いつもありがとうございます。今日は私にとって重大問題の永代供養について教えてください。私には子供がいませんし、親戚もいませんので私で私の家系は終わります。諸事情あって先祖のお墓はわかりません。だから今家にある親の遺骨は永代供養にするしかないと考えています。そこで永代供養にする事の注意点等を出来るだけ詳しく教えてください。頼んでしまうと返却出来ないと聞きましたので失敗は許されないと考えています。また、永代供養をそのお寺に頼むと檀家に入るということになるのでしょうか?回答お願いいたします。
2017年に母子家庭で育ててもらった母を病で61で亡くしました。 だいぶ経ってテレビを見てると地方のダムの映像が流れていて、母が生前ダムを見てみたい。と言っていたのを思い出しました。 生前叶わなかったダムを見に行くという目標をお位牌を持って見に行きたいと思うのですが色々と調べるとお位牌をお仏壇から出すのは良くないとか賛否の情報が出回っています。 やはりお位牌を持ち出して旅行に行くのは相応しくないのでしょうか?
はじめまして 先月に母が他界しました。 四十九日法要を迎えるまでの過ごし方に ついて教えて下さい。 この期間は旅行に行かない方が良いと 聞きました。用事があり離れた地域に 行きたいのですが控えるべきでしょうか 他に家族は居らず、遺骨を置いて留守に するのが申し訳なく思います。 2泊3日の予定でしたが1泊2日に変更して 行こうと思案してます。それか遺骨も一緒に連れて行こうかとも考えてます。 また、毎日お茶をあげてるのですが お水をあげるものでしょうか? よろしくお願いします。
ここ一ヵ月弱で、沢山質問して来ました。 様々な方からアドバイスを頂き、前向きに生きようと決心して行動してきました。 でも、やっぱり私には無理みたいです。どんな楽しい事をしてても、最後は必ず過去の罪を思い出し、落ち込み、逃げ場がないです。 きっとこれは死ぬまで続くと思います。過去の分の天罰なんで当たり前ですね。 もう私はどんな良いことをしても、人のためになる事をしても、自身を責める事を辞められないです。 自分が嫌い。人が離れるのが怖い。幸せも怖い。 なんだか疲れてきちゃいました。 今すぐかはわからないけど、タイミングが掴めたら死にます。 これまでアドバイスしていただいた方々、本当にありがとうございます。 我儘かも知れませんが、もし生きていたら、またいつか質問させてください。 ありがとうございました。
いまだに家族や他人に心を許して素直に自分のことを話せません。 小学校高学年ごろから、祖父が亡くなったことがきっかけで家族関係がくずれていったように思います。 詳しく教えてもらえませんでしたが、家族をとりまく仕事やお金関係のことでいろいろ問題があったようです。 母はストレスがたまっていたのか厳しく気難しくなり、祖母たちとの関係も悪く、一番仲がよかった妹とも激しくけんかして以来一言も口をきかなくなりました。 わたしは家族や学校の人たちともぜんぜんうまく話せなくなり、不登校になったりしました。 わたしは気難しく神経質でずっと不安定で、自分を守るためなら平気で人を傷つけるような大人になってしまいました。 その反面、何の目標も持たず、仕事もうまくいかず、やる気のないわたしは高い学費も親からだしてもらい、生活費もまかなってもらい、実家でずっと親のすねをかじって生きていました。 ここ数年で、家を出て親と距離を置いてやっとなんとか自立できるようになってきたところです。 人間関係や仕事は今もうまくいかないことが多いです。自分が認められるか不安でなにもできなくなります。 ずっと家族のことや、いままで傷つけてきた人のことを毎日思い出し、自分はどうすればよかったんだ、これからどう生きていけばいいんだと考えます。 もしあの苦しかったとき、母がもっと自分に寄り添ってくれたら、だれかが気にかけてくれたら、と思う反面、自分では何もできない自分自身にも嫌悪感があります。 ぐるぐると考え続けて苦しいです。どのように自分の過ちを償うべきでしょうか。
僕の両親は20年以上前に 僕が中2の時に離婚し、僕は高校卒業まで弟と共に母と暮らし現在は訳あってまた父と2人で暮らしています。 父は来年古希で母も今年還暦を迎えたのでそろそろ死というのが脳裏にちらつく頃です。 僕は現在独身の上に長男で弟は遠く離れた北海道に彼女と同棲していてアテにならないので両親の最期を看取るのと後始末は僕がする事になると思います。 九州の長崎が地元で僕自身も県庁所在地の長崎市に住んでて父の実家も墓も長崎市内にあるので父が亡くなったら祖父母と同じ墓に骨を入れてあげればいいと思いますが問題は母の方です。 母の実家とお墓は長崎県北部の平戸という田舎の島で長崎市内からは急いでも3時間はかかる場所です。 父の場合は火葬まで住んだらそのまま長崎市内の墓に入れてあげれば大丈夫だと思いますが、母のように離婚した親の実家と墓が遠方にある場合でもやはりそちらに骨を入れるべきでしょうか? 因みに母は5人きょうだいの4番目ですが皆さん平戸からは離れた場所(福岡・久留米、福岡市、愛知・豊橋、長崎・佐世保)に住んでて しかもほとんど僕は最近おじおばと付き合いがありません。 辛うじて久留米にいる母の一番上のお姉さんの連絡先を知ってるくらいです。
結婚して1年半経ちました。 結婚式の際に義母とモメました。 原因は ①義両親は創価学会の為、チャペルでの挙式は辞めてと。 私達2人の挙式に口を出してきた事に腹を立てました。私は浄土宗ですが、だからと言って教会で挙げたくないとは一切思いません。なぜならイベントだからです。 主人は無宗教だからチャペルも神前式も嫌だと。 私は義母に口を出されたことが未だに忘れられなく、これまた許せません。 だって義母が主役ではないからです。 ②結婚後、義両親を自宅に招きました。 私は13時の約束でしたので昼時ですし、ランチを用意していました。ところが来たのは11時半、そして来るなりお昼食べてきたと。 そして挙げ句の果てにお中元の時期でしたので、私の両親にお中元代わりに渡しといてと言われる始末。1ヶ月遅れで持参。あまりにも身勝手すぎて主人から直接配送してもらうようお願いしました。 こんな身勝手な義母に付き合うのは懲り懲りですが、どうしたらよろしいでしょうか。 ご指導ください。
はじめまして。 昨年初秋に母が亡くなりました。 母は亡くなる1年前の夏にくも膜下で倒れ、奇跡的に一命を取り留め、その後数回の脳手術やそれに伴う身体のあちこちにメスを入れる処置をした後に亡くなりました。 亡くなるまでのその間、身内内で手術や治療法に際し、色々と話し合いがありました。 母の側にいる父と、弟、弟の嫁はどんな形でも良いから生きていて欲しい、手術して例え麻痺が残ったとしても生きていて欲しいと泣きながら訴えてきました。 私と兄は脳だけに、今後色々考えても母が苦労するだけで、無駄な治療や手術を繰り返しても治る見込みを考えれなかった事と、今まで散々苦労させて頑張らせてきたのに、何故また病に倒れたこの時まで痛い思いを何度もさせなくてはならないか疑問視し、手術と治療に際し何度も反対しました。 私と兄は飛行機を要さないといけない遠方に住んでいた為、どんな意見も通らず、結果1年間、母は寝たきりのような状態で最後は苦しみながら亡くなりました。 もっと早くに楽にしてあげたかった。 身体に何回も傷を入れず、早く楽にしてあげたかった。 父と弟夫婦に対する怒りで、葬式も泣けなかった。 葬式後、父と弟夫婦と連絡切りました。 残された父70代が亡くなる時が来ても、葬式には出ないつもりです。 もう身内の縁切りたいです。
はじめまして、よろしくお願い致します。 . 先日の大雨で、実家である母の家が水浸しになりました。 その際、小さな仏壇ではありますが、一番下にある引き出しが浸水し、雨漏りもあったため仏壇を買い替えなければならないということでした。 その話の時、母はお位牌を持ってきました。 12歳で脳腫瘍で亡くなった母の弟と、48歳で過労・心労で亡くなった母のお母さんのお位牌です。 . 調べたところ、ご本尊様が阿弥陀如来様であること、左右の掛け軸が文字であることから、真宗大谷派だと思います。 しかし、菩提寺があるかどうかが分かりません。 現在は私の家にお位牌があります。 ご本尊様はない状態です。 お位牌を並べて、お水と仏飯をお供えして手を合わせています。 . 私と母は2人とも精神疾患を持っており、生活保護でくらしています。 同居が当たり前なのですが、母と私の間には何かと柵があり、互いの主治医の許可が下りず、目と鼻の先ですが別々に住んでいます。 お訊ねしたいことは . ①母が新しい新居に引っ越しても、来年頃に再婚が控えているため、新居にほぼおりません。 仏壇をお相手の家に置いてもよいのでしょうか。 ②私の弟が長男ですが、母は長女である私に仏壇を継いで欲しいと言っています。 私はとても嬉しく思いますが、それでいいのでしょうか。 ③生活保護で金銭的に厳しい場合、閉眼供養や開眼供養はどうしたらよいのでしょうか。 . ということです。 あと、これは関連づけるつもりはないのですが、不思議なことに何かの節目で、連日亡くなった人達が出てくる夢を見ます。 その際、皆苦しそうな顔をしており、シチュエーションは葬儀や神社・仏閣です。 その夢を見なくなったら事態が好転することが多いのです。 今回も連日その夢を見ていて、母がお位牌を持ってきた日から夢を見なくなりました。 何となく「これだったのかな」と感じました。 . ご教示頂けることがありましたらどうぞよろしくお願い致します。
納骨についてご相談させていただきます。 昨年の夏に配偶者を亡くし、現在遺骨を自宅の仏壇に安置しております。 昨年の葬儀の際、突然であったこと、郊外の自宅近くで葬儀を行ったこと、コロナ禍でもあったことから、家族葬で簡素に行いました。その際に、少し様子を見たいので、納骨は一周忌の時にとしました。その後、四十九日、百箇日は、お経を読むことができる親族に来てもらい、これまた簡素に自宅でお経をあげていただきました。 一周忌まで一か月となったのですが、墓のある霊園の法要室はコロナのため使用不可、おそらく導師の方も来ることはできそうにありません。一周忌、納骨法要はきちんと行いたいと思っていましたが、難しい状況です。霊園の方では、法要を行わず納骨だけはできるようです。 納骨に関して調べてみると、時期等には特に決まりはなく、遺骨にもあまり執着しないようにした方がよいという記載が多かったように思います。 きちんとした法要等を行って納骨したいという気持ちと、いたずらに納骨を遅くすることへの抵抗の間で悩んでいます。 納骨を行いたい気持ちとして、今は在宅勤務ですが、コロナ禍の状況が変われば、元々出張族であるため自宅を離れることも多くなりますし、故人との思い出の地を訪ねたりといったことも行っていきたいと思っています。 納骨を遅らせる気持ちとして、簡素な葬儀であったため、納骨法要はきちんと 行いたいこと。このような状況が、「納骨はまだ待って」と故人に言われている ような気持ちにもなることがあります。 僧侶の皆様のお考えを教えていただければと思います。 ------------------------------ 以前に「義父、義母の菩提寺へのご供養依頼」という質問を行い、和田隆恩さま、日延さまにご回答いただきました。義父母の菩提寺と連絡を取り、追善のご供養が無事できました。田舎に伺うことができなかったのですが、ご住職さまが 読経、塔婆を立て、その画像をメールでお送りいただきました。また、墓地のお世話をしてくださっている本家の方にもお話をしていただいたようです。 こちらでの回答をいただき、追善供養を行ってよかったと思っています。 ありがとうございました。
はじめて投稿させていただきます。 私はミッションスクールでキリスト教に出会い、宗教についてもっと勉強したいと思いました。 教会にも行き、聖書も読んだりして、洗礼を受けようかと考えましたが、やっぱり実家の宗教(私の家は浄土宗です。実家がお寺と言うわけではないです)を大切にした方がいいかなと思い、最近は、阿弥陀さまに祈り、座禅をしています。 聖書も読んでいます。 しかし、問題があるのです。 聖書は、他の神は信じない方がよい。聖 書の神を信じなさいと教えているのです。 阿弥陀さまを信じながら、キリストも信じることは、わたしには出来そうもありません。どちらか一方を信じた方がいいと考えています。阿弥陀さまかキリスト、どちらがいいでしょうか。 カウンセラーには、どちらかに絞る必要はないと言われましたが、キリスト教と仏教どちらも信じていると、混乱してしまうのです。 ぜひ、僧侶の皆さんの知恵をお借りしたいです。 みなさん、どう思われますか?
先日この世を去った愛猫への気持ちを御相談させて頂きました。 その節は暖かいお言葉、心から感謝致します。 丁度、今日で愛猫が旅立ち1ヶ月が経ちます。 ここで、ずっと悩んでいた事がもう1つあり御相談させて頂きます。 御骨ですが、まだ当分の間は傍に置いておきたいのですが いつかはあの子がお散歩を気持ちよさそうにしていた実家のお庭に埋めると決めていて、その際に御骨の一部を自分の元に取っておいても良いのかお聞きしたいです。 最近では、専用のカプセルが売っていてそこに一部を入れて持ち歩く方もいるようで 自分もそうしようかとも思うのですが、 そうするとあの子の一部を取ってしまう、切り離してしまっているようにも思えて 結局はずっと傍に居たいという私のエゴになってしまうので そういう事をしてもいいのか、御坊さんのご意見をお聞かせください。 よろしくお願い致します。
こんにちは。前回は回答ありがとうございました。あれから日にちは経ってませんが、また、相談させてください。 あれから私は、改めてこれまでの罪を懺悔し、無財の七施を心がけながら生活しています。 しかしふとした時、自分のしたたくさんの罪の罪悪感に苛まれ、涙が溢れてきます。特に傷つけてしまった犬と、幼い頃の2回の万引きに罪悪感が止まらず、懺悔してもしきれません。 ここ最近毎日泣いています。泣いてもどうにもならないのに、すぐ泣いてしまいます。 その度に自分の心が弱くて愚かだと思ってしまいます。お坊さん達はこのような心をどう思いますか? また、どうしたらこの心を変えることが出来ますか?文章力がなく、上手く伝えられなくてすみません。 お忙しい中とは思いますが、アドバイス頂けたらと思います。
はじめまして。 私は40代夫婦の妻です。 先々のことを思うと苦しくて眠れなくなるので、相談させてください。 災害や事件の報道に触れるたび、夫の存在の有難さを感じて、最近は大袈裟なくらいに夫へ感謝と愛情を表現するようになりました。 すると夫がますます優しくなって、中年夫婦のくせに恥ずかしながら夫のことが自分史上最高に大好きになりました。 でも、私達はもう、人生の終わりが具体的に想像できる年齢なので、それを思うと怖くてたまりません。 夫のいない世界で生きて行くなんて耐えられない… でも、私以上に寂しがり家の夫を残しては逝けない…夫が死後の世界で不自由しないように、私が此方で対処しなくちゃ… そんなことをグルグル考えて、よく眠れません。 いっそ夫への愛情を少し冷ました方が楽になれるとは思うのですが、今の幸せな生活を続けたい欲を捨てられません。 そこで質問ですが、 大切な人を失う恐怖には、どう対処したら良いのでしょうか? また、死者の幸せのために、遺族がすべきこととその必要日数を教えてください。 よろしくお願いいたします。
聖職者の皆さんは、ご自分の死と死後(あるのかどうか分りませんが)については、どのように理解・納得されて日々を過ごしておられますか? 現代科学の教えるところは、死は肉体の消滅であるばかりでなく、意識の消滅でもあります(意識は脳が作り出しているもの)。 死によって生前の努力が全て消滅することを考えると、虚無(ニヒリズム)に陥ります。古来の哲学者の中には、このニヒリズムに陥ることが当然だ(そうでない方が人間らしくない)と教えてきた人達もいます。 こういう状況で、信仰に進む以外に救われるものはないのではないかと私は考えているのですが、聖職者はこの避けることのできない死の問題をどのように解決できているのでしょうか? 是非ご教示ください。
何故か年齢を重ねていくたびに孤独感が増していきます。この先、益々孤独になるのかと思うと怖いです。
最近、何をしても生きた心地がしません。 生きているのが辛いのですが泣きたいのですが、涙も出てこず、泣けません。でも死にたいという気持ちは一切ありません。 最近、新しく友達ができたのですが、その時のひと時は生きていると実感しています。 体は動いていても、頭では今何をしているのかわからず、生きているという感覚がありません。 今の自分がどうしたいのかわからず、本当につらい日々を送っています。 何かアドバイスとかあれば、頂きたいです。
私はとあることがきっかけで、ずっと不動信仰をしております。 それがさらにきっかけとなり、真言宗にも興味を持っています。 毎日、お青不動様の写真に般若心経、光明真言、仏説聖不動経などを お唱えしております。よく高野山に行くのですが、理趣経が売ってたので 購入しました。お経の中の漢字を見ていると、まるで曼荼羅を見ているように思い 気に入ったのですが、インターネットで調べてみると、 「むやみに読むと功徳を授かろうと未成仏霊が寄ってくる」 「これは真言密教の秘経であり、一般人は読んではならない」 「僧侶や行者、信頼できる師から教えを受けなければ読んではならない」 とあり、非常に残念に思っています。自分にとって、本当に文字の集まりが 曼荼羅のように思えてしまうほど素晴らしいと思っていたので、その理趣経を 自由に読めないのはショックでした。 本当に、インターネットのように、自由に理趣経は読んではダメなのでしょうか? お教えいただけたら幸いです。
元々体調の些細な変化が気になる性格ですが、産後、病気を機に一層ひどくなりました。 数年はそれでも波があり、元気なときもありましたが、最近は毎日何かしら気にしています。一年前に脳動脈瘤が発覚し、落ち着かない毎日です。 幼児二人がおりフルタイムで働いていますが、健康的な食生活、運動もしていて、健康に対する意識や行動は他人から見たら恐らくやりすぎなくらいだと思います。 不健康になる要素はありません。 でも気になって仕方ありません。 実際症状はありますが、病院に行くと経過観察になったり何でもなかったりです。 みんないつかは死ぬ。周りにはそう言われましたが、明らかに死につながる原因がすでに自分に存在していることがわかっているので、自分にとっては死があまりにも近すぎます。 1日1日を大切に過ごしたいのに、頭から離れず、穏やかに生活できません。 どのような心構えでいればよいでしょうか。よろしくお願いいたします。
「和顔施」も、やはり状況に応じて変わっていく(変えねばならない)のでしょうか? 「和顔施」は、とても良い言葉・行為だと、私は思っています。回答僧の皆様も、何度か回答で触れられていますね。 ただ、新型コロナウイルス感染防止対策で、マスクが必須となり、表情を読み取りづらくなりましたね。逆に、私の表情や意志も、相手に伝わっていない可能性があります。 いずれ新型コロナウイルスは収束しても、以前と同じとはならないでしょう。「和顔施」も、今後はひと工夫する必要がありそうですね。 これ以上「ギスギスした社会」になるのは、私は嫌です。 回答僧の皆様は、和顔施の際に、何か「ひと工夫(プラスアルファ)」をされていますか?