同じような内容を以前相談したのですが,ふとした時に怒りがこみ上げてきます。 許せない相手にされた内容は,あることないこと言いふらされて,学校に居づらくされ実際に退学しました。 その言いふらされたことについて,否定しようとおもっても,LINEや裏でコソコソ言われていて,実際自分についてどのように言われているのか全くわからず,わからないので否定や弁明のしようがありませんでした。 その情報を信じた人たちと,言いふらされた人たちから,言いたい放題言われ,悪口も散々言われました。 そのまま学校を辞めたのですが,その当の本人達はとても有名な大学に通っていて許せないです。 悪口を言われたことよりも,自分たちが気に入らないからと言って,嘘をついてまでして人の評判を悪くして学校を辞めさせて学歴を奪ったことにムカつきます。 最近,そいつがやってきたことをそのままお返ししてやろうかと思いすぐに我に返り,そんな馬鹿なことをすると自分のほうが悪くなる,というやり取りを何回も頭の中で考えてしまいます。 因果応報といいますが,本当にあるのでしょうか?
才能がある人がずるく思ってしまいます。 皆、同じように生まれたはずなのにどこで差がついてしまったのでしょうか?神のような絶対的な上位の存在に愛されているのか。 才能がある人を見ると尊敬もしますが羨ましくも思い、またなぜ自分には何の才能も能力も無いのかという劣等感などで涙が出そうになります。学術的に遺伝子などの要因もあるのかもしれませんがどうしてこんなに差があるのか疑問です。 自分は自分、他人は他人といった考え方もあるとは思いますが、競争社会においてこの差は無視できずなぜ同じように生まれたのに自分にはなくてその人には才能があるのか、ずるいじゃないかと妬んでしまいます。 こんな醜い自分はどうすれば良いのでしょうか?
50歳代男性商店主です、よろしくお願いします。 私はお人好しです、若い頃から各団体や友人知人の会などで役員・幹事をさせられます。 頼まれ事や協力事も多いです、自分で言うのもなんですが几帳面で真面目な性格です、ズル賢く自分さえ良ければ、こんなことのできるタイプではありません。 「損して得取れ」ことわざがありますが、見返りを全く求めないと言ったら嘘になります。 この歳になって「お人好しは利用されるだけの人」だと、遅すぎますが気が付きました。 振り返ると、都合良く利用されて それっきり疎遠という関係が多々ありました。 ハッキリと NO!! が言えない・気弱なマイナスオーラ・良い人であると装う振る舞いがあるのかと思われますが性格は直せません。 他人のために尽くすばかりの人生なのか(現代用語でパシリ役)、要領の良い人が羨ましいかぎりです、なにか もう疲れました。 どのように対処考えたらよろしのでしょうか。
結婚して10年近く経ちますが、普通と違ってたのは嫁方が新興宗教一家だった事です。宗教も知らずに何も考えずにその新興宗教に入りました。それから今に至り強い因縁などと言われ続け、2年前に実父を亡くしました。あなたの先祖は皆地獄に落ち、あなたのお父さんも地獄に落ちたと言われました。だから宗教活動を積極的にしろと言います。こんな宗教心底辞めたいのですが、私が逃げれば子供を捨てる事になります。聞きたいのは、私の父は地獄に落ちたのか、悪いのは私なのか、先祖は皆地獄に落ちたのか、どう生きればいいのか?です。この宗教には聞く気になりません。どうか、教えてください。はじめての質問なので乱文をお許し下さい。
約束をしても、数日後に必ず穴埋めをするからと言って、キャンセルしてきたり、人の前で、バカ、輩、生意気だと卑猥なことをすぐ言ってきたり、平気で仲間はずれにして陥れてくる人が、色々な県に彼女が何人もいてモテるのかなぁ?その彼女さん達の答えは、みんな彼は親切で、頼り甲斐があるとSNSで書いてるの。因果応報もなく、普通に暮らしてるの。
今年、最愛の母が亡くなりました。 生前は一緒に病院に行ったり、介護の際も2人で頑張ろうね、一緒に楽しいことしたいね。といつも出かける予定と楽しみを2人で考ていました。いつもポジティブで何事も楽しく明るく取り組む母が大好きで、その優しい笑顔が見たくて毎週いつも出かけたり家では冗談ばかり言ってました。終末期になって、母は苦しい、助けてよ、助けてよ。と何度も私に言っていました。ですが、私に病気を治すことは出来ないので抱きしめて、大丈夫だよ。良くなるよ。怖くないよ。ずっと私が隣にいるからねと励ましました。亡くなってしまってから、その母の『助けてよ』『しんどいよ』と苦しそうな母の声と表情を思い出したり、母の行きたかった所、したかった事が出来なかった事を想うと、可哀想で苦しくて胸が張り裂けそうです。もっと、長生きしたかった気持が凄く伝わってきてましたし、私もそう願っていました。 余命宣告をされてから 私の弟が心臓の弱い母の耳元で『わっ!」と驚かせたり、私のことを母の目の前で殴ったり... 亡くなる前の日、考えなしの父が骨が弱くなっていた母の喉を押しました。その後から息が苦しそうになり翌日亡くなりました.. 私はこの気持ちを どうしたらいいか分かりません。 病気で苦しんでいる母に対する家族の対応が私には理解できません。その件を家族に言うと、逆に私が悪いと言われたり.. もう心が壊れそうです
最近、口癖のように死にたいと言ってしまいます。死んでも楽になれないとよく言われるけど、それは他人だから言えることなのだろうと感じます。死にたいなら死ねばと言われたこともありますが、その言葉を受け止めることができませんでした。自分勝手ですが、心のどこかで助けて欲しいという思いを持っていました。何も上手くいかず、生きていても無駄ではないのかと感じます。 自分が死んでもなにも変わらないとは思いますが、こんなに現実で苦しい思いをするくらいならいっそのこと死んであの世で苦しい思いをした方がいいと感じます。生きる意味とは何なのでしょうか。よく、宗教関係の方が私達は生かされていると仰られますが、何故こんな私が生かされているのかわかりません。
カフェでアルバイトをしています。 毎日来るお客さんで、わざと怒って怖がらせて喜ぶ人がいます。 毎日のことなのでもう怖いとは感じませんが、毎日のことなのでうんざりムカムカします。 反対にそのお客さんは好き放題振舞っていきいきスッキリした表情です。 世の中の因果とやらはどうなっているのでしょうか?
初めて質問の書き込みをします。 私には飼っている三匹の犬がいます。 (一階に1匹。二階の一部屋に2匹を別けております。) …が、昨夜仕事から帰り(21時ごろ)、なんとなく嫌な感じがして。 ドッグフードを持って二階の犬のいる部屋へ行きました。 ドアを開けるといつもなら駆け寄ってくる2匹。 しかし、1匹しか近寄って来ません。恐る恐るドアを開けると、壁に寄りかかるように倒れているもう1匹の犬が。 状況を把握出来ませんでした。 名前を呼んでも反応無し。そして触れた瞬間、直ぐにわかりました。“死んでる”と。 鼻血を出し、硬直し、息もない。 調べたところ、熱中症による死だと思います。 そこから主人に電話したものの、仕事で忙しく、帰って来るまでの2~3時間、途方に暮れた様な状態でした。 帰ってきた主人には「俺たちが殺したんだ。だから泣く資格すらない」「昨日はどうだったの?」など矢継ぎ早に言われ、私が殺してしまったんだと感じました。 なんてことをしてしまったんだろうと。 自分のダメさ加減に本当に呆れるというか、後悔の念以外感じません。 私。本当に取り返しのつかないことをしてしまいました。 動物、飼う資格ないですよね。 亡くなったあの子は、業者さんに頼んで火葬していただくのではなく、家の敷地内に埋葬したら、あの世へ行ったあの子はうかばれませんか? 今後、残りの2匹をしっかり面倒見る以外に私に出来ることは何があありますでしょうか?
私は努力することが馬鹿らしくなった人間です。 理由は、人間が生きていくうえで成功するか失敗するか、どのような人生を歩むかは過去世によって決まると仏教の教えで習ったからです。 私は自分の人生に納得がいっていません。生まれてこのかたずっと不幸でした。 子供の頃から何で私ばっかりこんな目に遭うんだろうといつも思ってました。 けれどいつかは報われるんだと信じて頑張ってきたけどダメでした。 悩んでいる時に仏教の教えと出会い、このカルマの法則を知ってしまい、やる気をなくしました。 これって、いくら努力したって過去世で悪いことをしていたら何もうまくいかないし、逆を言えば何の努力もしなくても過去世で善行を行った人は必ず成功するというようなもんですよね? 最初から人生がどうなるか決定づけられているのに、努力する意味ってあるのでしょうか?時間と労力の無駄になりませんか? 回答よろしくお願いします。
私は女として生まれました。 ですがなんとなく、幼少期から女として生きたくないなとぼんやりと感じており最初は男として生きたいのだと思っていました。 ただ、それが心の性別が違うのか、世間から押し付けられる女の像から逃げたいだけなのかがわかりません。 そもそも、女として今まで生きてきて、性自認で悩む人たちのような強い拒否反応があったわけでもありません。 そんな自分が性別について悩んでると言ってもいいのかもわからないです。 お金に都合がつけば胸を取り、子宮等も摘出したいと思っています。 ただ最近気がついたのですが、おそらく私は男になりたいわけではなく、身体から性を象徴するものをなくしたいのだと思います。 手術したところで、男性器をつけたり、筋肉をつけたりしたいわけではないです。できる限り見た目で判断されないような身体になりたいのです。 ですが世の中、あまりにも男か女に属すること必要とすることが多いです。勿論、お手洗いや更衣室等、区別しなければならない事があることは理解しています。でも、出来れば決めつけたくないのです。 上手くまとめられないのですが、この宙ぶらりんの気持ちをどうすればいいのかわからないです。 性別という枠組みに入れられたくないというのはわがままなんでしょうか。
輪廻転生が真実であるとすれば誕生の考え方が大きく変わります。 まず結論から言いますと、「心は自分自身であり、親から貰ったものではない」と言うことです。 即ち自分の生老病死は自己責任であるということです。 ことわざからはじめますと、 「身体髪膚これみな父母より賜う。あえて損傷せざるは孝の始めなり」 これは身体だけであり、心は別ということになります。 「子は授かりもの」 もし心も親譲りであれば我が子であって、授かるとは言わないでしょう。 「とんびが鷹を産む」 親子の気質は別物であるという事でしょう。 「愚兄賢弟」 もし親譲りであれば、兄弟でも性格が違うとは、遺伝子的には考えられません。 原則的には類を以って集まるはずですから、性格が似ていることは多々あります。 臨死体験者(新堂のぶ子氏)の言葉(講演会にて) 「親が子を生むのではなく、子が親を選択する。」 ある宗教学者はネットで「龍樹と輪廻転生」と題し 「ブッダは、『大縁経』で、意識が母胎に流れ込むことによって、そして、そこで身心(名称と形態)が増大することによって、この世に転生するありさまを説明した。」と述べています。 「意識」は心と同一と考えてよいと思います。 以上が結論の根拠です。
母が突然死しました。 数日前までとても元気に食事をし、健康診断も主治医から太鼓判を頂いたと喜んで報告してくれたので、しばらく信じられない気持ちでした。 きっと母自身も突然この世を去り驚いているだろうし、無念だったのではないかと気がかりでした。 母の死後、四十九日を待たずに地元で有名な霊能者の方にいろいろ視て頂きました。 信じる信じないは別として、ポッカリ空いた心を穴を埋めて欲しくて伺いました。 先生からの第一声が、母の生き方が素晴らしいとの事でした。 確かに母は誰にでも平等で優しく、穏やかな人でした。 しかし苦労が絶えず、娘の私から見ても果たして幸せな人生だったのか、そして誰にも看取られる事なく逝ってしまった最後が悲しすぎて後悔ばかりしておりました。 しかし、母は四十九日を待たずに天界へ登っているとの事でした。 すでに成仏しているとの事です。 例えて言うなら普通の方が徒歩で一歩ずつ天界へ登る所を、母はエレベーターで上がっていったようだとの事です。 今は6年前に亡くなった父よりも少し高い場所にいるとの事でした。 仏教は詳しくありませんが、人は亡くなってから四十九日間をかけて世話になった方等に挨拶周りをしてあの世への旅立つと祖母から教えてもらいました。 霊能者を疑ってるわけではありません。 それがでたらめでも心が救われたのは事実です。 そのまま胸に止めて生きていこうと思いましたが、ふとお坊様ならどうおっしゃるのだろうと気になりましたので質問させて頂きたいのです。 生前の生き方と言うのは成仏の仕方にも影響があるのでしょうか? 悪事を行えば地獄、良い行いをすれば天国。 それは子供の頃から頭の片隅に何となくありましたが、天国への上がり方にも生き方は反映するのでしょうか? 心が清らかな母だからそうなれたのでしょうか? そんな事って本当にあり得る事なのでしょうか? 母は悲しい最後で旅立ちましたが、人間、死に方ではなく生き方が全てと言う霊能者の言葉を信じても良いのでしょうか? 否定されても信じて行くつもりですが、仏様にお仕えするお立場からのご意見をお願い致します。
生きる事は有難い、つまり有ることが難しいのは、 母が子を産むことが命がけで、生まれてくる事が奇跡である、と言う事はとてもよく分かります。 ですが、それと同じくらい「死ぬ事」も難しいのではないでしょうか。 死は人生のゴールだと思います。 ゴールに辿り着くには難しいと思います。 質問に戻りますが、 生きることを望むことは、 多くの人から励ましや称賛を得るのに、 どうして死ぬのを望む事に対しては、 否定されてしまうのでしょうか。 自殺はどうして許してもらえないのでしょうか。 自分のために生きることには 多く人が賛同するのに、 自分のために死ぬ(=自殺)することには どうして多くの人が否定するのですか。 同じくらい、難しいのに。
数日前に祖母が搬送されました。 おととい、もう点滴のみの対応になるので、1週間~10日の余命と言われたそうです。 母からの話で、私はまだ会っておらず、明日、様子を見に行きますが、本当に死んでしまうのだろうかと思う位、頭はしっかりしていて、元気なようです。 心不全と肺が機能しておらず、食べられないから、点滴のみとなり、今は元気なのに、だんだんと衰弱して、精神も朦朧となり、終わりを迎えるしかないなんて。 あと、数年で100歳になる年齢なので、寝たきりにもならず、ボケもせず、私の息子、曾孫とも仲良く過ごし、客観的には、長生きで、楽しい人生で、迷惑もかけず、良かったじゃないとなるかもしれません。 離れて暮らしているので、結婚してからは年に多くて4度くらい、ここ数年は、年に2度帰省するくらいでした。 なので、亡くなり会えなくなっても毎日会っていたわけではないし。 でも、やはり考えたら涙が止まりません。まだ、元気なのに、生きているのに。 来月には居なくなってしまうかもしれない。もう会って話すことができない。 私は、おばあちゃん子でしたし、高校生の息子が小さいときに、おばあちゃんと過ごした日々を思い出しても、また涙が。 仕事でも、いろいろあり、体調もいまいちな時でしたが、更なるショックで、どう考えて、向き合って過ごしていったらいいか。 奇跡がおこらないか、祈ってしまいますが、この状態に対してアドバイスをお願いします。
就活やバイトに自信をなくして、人が怖くなりました。 もう一生仕事は見つからないので、早めに死んだほうが幸せな気がしてきました。 この世はエゴばかりの世界ですよね? 人に気に入られないと生きていけないのはとてもじゃないけどやっていけません この世のすべてを恨んで死のうと考えてます 甘えかもしれませんが、そうかもしれません。 資格とか取っても、生かせなかったら意味ないですし 正社員の人がうらやましいです。 死んだら生まれ変わらずに、いたいです
過去に自分が責任者として担当したプロジェクトで問題が発生しても、既に該当プロジェクトの担当ではないことを理由に、知らん顔で、全く責任を取らない元責任者がいます。 プロジェクトに問題を作り込んだ張本人が、責任をとらないことに、どうしても納得いかず、大変腹立たしく、その怒りが心の負担になっています。 このような怒りは煩悩となり、よくないのでしょうか? 過去の責任者に頼りたいと言う気持ちが強いのでしょうか? 現在の担当者の私が全責任をかぶるのは当然で、私の仕事に対する姿勢が甘いのでしょうか? 仏教の教えによると、どのように考えれば、良いのでしょうか?
院号とはどういうものでしょうか? 先日父が亡くなったおり、院号を授けてもらうべきかどうか悩みました ご住職様に確認すると、「お寺に貢献してくれたひとに授けるもの」と言われました 院号代という寄付をすることでも授けることができると教えてもらいました 亡くなった後の位で、どちらかといえばまわりのひとに「すごい」と言ってもらう見栄のようなもの・・・とも聞きました 質問です 亡くなったひとにとって院号は必要でしょうか? 院号の有無で亡くなったあとどうなるのか変わるのでしょうか? 死後の世界にも位はあるのでしょうか?
よろしくいねがいします 夫が逝って今年3回忌をむかえます 夫がいなくなったのとやや同時に私の体の不調勤務先移動がかさなり今現在も体調はすぐれなく毎日夫の遺影に向かって涙している毎日です 毎月月命日には納骨堂へ行き夫に話かけてきますが 逢いたくてあいたくてたまりません 夫のもとへ行きたいとも思います 夫にどうしたらいい?と聞きますが当然ですが言葉は返ってきません 夫がいなくなってからずっとこんな毎日を送っています 何もする気がおきなくただただ夫にむかって夫のとこがいい、一緒にいたい、また一緒にいようよと涙している毎日です 納骨堂へ行く道中も名前を呼びながら涙して行きます 夫はどう思っているのか夫の気持ちが知りたく夫に話しかけますが当然返事は ありません もうそろそろ落ち着きがでてもいいような気がしますが今のところ全くそんな気持ちになりません 早く夫のもとへとそればかりです どうしたものでしょう・・・ アドバイスお願いします
色々痛い思いをしたり、過去を振り返ったり、内省している内に、これらは人間だから味わえることで、 完全な世界ではそれはできないなと思うと、自分が生まれたのは自分で望んだからなのかなと思うようになりました。 以前は完全な自分、完全な世界を夢見ていましたが、初めて不完全でも良いって思えた気がします。 皆さんは毎日何を思って生きていますか? 私は自分のことを「人間の皮を被った何か」だと思っていて、いつからかみんなの話についていけなくなって、 例えるなら人間として酔おうと思っても、一度目が覚めるともう酔えないところがあって、 自分はまだ舞えるという思いがありながらも、もう以前のような熱意を持てるものがないんです。 そんな私に生きるアドバイスを教えて欲しいです。 昔まだ夢を見ていた頃ある人に、視野が狭くなるから夢を持つことはおすすめしないと言われて、 初めは何を言っているんだ?と思っていましたが、 自分が望もうと望むまいと惹かれるものがない毎日を過ごす中で、 自分が嫌だと思うものについて、別の見方ができるようになりました。 今の私は人間視点でこれが良いとか嫌だという思いがあり、 ふとした時に何者でもない視点からこの人たちは何を言っているんだ?という思いもあり、 両方を混ぜ合わせて嫌なこともあるけれど、こういうので良かったんだよなっていう思いがあります。