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検索結果: 1015件

『なぜ私だけが苦しむのか』

これは私自身が生きる中で抱いた怒りや悲しみではなく、hasunohaで数々の質問を目にする中で生じた仏教への一般的な関心に基づくことを最初にお断りしておきます。 H.S.クシュナーの『なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記』(齋藤武訳)を既にご存知かもしれません。この本は、私の理解する限りでは最後の章で次のような普遍的な問いを扱っています。 「なぜ、善良な人が(あるいは私が)不幸にみまわれたのか」 「私の苦しみが単なる不運であるなら、私が苦しんでいることになんの意味があるのか」 「正しい人も悪い人も同じように苦しむのだとしたら、だれが宗教なんか必要とするだろうか」 諸行無常、諸法無我、一切皆苦。「それはわかっているけれど……」「死んだあとのことを今いわれても……」というのが、これまた雑な理解に基づく感想で申し訳ありませんが、仏教徒にとってもまた正直な反応ではないかと感じています。一例として、ターミナルケアの現場において、死後の世界に関する教義が死への恐怖を有意に和らげているとはいえなかったという話をどこかで耳にしたことがあります。 これらの問いに対して、皆さんは時に誰かの、時にご自身の問題としてどのようにお考えになるでしょうか。あるいは宗旨の違いにより、そもそも仏教ではこうした問い自体が前提から不適切かもしれません。そうであれば、仮に目の前の方がこのような疑問や怒り(たとえば病気について)を投げかけてきた時、その方に対してどのようなお話をされるでしょうか?

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仏教の教えについて

 こんにちは。再びこちらで質問させていただきます。  以前読んだ呉智英著「つぎはぎ仏教入門」という書物の中では、私の従来のイメージとはかけ離れた仏教観が述べられており衝撃を受けました。お釈迦様の物語では、お釈迦様は家族を捨てて出家しており、出家者に対しても①家族を捨てること・②生涯独身でいること・③労働をしないことを要求しています。また梵天勧請のお話では、お釈迦様が悟った後に「私が悟った法は、その内容はあまりにも高度なものであるから、一般の人に説いてもわかるまい。」とそのまま涅槃に入られようとしていたようです。  これらの物語を読むと、仏教とは決してヒューマニズムのような耳障りの良い教えではなく、むしろ社会の常識を揺るがす危険な思想なのではないかと思いました。また、仏教の一番の目標は、やはり「悟りを開くこと」ですが、「悟り」とは私が今まで考えていた「あるがままの世界を観じる」というような単純なものではなく、もっと峻烈で幽玄なものではないかと思いました。  これらを踏まえると、日本の仏教ではお坊さんは妻帯をして、労働されている方もいらっしゃるのが普通の光景です。社会に歩み寄るという点では、ある程度の妥協も必要であるとは思いますが、釈尊の本来の教えから見ると、修行や悟りを軽視している面があるのではないでしょうか? また、その教義が初期仏教とは異なる宗派もいくつかありますが、ある教えが仏教であると言える条件は何なのでしょうか? 日本で悟りを開かれているお坊さんはどれくらいいらっしゃるのでしょうか?  その辺りを、お坊さんはどのように考えられているのか伺いたく、質問させていただきました。どうぞよろしくお願いします。

有り難し有り難し 77
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生きがいってなんでしょうか。

みんななんのために生きているんでしょうか? 私にはよくわかりません。 学生の頃から疑問に思っていて、結婚したら何かが変わるのかな?と思っていたけど、私のままです。 ゲームやテレビ、動画やDVDを見たりが好きでしたが20代後半になりそこまで楽しいと感じなくなりました。 つまらない、退屈だな。と。 家庭環境で苦労してきたので、子供を持つのが怖いです。不安で、お金のことや自分の身体が弱いので自分の親のように死んで居なくなってしまうのは避けたいと考え、楽しみという気持ちは少なく、慎重になっています。 自分の学生時代が辛いもので、家族がほしいと思ってました。父親だけが自分を心配してくれる家族です。 子供の頃父は母が死んだ苦労でネガティブな言葉を私の前で言うことが多く、子供を持つと苦労するし遺された人が面倒を見るしかない、と言う感じだったので子供を持つ=お金もかかるし責任もあるし大変なこと 覚悟がないと作ってはいけない、と言う印象を持ちました。 なので旦那は自分が死んでから困らないように自分のことは自分でできる人を選びました。もう苦しむ人は見たくないです。 人は、こちらがどんなに信頼していても裏切るし、酷いことをしてきます。今自分に残っているのは嘘をつかない、思いやりがある友達1人です。他は利用されたり、自分のことしか考えていなかったり、私に嫉妬してきました。 私は人が好きではありません。育った環境からきているのかな?と思っています。 仕事も今まで色々なことをしてきましたが、今時の冷たくて自分のことしか考えない同世代が苦手で、酷い言葉をかけられ無視をされたり、自分がきちんとしていてもそういう心の人に振り回されてしまいます。 なんのために生きているかわからないという人は家庭環境で家族がいなかったり、関わりがなく、生きる意味がよくわからないのでしょうか。 みんななんのために生きているのかよくわかりません。 1人でずっと寂しい思いをしていて、それが普通だったから、とくに生きている意味もわからず、家族がよくわからず、子供もいらないと思ってしまうのでしょうか。 何か悩みがあっても話せる人も聞いてくれる人もおらず(宗教での付き合いの人たちは聞いてはくれますが本物ではないので)、利益がなくても自分を大事に思ってくれる同性がいたらいいのに、と思います。

有り難し有り難し 31
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子供がかわいくてしかたありません。子供への執着をなくしたい。

まったく馬鹿馬鹿しい質問であることは承知の上でお聞きします。 子供を敷地内に同居している義理実家の人々に面倒見てもらいたくありません。核家族でがんばって子育てしている人から見たらほんとうにわがままだと思います。 なぜそう思うのか…?と自分に問いかけてみました。 便宜上は子育ての仕方が違う。や義理の家族のあのひとが好きではない。などうわべだけの理由はたくさん出てきました。 しかし、根本の部分を突き詰めていくと、私は自分の2人の子供がかわいくて愛しくて仕方がなくて、私だけを見ていてもらいたくてこのようにわがままを言っているということがわかってしまいました。 私は義理実家に子供が懐くのが嫌で子供が保育園に行っていない週末は全力で家にいないようにして、晩御飯を誘っていただいても断固として断り、義理の兄弟家族が帰ってくれば全力で嫌だ!!という態度をとり逃げてきました。また、大好きで愛しい旦那にもわがままを言い、泣いて"義理実家のあの人が嫌だ"や"あれが嫌だ"と文句を言い、私たちのことも義理の実家のことも含め、家族のことが大好きな旦那を困らせ辛い思いをさせています。 ここまで考えがたどり着いたのですが、このような状態の解決方法として思いつくのは、私が我慢をして子供も義理の家族にたっぷり愛してもらって旦那も私と義理の家族とのあいだに挟まれることなく私の家族、義理の家族共に仲睦まじく過ごすのが一番よいことだ。というのはわかっています。 でもこれでは私が我慢しなくてはいけません。 我慢するということはもちろん嫌だし、"我慢"ではいつかどこからか綻びが出てしまうと思っています。 ではどうすればよいか、もわかっています。私が義理の家族のことも自分の旦那や子供のように愛し、大好きな気持ちになることが最善の解決策だということがわかりました。 しかし、ひとを好きになる気持ちは自分でコントロールできるものではありませんし、"今日からあの人を好きになろう!"と思ってもできることではありません。 と、いうことは私の考えた解決策ではこの状況は打開できません。 質問の主な趣旨としては、どうしたら今より良い状況になるか。また、自分の執着や考えを変えるのはどのようにすれば良いのか? です。 長々と抽象的な質問をしてしまい申し訳ございません。回答をいただけたら幸いです。

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出家したい高校生です

こんにちは。 私は高校一年生の女子です。 私は、家庭環境が複雑で、中学校にもあまり通うことができず、今は通信制の高校に在籍しています。 通信制であるため、一日のほとんどを家で過ごしており、時間を無駄にしている虚しさに襲われることがあります。 そんな私の好きなことが、美術と哲学、宗教学でした。そういった学問は孤独な人生を送ってきた私にとって心の支えでした。 元々は美術の方をメインに学んでおりデザイナーを志していましたが、学費や家庭の諸事情からそれが難しくなってしまい、自分の生き方に悩み、精神を病んでしまいました。 そして精神状態を良くするために今度は哲学や宗教学の方を主に学んでいたところ、仏教の考えに興味を持ちました。 自分も精神的に高尚な人間になって、仏教に関わる生き方をしたいと思うようになりました。 また、大切な家族が自ら命を絶ってしまった苦しみも、そうしたものに奉仕することによって、消化できるかもしれないと思うようになりました。 数ヶ月前から、瞑想も毎日しています。 最近、真剣にお寺に出家することを考えています。 しかし周囲の人々からは「非現実的」「根性なしのお前にできるわけがない」「就職や進学がしたくないから逃げている」など厳しいことを言われました。 やはり私の考えは甘えなのでしょうか。 世間知らずの若者が高校卒業後、急に出家して、仏教に奉仕して生きたいというのは、非現実的な考えでしょうか。

有り難し有り難し 33
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2023/06/21

ダンマパダを学びたい!

 いつもお世話になっております。  私は、教会に通っております。他宗教の教えも勉強して みたくなった、また、正しい知識を身に着けて、カルト 宗教から自分や身近な人を守りたいと思ったからです。  教会に生きていらっしゃる皆様は、素敵な方ばかり です。私が見てきた、お寺に集う人たちとは大違い。 比べるのも失礼かと思うほどです。  牧師さんも大変博識で、聖書の内容を、いかに実生活に 活かせるか考えてお説教をされているご様子です。  私も、しっかり、自分の宗教の教えを勉強しようと思い ました。他宗教者の姿勢を見て襟を正したくなるなど、 皮肉なものですね。  ちょうど、自宅の本棚から、中村元先生の、 「真理のことば・感興のことば」という本が出てきました。  パラパラと読んでみると、素敵な事がたくさん書いて あります。仏教版聖書のようです。  そこで、私は、ダンマパダを勉強したい、身に着けたいと 思いました。  しかし、教会のように毎週お説教を開いているお寺は、 貴重です。開いていたとしても、他の宗派をけなしたり、 宗派の本尊以外の仏様を馬鹿にしたり、神秘主義に 走って、免罪符売りのようなことをしていたり… 信者も驕りに凝り固まっている人が多い印象です。  また、歴史上の偉人の名言などを、悪い言葉で言えば パクって話をしていて、教会のようにお経の解説をし、 お経の考えを実生活に生かすよう促しているようなお寺は、 皆無といった印象です。  ダンマパダは、とりあえず、「一組ずつ」、「汚れ」、 「怒り」、「はげみ」、「悪」、「心」から手を付ける つもりです。  しかし、一節一節の意味をこちらでお尋ねするのは、 こちらのシステム上、なんとなくはばかられます。 1週間も待てません。もどかしくて。  魔境状態に陥らずダンマパダを解釈するには、どうすれば よろしいでしょうか?  ご高見を賜りたく存じます。

有り難し有り難し 5
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崩壊した家庭環境に生まれた人間は、まともな人生を送れるのか?

私は現在大学三年生です。両親と兄を持つ四人家族です。大学が遠いので、今は実家を離れ一人暮らしをしています。 私の家庭環境は崩壊していました。私は今後まともな人生を送れるのでしょうか? 母は感情的で、よく怒っていました。父はモラルハラスメントをし、少し暴力的な傾向がありました。兄も暴力的で、私はよく暴力を振るわれました。 子供の頃には、いい思い出はあまりありません。断片的に記憶しているのは、碌でもない事ばかりです。 私が家で泣いていたら母に外に追い出されたこと。自分の好きなことをしていたら母に馬鹿にされたこと。勉強で分からないところがあり、悩んでいたときに、母に馬鹿にされたこともありました。理不尽に母から馬鹿にされるのは日常的なことでした。  また、母は新興宗教にとてもはまっていました。そこでの教えを私に強制してきたことがトラウマです。 モラルハラスメントを父がしてきたことは鮮明に覚えています。私が何かをやっている時に、それに構わず、自分との会話を強制してきました。どのような状況であってもです。それを辞めてくれと頼んだところ、「俺が稼いだ金でお前は生きているんだ。俺がお前に何をしようが俺の勝手だ」と言われました。 兄は暴力的な人でした。私はよく暴言を吐かれました。私が何か気に食わないことをすると殴ってきました。それを見た母は強く止めず、注意半分にその場を流すだけでした。それらを母に相談したところ、「私達も苦労しているんだ。耐えてくれ」といった旨のことを言われただけでした。 兄が目に見えて問題児だったため、私は我慢を強いられました。母と兄に馬鹿にされて、幼かった私はそれでも逃げることが出来ませんでした。そして、私は小学校を不登校気味になりました。家庭環境が少し落ち着いた中学校からはなんとか普通に学校に通いました。今、学費と生活費を払ってくれていることは、両親に感謝しています。 何か心の中に大切なものが抜けている感覚を覚えます。満たされなくて、とても辛いです。メンタルも弱く、他人に怒られると心が抉られる感覚があります。トラウマの治療も独学で頑張りましたが、疲れました。少々限界を迎えたようです。 こんな私はまともな人生を送れるのでしょうか? 強く生きようと私なりに努力をしてきたつもりです。それでも、さすがに疲れたようで、今はただ休みたいです。

有り難し有り難し 19
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輪廻転生が悪者にみえてしまいます。

お忙しい中申し訳ございません。 このような投稿をするのがはじめてなもので分かりづらかったり読みづらかったりされるかもしれませんがご容赦ください。 だいぶ前から考えていた事なのですが自分の中で否定ができないもので、その筋の方にアドバイスをいただきたく投稿しました。 もしかしたら失礼なことを言っているかもしれないので宗教のことなど何もわからない愚か者の戯言と思ってください。 もし、輪廻があるとするなら今世で上手く生きた人(いわゆる成功者)と今世で辛いながらもなんとか生きた人(成功体験のすくない人)が同じスタートラインに立つのはフェアではないような気がします。 また、良心等に問いかけ来世が自ら重荷をかすような人生を送るならわざわざ悪人はそのような人生を選ばないのではと感じます。 輪廻に選択があるのならば人のためというものは苦労が伴うため善人と呼ばれる人ほどこの世を選び続け辛くなるのではと感じます これらの事からどんどん要領のいい悪人がこの世に居続けてしまうように感じます。 個人というミクロな考えでは輪廻転生という考え方は非常にポジティブなことかもしれないのですが世界というマクロな考えではこの輪廻転生が諸悪の根源であるような気がしてしまいまして。 現実として自然破壊の進行や昔では考えられないような事件の発生などあり、こんなかなしい考え方をどうしても否定しきれません。 仏教等でこのような価値観の否定などはあるのでしょうか。教えて頂けたら幸いです。

有り難し有り難し 16
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過去の懺悔。今後の生き方

私は結婚する前に浮気、不倫を何度もしていた最低でバカな人間でした。 その頃には主人とお付き合いしてました。主人のことは、大好きでしたが、不倫、浮気という概念がなく遊び心でしていたと思います。 同棲してからは一切しておらず結婚して楽しく幸せな生活でした。主人が私を大事にしてくれ寄り添い、愛してくれいるのだなとより深く思うように。私も、主人に感謝と愛していることがより痛感しました。 そんな中、過去の不倫、浮気という最低な行為を数々を思い出し、主人に結婚前とはいえなんて酷いことをして何度も裏切り行為をし、本当にありえないと今更ながら気付きました。 また不倫相手の奥様に本当申し訳ないことをしたと後悔しかありません。私は自分が気持ち悪く、後悔と罪悪感に苛まれました。自業自得です。何年ものかなり前のことですが奥様にいつかバレて恨まれる恐怖をもち、そして不倫相手の奥様が不幸になってしまったらとか、どうしてこんな罪をしてしまったのだろうと泣き、不安と罪悪感と死にたくなりました。 そして主人に告白し謝罪するべきか悩みましたが覚悟をし主人にすべて告白し謝罪しました。 主人は「ショックだが、全て飲み込む、だが飲み込むには時間かかる。飲み込むのは愛してるから。もう二度しないこと、今後は誠実にいて」と私にいってくれました。 本当に傷つけしまったことが申し訳ないのとそれでも愛してくれることに感謝しかありません。私はもう過ちは戻らないのだからくよくよしないで、二度と悪行はしないことを主人に誓い反省し、許してくれた主人に寄り添い誠実に尽くして生きていきます。 そして不倫相手の奥様は数年前まで不倫相手と仲良くしているのがわかり少し安堵しましたがそれ以降はわからないですし、私がやった罪はどちらにせよ許されないものなので不倫相手と奥様のこれからの幸せを心から祈り懺悔したいと思います。何かあった場合は奥様に謝罪をするのは覚悟をします また、夫も含め親や様ざな人のために良い行いをして生きていきたい思います。そして仏様神様にも感謝と今までの懺悔をしていきます。文字の制限もあり書けなかったこともありますが上記のことで生き方、心構えのご指導がありましたらどうかお教えいただければ幸いです。 また、私はこのような罪をおかしていきましたが私自身が幸せになってもいいのでしょうか。

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信仰ってなんだろう

私は、信仰するということの概念について悩んでいます。何故なら、私は、神様や仏様の存在を信じてはいるのですが、それは人間の心の内にある概念に過ぎず、形而下で捕捉できるものではないと思っており、この考え方が取っ払えない以上は心底から神仏を信仰することは叶わないのではという疑念を抱いているからです。 私がこのような考え方をもったきっかけは、遠藤周作さんによる著書「沈黙」を読んだことです。ご存知でない方に簡単にあらすじを説明しますと、キリスト教の弾圧があった江戸時代に、ある宣教師が拷問の末に棄教したという報を受けてその弟子が真相を求めて来日し、救いを求める弱い隠れキリシタンや彼らを拷問にかける大名と出会いながら、仏教との相違や絶対神の是非について考え、葛藤するというものです。 私がこの小説で衝撃を受けたのは、諸行無常の考えを礎とした仏教を信仰しているはずの大名が、キリシタンだというだけで農民の魔女狩りを行い、キリスト教の弾圧に執心していたことです。 宗教というのは、固まった思想を提示することで人々の心を安定させたり、民衆を統制させる側面があるとは思うのですが、劇中のように政の道具としての扱いにとどまったり、科学が普及した現在において金稼ぎのダシに成り下がってしまったりする宗教文化を多々見ると、もしかして心の底から神仏の存在を信仰することは最早なり得ないのではないか、という疑念を感じずにはいられません。 こうした疑念に輪をかけるのが、自然の脅威です。現在猛威を振るうコロナウイルスや、台風、地震などといった災害は、私たちにとっては害悪でしかなく、早期の収束や撲滅を願われるばかりですが、それらの現象は我々の嘆願とは関係なくただ事実として存在するのみであり、これらを既成の宗教概念によって説明するには限界が生じるのではないかと思います。それを考慮すると、我々に都合の良い神仏への疑念が益々助長されるばかりです。 私は、目的によっては多少の方便は許されても良いと思っていますが、神仏を本気で現実のものと信じている方々のことを考えるとどうしても後ろめたいものを感じます。こうしたことについて、僧侶の皆様はどう思われるのでしょうか。冒涜と思われるのでしょうか。それとも、これも信仰と思われるのでしょうか。 大変無礼な質問であると承知しておりますが、何卒宜しくお願いいたします。

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死後の世界について

こんばんは。 明日、ひいお婆ちゃんのお葬式があります。 どうして人は死ななければいけないのか、 おばあちゃんや親族とと一緒にいた方が幸せなのに、どうして離れなければいけないのか、全部忘れてしまうのかと 死 についてずっと考えていました。 夜、ねれなくて、死後の世界について調べていると、天国や地獄も実際にあることを、臨死体験の方の証言で知りました。 証言によると、お釈迦様やイエス様の愛が心にある人は天国へ行き、守れなかった人は(宗教が心になかった人は)永遠に地獄で苦しんでいること。誰もが死の後、この裁きを受けこと。 急に全てが怖くなりました。 ひいおばあちゃんも裁きを受けるのか、天国で安らかに過ごしてほしいです。 そして自分も、今、23才ですが、不平不満を言ったり、自己中心的であったり、自分のことが嫌いだったり、正しい行いはできていません。これから正していけば、赦していただけるでしょうか。とても怖いです。 大切な家族や、友人や恋人も、 いつも宗教が心にあるわけではないと思います。 すごく熱心に宗教に精通している家族ではないので、、申し訳ありません。 お釈迦様、イエス様の教えに背いてしまったり、してしまうこともあったのかもしれません。(わたしよりはみんなとてもいい人たちなのですが、) それでも大切な人たちにはみんな天国で過ごしてほしいです。 明日のお別れが辛いこと、 そして今後、大切な人たちや、自分も裁きを受けることが不安で、 死への恐怖が、裁きへの恐怖が怖くてどうしたらいいかわかりません。 これから行きていく上での指針や、 自分がこれからできること、 わたしがこれから家族や大切な人たちの今後のためにできること 仏教の面から助言を頂けますと嬉しいです。 何卒よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 8
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いつか死ぬことが怖い

はじめて質問させて頂きます。 幼い頃にいつか自分も死ぬと自覚してから、死の恐怖に襲われます。 hasunohaにも同様の質問がたくさんあり、たくさんの回答を読ませて頂き仏教の宗教観にも触れ恐怖感が薄まることはあるものの、心の奥底にどうしようもない恐怖があります。 私が一番怖いのは、死んだら身体も意識も消滅し、全てが無になってしまうことです。私は今の生活をとても幸せに感じており、これが私や家族の死によっていつか終わるということがものすごく悲しく、おかしくなりそうです。そして、死後、私の意識は一体どこに行ってしまうのか、消滅するということは私にとってどのような感覚なのか(死んだら感覚なんてないと分かっているのに、感覚がないという実感がわからない故に不安になってしまう)と考えて、胸が冷たくなり、凄まじい恐怖に襲われます。 私が好きなものも全て手放さなくてはならないこの世界が憎く悲しく、最悪の世界だと思ってしまいます。 この恐怖から、今私が存在していることが気持ち悪く思えてしまうようになりました。いま意識があるという状態が気持ち悪いです。見てる景色がテレビのワンシーンのように思えるのに、そこから離脱できない自分が気持ち悪いような感覚になり、発狂しそうになります。 家族が大好きなのに、死ぬのが怖すぎて生まれたくなかったと思ってしまいます。こんな思いを自分の子供にはさせたくなくて、将来子供をつくるのも躊躇ってしまいます。生まれなかったら死ぬこともないから、そっちの方が断然幸せなのではないかと思ってしまいます。 そして、いつか死ぬと思うと、人生が虚無に思えます。なにをしても最後は死んでゼロになる。宇宙さえもいつかなくなると思うと怖くて叫んでしまいます。そう思うと本当に生きているのがしんどくて、いっそ今死んでしまった方が良いなどと意味のわからないことを考えてしまいます。 まとまりがなく、感情的な文章で本当に申し訳ございません。 私の意識は死んだらどうなるのでしょうか。そしてこの様々な恐怖はどうやったらなくなるのでしょうか。弱い私に、どうかご助言をよろしくお願い致します。

有り難し有り難し 19
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