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検索結果: 4134件

トップダウンの上司、やる気が下がった同僚との接し方

私は係長というポストで、大きなプロジェクトのリーダーを任されています。 今年から部長が人事異動で交代となり、とても自己主張の強い方がやってきました。 部下の意見を採用することがなく、自分の意向どおりに仕事を仕上げるような指示ばかりを出してきます。さらには、部下が時間を工面して作成した資料を自分が作ったものと言って、手柄を自分のものにしてしまうのです。 私もプロジェクトのことで部長にプレゼンをするのですが、そのたびに方向性が変更されます。そして、スケジュールが遅れ、その責任を責められます。 私とともに業務に取り組んでいるプロジェクトメンバーも、部長に嫌悪感を抱いていいます。直属の課長はメンバーの現状を相談しても、特にフォローしてくれません。むしろ、部長の太鼓持ちです。 はじめは上司の指示に従うのが組織人としての基本と思っていましたが。さすがに自分の考えを押し通し、部下の功績を自分の手柄としてしまう部長にはついていけません。 いまの体制はしばらく変わりそうにありません。今後、どのように部長と接し、どのように仲間のやる気を引き出していけばよろしいでしょうか。ご教示いただけると幸甚です。 合掌

有り難し有り難し 70
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お肉を食べることについて

初めて質問致します。 生きるということは数々の命を犠牲にすることだとわかったつもりでいましたが、最近、特にお肉を食べることについて割り切れなくなってきています。 最近子供と牧場に遊びに行って、牛の乳搾りを体験致しました。乳のはった雌牛のおっぱいを握ると、あたたかくてやわらかく、涙が出そうになりました。 牛は、子牛のために乳を作り、関係のない人間に搾り取られても、文句ひとつ言わないのだと思うと心が締め付けられました。 ですが私はその夜に同じ牧場で牛肉をお腹いっぱい食べました。生きている牛に触れた感動を忘れたわけではなかったのですが、肉を食べるという行為があまりにも日常化しすぎていました。 今では毎日、命を食べることについて考えています。 例えばこの世界に私と一匹の鶏しか存在しなかったとしても私には鶏を殺め羽をむしって食すということはできません。空腹で死にそうになったとしても鶏を殺すことはできないでしょう。 なので私にはそもそも鶏肉を食べる資格はないのではないか?と思ってしまいます。パックに入って売っているので、この肉を食べるということが一体どういうことなのか、というのが見えてこないだけなのだと思います。 ベジタリアンにはなっていないので、普段の生活で肉を食べることがありますが、犠牲になった動物の命ほどの価値が自分と自分の人生にあるとは思えません。 毎日毎日、他の動物の命を奪って生きるのはとても辛いです。 そして毎日こんなことを食事のたびに考えています。一人なら良いのですが子供や夫の分の食事を私が用意しています。 私のこういった苦悩に、成長期の子供を巻き込んで、ベジタリアンにしてしまうのが正しいのかわかりません。 お肉がどのようにして食卓に並ぶのかを教えてその結果私のように悩みながら生きていってほしくはありません。 なにをどう食べて生きて何を子供に教えれば良いのでしょうか。 感謝をして食べなさいと言いますが、感謝をすれば何をしても良いのでしょうか? なにも考えずに、お肉をお腹いっぱい食べられる人達は、私と何が違うのでしょうか。 まわりにこんな悩みを持っている人はいませんし、日本ではベジタリアンはあまりいませんよね… 最後まで読んでくださりありがとうございます。 アドバイスよろしくお願いします。

有り難し有り難し 289
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母親に対する復讐でいいものを教えてほしい

先日自分のことを小さいころから苦しめてきた母親を殺害しようしました。 しかし結果的にはできなかったです。痛めつけることだけでした。 やつを床に強い力で踏みつけ、それなりの力で殴って、蹴り続けました。 悲鳴を上げて、叫んで、呻いてました。 本当は殺害する気だったけど、いざ踏みつけていると何か重さのようなものを感じてできないとわかりました。今目の前で動いてるものを一生動かなくすることの大変さというか。 途中で痛めつけることに方針を抱え、今でも不完全燃焼ですがいくらから痛めつけて帰りました。 やつは追いかけてきてどこに住んでるのか連絡先を教えてほしいとか、父親と連絡を取っているのか聞いてきました。 自分は歩きながら住所も連絡先も教えず、父親との連絡も「知らない」とだけ答えました。 本当はここでもう少し殴るべきだったと思います。 そしてちゃんと生活しているのか、幸せに暮らしてるのか聞いてきました。 子供でまだやつの家に暮らしていた時けなして、追い詰めて、苦しめてきた人間が今更そんなことを言ってくる。本当に頭に来ました。でももう外にいて人もいる。自分にそれを見られながら殴る気持ちは整理できなかった。 自分は笑いながら、幸せに暮らしてるし、普通に生活してるとか答えました。 何度もそれを聞いてきましたね。本当に殺してやりたい。今思い出しても胸糞悪くなってくる。 最後にヒステリックに自分がいなくなればいいの?!とかわめきだしました。 意味がわからなかった。もとから自分の周りにいない人間のはずなのにいったいどこにいたというのか。 「なんでそんなことを聞くのか」とキレると奴は帰りました。 幸せに暮らしてるのね、それだけわかればいいからと言って。 奴を痛めつけてるとき、リビングにはTVがついていた。それも許せない。奴にはまだまだ年齢からして30年近くは人生を楽しめる。 日本はやさしい国だ。年をとっても快適に暮らせる制度、環境はごまんとあります。 まだ足りないです。今回のことで実際に殺害することは難しいとわかりました。 だけど痛めつけ足りない。次は警戒されて難しい。今回はインターホンで自分を名乗って入った瞬間殺しかかりました。 次は難しいが奇襲しかないと。 だけどそれだけではできるかわからない。 何か、何か最高の復讐を教えてほしいです。 今回のことで自分に人は殺せないかもと感じました。

有り難し有り難し 230
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何故死んではいけないのでしょうか

先日知人から共通の友人について「あのタイプの子は自殺しそうで怖い」と言われました。 が、何も言えませんでした。私は死ぬのも生きるのも個人の自由としか思えません。 勿論、幸せであってほしいとは思いますが、死にたいと言われても「頑張って生きなきゃダメだよ」とは思えません。その後幸せなことがあるとは保証できないし責任も負えない。終わりにしたいなら終わらせるのも自由。 お葬式を数多見てきて、どんな人も、例え親や夫が死んで悲しみを抱えてもいずれ日常を取り戻す姿をずっと見てきました。 私の一時的な悲しみのために、苦痛を受け続けながら生きてろよ、とはどうも思えないのです。生きたいと相談を受ければ聞きますが、死にたいと言われても、別にいいんじゃない?としか思えないのです。 同様に病気の友人にも、健康的に生活を改めなよとも言えませんでした。長生きするより、酒も煙草も自由に生きたいと本人が言うのならそうすれば、としか思えないです。しょうがないよね、アハハと隣で笑って、お葬式で泣くだけです。あの時止めてれば、と他の人のように思えません。 私は薄情なのでしょうか。 先月、20年頼の友人が死にました。毎週会っていた仲間でした。かつては恋人でした。悲しいです。喪失感もあります。でも、それは私の勝手な感情。結局考えに変わりはありませんでした。悲しいのはいつ死んでも悲しい。きっと20年後であっても。それでも人はどうあっても生きなければならないとは思えず、どうも繋がらないのです。 自分には何かが欠落しているのかとも思いますが、何かはわかりません。 私は人を大切にできない人間なのでしょうか。

有り難し有り難し 99
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神様、というようなものを信じてみたいです。

仏教でなくてもいいんだけれど、なんらかの信心を持ちたい、と思い質問させていただきます。最近キリスト教のミサに行ったり、モスクに行って礼拝を見学させてもらったりしましたが、どうにも信じる気持ちというものが芽生えません。 私は学校卒業と同時に家を出て、その後家族とはほぼ交流がありません。水商売をしていましたが、金に困り、やむなく今月から風俗業をしています。 こんなことになったのも自業自得だなあと思い、ふと気になって自業自得の意味を調べたら、仏教の言葉だということで、興味を持ちました。 私は、善悪の区別がつかないのではと思い、不安です。お世話になった人をなんの理由もなく音信不通にし、ばれなさそうな嘘なら意味もなくつき、人の陰口もすぐに同調し、それらのことに特に胸が痛みません。自分の立場が危うくなったら嫌だな、くらいです。 社会的な義務を何一つ果たさず、当然年金も未払いです。 とにかく自分が信頼できないので、バイト先には、私が頂く給料のほかは私に店のお金を一切触らせないでほしいとお願いしています。生涯運転はしないと決めています。 風俗業とはいえ、まだ人生を台無しにするような、決定的な罪は犯していないはずです。 しかし、私自身の倫理観のなさが、いつか決定的な罪を招きそうで、「信心」があれば変わるのではと思ったのです。 しかしながら、どうも難しいのです。 祈る=決まった文句を唱えることの安心感 などと解釈し共感することはぎりぎりできるのですが、それを仏や神のために、となるともうさっぱりです。 どんな神経で信じてるんだ?というのが本音です。 それこそ預言者の人のように、声を聞いたとか見たとかがあれば違うのでしょうけれど、そうでない人は、なぜ、なんのきっかけで、信じたのでしょう。 というより、本当に信じているのですか? 教義に共感しているだけですか? 今を良く生きるための便宜に、来世とか地獄を想定しているのですか? 共感できそうな宗教を探すなら、それはそもそも自分で全部考えることと何ら変わらないのではないでしょうか。 信者の方は、来世とか地獄とか長いスパンでの「自分の立場」を心配している、今小さな嘘をばれないでほしいと願う私となんら変わらないのではとも思いはじめました。 既に反抗的なことを書いてしまいましたが、 本当に信じたいのです。 どうしたらいいのでしょうか。

有り難し有り難し 123
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2022/01/30

阿弥陀如来様は実在しないのですか?

私は阿弥陀如来様が大好きです。 毎日救っていただくことへの感謝として念仏を唱えています。ハスノハでもたくさんの問答を見るのが楽しみです。 ところが、先日、ハスノハで真宗のお坊様が「極楽浄土があると信じていない」人への解答で、「阿弥陀如来様や浄土というのは働きのことで、実際亡くなった人が浄土という場所で生まれ変わるということではないのだろう。だから浄土とはこの世での働きのことで、死後の世界としてあるわけではないと思う」「仏様というおとぎ話を使って今生での安寧を得るのだ。だから阿弥陀如来様が実在するか否かはどうでもよい」「自分も科学的に極楽浄土の世界は懐疑的」 という旨のことを仰っているのを拝見しました。一人ではなく何人かのお坊様がそういったことを仰っているのを見ました。 誤解していただきたくないのですが私はハスノハのお坊様方のことを尊敬しております。ですが少なからずショックでした。私は今生で死んだら、阿弥陀さまに迎えに来ていただいて極楽浄土に生まれ、そこで仏となる修行をできることを嬉しく思っていたからです。 また、何があっても阿弥陀如来さまがいつも一緒にいてくださることが喜びであり、心の支えです。 法話を聞いたりしていると、「阿弥陀如来様という素晴らしい仏様がいらっしゃる(=阿弥陀如来は実在する)」「死んだら極楽浄土にいき仏になる(=極楽浄土は実在する)」とお経も親鸞様もハッキリ仰っているように思います。 阿弥陀如来様や極楽浄土の存在を確信するのが、浄土真宗ではないのですか? 私が、元はキリスト教を学んでいたこともあって、阿弥陀如来様や極楽浄土への解釈が違うのではないかと不安です。 (極楽浄土と天国は、極楽浄土は阿弥陀如来様の国(他の仏様もそれぞれ浄土をもっていらっしゃる)。という違いだと理解しています) 私はこれからも阿弥陀様といつも一緒だと思っていても良いですか?

有り難し有り難し 164
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