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検索結果: 2922件

ひとりっ子同士の結婚➡︎仏壇

夫とはひとりっ子同士の結婚でした。苗字は変わりましたが、現在、夫と暮らすアパートに私の先祖代々・両親を祀っている位牌を祀っております。仏壇ではありません。 夫は義父を亡くしており、現在は実家で義母が仏壇を所有しております。 この度、3人での同居が決まりました。義母も私が旧姓の位牌を持っての同居であることは理解してもらっています。 旧姓側の菩提寺様には私が供養できる間は苗字が違っても供養を続けなさいと教えていただきました。 質問は、 1階に夫家系の仏壇、2階に旧姓の仏壇を置くしかないのですが、気持ち的には私の家系を置かせてもらっている、と思っているので失礼に当たらないだろうか。という事。 また、お盆など夫側のお寺さんは自宅で読経などの供養はしていないのですが、旧姓側は毎年住職に来て頂いて読経が有りました。アパートにも来て頂いていました。今後は旧姓側だけ、というわけにもいかず、住職に読経をお断りする事など出来るのでしょうか。 いずれは旧姓側は永代供養になると思うのですが、現状のまま先祖を供養するための方法を教えていただきたいです。 長文読んでいただきありがとうございました。宜しくお願い致します。

有り難し有り難し 23
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明けましておめでとうございます。

以前から何度も相談させていただきましたものです。 無事に離婚が成立しました。 向こうは親に挨拶に来ることもなく、ただただ私を捨てれて喜んでたのか、相手は公証役場で泣いてました。それがこれまで言ってきたことやって来たことを考えたら、何でお前が泣くねんと言う感じで、あまりにも腹が立ちました。本当に意味のわからない人間です。これまでの経緯から考えると、かわいそうな俺アピールでしかないとおもってしまいます。 かわいそうな自分だとか、よくやった俺とかってすぐに自分に浸る人なので本当に気分が悪かったです。それだけ余裕があって良いですねと思ってしまいました。 そして、良い父親面しようと色々またいってきたので、拒否する心がより一層強くなってしまって今に至ります。すみません。また愚痴ってしまいました。 以前より助言していただいたように、離婚した今となっては考えを改められるよう今年はまた我慢の一年でがんばらないといけないなと思う次第です。 昨年の一年で沢山相談して皆様方に支えていただきまして、多分理想?の離婚とは違いますが、なんとか乗り越えてこれました。皆さんのお言葉を何度も読み返して、この怒りに支配された心を少しずつほぐして子どもとの幸せを考えられるよう進んでいきたいと思います。本当にありがとうございました。

有り難し有り難し 42
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自宅敷地内の観音様について

以前、被災した義理の両親との同居を解消することに悩み相談させていただいた者せす。同居して2年が経過しようとしています。相談させていただいてからも、主人とは何度も離婚の話をしてきました。お互いこのストレスに疲れてしまっていたのです。そんな不仲の私達のことをみて、義理の両親がなぜか私達のことで結婚後過去最悪の喧嘩したそうです。 そして、この家からは出ていき、シングルマザーで2人の子供を育ててい る義理姉のことをサポートしにいくことときめたようです。 そこで、ご教示いただきたいことがあります。 彼らがこちらに来る時に、代々祀ってきた観音様を我が家敷地内に、被災地から持ってきました。観音様と呼んでおりますが、どうやら昔の誰かのお墓らしいのです。主人のひいおじいさまの夢に、出てきて「掘ってくれ」とお告げがあり、掘ったらでてきたそうです。それから、その観音様は震災でなくなってしまった自宅近くの山に祠を建て祀られており、代々引き継がれていたようです。 こちらに持ってくるという話の時、私は「海を眺める場所にあったものだし、観音様はあの場所が好きだろうから動かすべきではない。」と言い、また、正直、新しい住宅地なので周りも若い家族が多いため気味悪がられたりされるのではないか、という気もして反対してました。 今、観音様は庭にあり、ホームセンターで購入した物置小屋を祠のようにして祀り、義理母が毎日お水をあげています。 これから家を出で岩手県に戻るとのことで、私は上で申し上げた理由2点から、あちらに戻して欲しいと思っています。 しかし、主人も含め、こちらに置いておきたい、といっていますが私は、義理の母ほど、その観音様に愛着が持てず管理ができる自信もありません。主人は週1くらいであればお水とご飯を供えそうですが、今までの仏壇へのお供え状況を見ていると私より頻度が少いので怪しいです。 こんな雑な夫婦のもとに観音様を置いておいて良いのでしょうか。 それで観音様は幸せでしょうか。 昔、観音様のお供え等をサボっていた時期に義理父が仕事で指を切断したそうで色々と怖いです。 今後どのようにしたら観音様は幸せですか? ご教示ください。

有り難し有り難し 11
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ひとり歩きしている「しっかり者」の評価に困っています

 学生をしているものです。最近、「しっかりしている」と思われることに少しうんざりしています。  もちろん、自分の仕事がきちんと評価されているのだと思えば有難くもあることなのですが、過剰に評価されたり、しっかり者というイメージが先行し、期待が重いと感じることがままあります。  自分のキャパシティがすでにいっぱいいっぱいであったり、苦手な分野での頼み事をされたりした場合も、「時雨さんはしっかりしてるし大丈夫でしょ?」との反応が多く困ります。  実際は努力やこつこつと積み上げることが苦手で、日々の作業を適当にこなしている面もあり、しっかり者とは程遠いと思うのですが、周りにそう言っても謙遜と受け取られてしまいます。  それゆえ、このことを周囲に相談することもかないません。  ぜいたくな悩みとは思いつつも、キャパオーバーしてしまうのが怖くもあり、「実はしっかりしていない適当なわたし」を誰かに理解してほしいという気持ちもあり……  つまるところ、等身大の評価を得たいのだと思います。自分の努力や能力以上の評価をしてもらうことは心身ともに苦しいです。  頼られることはうれしいのですが、不当にプラス評価をしてもらうことは、不誠実なことのようで……  実際、自分で抱えられる以上に頼みや相談を引き受けてしまい、にっちもさっちもいかなくなった思い出も一、二度あります。  わたし自身と周りのイメージの剥離を埋めることは可能でしょうか。 また、それが不可能であれば、ひとり歩きしているしっかり者のイメージとどのように付き合えばよいでしょうか。  

有り難し有り難し 19
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「寛容」とは何なのでしょうか

私は短気な性格をしています。他人の欠点や失敗がすぐに目につき、それに対して一々苛立ちを覚えてしまいます。 また一方で他人の目を気にしており、自分が嫌味を言われるといつまでも引きずってしまいます。 嫌味は相手を不愉快にさせるというのは分かりきったことなので、自分が苛々してもそれを口に出さず、また嫌味を言われても必要以上に重く捉えないようにし、 「何をしようとその人の自由、不利益を被らない限り私が口出しすることではない、多様な考えの人がいて当たり前」 と、寛容な思考・行動ができるよう努めてきました。 しかしこれは「寛容」というよりはただ「無関心」なだけなのではないか、と思っています。周囲の「この人寛容だなあ」という人を見ていると、そもそも他者に苛立ちを覚えない、他者の全てが面白くて仕方ない、という人であるように感じます。容量が寛いから寛容なのであって、苛ついている時点で私はすでに容量が狭い。 かのマザー・テレサ曰く「愛の反対は無関心」だそうで、やはり集団生活を営むヒトという種族である以上、「他人に無関心である」というのはあまりよろしくないことではないかと思います。 正しい「寛容」とは何であり、またどのように身につければよいのでしょうか。 それとも私はこのまま「寛容」もどきの「無関心」を続けていてよいものなのでしょうか。

有り難し有り難し 58
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越三摩耶戒罪(おつさんまやざい)が気になります

密教をご存知のお坊様に、質問をさせてください。 3つ質問があります。 「越三摩耶戒罪(おつさんまやざい)」が非常に気になっております。 密教には、在家の人間がやってはいけないことがあると聞きました。 在家の人間が、阿闍梨の許可なく、勝手に真言を唱えたり、伝授なしに梵字を書いたり手印を結んだりするのはいけないと聞きました。 これを破ると越三摩耶戒罪、越法罪という宗教上の罪になる。 何の功徳も、ご利益もなく、徒労に終わる。 「大叫喚地獄に落ちる」とか「無間地獄に堕ちて出ることができなくなる」という恐ろしげな記述もありました。 1つ目の質問です。 何人かの先輩の信徒(在家)から色々と聞いて、自分なりに考えをまとめました。 ・真言なら唱えても良いし、功徳もご利益もある。 ・手印を結んだり、梵字を書くのはやめたほうが良い。 ・阿字観はお坊さんの指導のもとやること。独学は駄目。 ・本格的な祈祷の真似事をやるのは絶対に駄目。 ・「地獄に堕ちる」は、師僧の指導に従わない・修行のルールを守らない修行僧を戒める方便。でも原則として守らなければならない。 これでよろしいのでしょうか?  2つ目の質問なのですが。 私は信仰を持つ前から、仏教に強い興味がありました。 多くの本を集めて読んでいたのですが、愚かな素人の悲しさ、当時は越三摩耶戒罪のことは知らず、手印や梵字の書き方の本、さらに儀軌や口訣書を含めた専門書もかなりの数、蔵書として所有しております。 また密教美術にも惹かれ、曼荼羅の色紙も購入してしまいました。 しかし阿闍梨の許可なく、曼荼羅を建立したり、儀軌や口訣書などの専門書を読むのも越三摩耶罪に当たると聞きました。 ・小さな仏壇の上に、両界曼荼羅の色紙を額に入れて飾っているのですが、これを気にするのはやはり神経質すぎるでしょうか? ・密教の専門書を読むことを気にするのも、神経質すぎるでしょうか? 3つ目の最後の質問なのですが、先輩の信徒(在家)から、 ・「そもそも貴方は結縁灌頂を受けておらず、正式に三摩耶戒を授かっていないので、越三摩耶罪は成立しない。だから気にする必要はない。しかし灌頂を受けると越三摩耶罪が成立してしまうので、注意しなさい」と聞きました。 この解釈は正しいのでしょうか? 長文かつ生意気な質問で、申し訳ありませんが、ご意見を伺えましたら幸いです。

有り難し有り難し 34
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般若心経の「無無明・亦無無明尽・・・」の部分について

こんにちは。 前回質問から、般若心経の「無無明・亦無無明尽・無老死・亦無老死尽」 の部分が、やはり気になってしまってるので質問させて頂きます。 この部分は十二縁起についての言及との事ですが、 十二縁起を乱暴ながら私なりに要約すると 根源的な無知(無明)→生存本能と外界知覚(行・識・名色・六処)→本能と分かち難く生じる煩悩(触・受・愛・取)→本能と煩悩で成り立つ生存(有)→生存する主体として「私」という想念が生じる(生)→「私」はいずれ死ぬ(老死) と、言う事でしょうか。 私の考えでは、この部分について般若心経は 「どんなに達観しても十二縁起の因果関係は断ち切り難い」 (「無」無明尽・「無」老死尽→否定としての「無」) けれども 「物事をありのままに見れば(空相にて照見すれば) 全てが、かけがえのない真実と分かる」 (「無」無明・「無」老死→空相、全体性としての「無」) と「無」と言う言葉が違った使われ方をしているように 思うのですが如何でしょうか? 字面通りに読めば「Aは無いけど、Aは尽き無い」と言う二律背反になり、 これでは意味の全く通らないナンセンス文章です。 この部分、般若心経を読む誰もが最初に「あれ?」と思う所ですが、 腑に落ちる説明をしている本がありません。(偉そうに言える程、 本は読んでないですが) 中には「十二縁起なんて形式にこだわるのは小乗仏教だ。 般若心経は大乗仏教だからそんなものに拘らない」 とバッサリ斬っている書籍もあります。 そんな単純なものでもないと思うのですが・・・ 解釈は色々あるかもしれませんが、お考えをお教え頂ければ幸いです。 何だかマニアックな質問になってしまいすいません。

有り難し有り難し 88
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釈尊の言行

 厚かましく、非宗教説を続けます。  釈尊の言行については、立川武蔵先生の「ブッダをたずねて」の受け売りですから、皆様先刻ご承知と思いますが、信仰について言及したいと思います。  先ず釈尊は、偶像崇拝を禁止したとのことですが、釈尊の死後、舎利を分配して、早速信仰の対象にしました。  仏像も信仰の対象として作成され、祇園精舎での説教で済むところを、巨大な寺院を建築し、仏像を納めて 荘厳さを競いました。  これは中国の仏教を模倣したのでしょう。  釈尊の言行からはまったく不要なものであるはずです。  次に釈尊の死が近づいたときに、近隣の村人たちが釈尊の葬儀の支度を始めているのを見て、弟子にあそこに参加してはならないと戒めたそうです。  元々葬儀には無関係だったようです。  確か応仁の乱で加茂川に死体が放置されていたのを、僧侶が荼毘に付したのが始まりだったようです。  釈尊の言行に従って、これらの行事を無くせば、仏教はただ説教と修行に励むことだけが残ることにはなりませんか?  仏教は信仰とは無縁だと思います。これが非宗教説です。  蛇足ですが、通常寺院の参道に仁王門がありますが、これが参道の入り口ではなく中ほどに建てられいます。  これは参道が、輪廻転生を示したと考えられます。  参道の入り口は娑婆です。参詣者は参道を通って本堂に向かいます。  本堂は娑婆から切り離された死の世界です。  本堂に居続ければ平穏ですが、娑婆に還るときは仁王門で苦しめられます。  「チベットの死者の書」によれば、丁度3週目に怒りの神々に遭遇します。  仁王門が中途にあるのはそれを模したものと考えられます。    従って輪廻転生は仏教にとってそれ程重要なものです。  現在仁王門の像は参道を向いていて外敵を防ぐと言われていますが、参道の中途にあるのも不自然だしその必然性が考えられません。  像は本堂を向くべきだと思います。  さびれたお寺の仁王門がその向きになっているとの記事も見かけました。

有り難し有り難し 59
回答数回答 4

霊魂の存在を否定されるお坊さまへのご質問

 こんにちは。先日は私の拙い質問にご回答頂き、誠にありがとうございました。また、こちらで何度もご質問させて頂いておりますが、その度毎に丁寧なご回答を頂いておりまして、大変感謝しております。本日は、多少突っ込んだ質問になってしまいますが、自分の中でどうしても整理がつかない点があり、それを質問できるような場が他にありませんでしたので、この場を借りて質問させて頂きたいと思います。どうぞよろしくお願いします。  こちらのサイトを拝見しておりますと、「霊は存在しない」と回答しておられるお坊さまが何人かいらっしゃいます。お坊さまの中でも意見が分かれる問題なのだと思いますが、私は霊魂の存在を信じており、また輪廻転生もあるのではないかと考えております。霊魂の存在を否定されるお坊さまは、霊感商法やカルト教団への対応など、現実的な対策の観点から、またお坊さま個人の世界認識から、そのような発言をされているのだと思います。しかし、素人の私から見ると「悟り」や「阿弥陀仏の救い」を前提としてお話をされているお坊さまが、「霊魂」の存在を否定されることが、どうしても理解できないのです。  素人の私から見ると、「悟り」も「阿弥陀仏の救い」も、それが一体何であるのか分かりません。そのため、お坊さまが「悟り」や「阿弥陀仏の救い」をお話されることは、「霊魂」や「輪廻転生」のお話をされることと同じくらい荒唐無稽なもののように感じてしまうのです。唯物論者の方が霊魂の存在を否定されるのは理解できるのですが、お坊さまが否定されることは、私にはどうしても理解できません。霊魂の存在については、「分からない」とおっしゃることが最も妥当なのではないでしょうか。  実際に、現代には様々な宗教がありますが「霊魂」や「輪廻転生」の存在などを説いている宗教も数多くあります。もし、お坊さまが霊魂は存在しないと考えておられるのであれば、それらの宗教についてはどう理解されているのでしょうか。  このような突っ込んだ質問をして、誠に申し訳ありませんが、霊魂を否定されるお坊さまのお考えをどうしても伺いたいと思いました。ご回答頂ければ幸いです。どうぞよろしくお願いします。

有り難し有り難し 168
回答数回答 7

兄に自信を取り戻してもらいたい。

はじめまして。にゃにゃこと申します。いつも、皆様の質問や回答を拝見し、自分に当てはめ色々と考えさせていただいております。長文になりますが、読んでいただけると嬉しいです。また、身バレが怖いので、私のプロフィールを読んでいただけるとたすかります。 私は、兄と一緒にお店を経営をしております。しかし、ビジネスパートナーである兄がいつも自信がなく、とてもネガティブです。 兄は人一倍努力家で、沢山の資格を持ち出し、言語も不自由なく4カ国語ほどをあやつります。しかし、5年ほど前から鬱病を患い、人が変わってしまいました。 毎日、死にたい、生きてる意味もなく自分のいる意味がない、能力がないヤツは死んだほうがいいんだ。など言って、それを聞くたびに私は、そんなことないよ。あなたは十分すごいよなどと言っているのですが、兄の症状は悪化するばかりです。 更に、先日、友人と兄と話しているときに友人が兄に「結婚願望あるんですか?」と言った時に兄が、「そうだね、こんな才能も意味も価値も無い私は恋愛はしてはいけない。」と言っていて、私からみたら兄はとても魅力的な人なのですが、そんな事言って欲しくないのです。兄自身、毎日暗い顔をしてネガティブな事を言い続け、ときには泣いたりと辛そうです。 私はネガティブな言葉をあまり使わなかった、自信のあった頃の兄に少しでもいいから戻って欲しいのです。自信を少しでも取り戻して、積極的に行動をしたり、仕事はもちろん、恋愛や趣味などを楽しむ兄に戻ってほしい。なにより、兄の良いところを自分で気づいて、この苦しみから解放されてほしいと思っています。 お釈迦様は、こんな兄を見捨てず、救ってくださるのですか?苦しみから解放してくださるのでしょうか?それとも、苦行をするようにおっしゃるのでしょうか? なにか、アドバイスいただけたら大変嬉しく思います。宜しくお願いします。乱文長文失礼いたしました。

有り難し有り難し 4
回答数回答 1
2023/07/01

住職に墓守を頼んだ結果

私の家は絶家の運命にあります。 ですが、家族だけで永遠に穏やかに安心して眠れるお墓を建てたいと思い、公営墓地にお墓を建てることにしました。 公営墓地は承継する人がいないと墓地の取得は出来ないとの事でしたので、お寺のご住職に相談したところ、墓守になってくれることを了承してくれました。 その後、墓地の申し込みをしました。 こちらも何もお金を出さないつもりではなく、父が残したお金の中から自分達に出来るだけのお金でお願いするつもりで、ご住職にどれくらい必要か、思い切って聞いた方が良いと思い、聞いてみたところ、とても支払えない高額な冥加金や懇志を請求されました。 墓地の修繕や管理にかかる費用は別です。 合計すると600万円を超える額です。 墓地代をすでに市役所に支払ってしまい、返してもらうことが出来ません。 こちらの家計の話をし、もう少し、なんとかならないか相談しましたが、払えないならこの話は受けられないとの一点張りです。 このようなことをお願いする場合、これくらいの金額は妥当なのでしょうか? もったいないですが、お寺さんに支払えないので、墓地は泣く泣く手放し、もうこのお寺様にはお参りに来てもらうのをやめるつもりです。 若い住職で普段からお金の話と他人の悪口や葬儀社や出入りの業者の悪口などを話し、故人の話やこちらの体調などを気遣ってくれる方ではありませんでした。 大切な家族を亡くしてから、体調を崩しているから月命日のお参りを休んでいたのですが、少しの時間我慢できないのか?とかずっと月命日はお参りした方がいいと思うよ、成仏出来ないよ、と言ってきました。 同じ職業の方の悪口になり申し訳ありませんが、皆様のご意見をお聞かせ頂けませんでしょうか。 よろしくお願い申し上げます。

有り難し有り難し 29
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