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hasunoha 問答検索結果 : 「悟り」
検索結果: 2103件

老後に仏門に入ることはできますか

はじめまして。どうぞ宜しくお願い申し上げます。 老後は仏門に入って生涯修行をしたいということを心の支えにしている者です。 そう思うきっかけになたのは、現在同棲生活をしている男性との悩みです(彼にはその場しのぎの嘘をつく癖があり、彼を信頼することができなくなってしまいました)。 私自身、過去には結婚離婚を繰り返し、不倫もしてしまい、若い頃にはたくさん悪いことをしてしまいました。 そういう自分だから、大好きな人に嘘をつかれるというようなことになるのか、自分の幸せは恋愛関係等以外のところに見つける方が真の心の安らぎを見つけられるのではないか、といろいろ考えておりましたところ、心を清めたいと思う気持ちから、般若心経を唱えたり写経していくうちに少しずつ心が整ってきたと感じるようになりました。 そして、老後はお寺で生涯修行をさせていただきたいと思うようになりました。 お坊様方は、このような私の考えを甘いと思われるでしょうか・・・? 私は、今を生きるための心の支えを将来仏門に入ることとさせていただき、彼との毎日を感謝しながら過ごしたいと思っております。 将来仏門に入ることが許されるような日々の生き方のヒントをいただけましたら有難く存じます。 どうぞ宜しくお願い申し上げます。 ありがとうございます。

有り難し有り難し 45
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2025/02/05

仏教において、慈悲の心とは

51歳女性です。 私の両親は熱心な仏教徒で、経典を学び、教えを支えに生きていました。 ですが、慈悲や和合の教えは、相手を軽蔑する心には勝てないようで、両親の不和は続き、お互いに軽蔑しあったまま50年の結婚生活は過ぎ、父が他界したことで終わりました。 生涯、許せなくても、愛せなくても、良いのでしょうか?ふたりそれぞれに確認しましたが、愛はなかったそうです。 そのために孤独な晩年であっても、嫌いなものは嫌いでよい。あるがままの心で生きるのも自由だという教えは、仏教にはあるのでしょうか? ふたりとも一番身近な伴侶との和合は適いませんでしたが、孤独ながら我が道を行き、やりたいことはやり切った人生だったと思います。仏教の教えが孤独なふたりの心を支え、それぞれに邁進できたのだと思います。 ですが、かつての大きな声で喧嘩をしている老夫婦の姿は、朝晩、お経をあげれば救われるはずの宗派の教えが、それだけでは不十分な証拠のようにも思え…。 両親は、何時間もお経をあげるような熱心な信者でした。なぜ、50年かけても慈悲の心にたどり着けなかったのでしょうか? また、このような場合、亡くなった父は成仏できずに、輪廻を繰り返すのでしょうか? それとも、父が仏になれた可能性はあるでしょうか?ボランティアで地域の皆様に尽くし、多くの方々に感謝されていた父でした。

有り難し有り難し 13
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死の恐怖ばかり考えてしまい精神と心身を病んでしまいました。

はじめまして。 39歳の男です。夫婦二人で子供はおりません。 2ヶ月程前から、自分にも必ずやってくる死についての恐怖からパニックになったりし、いつでもそれが頭から離れなくなってしまい、精神をおかしくしてしまいました。私は小さな頃から死ぬ事に関して人一倍恐怖として感じていたのですが、これまではただ考えないようにできていただけだったと思います。半年程前から母親の認知症介護や、子供が流産したりで授からないなど、いろいろな出来事から、人の生き死にを真剣に考えるようになり、考えないようにしてきた、いずれくるであろう避けられない自分の死の恐怖が夢の中でも襲ってくるようになってしまい、今は精神科に通い薬を処方して頂いておりますが、良くなる気配はありません。今は前のように笑う事もできなくなってしまい、仕事にも支障をきたす状況になってしまい、これからさきの不安などで自分自身どうして良いのかもわからない状態になってしまいました。 いろいろな死生観の本を読んだりしましたが、頭では今をしっかり生きるという必要性を理解できても、心の中の死の恐怖が勝ってしまっている状況です。仏教を勉強してみようかと思っていますが、何か少しでもアドバイスを頂けたら幸いです。

有り難し有り難し 146
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お釈迦さまが自殺をとめられた話について

インターネットをみていたら、以下のような お釈迦さまが自殺をとめられた話がありました。 とても分かりやすいのですが、 これは、何というお経に出ているのか教えて頂けないでしょうか。 ある時お釈迦さまは托鉢中、 大きな橋の上で辺りをはばかりながら一人の娘が、 しきりと袂(たもと)へ石を入れているのをごらんになられました。 自殺の準備に違いない、と知られたお釈迦さまは、 早速近寄られ、優しくその事情を尋ねられると、 相手がお釈迦さまと分かった娘は、 心を開いてこう打ち明けました。 「お恥ずかしいことですが、ある人を愛しましたが、 今は捨てられてしまいました。 世間の目は冷たく、おなかの子の将来などを考えますと、 死んだほうがどんなにましだろうと苦しみます、。。 どうかこのまま死なせてくださいませ」 と娘は、よよと泣き崩れました。 その時お釈迦さまは哀れに思われ、 こう諭されています。 「愚かなそなたには、譬をもって教えよう。 ある所に、毎日、重荷を積んだ車を、 朝から晩まで引かねばならぬ牛がいたのだ。 つくづくその牛は思った。 なぜオレは毎日こんなに苦しまねばならぬのか、 自分を苦しめているものは一体何なのか、と考えた。 そうだ!この車さえなければオレは苦しまなくてもよいのだと、 牛は車を壊すことを決意した。 ある日、猛然と走って、車を大きな石に打ち当てて、 木っ端微塵に壊してしまったのだ。 ところが飼い主は、こんな乱暴な牛には、 頑丈な車でなければまた壊されると、 やがて鋼鉄製の車を造ってきた。 それは壊した車の何十倍、何百倍の重さだった。 その車で重荷を同じように毎日引かせられ、 以前の何百倍、何千倍苦しむようになった牛は、 深く後悔したが後の祭りであった。 牛がちょうど、この車さえ壊せば苦しまなくてもよいと 思ったのと同じように、 そなたは、この肉体さえ壊せば楽になれると思っているのだろう。 そなたには分からないだろうが、 死ねばもっと苦しい世界へ飛び込まねばならないのだ。 その苦しみは、この世のどんな苦しみよりも恐ろしい苦しみなのだよ」

有り難し有り難し 104
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悩みとは

年代別によって 悩みって色々変わりますが 悩みが無かった時なんてあるのかなと思います 子供時代は 震災など テレビ中継を 何となく見てましたが 大人になって 災害などで 崩れた家や 建物など 洪水などで 失われた 町の状況など 見てると 何故こんな試練ばかり 起きるのかと 見ている側も 辛くなります。 いつの時代も色々な事で 皆んなで協力して 生きる力を 養われてきたと思いますが 戦争などなく 自然災害などなく 平穏で穏やかな 日は来るのでしょうか?本当に今このIT時代になって 色々な事が便利になってますが 今この時代だからこそ 手を合わせていく事が 大事だと 気づくべきなのではと思います。 人の勝手で 戦争など 大気汚染など 人の手で 地球を 大地を破壊して きてます。 人が豊かに暮らせるようになり犠牲になってる事もあるという 実感を持って 自然を 壊し 動物を殺して生きている それは人が生きていくうえで仕方ない事かもしれないですが 謝って生きていかないといけないとも 思うからです。 あの世があって 神様仏様がおられて この世をみてられて 皆様が 手を合わせていく そういう 心を持つ事が この悩みを無くす事に繋がる気もします。 お寺様に足を運ぶ心を持つ事が 苦しみを無くす事に 繋がってるんでしょうか? 仏様と向かい合う事が 心穏やかになる事に繋がるのでしょうか? 私の先生が 布施行の事を よく話されるのですが 私は、正直 ケチだったんですが お寺様に 護摩木を購入したり 瓦の奉納をさせて頂いた事によって 心清らかになっていると思うんです。 布施行は 心の汚れを無くす事に繋がるのでしょうか? 何せ お寺様に行く行動を起こす事が 悩みを無くす事に繋がるのでしょうか?

有り難し有り難し 26
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2022/12/21

先生が信頼できない

久しぶりで大きめの悩みを抱えてしまったため、ご相談します。 文化系の趣味でとある団体に、2年以上所属しています。 そこの指導者の先生を最近まで素晴らしい方と思い信頼していましたが、今はそうではなくなってしまいました。 それは、わたしの大きな落ち度がきっかけで、厳しめのお叱りを受けたときからです。 わたしの落ち度というのが、先生や団体の運営責任者にしっかり確認を取らずに、同じ活動をする他団体と交流しようとしてしまったことです。 他団体の責任者の方とまったく別の方面で知り合いになり、同じような趣味があることを知り、それならばと軽い気持ちで、その方の団体にひとりで見学に行ってしまいました。 事前にその責任者の方と「見学に行かせていただけますか」「歓迎します」とやり取りがあった上でのことですが。 あとでお叱りを受けて分かったのですが、本来なら、ひとりの所属者にすぎないわたしが、そういった見学をすること自体がそもそもあり得ないことだったようです。 まず、そういったルールについて無知だったことは、その趣味の世界についてリスペクトを欠いていたということですから大きな落ち度です。 そして、もし仮に無知だったことは100歩譲って仕方がないにしても、事前に自分の側の団体にしっかり確認を取って行動しなかったことが、何より人として基本的な落ち度だったと思います。 それは心から反省しています。 事の経緯をすべてお話しして、先生にも「もうあなたにわだかまりはありません。もし何か上の組織から問題視されても、仲間としてみんなで守れますから」と言っていただけています。 でも、わたしの心には逆にわだかまりができてしまいました。落ち度があって許していただいた側が何を言う、と思われても仕方ありませんが。 叱責の際、先生は「そんなことをするなんて、あなたが○○と思われるかもしれない」と、差別用語(とわたしは思います)を使われたのです。「精神に異常をきたしている人」という意味の言葉です。 それから、わたしや家族の病歴なども話すことになりました。 先生にしてみれば、問題を抱えたわたしを見捨てず仲間として配慮してくださるつもりでの言動だったのだと思いますが、わたしはもう、先生を尊敬し信頼して活動を続ける自信がなくなりました。 でも、今の段階で団体を辞めてしまってもいいのか、迷っています。

有り難し有り難し 8
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人を傷つけた過去について悔やんでいます

こんばんは。 私は小学校・中学校・大学での発言・行動を後悔しています。 私がいた小学校では、いじめが沢山ありました。誰かをはぶいたり、臭いと言ったりと言うことが多い場所でした。私も同級生を省いたことがありますし、省かれたこともあります。傷つける言葉も言いました。 いじめが周りで起こっているからと言って、いじめていいわけではありません。ですが、悪いことだと思わずいじめました。 そうすることが正義とすら思っていたように思います。最低です。 とても、後悔しています。 中学生の頃も、高校生の頃もはぶいたりはぶかれたりしました。高校生の頃は友人に傷つける言葉を言ってしまい、その事実にプラスして嘘の話をその子が広めたためにクラスの女子からはぶかれました。 人を傷つけてしまう自分が恥ずかしいです。人を傷つけないように、大切にしなきゃと思う一方、優しくいなければと気を遣いながら人と付き合っていくことに最悪なのですが疲れてしまうために人と仲良くなることを避けてしまいます。   うまくコミュニケーションもとれません。 こんな自分と仲良くしてくれる友人達には本当に感謝していますが、過去に人を傷つけた自分がヘラヘラとしていてもいいのかと時々思っています。結婚したり、子供をもったりしていいのでしょうか。

有り難し有り難し 37
回答数回答 1
2023/10/01

愚かな過去

私は数年前、とある施設の女性トイレに私自身の携帯電話を置き、盗聴するという愚かな行動をしました。 警察に通報されたわけではなく、相手の方が気づいていたのか、気づいていないのかはわかりません。 お相手の方は、全くの他人であり現在何をしているのか知ることはできません、その時に私自身、法によって裁かれ直接相手の方に謝罪ができていればと悔やむ毎日です。 ネットなどで、盗聴や盗撮などに被害に遭われた方の事を見たり、聞いたりすると心から傷をつかれた方が沢山目に入ってきます。 私もお相手の方の心、そしてその周りにいる方々の心に大きな傷をつけてしまったと思っています。 お相手の方は今、生きて幸せになっているのだろうか、それとも私の愚かな行動で、心に傷をおって、自ら命を絶ってしまったのではないかと思ってはいけないことを思ってしまっています。 ならば、私も自らの命で、償うべきではないのかと思い、日々葛藤する毎日です。 私は現在、その方が幸せに生きていると願い祈り、そして謝罪をしながら日々生きて おります。 そして自分勝手ながら、人の心を助けたいという夢も見つかりました。でも、誰かを傷つけた私なんかに人を助ける夢などという言葉があっては良いのかともおもっております。 もうお会いすることのできない方に、幸せに生きていてほしいという願いを届けるためには、私はどのような心を持ち、どう行動していけばいいのか教えていただけないでしょうか。

有り難し有り難し 5
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現代人、みんな傷を抱えて今を生きているのではないかと思う

世代を問わず今を生きる現代人、いろいろなかった人っていないのでは。 私もいろいろありました。中学時代のいじめ、高校卒業後の就職難、人格否定、職場で突然一方的に暴力を振るわれ怪我したこともあります。 最近ではここ2年の間に相次いで大好きな祖父母を亡くしました。 二人とも看取る事も出来ず、祖母は数年前から認知が進んでいたためもう家族の誰の事も分からなくなり、それから私の名前を呼ぶ事はありませんでした。 二人が可愛がってくれた想い出が蘇り、祖父母に対し何もしてあげられなかった後悔の念もあります。 私も法には触れなくとも自分の知らぬうちに過ちを犯してきたかもしれないし、これからもないとはいえない。 10代、20代の頃は精神未熟のままただひたすらがむしゃらに生き抜いて気がしますが、30代に入り始めていろいろ考えるようなりました。今までどれだけ泣いただろうか。他にもたくさん嫌な事、辛い事はありました。 一部報道されている事件、事故、自殺 または若くして病気で亡くなる人もいます。 亡くなった人やその人の家族の傷の大きさは想像出来ません。 または罪を犯したことで心に十字架に背負って生きている人もいます。 今を生きる現代人、それぞれ違うけれどみんな何かしら傷を抱えて生きている、私にはそう思えるのです。 だから私もいずれ死が訪れるまでこれからどんな辛い事があろうと後悔しない人生にしたい。 時代も変わりつつあるストレスも多い現代社会、どんな気持ちを持って生き抜いていけば良いでしょうか。

有り難し有り難し 28
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