今年新卒で社会人になったものです。社内でモラハラやパワハラがあり、体調が優れず心療内科に通い始めました。 良い先生で、私の気持ちをわかってくれた上で、「友達などに自分の胸のうちを打ち明けてみるといい」とアドバイスをくれました。 ですが私には、弱音を受け止めてくれるような友達がいません。愚痴は嫌われます。 丁度、友達と遊ぶ機会があったので、思い切って職場のことを打ち明けてみましたが、引かれ、馬鹿にされ(たように私は感じました)、恥ずかしくて仕方がありませんでした。 友達に話したことを後悔しています。もう友人たちの輪には戻れないと思います。身勝手ですが、心療内科の先生のことも信じられなくなりました。 心療内科に行くのも、やっとの決断でした。死にたくて死にたくてしょうがなく、でももしかしたら助かるかもしれないと思って行きました。幸せに楽しく生きたいです。 でも死にたくて仕方ありません。ちゃんとした会社で働いている友達が羨ましい。そう思う自分が憎い。まともな会社に入れなかった自分が憎い。だから死にたい。私の人生の責任を取って私には死んでほしいんです。生きて責任を取るのは嫌なんです。怖いから、死ぬという行為1回きりで許して欲しいんです。 今まで沢山悪いことをしてきました。今こうして死にたいのも悪いことです。 自殺するにはまだ勢い(もしくは消耗)が足りないように思えて、毎日飲むよう言われている薬や心療内科で処方された薬はすべて捨てました。食事も水分も取らないように生活しようと思います。絶食は、死にたくなる度にやっていて、でも最後はやはり食べてしまいます。今回は頑張ります。身体に限界が来たら勝手に死んでくれるだろうと思います。 いまこの質問をすることに、少しだけ希望を感じています。本当は、自分は生きていたいんだろうなって思います。 どうしてこんなことになってしまうのでしょうか、とはあまりに抽象的ですが、この嫉妬心や死にたい衝動といった生きづらさは、仏教ではどのように解釈されるのでしょうか。自分で自分をいじめるような身勝手は、苦しみとさえ言えないものではないでしょうか。 長くて申し訳ありません。お寺や、神社に行くのが好きでした。お答え頂けますと幸いです。よろしくお願い致します。
お久しぶりに投稿させて頂きます。 今回も深刻な悩みはありませんので、悩みごとのご相談の皆様を 優先させて下さい。 仏教を修習している過程での、素朴な疑問です。 仏教の教えは、無常・無我・苦を説いて、死後の世界のことは 扱わず、今現在の事実のみを扱うものと思っていました。 とすれば、告別式に唱えられるお経は、故人に向かって説いても 意味がないように感じられます。 告別式に唱えられるお経は誰に向かって説いているのでしょうか。 会葬者へ向かってのお経? でしょうか? とすれば納得なのですが。 もう一つの疑問です。 般若心経の「色即是空」「空即是色」ですが、これを 文字通りに見ますと、「色即是空」は、 「色(物質)、即ち、これ、空なり」は理解できますが、 「空即是色」の「空(無常)、即ち、これ、色(物質)なり」 となってしまいます。 しかし、空は物質だけではなく、全てが空ではないでしょうか。
悟りたいです。 何をすればいいのでしょう?
仏教でもキリスト教でもイスラム教でも、宗教は対立し得ないと思っています。現実に起こっている戦争は、宗教を大義名分にした、個人的な諍いに過ぎないと思います。 さて、宗教に関心はあるのですが、法華経を読んでも、聖書を読んでも、古事記を読んでも、自分が特定の立場をとる根拠が分かりません。 どのような基準で特定の宗教に入るのでしょうか? 「親が○○教だったから自分も」というのは、宗教性と何ら関係がないことだと思います。 みなさまは、なぜ仏教を選び、その宗派を選んだのでしょうか? また、他の宗教についてどう思いますか?
最近仏教関連の事柄を勉強しています。 大抵のことには首肯でき、今までの自分にない発想に心が洗われるような気持ちになりますが、イマイチ納得出来ない部分もあります。 それについてはまた別の質問で書かせていただきたいと思いますが、今回は、ここにいらっしゃるお坊さん達が、仏教の教えの中で、今の世相に合わないのではないかと思った部分、疑問を持っている部分などについて聞かせていただきたいと思います。 なぜこのような質問をしたいかと言いますと、例えばイスラム教では豚肉を食べてはいけないという教えがありますが、由来としては「乾燥した地域で、牧草でなく穀物を食べてしまう豚が忌避されたから」「伝染病の蔓延や寄生虫による被害の元になるから」などの説があり、この教えは現代ではほとんど有用性がないといえます。このような、現代社会に合わない教えというものが仏教にもあるのではないかと思ったからです。 なんだか衝突を巻き起こしそうな質問で申し訳ありません。 「ない」という回答でも結構です。 よろしくお願い致します。
はじめまして、すもももと申します。3年前に大学を卒業して以来、自分の進路が定まらず、最近はもう挑戦する気力もなくなってきました。 新卒で入社した会社には人間関係で悩み、より自分の個性を活かせる研究職を薦められ大学院に進学しました。 しかし、研究室の雰囲気に馴染めず、すぐに不登校になりました。辞めてはいないものの、アルバイトを転々とし、いまは大学院を辞めて就職か、留学か、結婚して身を固めるか、大学院に通い続けるかで悩んでいます。 結婚は付き合った彼とかんがえていますが、早くも結婚式の方向性の違いからすれ違いしてしまう予感がしています。 何にも向いてない可能性も高く、無駄に生きて精神力やお金を消費するよりも、好きな場所で好きにいなくなれたら楽だし、それが一番な気もします。 とりとめのない質問ですみません。わたしはどのように、この先の進路を決めていったらよいでしょうか。
結婚14年目の寺嫁です。 結婚して数ヶ月後に女の子とデート約束のメール発見。飲み屋の子とふざけてのメールと言い訳。 結婚五年目頻繁に会ったり旅行したりの浮気。 こちらは離婚を申し出ましたが 頑張ると言われて今回だけと許しました。 そして今日出張だと思っていたところ 37歳の女の人と旅行中という事が 分かりました。 僧侶としてはお檀家さんからは信頼され 優しくて、何でも出来ると評判。 お寺では義父(住職)と喧嘩ばかり 寺の仕事も中途半端、家庭の事は何もせず、自分中心。 義両親は旦那の事を二重人格だと言っています。 今回の浮気はもう許せず、子供を連れて離婚をしたいのですが いつも私の事を考えて大切にしてくれている義両親は、旦那を追い出して 私にはずっとこのまま ここに居たらいいと言っています。 そんな事が可能なのでしょうか?
不寛容な社会だともがいていたら、自分の中にも差別感があることに気付き、「自他不二」という世界の観方を探究したく仏教に興味を持っている一般人です。 仏教において、「空」や「仏性」ということが大切であることを知りました。それは思考や感情に囚われない普遍的な「全体性」ともいうべきもの(こと?)であり、全てのものは「自性」を持たないということかと思うのですが、そうすると私達の「意識」にも「自性」はなく、「自己選択をしているようで、実は選択していない」ということになるのでしょうか?そして、我々は様々な関係性の中で「刺激」に対する「反応」としてのみ「行動」しており、そこに「自己選択」などというものはないということになるのでしょうか? 教えて頂けると助かります。 どうぞよろしくお願いいたします。
私は寺の娘です。実家の寺には重度認知症の祖父、知的障害のある姉、70代の両親と暮らしています。一度、婿に来て寺を継いでくれるという人がいて婚約をしました。しかし、相手の母親が、家族構成、仕事内容などさまざまな理由から最後まで反対し、婚約破棄となりました。婚約を機に仕事を辞めて実家に戻りましたが、今、伴侶になりたいと思う人ができ、結婚しようと思っています。ただ、その方と結婚する場合、寺は継ぐことができません。理由としては一度は継いでくれると言ったものの、学歴の低さと育ちがあまり良くないことと現職が長時間労働且つ低賃金なことから父が継いでもらうことに反対したためです。相手も父の対応から絶対に継がないと言っています。親からは上記の理由もあり、娘の不幸が目に見えるから結婚しないで欲しいと言われましたが、とても優しい人で諦められなかったため、結婚の説得を続けたせいで勘当されてしまい、もうすぐ実家を出ていくこととなっています。 ただ、そうすると家族の世話をする人は誰もいません。寺ができなくなれば皆、家まで無くなってしまいます。自分の家族が不憫でなりません。自分の結婚したい相手を諦めてでも家族の幸せのために生きた方が幸せになれるのでしょうか。
如来のモデルは釈迦である。と、授業で習ったのですが釈迦はこの世界でたった1人の存在であるのに如来には複数種あるのでしょうか。中には釈迦如来もあり頭が混乱してます。教えていただけますか?
こんにちは。 何か心の拠り所が欲しいと思い、仏教の勉強を始めました。般若心経を読む宗派・読まない宗派あると思いますが、皆様の解釈を教えてください。 私が読んだ本に依ると、 ブッダは五蘊や十八界、十二因縁は存在するが、その「持ち主としての私」という確固とした存在は錯覚だ、「空」だ、と説いた。大乗仏教ではそれすら錯覚で、「空」という法則のようなものがあると説いている。 ブッダは「世の中はこのように構成されていて、だから生きることは苦しいのだ。ひたすら瞑想をして煩悩と戦いなさい」、 大乗仏教は「今見ている世界は全てが錯覚だから、思い悩むことはない。ひたすらお経を唱えれば、必ず救われる」という教えだ、と解説されていました。大乗仏教が「宗教」であるのに対し、ブッダの教えは「思想」であるとも書いてありました。 科学が進歩しておらず世界が何も解明されていなくて、生まれた環境を受け入れるしかなかったような時代、貧しい庶民の心を救ってきたのは大乗仏教に他ならないと思います。今でもそうです。私はお経にある呪術的な力も信じています。 でも、大乗仏教の僧侶の皆さんには大変失礼なことを申し上げるようで、申し訳ないのですが、般若心経を読むと全てが幻だと言われているようで、納得できません。現代社会においては、ブッダの考え方の方が合理的で理にかなっているような気がするのです。 それに般若心経は、ブッダが瞑想している間に、そのすぐ隣で観音様が舎利子に対してブッダの説を全否定して新しい呪文を教えて、それにブッダ自身にその通りだと言わせる、という舞台設定ですよね。それは、大乗仏教が原始仏教を越えようとしてできたものだからだと学びました。「日本人として般若心経を心の支えにしたい」という気持ちと、「ブッダの説の方が自分は納得できる」という気持ちが自分の中で葛藤してしまっています。 先日も、近所のお寺の座禅会に参加し、全員で般若心経を唱和しました。ブッダが推奨していた座禅の前に彼の教えを否定する内容のお経を読んで、裏切っているような罪悪感にかられてしまいました。 (私が読ませていただいた本は、仏教系の大学で教えていらっしゃる権威ある先生の本です。以上の解釈は私独自のものではなく、その方の受け売りです。) 私のこのような理解はものすごく偏っているのでしょうか? 皆様は般若心経をどのようにお考えですか?
東日本大震災で多くの方々が犠牲に合いました。その方達は何も悪くないのに、苦しく辛い経験をされ、一方で私は元気で生きています。ガザやウクライナでの戦争も同じです。なぜこのような理不尽な事が起こるのでしょうか。 私には答えが出ません。お坊さんはこの厄災や理不尽な不幸をどのように説明されますか? できれば宗派も教えて頂きたいです。
すいません。後から気づいたのですが2回同じ質問してしまってました。 こっちが本当です。 私の学校は仏教の学校です。 学校でのお坊さんの教えでは生きてるうちに良い行いをすれば極楽浄土へ行けるといったものでした。 私はそれを信じて今までちょっとした発言や行いで人を傷つけてしまったことを悔いてそのことを今一度悔いて謝ろうとも思っていましたし、少しでも人のためになるような良い行いをしていこうと心がけどのようにすれば良い人間になれるのだろうや一度罪を犯してしまうとその人は救われないのかなどいろいろ調べていると、たまたま見た記事に日本人はみな地獄行きというのがあり怖くなりついつい見てしまったのです。 するとそこには虫などを殺すと地獄行き、お酒を飲めばもっと怖い地獄行きなど他にも地獄レベルが書いてあるのがありました。 それはお坊さんが知ってることなどが書かれていたのです 私は、最近では虫を殺すのは悪いことだと思い今では蚊すら殺してなかったのですが今までは殺してしまったりしてました。 私達は、今までは罪を悔いて良い行いをしていれば人に好かれる人間にもなれるし極楽浄土へ行けると信じてきましたし地獄は殺人や人を傷つけても平然と後悔することなく生きている人間が反省するための場所と思っていました。 なのにそんな事実をつきつけられ私は、どうすればよいのでしょう。 1日1日を良いことをしても、どうあがいても逃れられない地獄へ行く恐怖をもちながら生きていかねばならないのでしょうか? 今まで学校で教わった教えはなんだったのでしょうか? すぐ泣いてしまう私なのにショックと信じられないという思いですぎて涙もでません
はじめまして。 私は昔から他人の成功を喜ぶことができない性格なのです。 例えば、友達が仕事で成功したり、難しい資格に合格したりなどの話を聞 と、表面的には一緒に喜びますが、心の中では悔しいような、寂しいような、 不安な気持ちが沸いてきます。 親しい関係であればあるほど、その気持ちは強くなります。親友や恋人に 対しては特に強く感じます。逆に親しくない関係の人の成功は素直に喜ぶ ことができます。 自分でも嫌な性格だな、と思ってはいるのですが、どうしようもないのです。 誰でも少しは似たような嫉妬の気持ちはあると思いますが、自分は特に強く 嫉妬してしまいます。 この気持ちはどう整理すればよいのでしょうか。
先日知人から共通の友人について「あのタイプの子は自殺しそうで怖い」と言われました。 が、何も言えませんでした。私は死ぬのも生きるのも個人の自由としか思えません。 勿論、幸せであってほしいとは思いますが、死にたいと言われても「頑張って生きなきゃダメだよ」とは思えません。その後幸せなことがあるとは保証できないし責任も負えない。終わりにしたいなら終わらせるのも自由。 お葬式を数多見てきて、どんな人も、例え親や夫が死んで悲しみを抱えてもいずれ日常を取り戻す姿をずっと見てきました。 私の一時的な悲しみのために、苦痛を受け続けながら生きてろよ、とはどうも思えないのです。生きたいと相談を受ければ聞きますが、死にたいと言われても、別にいいんじゃない?としか思えないのです。 同様に病気の友人にも、健康的に生活を改めなよとも言えませんでした。長生きするより、酒も煙草も自由に生きたいと本人が言うのならそうすれば、としか思えないです。しょうがないよね、アハハと隣で笑って、お葬式で泣くだけです。あの時止めてれば、と他の人のように思えません。 私は薄情なのでしょうか。 先月、20年頼の友人が死にました。毎週会っていた仲間でした。かつては恋人でした。悲しいです。喪失感もあります。でも、それは私の勝手な感情。結局考えに変わりはありませんでした。悲しいのはいつ死んでも悲しい。きっと20年後であっても。それでも人はどうあっても生きなければならないとは思えず、どうも繋がらないのです。 自分には何かが欠落しているのかとも思いますが、何かはわかりません。 私は人を大切にできない人間なのでしょうか。