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問答一覧

既に出来ているグループに入っていくのが苦手です

いつも相談に乗っていただきありがとうございます。 わたしは既に出来ているグループに入っていくのが苦手です。 元々学校のクラスや職場など自分で付き合う人を選ぶことがむずかしい環境での人付き合いをするのが苦手なのですが、すでにその中で仲の良い人の集まりが出来ていると居場所が無いような気持ちがして苦しくなってしまいます。 自分以外の人は知り合いがいる環境に途中から参加して自分一人だけ放り込まれると「この環境に自分がいていいのかな」「自分はこの場所にいなくていいな」といった気持ちになってしまいます。 もちろん相手から話しかけてもらえると嬉しいですし、話し返したりします。ただ既にできたグループに対して自分から声をかけるのは勇気がいると感じます。 本当はそういったことも気にせず溶け込むことができればいいのですが、ただでさえ新しい環境に入ることが苦手なのに既に他の人達が仲良くしていると入り込むのが厳しいです。 そういった環境の中でも気負いせず気楽に過ごせればいいなと感じます、どのような心持ちで過ごせばよいのでしょうか。アドバイスいただけたら幸いです。

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二度も中絶手術をしました

タイトル通り二度も中絶をしてしまいました。 子供が好きで子供が欲しいと願っていたので、沢山沢山時間をかけてどうしても産みたいと話し合いましたが願いは通らず大切な命を守ることが出来ませんでした。未婚です。いざ妊娠すると想像以上のキツイ言葉を相手から沢山言われ続け、2度目の中絶をしなければいけない悲しみと信じていた相手が誰よりも自分を傷付けてくること、心身ともに深く傷付き疲れました。大切な二つの命を殺めた自分が今、ご飯を食べようとするその欲も許すことが出来ず、罪悪感と喪失感でいっぱいで最低な自分が以前と同じ生活を送ることが悪のような気がして外に出る勇気がありません。そしてここまで傷付けてきた相手とは縁を切りなさいと周りに言われるのですが一人にしないでという気持ちが勝ってしまい離れることができません。 いつかは温かい家庭を持ち、シングルではなくちゃんとお父さんがいる家庭で子供を育てたいと思っています。ですがそんな事を願うのは守れなかった二つの命に失礼かな、と。いつか家庭を持った時、僕たちは産んでくれなかったのにどうして?と思わせてしまうのではないかと、そう思うと今後どうしていいのかわかりません。しっかりと水子供養をしましたがそれでも罪悪感は消えず、毎朝お空に話しかけるのですが、子供に会いたかった気持ちが押し寄せ泣いてしまいます。二人のためにも誰とも結婚せず自分の幸せを願わないべきでしょうか?

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自分はいる存在?

小学校5年、3年、3才の男の子の母です。 旦那に日頃溜まってる子供達の愚痴をこぼしていたのですが、旦那はそれを私のせいだと言います。子供達は私の言うことはなかなか聞かないのに旦那が言うと聞く事がほとんどです。 確かに私にもダメな所(整理整頓が苦手)があり、自覚しています。それでも自分なりに片付けてるつもりです。旦那からしたら散らかってるみたいですけど。 子供達が学校行ってる間に掃除機かけてきれいにしても小学生が帰ってくればランドセルは通路に置きっぱなしだったり、コート類も脱ぎっぱなし、それに加え、3才の子は次から次へとオモチャを出したりで子供達が起きてる間は片付かないので寝てから片付けてるのですが夕方帰ってきた旦那は部屋が汚い、片付けろと言ってきます。子供達は私がどんなに言ってもなかなか聞かないのに旦那の言うことは聞く。 旦那も私が駄目な所が多いから子供達も言うことを聞かないと言います。 確かに駄目な所が多いのも認めますが、自分なりに3人の面倒見て、料理も毎日作って頑張っていますが、家族の誰からも認められてないみたいで少し辛くなりました。旦那や子供達にとって私は居なくてもいい存在?なのかなと疲れる度に思います。 まとまってないようで申し訳ないですが、お叱り等でもいいのでアドバイスお願いいたします 。またカテゴリー等間違ってたらすいません。

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母は幸せだったでしょうか

誰かに聞いてもらいたいとずっと悩んでいたことがあります。 私の母は、いつか占い師に言われた「何かあった時にはあなたの次女(私)が助けてくれる」という言葉をとても信じていました。それを聞かされた私もまた、母に何かあったときは私が助けるのが義務なんだと感じていました。 私が高校生の頃、母が急性の白血病にかかりました。 病状が悪化し骨髄移植を受けることが決定したとき「あぁ、今が母を助ける時なんだな」とドナーになるための検査を受けました。 血の繋がったドナーの方が拒絶反応も少なく治癒率が高かったのに、私は結局型が合わずドナーにはなれませんでした。 骨髄バンクに提供してくださった他人から移植を受けましたが、拒絶反応が出てしまい骨髄移植は失敗に終わりました。 それから私と姉は万が一のことがあってもすぐ駆け付けられるように病院の近くに家を借り、毎日いっぱいいっぱいで過ごしていました。(父親も近くにいません) 辛い抗がん剤治療で髪が抜け、吐き気もひどく、かなり辛い闘病生活を送っていましたが、周りの前では強く振る舞っていました。 でも、たった1度だけ、母が弱音を吐きました。 平日の朝早く、私の携帯に電話がありました。母が泣きながら「もう、しんどいわぁ」と言ったのです。 何と返せばいいかわからず、ほぼ何も返せず「急にごめんね」とその電話は切れました。その日の学校帰りに病院に行ったときには普段通りの明るい母に戻っていました。 でもその数日後、母は亡くなりました。 24時間テレビや、感動物のドラマを見ていると出てくる「生きようとする力が奇跡を起こした」という言葉を見ていると思うんです。 亡くなった母は生きようとしていなかったのか? 私が電話で母の生きる力を呼び戻してあげられたら、母はもっと生きられたのか。 母は占い師の言葉を信じて他のだれでもない私に電話をしてきたのではないのか。 私が母を救ってあげられなかった。 母が亡くなってから8年間、ずっとずっと、その思いが胸に残っています。 どう声をかけてあげれば母を救えたのでしょうか。 母はしんどいまま死んでしまったのでしょうか。 小学生の頃反抗期がひどく、言ってはいけない言葉を投げつけてしまったこともあります。親孝行もひとつもできず。 母の体を殺したのは病気ですが、母の心を殺したのは私だという気がしてなりません。

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もう生きていく気力がないです

全てが怖い。 私の発言ひとつひとつで、たくさんの人を傷付けてしまったような気もする。今、孤独に打ちひしがれています。孤独で、大切なものは失いました。 両親は愛してくれています。でも、もし両親が死んだら?私はどうやって生きていけばいいのでしょう。 私が全て悪いから、私の性格が悪いから、私が気が利かないから、みんな、私のことが嫌いになってしまったんだ。みんなから白い目で見られているような、ずっとそんな気がして、毎日眠れぬ夜を過ごしています。 ここでしか吐き出せない。誰かに話しを聞いてもらいたかった。もう、生きていく気力が湧きません。早く死にたい。毎日そればかり。私は私を憎んで恨んでいるし、誰よりも価値のない人間だと思っています。自分を許すことも出来ず、ただ怯えて、苦しいばかりの毎日に、疲れ切ってしまいました。 まだ、若くて、周りはもっと楽しんでいるのに、どうして、こんな人生になってしまったのでしょうか。分からない、どうすれば、生きていける?私は私か生きていくことを許せる?一人は怖い、一人でもどうやって生きていけばいいのだろう、どうかご教授ください。支離滅裂な文章で、申し訳ございません。

有り難し有り難し 29
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2025/07/07回答受付中

死んでしまいました…

父が、死んでしまいました。 あんなに元気だったのに、検査もしていたのに、病気が判明してからは、わずか2か月ちょっと。驚くほどあっという間でした。 こうなることが怖かったから、話をしようと言ってきました。でも、その言葉を正面から受け止めてくれることはありませんでした。 父は本当にすごい人ではありました。地域のボランティアもたくさんしてきました。父が始めたプロジェクトは今もたくさん残り、地域の絆も生まれました。こんなに地域の人がたくさん集まったご葬儀は初めてですと、葬儀場の方に驚かれました。お父さんには本当にお世話になったと、見知らぬ人から何度も声をかけられました。 父にあてた相談の電話を、子供の頃から何度も取り次ぎました。呆れるくらい、ずっと話を聞いてあげていました。 辛いとか苦しいとか、そういう愚痴めいた言葉はとうとう最後まで一度も聞いたことがありませんでした。もうかなり痛みがあると思いますと、お医者様にも何度も言われました。亡くなる直前まで、毎朝ぴしっと背筋を伸ばして起きてきて、自分で身支度をして、おはようと言って起きてきました。 体力を振り絞って、最後に庭にでた日にしたことは、花を植えることでした。この花が、春になるときれいに咲くよと笑っていたそうです。父が亡くなってから、きれいに咲き揃いました。 皆がもっとのびのびと仕事ができるようにと、父が改革をしたときは、現場からは大歓迎の声が上がりましたが、前任者の方には激しく罵倒されたそうです。周囲もかなりはらはらしたそうですが、父は最後まで見事なほど穏やかに対応したそうです。大丈夫だったの?と母が声を掛けたら、「俺はこんなことではくじけんよ」と、そう言って笑ったそうです。 昔、私が学校に行けなくなったことがありました。毎日の生活を何一つ変えない父でしたが、家に閉じこもる私を、黙って職場に連れて行ってくれました。仕事を黙々と手伝い、父の行きつけのお店でお昼を食べ、午後もまた仕事をして帰る、そんな毎日でした。特に何かを話したわけではないですが、あの時間だけは、ずっと感謝しています。 おれはじっとしていられる性格じゃないから、向こうでも、また何か新しいことを始めるよと、最後はそう言って旅立ちました。 もっともっと話がしたかったの。 そう……わたしはただ、あなたともっと話がしたかった。 なぜ、もういないのですか?

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