世俗諦即勝義諦と最終的基体(dhātu)の関係について
ここにいらっしゃられる、とあるお坊様のwebサイトを読ませて頂いている者であります。
以前、私の仏教哲学への偏見や誤解が過ちであったと気付かせて貰う経験をさせて頂いた時から、
より仏教、特に原子仏教の教義への関心を持ち始めたこの頃であります。
最近では某様のサイトを読ませて頂き、私の様な凡夫でも僅少ながら仏教哲学や用語などの意味を把握する事が出来ました。
某様には本当に感謝しております。
勿論ネットでは知る事が出来る情報が限られていますので、これからは原本や学術書を読まなければならないと思っております。
最近、世俗諦即勝義諦が最終的基体(dhātu)を思想に含むという可能性がある、
という記事を見かけ大変困惑している次第であります。
具体的に世俗諦即勝義諦が最終的基体をどういう風に含むのかという解説は記述されておりませんでしたが、
私のような素人にしては訳も分かりません。
「空」による徹底的な実在否定が為されてきた中観思想の教義の頂点とも言えるべき勝義諦に、
果たして絶対的な実在・自相を持つ本質体としての最終的基体(dhātu)を思想に組み込む余地があるのでしょうか?
また、如来蔵思想と非常に近しい阿頼耶識・唯識思想でも最終的基体(dhātu)を想定しているのでしょうか?
私は皆様の様に粉骨砕身する程仏教について勉強した事の無い矮小な若造でありますし、
正直この様な質問をさせて頂く事にさえ抵抗を感じました。
本来なら身を削る思いで体得する知識を、ネットで安易に答えを求めると云う怠慢こそ煩悩の一つでは無いかとさえ思われます。皆様の仏教について勉強する上での指針、心構えという物を教授願っても宜しいでしょうか?
有り難し 10
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