愛されていなかった、愛されていないと認めてもいいでしょうか
両親に愛されていない・愛されていなかったと認めることで苦しみが軽くなりました。 こういう風に思うことは間違ってはいませんか?
今まで「親だったら子に対してこうあるべきなのに私の親はそういうことは全くない」と思ってきました。 納得いかなことは挙げればきりがありませんが私の親の対応を人に話すと皆ビックリする状況です。簡単に表現すると「無関心」ということです。経済的にはほどほど裕福でほどほどの地位と名誉を持った親です。)
最近気づいたのですが、「親は普通こうあるべき」と べき論で親を見て、かけ離れている親を認めることができませんでした。
もちろん、世間で普通と言われる状況を基準にすれば私の両親が良い親とは言えません。しかし、両親それぞれが自立していて自分の生き方で生きています。(母はなくなりましたが自立した人生を全うしました。)
私に面倒や迷惑をかけたこともありません。(身勝手ですが)
究極を見つめると「人は誰かのために生きるものではなく、自分の生命維持の為に生きるものだ」と私は思っています。
そういう観点から考えたら両親がしてきたこともまた『そういう生き方であった」と思えます。
「べき」を手放してみると、そして、「愛されていなかったんだ」と認めてみたら
親との心の距離が離れ楽になりました。
諦めとかし失望ではなく心の恨みみたいなもの、こだわりが少し無くなった気がします。
このように考える(?)感じることは良いことでしょうか?

有り難し 91

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