自分のことが好きだと感じたことがありません。 根性がなくて、他人にを認めず、優しくできず、心も容姿も醜い人間だと思います。 私は世界一生きる価値のないクズだと思います。 13歳のころから30を越えた今まで自殺願望を抱き続けています。 でも未だに死ねていません。自分勝手な死に方で他人に迷惑をかけてはいけないなどろんな理由をつけて死ぬ勇気がないのです。 今、小売業の経営をしています。 年老いていく母にゆったりとした暮らしをさせてあげたい、一緒に経営している兄にお金を稼ぐ道標をつけてあげたい、 働いてくれる従業員さんが少しでも幸せだと思える職場を作りたいと思い店をはじめました。 本来、私は人の上の立てる人間ではありません。 職場で時間は守りなさい、報連相は徹底しなさい、自分で公言したことは守りなさいと何度も 兄にも従業員さんにも伝えました。 特に大学生のアルバイトさんはこれから社会に出ていくための練習で 自分の店で少しでも学んで育ててあげたいと思うから、約束を守れなければ叱ります。 でも兄にも一部の従業員さんにも私の真意は理解されません。 兄は、学業が本分である子にアルバイトで遅刻したら叱る、約束を守れなければ叱るのは 酷だと言います。 母に相談してもあなたが経営者なんだからもっと努力しなさいと言われます。 正しい意見だと思います。でも私は母にさえ無能で、根性がないと否定されている気がします。 店で何かトラブルがあると全てお前が怠けているからだと周りから責められている気分です。 自分の存在価値が見いだせない私は無性に消えてなくなりたくなります。 私は努力の足りないどうしようもなく弱い、情けない人間です。 人間でもなくゴミ以下の何か、とにかく存在意義のないものなのかもしれません。 全て私が悪いと自分に失望しながら生きているのは思った以上にしんどいです。 私は死ぬことが一番世のため人のためではないかと思うようになりました。 私が私という存在ををどうとらえたらいいんでしょうか。

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高望みしてしまう欲とどのように向きあえばよいでしょうか?

こんにちは。 自分の欲にどのように向き合えばよいかわからず、相談いたしました。 まず始めに、自らを棚にあげた上から目線な内容を含むことをお許しください。 最近、初めて彼女ができました。 運がいいことに、性格的な相性がよく日々楽しくお付き合いをしています。 ただ、容姿はおそらくやや悪い部類なのだろうと思っています。(容姿が嫌いなわけではありません) 理屈では、容姿以上に性格の相性が良いことを大事にすべきだとは思っています。 しかし、もっと容姿がよければ、または同じくらい相性が良くて容姿もいい人と付き合えるかもしれない、といった、もしもの考えや高望みがどうしても出てきてしまいます。 私にあまり女性経験がなかったということもあり、自分の考えに自信を持てていないのかもしれません。 今の方と別れたいと思ってはいませんが、 このままではこの感情を抱えたまま付き合うことになりますし、仮に容姿が良かったとしても、理想と合わない別のアラを見つけて悩むのでしょう。 この欲と自分の中で納得のいく形で折り合いを付けたいのですが、自分だけでは良い答えを見つけられていません。 何かこういった場合の心構えやアドバイス等ありましたら、ご教授いただきたいです。 長文になってしまいましたが、ご回答頂けますと幸いです。

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亡くなった愛犬は、幸せだったのでしょうか

16歳1ヶ月の愛犬が亡くなりました。   出会いは中学3年生の時。家族で1番溺愛していました。 大学4年の頃、両親が離婚。母が愛犬を連れて家を出ました。愛犬は父が大好きだったので、精神的ショックを受けないよう、母と絶対愛犬を幸せにしようと誓い、愛情を注いできました。 愛犬が13歳の時、次々と病気が見つかりました。獣医と相談して、生活の質を落とさないようにやれることをやりました。去年の秋、15歳半ばで脳腫瘍が見つかりました。私は出産間近でした。 痙攣の頻度が増えました。大切な愛犬が、泡を吹いて痙攣している。受け入れ難い光景でした。何とかして助けたくて、痙攣を起こしたら座薬をさし、治らなければ病院へ行く、そんな毎日でした。 子どもが産まれてから、精神的にも不安定で、適応障害になりました。愛犬に会えなくなった間も、懸命に生きてくれました。 今年の6月から愛犬は一気に弱り、寝たきりに。毎日の痙攣と、痛みで何時間も悲鳴をあげました。私の体調も良くなり、毎日子どもを連れて介護に通いました。子どもが立ち歩きし始め危なっかしくて、愛犬に十分な介護をすることができませんでした。でも、精一杯向き合いました。 亡くなる1週間前から、愛犬を可愛がってくれた人が遊びにきてくれました。亡くなる前日は、抱っこしながらたくさん話しかけました。虹の橋のこと、私がどれだけ幸せだったか、感謝しているか。亡くなる数時間前、一切何も口にしなかった愛犬が水を飲みました。私と母は大喜び。意識もないはずなのに、愛犬はチラッと私の顔を見ました。信じられませんでした。 その日の夜、母が「1時間おきに起きるから、あなたは子どもと寝なさい。」と言ったので寝ました。愛犬は母の隣で、その近くで私と子どもは寝ました。夜中、息をしていない愛犬を母が見つけました。まだ柔らかく、あったかい体。とても穏やかな顔をしていました。苦しまずに逝ったのだと感じ取りました。 やり切ったつもりです。でも、子供の世話もあり介護に集中できなかった、最期の夜寝てしまったことが悔やまれます。壮絶な闘病生活を送った愛犬を看取りたかった。 後悔が次々に出てきます。もっとできたと自分を責めています。愛犬は幸せだったのか。一生分からないことなのは理解しています。でもどうか幸せであってほしい。この気持ちとどう向き合っていったらいいか分かりません。

有り難し有り難し 18
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2024/04/05

昔の教え子と相撲をとり思わぬ結果に戸惑い

以前下記の質問をした者です。 https://hasunoha.jp/questions/66841 ご回答どおり教え子と相撲をとりました(スポーツ施設内の正規の土俵です)。 私は47歳、170cm、102kgの巨漢。彼は20歳、168cm、53kgの細身。 結果は10勝5敗で...彼の勝ち越しでした。 こんな結果になった原因ですが、私の体力が衰え過ぎでした。 日頃の運動不足に過度の喫煙が加わり、すぐに息切れしてしまいました。 そして脚の筋力はないのに体重だけはあるので自分の巨体を支えきれず、常に膝が伸びて棒立ちでした。 足腰が不安定な状態で彼に懐に潜り込まれ、私はまわしがとれないまま彼に双差しを許し、巨漢の私が細身の彼に真正面から寄り切られてしまう、という内容が大半でした。 最後の取組もこの負け方でしたが、土俵際に追い込まれた際あまりの苦しさに「まわしが、とれない」と声に出してしまう程でした。 私は、年齢差もあるので彼に負けるかもしれないとは思っていましたが、まさか幾度も真正面から寄り切られるとは予想していませんでした。 尤も、事前にまわしを締める際、私は羞恥心もあり下に短パンを履きましたが、彼は「男と男の勝負なので正々堂々と戦いたい」と、お尻を出してきました。この時点で、私は彼に気持ちの上で負けていたのかもしれません。 対決が終わった後、負けた私は寧ろ清々しい気持ちでした。 小学校時代は本当に華奢で身長も体重もクラスの男子で最低だった彼が、 私の巨体に物怖じせず相撲で真っ向勝負を挑んでくるほど強く育ってくれたこと、 女子にもよく泣かされる弱虫だった彼が、恥ずかしがらずにお尻を出してまわしを締めるほど精神的にもたくましくなってくれたことが、教師として嬉しくて仕方ありませんでした。 その反面、勝ったはずの彼の方が、どこか物悲しげで寂しそうな表情をしていました。 「勝てると思ってなかった」と幾度か言っていたので、私を本物の力士のように強いと思っていたのでしょう。 現実の私は、彼の思い描いていた姿ではありませんでした。10年の歳月はやはり残酷ですね。 彼に、電話か手紙で励ましの言葉を贈ろうと思います。敗者が勝者を励ますというのも変な話ですが、相撲の勝敗と勝負後の気持ちが逆だったので、私が励ます側だと思っています。何と言ってあげれば良いでしょうか。

有り難し有り難し 23
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2025/04/26

生き物の本来の姿に対する恐怖

生き物の本来の姿とは、闘争と弱肉強食です。自分を存続させるために他者を食らい攻撃するのが生き物です。日本においてはこの80年が奇跡のようなものでしかなかったと、昨今の国際情勢が物語っています。 枯渇する資源を巡って奪い合いの世界では、力による現状変更が正当化される時代に逆戻りしてしまいました。いつどこで世界規模の軍事衝突が発生してもおかしくない、どこで核兵器が使われてもおかしくない世界になってしまいました。 しかし、私はこの仮初の平和に固執してしまいます。この命が終わった後に、またこの争いの世界に生み出されると考えると恐ろしくてなりません。しかし極楽浄土が現世に存在せず、私の命などといったものは脳味噌をはじめとした身体の生体反応でしかないという事実の上では、どうあがいてもこの絶望的な結論から逃れられず、狂いそうになります。 戦争に巻き込まれて無残に死ぬのは、これまで家畜や虫などを殺してきた報いなのかもしれませんが、どうしても受け入れることが難しいです。これはいけないことでしょうか。これまでの罪の報いとして受け入れなければならないのでしょうか。 今の国際情勢のすべてが、人間としての限界、人類史の終わりに向かって真っすぐ進んでいるとしか思えません。欲望を剝き出しにする権力者が己の行いを反省する頃には、この地球は焦土と化しています。今の国際情勢を見ていると、10年後、5年後があるとはとても思えません。少し調べれば、もうすべてが破滅に向かっていることがわかります。それに対し希望や問題の解決策が存在せず、希望と絶望を天秤にかければ大きく絶望に傾きます。 「平和とは、戦争と戦争の間の期間だ」という言葉があります。そして今、その通りの時代になっています。そして、人間は地球のすべてを破壊してしまえるほどの兵器を手にしています。身勝手な理論で戦争をしている国があります。生き物には元来いたわりや慈悲などというものは備わっておらず、あるのは自己保存のための闘争本能です。そして死んだあともまたこの世界の脳味噌、生体反応の何かが自分として存在してしまいます。つまり、私達は無残な死から逃れられません。それが恐ろしいのです。 「耐えきれなければちゃんと死ねる」かもしれませんが、死ねないまま生きてしまう可能性もあり、また、死に至る痛み苦しみは避けられません。これを恐れるのは良くないことですか?

有り難し有り難し 10
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2023/12/29

同級生の自死経験を持つ自分ができること

初めてご相談させていただきます。 私は同級生を自死で亡くしております。この件、自分でも片をつけなければと思いつつ、なかなか進まないところです。 自死遺族の会というのは、同級生や友人が亡くなっている場合でも参加して良いのでしょうか。 (関係性の違いがあるので、一応確認です。) 二つ目は、こんな自分ができることはなんだろうと思っていた時に、ゲートキーパーの存在を知りました。 今はお世話になっている身なので難しいですが、いずれは自分もなりたいと考えています。 ある時は語り部として、ある時はゲートキーパーとして、ある時は社会人として(これから社会人になるのですが)生きていけたらと思っています。 こんな考えでは甘いでしょうか。 もう、同じ惨劇を繰り返したくないという気持ちが大きいです。 補足 件の同級生は、小学校が一緒でした。一度も同じクラスになることはなかったけれど、 彼女がひとりぼっちで浮いているのは知っていました。何度か一緒に遊ぼうと声をかけたのですが、毎回断られてしまったので。 中学に入学したら、彼女と同じ部活になって。これからお話ができるかもしれない、 彼女のことを知ったり、友人になれるかもしれない、そんな期待と新しい日々が入り混じった頃、彼女は亡くなりました。 あの頃の自分は精一杯やったと思うのですが、同時に、彼女に対して何かできたのではという思いでいっぱいです。 ご回答よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 16
回答数回答 2