この間も相談させていただきました。 恩師の末期ガンについてです。 どんどん悪くなり見るからに弱っています。 痛みに耐える日々、私にも痛みに耐えるくらいなら死にたいと訴えることもあります。 以前相談させていただいたときに、私の気持ちを 伝えるのがいいとお答えいただいたので、 プレゼントに手紙を添えて渡しました。 出会えたことは人生の宝物であり、 感謝しかなくて、大切な存在ですと。 大好きですと。後日、メールが届いて、 プレゼントありがとう、1番嬉しかったのは 手紙ですと返事がきました。 そして、その手紙をもし私が死んだときに棺の 中に入れるように息子に頼みたいのですが、 いいですか?と。私は胸がいっぱいになり 涙が止まりませんでした。私の大切な、 大好きな人が、余命宣告をされてから 弱っていく姿、苦しむ姿、自分の死を受け入れて遺言などを作成している姿を見ていると、 なぜかこの人がと思ってしまいます。 あの人と変ればいいのにとか、嫌いな人が ますます嫌いになってしまうというか。 間違っていますし、誰にでも死は訪れます。 こんな風に思う自分がいやです。 でも思ってしまうんです。 そしてやっぱり私にはまだ受け止める覚悟ができません。怖いんです。 来週、改めて残された時間や今の状態を 先生と話すそうです。結果は私にも教えてくれます。とにかく怖いです。 恩師がいなくなった世界がこわいです。 失うなんて考えられません。 でも私だっていつ死ぬかわかりません。 そんなこともわかっています。 ここで相談して回答をいただいてから 何度も何度も読み返し、気持ちを落ち着かせて きましたが、本当に死が迫っているんだなと 実感させられるとまた怖くなってしまいました。 アドバイスください。お願いします。
以前よりお世話になっております。 私は常に死が怖く、近頃は恐怖感と絶望感が以前より一層強いです。恐怖に襲われると自分を殴ったり、突発的に大声をだすなど、パニックになります。 そこで、どうにか恐怖を減らしたいと思い、仏教を中心に勉強しているのですが、勉強中は強く死を意識してしまって恐怖でおかしくなります。 私は死=自分や(今私が五感で感じている自分自身の感覚)世界の消滅と強く感じており(この認識を変えようと勉強していると、パニックが起こり‥.の繰り返しです)、いつか消滅するのに今は存在するという状況が、本当に全く理解できないことが引き金になりパニックになります。 存在とは空であり、縁起によって仮に成り立っている、と以前ご教示頂きました。理屈はわかるのです。他にもたくさん仏教について、今までご教示頂いています。 それでも、世界がある、そして自分がいる、自分も世界もいつか消えるという恐怖感には、私の今まで蓄えた知識では到底太刀打ちできないんです。 死の恐怖は、生物の本能として当然だと理解しています。でも、本当につらいんです。恐怖を消してしまいたい。毎日動悸と自分のうめき声で目が覚めて、「生きている!じゃあいつか死ぬんだ!死にたくない!」と絶望するのが、本当につらいです。 生まれなきゃこんなに辛い思いはしなかったはずだと、思わずにはいられません。最後は絶対死ぬのに、生まれるなんて残酷です。 私、どうしたらいいですか。 毎日、自分が世界に存在していることを認識するたびつらいんです。恐怖を減らす為に勉強してるのに、恐怖感は増幅するばかり。 起きていても、眠るのも、目が見えるのも、全部怖いです。それらは全部消滅するものだから。消滅ではなく変化だとしても、「何に変化するのか」わからないことも怖いです。来世があって、虫になったら、今日見た蝉のように踏み潰されるのが怖いです。私はいつか消滅する存在だなんて、理解しようとすればするほど、残酷すぎて怖くて、つらいです。 この、「絶対にわからないことへの恐怖」へ、どうやって立ち向かったらいいですか。もう、本当に、本当に、怖くてたまらないんです。 乱文で感情的で、本当にすみません。以前からご回答にお時間を割いていただいているのに、成長できていなくてすみません。 お時間ある時で構いません。どうか、助けてください。本当にすみません。
前回、「不安との向き合い方」というタイトルで質問させて頂いたのですが、私が感じている不安は「死」です。 自然災害が多い日本でこうして生きていられること自体が奇跡なのだと思っています。死は必ず訪れることだと思っていても、これからも訪れる災害でいつか自分も死んでしまうのではないかという怖さで時々不安になってしまいます。 この気持ちをどのようにぶつけて、どのように毎日を過ごせばいいかと悩んでいます。
人は死んだらどうなるのでしょうか? 私の周りの一部の''人は死んだら無になる''と言います。でも私はどうしてもそうは思えません。たしかに死んだら形がなくなってしまいますが、魂は無くならないと思います。きっと見えない姿になって生き続けるのだと思います。そんなのはただの願望ですか?たしかに証拠がないので断定はできません。でももし死後の世界が存在するのなら死を目の前にする(私がそういう状況というわけではありませんが)人々にとってとても心強い支えとなるでしょう。まだまだずっと先のことだとわかっていますが、やはり死ぬのが怖いです。人間は死んだら自然の一部になるという考えが一番現実的だと思いますが、それは科学的なことです。今生きている自分の魂(心)はどこへ行ってしまうのか。死んだら全ての記憶や体験がなくなってしまうのか。もしそうならやはり「死」は人間にとってとてもとても怖いものだと思います。生きるということ自体が死によって無駄(リセット)されてしまう。形がなくても魂が永遠に生き続けるということは本当なのでしょうか??
お坊さんの皆さんは、人生を、日々を、どのようなモチベーションで生きていますか? 死ぬことは怖いですか? 私は、思います。世の中や人はとても儚いものだと。その儚さを、どう前向きにとらえればいいよいでしょうか。 命の終わり方は、いろいろあって、 自分もいつかはなくなるんだと。 時々不安になります。私は、リタイアせずにゴールまでいきることができるのか。 私は、シャボン玉くらい心が脆いです。 だから、生と死が隣り合わせのこの世界でこんな自分はこのままやっていけるのだうか。 私の周りの友達のように、生きることに関してあまり重度には考えず、無関心で無意識に生きて、勉強に集中したい。 考え過ぎだよ。 暇なんだね。 悩むことは悪いことじゃない。 みんなそうだよ。 その言葉に私は少なからず傷ついてきました。 私の考えてることは間違ってるのか。悪いことなのか。 事実から論理立てて考えて出した私の考えは、そう簡単には覆せないと心では思ってます。例えば、生まれてこなければよかったとか。(理由を話せば長くなるので)でも、誰か、私を覆す人がいないかなと探してます。めんどくさいですよね、こんな人。 そういう自分が嫌なんです。 このままではさらにエスカレートしていってしまいます。 いつか、悩んで泣いた時間が役に立つときが来ればいいなと思っていますが、それはまだ先の話で、とりあえず今、何かがずっと辛いんです。 生き方、道標を教えてください。
いつもお世話になっております。 以前から死の恐怖について相談させていただいておりました。 最近は仕事もプライベートもそれなりに忙しく充実しております。体力的にも時間的にも死の恐怖に囚われている時間は少なくなり、心安らかに過ごしていました。 ですがふと、 やっぱりこの世は諸行無常で、今の幸せや充実もいつか無になり、私は私を自覚できなくなり、死んだあとは未知でしかなく、「死」という未来が待っている以上この先の人生のエンディングは絶対的な絶望なのだ、と 以前と同じ恐怖が強くよみがえりました。 日々の幸せに夢中で死を考えなくなり、「まあでも、これが今の私なりの死への向き合い方なのだろう」と甘く捉えていましたが、 結局、恐怖は忘れていただけで、死ぬ事実も絶望感も変わらずに私の中に存在します。 たくさんのお坊さんにご回答をいただき積極的に「心安らかに死んでいける心持ち」を探し求めても、知識だけが増え頭でっかちなまま、結局は恐怖も絶望感も拭えぬまま、不安な心のままです。 お坊さん方の視点から、私は今後、どのように死と向き合ってゆくのが良いと思われますか。 積極的に怖さに向き合い死を学ぶショック療法のような形か(ただ、もう死の恐怖に面と向かって辛い思いはしたくないという甘えも自分の中に今はあります)、 それとも自然の流れに身を任せて死を忘れたような日々を過ごすのか(そのうち死を自然と受け入れられると信じて)、 はたまた仏様に全てを任せ不安な心持ちのまま生きてゆくならば、まだ心の底から仏様を信じられない愚かな私の、実在する「不安な気持ち」をその都度「大丈夫」と躱していけばそのうち信心が得られるのか、など。 もちろん最終的に何を選択するのかは私が決めるべき問題と思っておりますが、 なんだかもう、自分でもどうしたら良いのか分からなくなってしまったため、アドバイスをいただけたらと思います。 お忙しいところ大変恐縮ですが、よろしくお願いいたします。
生きる事が辛いし、怖いです。金もないです。仕事も辛いですし、人も怖いです。自分自身も欠点だらけ。心の支えなんていうのもありません。なんだか常に疲れてるんです。原動力みたいなのも湧いてこないんです。 特に母が自死してから尚更です。 自死をしようと思っても中々、苦痛が苦しくて怖くてできません。 でも勇気を持って自死すべきなのでしょうか? その勇気を頂ければ幸いです。
高校二年生です。 質問のカテゴリが少しズレているかもしれません、すみません。 相談というよりも、誰かに分かってほしいという思いの投稿です。 突然ですが、私たちは各々『自我』をもって、それぞれ自分の見る世界があって、色々なことを考えたり感じながら生活しています。よね。 自分以外の人がもつ自我を『他我』と呼びますが、私はこれがすごくこわいです。 うまく説明ができません。 友達に理解してもらうこともできませんでした。 ネットで調べてもそれらしい答えは見つかりませんでした。 例えの1つなのですが、 ごくたまに、一緒に生活している親のことを、『他人』と認識してしまうことがあります。 「あ、この人も私と同じ時間で別の人生を生きている1人の人間で、」 「私から見た『親』は親には分からない、そして同じように 今このとき、親から見た『私』がたしかに存在しているんだ」 そう思って、親のことを何か得体の知れない生き物のように、生々しいものに感じて怖くなってしまいます。 何を言っているかわからない自覚はあります。 私は、私のまわりのひと全部、なにかRPGのキャラクターのように認識しているのかもしれません。 それぞれにそれぞれの意識や感情や人生があることが、こわいんです。 自分でも、どうしてこんなに心の中で他人のことを怖がってしまうのか分かりません。 死んだ後の世界や自分の行く末がわからないことが怖いように、人の意識や心なんて絶対にわからないことだから、それが怖いのでしょうか。 どちらにせよ私は私のことを寂しい人間だと思っています。
前に回答を頂いたのに 毎日死のことを考えてパニックになりそうです。 いろんなサイトとかで色んな方の考え方を聞いても怖さが消えず、怖いと思いながら亡くなられた方もたくさん、おられる事を知り、 心療内科とかに行った方がいいのか、今も手に汗が止まりません。 小さい頃は大人になったら、受け入れれるだろうと思って夜寝るようにしてたのですが、 30過ぎてもこんな、自分が辛いです。 何度もすみません。
祖父母が病気や認知症になることが、最近立て続けに起きました。 その度、どうして人は忘れていってしまうのか。残される方はどんな心構えで生きていけばよいのか。残されたら悲しいのかな。もし自分だったら、もし自分の夫が......と、悲しい未来を想像してしまいます。 死が怖いです。忘却が怖いです。でも、必ず訪れる死や忘却を恐れてばかりで、今を生きられないのは嫌です。しっかり今を生きたいです。 死ぬことや、死に向かう事を、どんなふうに捉えるのが良いでしょうか。不安に思いすぎない心構えを知りたいです。
以前より、死の恐怖についてご相談させていただいております。いつもありがとうございます。 今年から仕事をはじめ、毎日必死に慣れない仕事をこなしています。以前と違って少なくなった休日は、友人との交友や趣味を詰め込んでいます。 そのような生活をしばらく続けていましたら、以前悩んでいた「死の恐怖」について悩む物理的な時間が殆どなくなっている事に気が付きました。 しかし、死の恐怖がなくなった訳ではなく、今でも偶に恐怖で叫び出してしまう事はありますし、将来のこと(今後のキャリアやライフプラン)について考える時にも、「死ぬ時、恐怖に震えながら死ぬのだろう」ととても悲しく、またとても恐ろしくなります。 これは、「今を生きている」のでしょうか?確かに、目の前のことに必死で、死について考える時間がないので精神は健全です。以前より充実していると思います。 ですが、人生の本質のようなものを蔑ろにしている気もします。今の生活はなんとなく、さまざまな問題から逃げている現実逃避のように感じます。人生は死からの逃避、という言葉をどこかでみました。私の人生は今、逃避なのでしょうか。 そこで、「今を生きること」と「現実逃避」の違い、「今を生きること」と「何かに夢中になり、悩む余裕がない」ことの違いが知りたいです。 また私の今の様な生活は、仏教やお坊さんのお考えからはどのように思われますか? 死に怯えるだけだった過去から、今の生活になったことは進歩でしょうか?これは、私の望む「死は悪くない、怖くないと安心して死ぬこと」に近付いていますでしょうか? お忙しいところ恐れ入りますが、知恵をお貸しいただけますと幸いです。よろしくお願い致します。
祖母が入院していてもう長くないみたいです。 長くて5年だそうです。 今も危ないと先生は仰ってます。 心臓に水が溜まり今は常に体の中で溺れてる状態で意識も朦朧としてるみたい。 お正月に会ったけどもうそんな長くはないのかな?ってなんとなく思ってました。 でもまだ実感わきません。 自分の身近な人が余命宣告されるとは。 お見舞い行くときちゃんと笑えるかな? 死へ向かうのって怖くないのかな? ひとりで心細くないかな? 寂しくないかな?っていう考えが頭から離れません。 当たり前かもしれないけど大人になってから死を直面するのって凄くしんどくて。 その話も聞いて1日で1kg減ってしまいました。 旦那や赤ちゃんには笑顔でいつも通りな生活をしているつもりでしたがやはり精神的にキツいのかな?と思います。 こういう身近な死はどうやって立ち向かえばいいですか?
こんにちわ うつ病になり何年も治らないですし、いろいろな治療をしたのですけど、もう治る見込みがないですし、疲れたので自殺しようと思ってます、 もう苦しすぎて限界を迎えました、 母からいじめを受けて育ってきて それが原因でうつになりました、 でももう誰も恨んでないですし後悔もしてません、 そうゆう運命だったのだと思えるようになりました、 本当によくやったと思います 自分を誉めてあげれるくらいに頑張って やってきて治療もいろいろしてきました、 もう限界です、 うつ病で自殺するのは 立派な病死だと思います、 もう生きる気力がないです こんな苦しい思いをしたのだから、自殺したら、死後の世界も地獄に行かず、神様も阿弥陀仏様も助けてもらえるのでしょうか? もう 死ぬのが怖くないですし 生きるのが辛すぎるので、 死後の世界を教えて下さい、 死んでは駄目だとか言うのは何回も聞いて 頑張ってきましたが、治る見込みがないので、生きろなどの綺麗事ではなくて、死後の世界を教えてもらえたら嬉しいです、僕はあの世でどうやったら報われますか? お願いいたします
最近、身内の死や友人の死に遭遇して、毎日死への恐怖に怯えています。また、家族がなくなったらどうしようや、考えすぎの毎日を送っています。 前向きになれるよう、アドバイスをお願いします。
こんにちは、初めまして 僕は死ぬのが怖いです。だから救い的なものを求めて、ずっと浄土真宗の聴聞をしてきました。けれどもなかなか信心が頂けません。 ひょんなことから、坐禅で悟りを開いた方と知り合い、在家でも修行すれば悟りを開けるということを知りました。 しかし、禅で悟ったらどうなるのかがよくわかりません。初期仏教であれば、輪廻からの解脱が「救い」だったんでしょうが、僕を含めてほとんどの日本人は輪廻を信じていないと思います。一休さんが、死後は無いと言ったという話を聞いたことがありますし、どこかの老師が死にとうないと言いながら死んでいったという話も聞いたことがあります。 若くして死んでいった母親にも会いたいし、自分も死ぬのが怖い、という思いで浄土真宗を聴聞してきましたが、先程書いたように信心がなかなか頂けません 坐禅をして悟りを開くと、どういった救いがあるのでしょうか?少し不遜かもしれませんが、凡夫の僕から見れば悟った人も死ぬので、救いではないんじゃないかと思ってしまいます 長文失礼しました
5月2日に兄が自死しました。 何年間も連絡をとってなく、特別仲が良かったというのもないのですんなり自分の中で受け入れていたつもりですが、 死後の世界や自死だとどうなるのかが気になってしまい、ずっと調べてしまいます。 ただでさえ自死してしまうほど悩んで苦しんでいたのに、自死は地獄に堕ちるだの現世にとどまるだの救いのない事ばかりでてきて悔しいです。 もちろん、良いことではないですし親不孝者だというのもわかります。 ですが『生きていればいいことがある』『生きてさえいてくれればそれでいい』なんて綺麗事だと思ってしまいます。 兄の人生を歩むのは兄自身です。 その兄が一生懸命たたかって、考えて、悩んで苦しんでだした答えが自死なのに、そんなに間違っていることなんでしょうか? 自死してしまった人にこれ以上、苦しんで欲しくないと願ってしまうのは贅沢ですか? 話は変わってしまいますが、夜や鏡が怖くなってしまい、眠るのが難しくなってしまいました。 兄がみえてしまうんじゃないか、なにか心霊現象なるものが起きるんじゃないかと思ってしまいます。 きちんと心からお祈りして成仏してほしい気持ちと、兄が怖くて怖くてたまらない気持ちが入り交じってしまいます… 火葬場が空いていないため、お経も火葬もまだですが、兄はいまどういった状況にあるのでしょうか? 何が聞きたいのか、なにが言いたいのかまとまってなくてすみません。 とにかく、兄には成仏してもらい、楽になってほしいと願っていますが実際はどうなんでしょうか? また、なぜこんなにも怖いと思ってしまうのかなにかご存知であれば教えていただきたいです。
とにかく不安です。 家族の死が怖いです。 家族には寿命以外で死を迎えて欲しくないです。 ですが、怖いです。 地震の津波で地下鉄で溺死してしまうのではないか、海外からの一方的な攻撃によって家族が死んでしまうのではないか、根拠のあるものもあれば、脈絡のないような不安もあります。 考える度に涙が出てきて、とても辛いです。 日常生活にも支障をきたしています。 どうしたらいいのでしょうか、
死が怖いです。大切な人や自分がこの世からいなくなる、どうなるか分からないことへの不安と恐怖で毎日ぐるぐる考えては1日を無為に過ごしてしまいます。 こんなに怖いなら生まれなきゃよかったと思うし、自我が芽生える前にしんでればよかったと考えてしまいます。 二十数年間生きてきて、大切なものも増えてしまいました。それらを失うことも怖いです。 朝目が覚めるだろうか、この車は私の元に突っ込んでこないだろうか、大きな事件や災害が数秒後に起きるかもしれない、目を離したとき愛犬が倒れたらなど不安が多くて、家から出られません。 事件事故のニュースを見ることも出来ませんが、何も知らずに生きることも怖いのでネットニュースを読むことはできるように頑張っています。 街中で妊婦さんやお子さんをお見かけすると、この人たちはとても幸せそうに見えるけど次の瞬間には…と恐ろしい事態を想像してしまい、素直に祝福できなくて自己嫌悪します。 50を過ぎた母が、「私はもう死んでもいい」「あと5年で逝くからあんたそろそろ自立しなさい」などと口にすることも私の不安を駆り立てます。(母は現時点で健康体です) 不安や恐怖を解消するまでにいかなくても、上手に向き合う?付き合っていく?方法はないのでしょうか
過去の歴史を振り返っても世界は常に様々な事がある。 争いや災害などなくなる事など決して無い世界で、その時代時代で、人は悩んで、苦しんで、喜んで、楽しんで、悲しんで、嘆いて、様々な感情を抱えながら、それでも人は今を生きている。生かされている。生きていけない。生きるのをやめる。生かしてくれない。様々な状況がある。 生きる事が怖いです。 死ぬのはもっと怖いです。 大切なものを無くす不安、恐怖、悲しみを味わいたくないです。 自分は死にたい訳でもありません。 大切な人に悲しみを与えたくないから。 だけど、いつも、、、。わからないです。 他人を羨んだり、自分を自慢したりもしません。 何かを望んでいる訳でもなく、いつも自分の心は真ん中にあってほしい。 なぜなら様々な出来事に自分の感情が揺れるのが怖いから日々を精一杯生きてるだけです。 それでも年齢を重ねて感動が薄れていく気がします。 けどいつか必ず来る悲しみを味わうのはもう嫌です。 今の世の中は物が溢れているところもあれば、その日その日を食い凌ぐので精一杯のところもあります。 あればあるほどいいとは思いません。 無ければ無いでこした事はないけれど、全く無いのは虚しいです。 モノや感情も同じ事で、自分にとってちょうどいいを見つけて、探して、見失ってその繰り返しです。 豊かとは何か?頭で考え、心で感じ、身体で実感する。 人生はそれの繰り返しで、過去の思い出をふと振り返り愛され、悩み葛藤し、肩を寄せ合って生きてたあの頃が懐かしく愛おしく思います。 今が不幸せという事ではありません。 十分に幸せだと思っています。 救いの言葉を下さい。 自分はどうやって生きていけばいいでしょうか? よろしくお願いします。
今年で80歳になる母のことなのですが。 鬱で ずっと精神科の病院に 入院していたのですが 認知症になってしまい介護施設に入りました。 施設に入るにあたって いろいろ説明をしてくださってた時に もし万が一の時の延命治療は どうするかを聞かれました。 人間誰しも死は訪れるものですが 母の死について考えたくなかったので すっと考えないようにしていたのですが 考えないといけない時が来てしまったのだなと 思いました。 とはいえ余命宣告をされたわけでもないし 今は命が危ない状況ではないので どういう心持ちでいたらいいのか 自分でもわからずにいます。 母には元気でいてもらいたいし でも いつかは死を覚悟しなきゃいけない時が 来るのかと思うと母を失うのが怖いです。 どんな心持ちでいたらいいのでしょうか。