先日、息子(11歳)の一周忌をお寺で行いました。 帰り際に、少しだけお坊さんとお話をしました。 『まだ、納骨をしていないんだよね。まだ 置いておきたいかい』と優しく言ってもらいました。 私も、まだ、いっしょにいたいのですが。と話すと、 お坊さんに『いつまでも若くていいね』といわれたのです。 何をいっているのだろう、意味があるのかなぁと考えていたのですが、『若くて』ということは 『何もわかっていない』ということなのかなと解釈したのですが。どのように、解釈すればいいか 教えて下さい。
初めまして。 見つけてくださってありがとうございます。 お坊さんと親しい仲になり 結婚したら…の話もよくするようになり いつかこの方と結婚して一緒に暮らすんだと 思って2年間を過ごしていました。 先日急にLINEを既読スルーされるようになり、 理由を聞いたら 「他の女性に子供が出来て結婚するんだ。 だから君とはもう会えない。ごめんね」 と言われました。 いきなりすぎて 「幸せになってね!おめでとう」と 返したものの、私は何だったんだろう?と 悲しくて吐き気がして吐きました。 仕事も失敗ばかりするようになり、 人が信じられなくなりました。 全てが上手くいかない気がして 生きるのがしんどいです。 お坊さんも人間ですし、 性欲は当たり前にあると思うんですが そんな軽率なことするなんて 思いませんでした。 私はこれからどうしたらいいのか 分かりません。 お坊さんにまで裏切られるとは
最近、中国茶のレッスンに通い始め、お茶に関する本を色々と呼んでいます。 茶の歴史の中で、日本におけるお茶は遣唐使が持ち帰ったお茶から始まっています。 そのような歴史的なことはいくつか本を読んで、何となく分かったのですが、、現代におけるお茶と仏教の関係については文献を調べてもあまり分かりません。 現代を生きるお坊さんの中でお茶はどのような位置づけなのでしょうか。 宗派によって何らかの儀式があるようであれば教えてほしいです。 また、そういうことについて記述している文献があれば知りたいです。 お手すきで結構なので、ご回答よろしくお願いいたします。
御覧頂きありがとうございます。 カテゴリー違いでしたらすみません。よろしくお願いいたします 映画、ドラマ、アニメ漫画、小説から芸術作品まで、何にしても、見る人の感性や価値観によって大きく感想や印象、好き嫌いが変わると思います。 そこで世間、いわゆる俗世間から離れ、「一般的」とは価値観の変わった御坊さんはどんな作品のどんなところが好きなのかな?と気になりました。 絵画や写真ならまだしも、映画などストーリーのあるものとなると、やっぱり仏教観が影響してくるのではないかなと思うのです。 多くの人がたいして注目していない部分にも「すばらしい、いいね!」と感じたり、またその逆などが起こるのでは?と。 それとも、そこは特に影響しないでしょうか。 普通の作品でも、宗教ものの作品でもありがたいです。好きな作品やその作品のどんなところが好きかお教え下さい。よろしくお願いいたします (ちなみに、セイントお兄さんという仏陀とイエスの友人漫画のクチコミが、キリスト教徒からの高評価ばかりで仏教徒からのレビューはみあたりませんでした(笑)。教徒のそれぞれの宗教観の違いか、教徒の母数の問題かわかりませんが。)
来年から修行寺(?)に入る予定の40代の彼氏がいます ゆくゆくは結婚も考えている関係です 彼氏のお寺の宗派臨済宗とのことです クリスマス+応援のプレゼントを考えているのですが、決めかねています 他の方の質問と、腕輪念珠や日常生活で使える(持ち込める)ものがいいとの回答を拝見しました 臨済宗のお坊さんに腕輪念珠をプレゼントしても問題はありませんか? 問題ない場合は、デザインや値段等どのようなものが適切なのか教えていただけますでしょうか 腕輪念珠以外のものでアイデアがありましたらそちらも教えていただきたいです 専門的な部分についての把握ができておらず申し訳ございませんが、ご助言いただけますと嬉しいです よろしくお願いいたします
お坊さんは空手などの競技でなら蹴ったり殴ったりしてもいいんですか?
人に言えない秘密…私はいくつかあります。お坊さんにもあるのでしょうか?
hasunohaのお坊さんで、劣等感を持っている人はいるのですか?
私は、最近よく読書をするようになり、そのなかで「禅」に興味を持ち、「100歳の禅語」や「道元『禅』の言葉」などを読んでもっと学びたい、もっといろいろな事を知りたいと思うようになりました。 本屋の宗教や自己啓発のコーナーなどで「これだ」と思う本を探していますがなかなか良いものに巡り会えません。 何かお坊さんオススメの本のはありますか? 「禅」や「仏教」以外の分野でも「これはためになる」「この本はぜひ読んでほしい」「これはおもしろい」というような本があればぜひ教えて下さい。
僕には子供の頃から17年飼っているペットの猫がいます。 僕にとってはペットではなく、親友でありかつ手のかかる子供のような存在です。 ですがいい年なので色々な病気の兆候が出てきています。 食欲があるのに歯周病の歯が痛くてゴハンが食べれない、でも高齢なので麻酔して抜歯することも腎臓の数値が高いのでできない。 辛そうにしているのを見ると僕もとんでもなく辛い気持ちになって、もっとしっかり歯みがきしてあげてたらとか一日中そのことを考え他のことが手に付きません。 そこで僕は仏教に救いを求めたいと思いました。 と同時に修行したお坊さんなら同じ時ほんとに平常心でいられるのかな?って疑問に思ってここに書き込みました。 仏教は事実のみに親しむと聞きました。つまり苦しんでる大切な存在を見て、できることがなかったとき、できることがないのだからそのことに対して不安になることもなく、一日中考え続けることもなく、そのことは置いといて平常心でいつもと変わらぬ日常を送れるのでしょうか? そうなりたい反面、それってちょっと人間味に欠けて悪く言えばサイコパスなようにも見えてしまいます。
お坊さんは、普段から、体力増進のために特別なトレーニングなどされていますか。日々の修行・仕事で、それは培われますか。
お坊さんは仏様とどんな関係になりますか? 仏様の代弁者のような存在になるんでしょうか?
質問させてください。 私の家系は、高野山真言宗です。 詳しい言うと、本家の菩提寺が高野山真言宗ですが、 祖父が亡くなったときに父が民間の霊園にお墓を新たにを建てたので、菩提寺はありません。 今年父が亡くなり、通夜、告別式の時に真言宗豊山派のお坊さん、四十九日法要の時は真言宗御室派のお坊さんにお経をあげて頂きました。 派が違うお坊さんにお経をあげて頂いても問題はありませんか? 葬儀、四十九日法要の時、私の中で「真言宗」という大分類の認識しかなく、真言宗のことを勉強していたら、各派があることを知りました。 因みに父は真言宗○○派など、こだわりはなかったと思います。(正確には派があるなど知らなかったと思います) 宜しくお願い致します。
先日月参りにきて頂いた、いちばん親身な方から言われました。4人いるお坊さんのうち、この方を含む3人が辞めるとのこと。残るのは70代の住職と、自分のお寺と掛け持つ70代のお坊さんのみ。 うちの地方は月参りがあるのですが、それも出来なくなること、お盆のお経あげも来れないことを言われました。 通夜が入っても段取りができないかも、とも。 3月末でみなさん辞めてしまい、住職は5月まで本山にいます(曹洞宗)。 我が家は主人が独身の時に買った120万の納骨堂があり、お寺を変えるにしてもお金が戻らないので変えることもできません。 お寺に跡取りもいないため、どうしたらいいのか途方に暮れています。 檀家には、このお坊さんが月参りの時に話しているだけで総代会議とか一切ありません。 こういう場合、檀家はどうしたらいいのでしょうか。不安な気持ちのままいるしかないのでしょうか? 曹洞宗のどこかに問い合わせたりなど、出来ないのでしょうか?
私は時間の使い方がとても下手です。 時間が空けばあれこれして...と考えていますが、いざ空くと何もせずボーっとしてしまいます。 時間は誰しも平等だし、作るものなのになぁと、後で後悔します。 私から見るとお坊さんは毎日時間がゆっくり流れているように見えるのです。 でも家々を自転車で回っておられたり、お勤めや掃除されている所もよく見かけます。 きっと私が想像できないくらい忙しいんじゃないかと思うのです。 そこで聞きたいのですが、 毎日自分の時間はとれるのですか? 時間を作る工夫はされていますか? 就寝、起床時間は何時ですか? お答えいただければ嬉しいです。
実家が寺院です。 住職をしている父親の在り方に疑問を覚えるとともに、自分の将来について悩んでいます。 現在、人々のお寺への関心は少しずつ薄れているものと思います。そんな中、私の実家は今でも多くの檀家の方々に支えられ、お寺として成り立っています。しかし、父はその有り難さが分かっていないように思うのです。 具体的な収入(僧侶が頂くお金を収入と呼ぶのは語弊があるかもしれません)を私は知りませんが、高級車を何台も乗り継ぎ、沢山の娯楽品を購入し、暴飲暴食…。具体的な発言があったわけではありませんが、「僧侶も職業だ。稼いだ収入を好き勝手使ってもいいだろう」というような気持ちが根底にあるように思います。 お寺の管理として沢山の工事も行い、綺麗なお堂を建てる一方で、景観として素晴らしい大きな木を何本も切り倒すようなこともありました。 非常に恥ずかしく思うとともに、悲しく、また、檀家の皆様に申し訳なく思います。そんな父の「粗さ」に母親が涙する日も増えました。ただ、私もまた、そんな父の援助があって、仏教科ではない別県の大学へ進学しているため、やっていることは本質的に父と変わりないのだと思うと、苦しくなるばかりです。 父親のような僧侶にはなりたくないと思います。ただ、日々誰かの死と向き合う仕事ですし、お寺としての管理も父なりに苦しんで考えているものと思います。大きなストレスもあるでしょう。父がどんな気持ちで高級車を乗り回しているのか、分かる気もします。改めて、現代におけるお寺や僧侶というものの在り方の難しさを感じます。「苦しすぎて私にはとても継げない。」「自由に暮らしたい。」「普通の家庭に生まれたかった。」そんなことを連連と考えてしまいます。 悩みやすい性格で、父親のことも悩みの一端に過ぎません。ただ、お寺の道に進むのか否か選択を迫られる時期が近づいてきており、「お坊さん」として生きていらっしゃる方々の言葉を聞いてみたいと思い投稿しました。 お坊さんとしてお金とどう向き合っているか。お寺への関心薄れる現代において、お坊さん・お寺として、今後どう在るべきか。また、悩んだ末に実家を継いだ方がいらっしゃいましたら、その決断に至るまでのお話など、相談としては漠然としており申し訳ないですが、何かご意見頂けると有り難く思います。
自分は現在 自律神経失調症、パニック障害、強迫性障害です。それで写経や座禅会、神社お寺巡りをするようになりました。 朝一番の掃除もお坊さんがやられると聞いて強迫観念とは別にマットレスだけは毎日掃除することにしてます。開経偈、般若心経、廻向文を朝唱えてます。 その他にお坊さんが普段簡単にやっていらっしゃっているものがありましたら教えて頂ければ有り難いです。
自分の欲望がわかりません。 自分は幸せだと思います。現代日本に生まれ、健康、大学にも通えていて、恵まれた環境に感謝しています。日々の生活も自分で自分を褒めたりして、頑張っています。毎日に満足していますし、精神的に不安定ということもなく、至って健全に、前向きに生きていると思います。 十分幸せなのに、ふと乾いたような、何かに飢えているような気持ちになる時があるのです。 でも自分でも何が欲しいのかわかりません。 生活には満足しているし、欲しいものもなく、足りていないものはないはずなのです。 お坊さんは、物足りないなと感じることはありますか? 得体の知れない渇望にモヤモヤする日々です。 どうしてこんな気持ちになるのでしょうか。心構えにお坊さんの助言をいただけますでしょうか、、
皆様がこの不安な世の中を生きるために苦しい胸の内をご相談されているなか、このような質問をするのは忍びないですが、是非ともお教え願いたいです。 最近、神社やお寺をお参りしていて、四国に住んでいるのもあり、四国霊場のお寺を順番は関係ないですが行ける時に行ける範囲の所へ足を運んでいます。 昨日、子供たちを旦那が見ていてくれるというので、少し距離はありましたが香川のお寺にお参りにいきました。 14時を少し過ぎて到着し、御朱印帳を用意して納経所へ行ったのですが誰もいらっしゃらず、インターホンがあったので鳴らしました。 次にお寺に行った時はお線香をあげさせてもらいたいな、と思っていたので、初めてだし質問してみようかなとワクワクしながら待っていました。 すると別の建物から若め?のお坊さんが出てきてくれたのですが、あからさまにめんどくさそうな顔をされ、会釈をしても、お願いしますと声に出して言ってみても無視され、御朱印帳もぱっと取られ、お釣りの小銭も御朱印帳の上に置いて返されました。 お礼はなんとか言えたのですが、内心すごくショックで、お線香のことも聞くに聞けずでした。 自分なりに大事にしている御朱印帳なので、小銭置きにされたのは正直腹が立ちましたし、それなりの時間をかけて子供たちも旦那に預けてお参りに行っていたので本当に残念でなりませんでした。 しかし家に帰る途中、ひょっとすると神社とお寺の御朱印を一緒にしていたのがいけなかったのかな、それとも緊急事態宣言が解除されたとはいえ、このご時世の中来ないでほしかったのかな、と頭によぎりました。 今まで行ったお寺では、特に何を言われるでもなく、ようお参りくださいました、とまで言ってくれる方もいたので、謎です。 もしかして、14時くらいからお坊さんのお昼ご飯は始まるのでしょうか。 なにか私に悪いところがあれば、納得もいきますので、どうかお教え頂きたいです。
このサイトでお坊さんたちが悩みに答えるのはなぜですか? 有り難し、お気持ち、または感謝の言葉が欲しいというような俗な気持ちは全くないものなのですか?