息子は今思うと勉強ができない子だったのですが、それに気づかず、両親が高学歴なので、当たり前のように勉強させてしまって、本人も苦しんだかもしれません。中学受験のときも高校受験のときも途中までは結構いい成績をとるのですが、記憶力がすごく悪いのと文章を早く読むのが苦手で、最終的に総合問題を解く段になるとがたっと成績が落ちました。最終的には大学の付属高校に行き、付属の大学に進学しました。本人が希望していた学部は成績が悪く、受けられませんでした。 頭がとにかく悪いのかもしれません。運動も高校生のときはテニス部でしたが、特にレギュラーになるわけでもなく、今は運動はしていません。 私は両親に勉強がすべてと言われて育ちました。だからこそ、努力もしたのです。息子は私たちと違って考え方も独特でこだわりが強い気がします。 娘のほうが優秀でも全然気にしていないようです。3年なので、そろそろ就活を考えないといけないのですが、お金はあまり稼いでもしょうがないとか、時間に余裕がほしいとか、本屋で働きたいとか後ろ向きな話が多くなってきて、でも、見守れと言われるのですが、親として何も言わない方がよいのですか?例えば、本屋は今はどんどんつぶれてしまっていますし、待遇もよくないようです。「給与とか調べてみた?」とか聞いてみるのもよくないのでしょうか。「とにかく信じてあげて、見守ってあげて」と姉や父にに言われるのですが、姉は娘しかいないし、優秀だし、うちとは違います。 大学の同窓会に行っても、ママ友会に行っても、すごいお子さんの話を聞くのが正直つらいです。 でも、今現在は息子とはとても良い関係で、素直にいろいろ話してくれます。一番の悩みは「20過ぎてるのだし、見守れ。ほっとけ。」と言われるのですが、「見守れ」という意味がどのようにしたらよいのかわからないのです。仕事のことでもいろいろ話してくるのですが、私の意見は言わない方が良いのでしょうか。 また、私は夫とは仲が良く、一緒に休みの日は出かけているのですが、それ以外にも自分の趣味を見つけて、自分の意識を変えていかないといけないということでしょうか。自分は幸せな方だと思うので、あまいのかもしれないのですが、精神的に平安を見つけたいです。 どうか、ご指導ください。よろしくお願いいたします。
新しい年が始まりました。hasunohaに、おられるお寺様方にも。今年もたくさんの幸せがありますように。 よろしくお願いします。 私の友人は、とても精神状態が悪く、死にたい。頻繁に口にします。 死んではならない理由。 どうして死んではならないのかを、上手く説明する事ができませんでした。 私も一番うつ病が酷かった時は、同じように毎日死ぬ事ばかりを考えてきました。 今でも咄嗟に消えてしまいたい。と思う事が、あるのも正直、事実ではあります。 でも、自分を作り上げている、数えられない程の細胞の一つ一つ。日々全身を巡る血も。 地球に、人の小さなはじまりが発生した時から、今日の自分が、お腹に宿り、細胞分裂、生まれて、大人になった、今まで。 人になるものの発生からスタートして、今の自分まで、たくさんの、生死生死を繰り返し、自分まで繋がった。物凄く怖い程に深く壮大な歴史。意識はしないけれど、本当ならば、物凄い事なんですよね。 自分の体をつくる全ての細胞の一つ一つに、数えられない位前から繋がってきたご先祖様たちの、数えられない人数の血が、自分にも入ってるんだと思うように最近なりました。 自分一人の体で生きている気はするけれど、全ての細胞一つ一つにに、全てのご先祖様が宿っていると思えています。 友人にもそのように伝えました。 お寺様方は、自殺がダメな理由、死んではならない理由。 どう考えますか?どう思われますか? 苦しむ友人に、どうしたら、伝えられるでしょうか? そして、時々、間違ってしまいそうになる私に。 命をどう伝えてくださいますか?
見てくださりありがとうございます。 現在大学3年生で、就職活動と公務員試験対策を並行して行なっている女です。 私は中学生の時に激太りをしてから、1年前まで所謂「太り気味」の部類にいました。 中高と、一部の男の子に弄られていた体型が常にコンプレックスで、成人式を控えていたこともあり、1年前からダイエットを始めました。 ダイエットの内容は、朝起きてすぐ30分の柔軟、30分の筋トレ、30分のエアボクシングをして、起きている間に3リットル以上の白湯を飲む。基礎代謝前後のカロリー摂取を徹底し、寝る前に10分ストレッチをする。朝晩の体重測定。これを毎日欠かさずに続け、現在も行っています。 また、バイトの日以外は半身浴を1時間以上、週2回以上(春からは晴れている日全て)で10km前後を1時間以内に走る、飲みに行く日はHIITというトレーニングを30分必ずすると言うマイルールを1年以上続けています。 その結果1年で、身長155センチ体重58キロ体脂肪率38%から、41キロ17%になりました。 そして、食べる量を1年で減らしていった結果、年明けからご飯が食べられなくなりました。現在は固形物を口にするとほぼ吐いてしまいます。甘党なので果物とガムと豆乳ヨーグルトで過ごしています。 秋まではカロリー計算にとらわれつつも、食べたい物が食べられました。冬までは低カロリーなもの(サラダやスープ)は食べられました。 現在は半人前も胃に入らないのに、一日中食べ物の事を考えています。他人と食事を取る事が苦痛です。最近はご飯を作って同居している家族に振る舞い、作りながら食べているフリをして自分は食べません。常に体重計の体重に振り回されています。胃に物が入るのが不快です。 1ヶ月以上生理が来ていません。また、もう疲れたので運動も辞めたいのですが、太る事が怖くて、1年以上続けている毎日のマイルールを辞められません。 病院に行くべきですが、病院に行く時間で、公務員対策の勉強や民間企業の対策が出来ると考えると、中々行けません。 現在は4月から週6日で、大学の勉強3時間、公務員対策5時間、民間対策1、2時間を必ずするようにしています。運動のルールも相まって、毎日圧倒的に時間が足りないです。 まず私は何をどうすれば良いのでしょうか。また、運動を辞める事や食べる事の恐怖心を克服したいです。
お世話になります。 「中絶からの立ち直り方」と「水子供養の方法」についてアドバイスを頂ければと思い、御質問させて頂きます。 私は6年程前に中絶を行ってしました。 その頃、供養も行ってはおりましたが、平均そのお寺で供養するのは3年程で供養を終わらす方が多いと聞いたので、私も命日に1年に1度足を運んだきり3回行いその後放置しておりました。 そして当たり前ですが、年々、その自分のした罪の重さに、周りの友達が出産や子育てをしていく中で改めて取り返しのつかないことをした、親としての生きていく価値のなさ、この命の重さを年々理解し苦しくて苦しくて耐えきることができません。体が鉛のように重く、全身の硬直、手の震え、口から我が子の手が出てくるのではないかと思うほどの気持ちの悪さ、息苦しさ、怖さに押しつぶされだんだんと気力がなくなってまいりました。本当に闇の底にいるため、この世の人との差を感じまるで別世界で生きている気がしません。 安産祈願で有名な近所のお寺(中絶当初と同じところ)に再び足を運んでみましたが、夫婦仲良く妊婦姿、また子連れの家族の幸せそうなの中恥ずかしくく、また子供も違う所の方が喜ぶこではないか?水子さんが仲良くみんなで過ごせるお寺さんの方が良いのではないか?と思いもう一箇所別のお寺で供養を行っていただいてしまいました。 ところが「オンカカカビサンマエイソワカ」と唱えれば良いとお教え頂いたのですが、我が家は浄土真宗なのに何か違和感を感じる、先祖と違うところに行ってしまうのではないか…また我が子の霊は2箇所で供養もしてもらいさ迷っているのではないか…再びただただ罪を重ねているだけの自分に苦しく…また浄土真宗は三回忌すぎているし過去帳にも記載することができない…今後一体どうすれば良いのだろうか… 我が子の命の分までと精一杯人一倍生きなければと保育を勉強し試験を受けたりと、人の何十倍何百倍は努力して生きていこうと思い頑張ってきましたが、人間の体はやはり正直でもう気力がありません。死んでも償うことのできない罪を前にどのように前に進めばよいのか、立ち直り方がわかりません。自業自得ですが立ち直ることができません。 長々と本当に申し訳ございません。 またお忙しいところ申し訳ございませんが、お手隙の際にご回答頂ければ幸いにございます。 よろしくお願い致します。
たびたびご相談させていただいております。 いつも有難うございます。 なんとなく気分が鬱ぎ、疲れて毎日まいにち食事の献立に悩み 反抗的な娘にイライラし、目の前でだらしなく太った旦那にウンザリしながら 「どいつもこいつも居なくなればいいのに 何もかも捨ててヒトリになりたい 」 と思ってしまいます。 自分の気持ちがひどくささくれだっているという自覚があり、これではいけない とも思うのですが やっぱり行きつく考えが 誰の世話もしたくない ヒトリになりたい …何とかならないものでしょうか? 今ははっきり言って家族が煩わしい 酷い母親です。最悪な妻です。
現在、祖母・父・母・兄と同居しています。祖母は介護が必要でトイレも1人ではままなりません。そのため、父が祖母の介助をしています。 先日、父が介助をしている時にちょうど私が帰宅した際、「手伝おうか」などの声をかけずに去りました。 そのことを父に説教され、手も出されそうになりました。 父からすると、私はいつも逃げているように見えるらしいです。 土曜日に両親は買い物に出かけるルーティンがあるのですが、私は友人が土曜日しか空いてない場合は土曜日に予定を入れます。 そういう点が、家族のことを思いやれてない、気が使えない、将来家族を持つ資格がないように見えるようです。 他にも数々の私の落ち度を指摘されましたが、正直定年退職しても、家事一切せず自室に籠ったまま母に負担をかけている父に言われても…という気持ちになります。 親戚の集まりにも顔を出さないことを指摘されましたが、私はケーキを出したりコーヒーを入れたりしていました。その後会話も盛り上がっていて、少し顔も腫れていたので自室に引いていたのですが、「何様のつもりや」と怒鳴られました。 私は私なりに空いてる時間があれば、家の掃除をしているつもりですし母のサポートもしているつもりでした。 でもただ“つもり”になっていて、大したことはできていなかったのかもしれません。その点は反省し、もっと他人のことを思いやれる人間になりたいと心から思っています。 私はただ他人に気を使える人間になりたいです。自身が至らない点は多々ありますし、まだまだ思いやりを学ぶ必要があらと思います。 これから毎日トイレ掃除をしろと父から言われ、やってみようと思います。 どうしたら何事からも逃げない、優しい人間になるのでしょうか?
はじめまして。今日、こちらに登録しました。どうぞよろしくお願いいたします。少し特殊な状況についてですが、解決策というより、心の持ち方について、お坊さんにご教示いただければ幸いです。私は今、友人のご家族を助けるために、その友人に大金(160万円ほど)を貸すかどうか、瀬戸際に立っています。 その友人は外国人で、日本で永住権を得て暮らしています。彼には祖国に若い弟・妹がいるのですが、その国では厳しい兵役制度があることから、それを逃れて、今、隣国の難民キャンプにいるそうです。 その逃れた先の国は、今、政府軍と少数民族の紛争が大きな問題となっています。その弟さんたちのいるキャンプというのが、まさにその少数民族のいる地域で、近くで紛争や空爆があり、水や食料も乏しく、本当に危険と隣り合わせで暮らしているそうです。彼らにはパスポートがなく、日本に入国させるのが法律的に不可能で、あと残った選択肢は、以前難民キャンプにいた、今は別の国に暮らす仲間に大金を払い、違法な手段でその国に渡航させ、保護してもらうことだそうです。 私はその外国人の友人ともう長い付き合いで、ご家族のこともよく話に聞いていたので、とても他人事とは思えず、若い妹・弟さんが、そんな怖い思いをしていることに、本当に自分も苦しくなるほどつらいのです。友人は、日本や海外の弁護士や国連機関に問い合わせてなんとか救う方法を数か月模索したそうですが、やはり個人として難民を救うことはできないと言われたそうです。 私も今、色んな専門家の方にメールして助けを求めているのですが、最悪の場合、私が彼に160万円ほど貸し、そのリスキーで違法(賄賂など)な渡航を試みてもらうしかないと思っています。もちろん、それは本当に最終手段ですが。 今の私は、その危険地帯で怯えながら暮らしている友人のご兄弟を早く救いたいのと、もし渡航が失敗して、彼らの命がもっと危険にさらされたらどうしようという不安や、自分のお金が賄賂などに使われてしまう不安で、心が落ち着きません。彼は、たとえご兄弟の渡航が失敗しても必ずお金は返すと言っており私もそれを信頼したいのですが、160万円という大金を貸すなんてしたこともなく、他の誰にも相談できません。重圧が肩にのしかかっているような気分です。どのような心の持ち方で対処していけばいいでしょうか。どうぞご回答よろしくお願いします。
86歳父親が肺がんになり食事するたびに胸がいたいらしいです 痩せてゆく父親に癌の告知するべきか悩んでます ボケてはいませんが、母がこのまま告知しないで死なせてといいましたが、私は癌とゆうことを父親に告知して何かしたい時間を過ごさしたいと思ってます。いろいろな考えがありますが よろしくお願いします。入院まだしてません
初めて質問をさせていただきます。 私は、ネット上の噂や予言などを簡単に信じてしまいます。また、人が「○○だから何か起こりそう」などのような簡単なものでも信じてしまいます。 つい先ほども、Twitterのトレンドにあった地震ものを信じ込んでしまい、恐怖感に襲われています。 私の頭の片隅には、予言なんて誰もできない、未来なんて誰もわからない、当たるわけないと思っているのですが、どうしても信じてしまいます。 このような予言や噂など、気にしないようにするにはどうしたら良いのでしょうか? 下手な文章ですみません。 初めてなのでカテゴリーなど、間違っていたらすみません。
お忙しい中、申し訳ありません。 心にずっとわだかまっていることを聞いていただきたく存じます。 昔見た道徳の教科書の内容で心に残っているものがあります。 バスにある若者が乗ってきました。 若者は優先席に座りました。 次のバス停でお年寄りが乗ってこられましたが、若者は席を変わりません。 別の席の乗客が「変わればいいのに」「若いのに」と陰口を言います。 若者はうつむいて座っています。 お年寄りは「次で降りるから大丈夫だよ。」と言い、次のバス停でバスを降りました。 次の瞬間、乗客たちは驚きました。 若者もバスを降りていきましたが、若者は足が不自由だったのです。 乗客たちは沈黙に包まれ、バスはバス停を後にしました。 私は、この話を読んで「結局何をしても人は文句を言われるし、誤解されたくなければ優先席に座ったり、バスに乗ったりすべきでない」と感じました。 あまりにも、救いがないように思われショックだったのか、先生のしてくださった解釈は記憶にはありません。 お坊様はこのお話を読んでどのようにお感じになりますか。 このお話は、子どもたちに何を教えたかったのでしょうか。
私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。