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問答一覧

身体的弱者と仏教

キリスト教では体が不自由でも障害をもっていても、また病気などによる身体的な理由で体力がなく例えば車いすが必要なひとでも、精神的に思考する能力がある場合、信仰を持ち研鑽を積み牧師になることができます。 仏教の場合、出家をした後の修行が厳しいようですが、仏教僧になるという道はそういった修行ができない身体的弱者には開かれていないということなのでしょうか。 1.例えば麻痺で体の一部がゆっくりしか動かせないひとや、生まれ持って歩けないひとや腕がないひと、声帯に問題があり機械でしか話せないひと、聴覚に問題があるひとなどは、どんなに頭が正常で思考する能力があっても掃除や行ができないため仏教の僧になることはできないのでしょうか? またはがんなどの病気をしたため体力的に限界があり一般にその行をしなければ僧としてみとめられないとされるもの(例えば天台宗なら比叡山での修行など)が体力的な理由でできない場合、それでも出家したいと願う場合、そのひとにはまるで仏教僧になる道は開かれていないのでしょうか。 2.その場合その理由というのは単純に物理的にできないということだけで判断されてしまうのでしょうか?もしもそうならば、それはどう正当化されているのでしょうか?そして、それをかえる動きはあるのでしょうか? よろしくお願いいたします。

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生きている意味が見つけられません。

20代でニートと引きこもりを続けています。 この状況から脱出しなきゃと思っても気だるく頭が重く、何から始めていいかもさっぱり分からず、また家族と揉めてばかりで気力が全くなくなってしまいました。罵倒ばかりで気分が落ち込んで、なぜそんな事ばかり言うのかと聞いたら「お前を励ましている」と言われ愕然としました。 「育てたのだからその分の金はちゃんと返せ」 そう言われて最もだとは思っているけれど、どうしても「違う」という気持ちも出てきてしまいます。 母親とは長年、幼稚園児の頃から何かあれば「あんたはごはん抜き」だと言われ、空腹に耐えるのが嫌で嫌で、そのせいか特に母親にはもう逆らうのも気だるく、今現在は家族を無視している日々が続いています。 昔から頭が悪く、今もまともな就職にも就けてません。バイトも苛めとクレームの嵐に耐え切れず辞めてしまいました。 早く離脱したい、一人で稼いで出て行きたい、そう思っても「でもどうやって?」と調べては「私なんかに出来るのだろうか?」と悩む毎日です。 もしそれが上手く行ったとして、そうやって生きていても社会で怒鳴られてバイトすら辞めた私が上手く生きていける自信もなくなってきました。 親不孝だと十分承知もしているのですが、こんな私が生きる意味とは何なのでしょうか? よろしければアドバイスをお願いいたします。

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結婚とは

昨年末に結婚しました。 結婚するまでは、夫は私の母親ごと大事にすると約束してくれ、私の実家から徒歩5分の場所に新居を構えました 現実結婚から半年、入籍直後に 『僕からは○○(私の名)の母親とは一切関わらない、でも仲良くしないといけないからお義母さんから誘われたら顔は見に行くよ。 家の事と僕の実家の事をキチンとするのであれば○○がお義母さんのことを構うのは全然いいからね』 と言われました。それからそれぞれの親の誕生日、母の日、父の日と過ぎましたが私は夫の両親に全てしましたが夫からは一言も触れませんでした。 こんなに近いのに数ヶ月顔を見ない義理の息子。私の母も避けられている事は感じていて夫の事を会話に出すのも段々不自然になってきて、今や私と母親もなんだか空気が悪いのです。 先日、寂しいけれど離れた方が心が穏やかになる。もう連絡も何もしないで下さい。家庭の事を頑張りなさい。私は1人で死んでいきます。 と母親から絶縁を言い渡されました。 今思えば最初に私が夫に言い返せれば良かったのでしょうが本音が口に出せないのです… 言われたのが入籍前なら良かったのに、とか今や後悔しかなく毎日時間が戻ることだけを望んで生きています。 結婚とはなんの意味があったんでしょうか。 男側は新しい家族(義理の娘)が増えた。 女側は家族が1人いなくなった。 母親の所に帰りたい。どう考えれば頭の中が前向きになれますか

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悟りとあきらめは何が違うんでしょうか?

 悟りって結局、あきらめなんじゃないでしょうか?  昨今の悟りブームで「今ここ」「ありのままの自分」を許容することが悟りであるとよく色んな本で言われていますし、釈迦も「むさぼるな、足るを知れ」なんておっしゃっておりますよね。  でも、これって結局、あきらめなんじゃないでしょうか?  釈迦が「むさぼるな、欲望とは空しいものである」なんて言えたのは釈迦が貴族に生まれて若いころに金だの酒だの女だのって遊びつくしたからこそ気づけたものですよね?  贅をつくしたことがある人が、贅をつくしたことがない人に欲望とはむなしいと言っても伝わらないと思うのですが・・・。そりゃあ、誰だって金だの酒だの女だのって遊び尽くせば、つまらなくはなるでしょうって感じです。  よって、欲望はつきることはないので今の自分を許容しましょうというのはただ単に、  お前は金がないんだから、あきらめろ  お前はブスだから結婚できない、あきらめろ  お前なんかに将来は見込めない、あきらめろ  ということを、ものすごくきれいな言葉で言っているようにしか聞こえません。  確かに今の自分や状況を受け入れてしまえば、一時だけは「このままでいいんだ!」なんて楽になりますが、後から反動で満ち足りた人とは違う惨めな自分にフォーカスがいき、ネガティブの渦に巻き込まれてしまいます。  結局、悟りなんてものは、上手く自分の不幸な状況から脳をだませた状態、きれいにあきらめた状態というものではないでしょうか?  乱雑な長文を失礼しました。たくさんの回答をお待ちしております。

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