理趣経について調べますとこのような事が書いてありました。『理趣経』を使った『理趣経法』は、四度加行を実践して前行をしてからでないと伝授してはならないという厳しい規則があると調べますとありましたが日常の勤行に理趣経を唱える事も四度加行を終わらせてからでないと唱えれないのでしょうか?
札幌で留学しているスリランカ一家に初めてのお子さんが生まれました。この夫婦からこの誕生を寺院でお祝いをしてもらいたいのでふさわしい寺院がないかと相談されました。 自分は彼らの仏教と日本の仏教とで少しスタイルが違うのでどうしたものかと考えています。 ちなみに英語は話しますが日本語はわかりません。 自分にはほかにミャンマーとラオスの知り合いがいます。 彼らもまた寺院に行きたがっています。 もし札幌ないし近郊にお勧めの寺院がありましたら教えていただけないでしょうか?
このサイトにはたくさんの若者が相談を寄せています。 ネットは沢山の情報を簡単に得ることができ、見知らぬ人と 瞬時につながることができる便利なものだと思います。 なのにこの便利な世界にいる多くの若者が孤独を感じていると思います。人はやはりバーチャルなものだけでなく、リアルな人とのつながりを求める存在だと思います。 そんな若者に対して例えば生活に即した仏教講座なんていう寺子屋を開催できないでしょうか? そこに若者が集い、学び、語り合い、体験する。 お寺ならではの縁結びとなる場を提供できないでしょうか?
今年、別院にいる僧侶と入籍しました。 いくら正社員として働いているとはいえ僧侶の妻ですから私も出来る限りお寺のことを学びたいですしご奉仕もしたいと思っているので、坊守としてやるべきことがある時には出来る限り仕事はお休みを頂いてご奉仕させて頂いています。 しかし、最近病気で入院し、職場でもらえるお休みをほとんど使い果たしてしまいました。 冬になり、もうすぐ報恩講が始まります。 坊守としてもやるべきことがたくさんあることさ分かっているので、まだまだ全然万全ではない体に鞭を打ち少しでも参加しようと世話役の方に数時間だけでもと伝えたところ、病気は理由にならないからちゃんとご奉仕しなさいと言われてしまいました。 報恩講がどれだけ大事なものかも旦那から聞いてはいますが、ご奉仕とはお給料を頂いて働いている仕事を疎かにして、体調を崩しながらでもしなければならないことなのでしょうか? 今までの私の常識と違い、悲しさで涙が止まりません。 旦那に相談すると、『もう全部行かなくていいよそんなところ。』と言われるのですが、私としてはそういう訳にはいかないのです。 ご縁があって僧侶の妻になったわけですし、旦那が職場でうまくいくように私も坊守会で他の奥様方と仲良くしていたいのです。 私は今後、どうしたら良いのでしょうか? このままでは心も体もだめになってしまいそうです。
どうしても叶えたい願いがあり、近いうちに聖天様にご祈祷をお願いしようと思っております。 ただ、お願いしようと思っているお寺さんには直接お参りするのが困難な為 (遠方に住んでいるので)電話でご祈祷の申込みをしようと考えております。 色々調べましたらご祈祷後、お札が送られてくることがわかりました。 そこで質問なのですが、自宅での祀り方がいまいちわかりません。 きちんとお祀りして毎日お経を読まないといけないみたいですが、自宅の都合上、場所が取れそうにありませんし、毎日お経を読む時間も取れそうにありません。どのようにしたらよいのでしょうか? また、疎かにすると罰が当たるので、中途半端な信仰はしない方がいいと聞き、少し怖いなと思ったのですが本当でしょうか? ご回答の程、宜しくお願い致します。
かつて寺院はどんな小さい地区にもあり住民の中心の存在であったと思います。 そしてそこでは信仰のほかに住民の学び、憩い、集い、経済そして避難の場所としてとても大切な場所であったと思います。 だからこそ寺院そして仏教が身近なものであったと思います。 しかし今の寺院の多くは葬式などの儀式だけの場所となってしまっていると思います。でも私はいまでもたくさんの人々が仏教の生きた言葉と働きを求めていると確信しています。だからこそ時代に即した形で寺院が変わり、再び人々が来やすくなる場所になる努力をしてもよいのではと思います。 僧侶の皆様も努力されていると思いますが、どうお考えでしょうか?
こんばんは。 いつもお世話になっております。 昨日に引き続き連日の質問になり申し訳ございません。 今日、夕方に自転車で近くのスーパーに買い物に行きました。 自転車では滅多に行かないし、今日は向いからトラックが来たしでコースが変わり。 慌てることもなかったので銀杏の色付き具合など散策気分でゆっくりと行きました。 何気なく左側を見ると碑?らしきものが。 何だろう?と足を止めると、まだ新しい碑に子供の作文が書かれていました。 恐らく学校で書いた「家族で行ったキャンプでの楽しかった出来事」 そのキャンプの土地には私自身深い思い入れがありました。 その気持ちがあったからかどうかは定かではないのですが自転車を降りて手を合わせました。 右手には6体のお地蔵様が在られました。 買い物を済ませ、ヤクルトみたいな小さなジュースをその男の子とお地蔵にお供えしてきました。 2014年と彫られていました。 最近ですね…。 辻地蔵さんや村の入り口のお地蔵さまなら気にならなかったのかもしれませんが、全く知らない子供さんの供養塔に手を合わせお供え物をした私。 なぜなんだろう。 自然な行為でした。 そっかぁ、この土地で家族でキャンプしたんだね、楽しかったんだね、この作文はご両親が詰まる想いで選んだんだね。 ジュースだけでもお供えさせてね。 そんな感じです。 実は今まではあえて避けていました。 道端のお地蔵さまには手を合わせてはいけないと聞いていたから怖くて常に避けてました。 今日のように手を合わすことは余りしない方がよいのでしょうか? そんなに機会もないとは思いますが。 最近になり、亡くなった方には沢山の人が手を合わすほど良いとお坊さまに聞いたことや、少しでも慰めになればと思っただけでした。 ここ数年の自分の変わり様には自分自身が一番驚いているところです。 もっともっと早くに仏教を知るべきでした。 仏教について投稿されている10代20代の方々を尊敬しています。 ほんと恥ずかしい限りです。 お読みいただきありがとうございました。 上記の件につきましてお教えいただければ幸いです。
まだ先の話で、母親がもしもの時のことなどあまり想像したくないのですが… 私は千葉に住んでいます。実家は奈良県で姉が近くにいるのですが、納骨するまでお骨は見れないといいます。 私もずっと納骨するまで実家に居続けることが出来ません。 こういった場合どうしたらいいのでしょうか?
こんにちは。 いつもお世話になっております。 前々から坐禅をしたく、地元県内である程度探してみたのですが 行っているお寺がないみたいです。 (「曹洞ナビ」でも検索してみたのですが。) ネットで勉強して坐禅をしても構わないのでしょうか? YouTubeとかで沢山あるのでよく閲覧しています。 というか…お寺で実際に教えていただかなくても 坐禅はできる(可能?別なものになってしまわない?)ものなのでしょうか??? ご回答いただけると幸いです。 よろしくお願いいたします。
理趣経(正確には、理趣経本文を含む解説書)を初めて読んだのは 20代の頃で、その時は何が何だかチンプンカンプンでした。 でも今になって読み返し、頭の中で反芻しているうちに、 理趣経がこんな事を語りかけているように思えて来ました。 以下、長文になりますがご了承願います↓ ・・・・ 自然界には大小様々な生き物がひしめいているだろう。 与えられた命の中で無心に食を求め、子を作り、必死に生きている。 そんな生き物たちの本能が汚れてると思うか?いや、皆清浄なのだ。 そして人間も生き物だから、人間の欲望や業だって本来は清浄なんだ。 自然がありのままで美しいように、人の欲も本来ありのままで美しいんだ。 大いに食べて楽しむのも結構、性の快楽に耽るのも結構。 自分の本性を曲げる事はない。遺伝子に刻まれた生命の原理だから。 与えられた日々を存分に生き、愛し、大いに楽しみなさい。 でも決して忘れないでね。 最高の快楽は、あなた自身がまぎれもなく、この大自然・大宇宙の 一部として存在し、共に生きている事実を実感する事。 そして他者も皆、かけがえのない生命を生きている。 だから皆が楽しんで暮らせるよう、欲の力を否定せず、 むしろ利用して世間を整えるんだ。まあうまくやってくれよ。 悟りは本来深遠で説明しつくせないものだが、 私(理趣経)がナビとなって道案内しよう。 まずは車の免許を取りなさい。仕事や家庭の都合で 無理なら運転できる人に乗せてもらいなさい。 大丈夫、私(理趣経)を信じていれば、まさか地獄には墜ちないさ。 あ、でもナビの操作だけはくれぐれも間違えないようにな。 ・・・・ ・・・こんな解釈で合ってるでしょうか? やはり理趣経については、これ以上は独学よりも、 お寺の勉強会にでも参加した方が良いでしょうかね?
私は両親のお墓参りが好きではありません。 何故なら、お墓に両親は居てないからです。もうこの世に居ない事を実感させられるのが辛いので、行きたくないんです。 ここの所、色々悩む事があり、両親が生きていたならどう言ってくれるだろう。とか、両親が生きていてくれさえいれば、こんな辛い思いも少しは和らげたかもしれない。などと思う事があります。 それと、私のねたみの気持ちもあります。まだ私の年齢であれば、片親どころか両親揃ってる友達もたくさんいます。お墓に行くと、そういう事を実感し、寂しくなってしまいます。 お父さんとお母さんに会いたいです。 ちなみに母は亡くなって20年以上、父は10年程経ちます。 よくお墓参りに行くと清々しいなんて聞きますが、私にもそんな日が来るのでしょうか? お父さんとお母さんと話がしたいです。
閲覧ありがとうございます。 法事での出来事です。 私の母はお経が音痴です。しかも、普段の声は低いのにお経を読むときだけ声がとても高くなります。 私と妹は普段からちょっとしたことでわらってしまいます。 最初は母のお経をおかしく感じつつも笑いをこらえていました。しかし、妹が笑いをこらえつつこちらを見てきて吹き出してしまいました。そのあとすぐに咳払いをして、ごまかしましたが周りは気がついていると思います。妹は声は出していないものの、無音で笑い続けていました。 大変不謹慎だとは思います。 仏壇の前で謝罪しましたが、仏様はまだお怒りでしょうか? もう20才にもなるのに、はずかしいばかりです。
突然ですけれども、質問失礼します。 先月父が他界し、葬儀をしました。その際少し特殊で自宅でお通夜をし、その時に枕経を上げてくださって、その後自宅から火葬をし(その時は読経はなし)、お寺にお骨を持っていって読経をしてもらいました。参列者は近親者のみです。 この後、ご住職が「お布施は二十万でお願いしたい。」と言ってきました。私の家は裕福ではないので、二十万円も払えないのですが、どうしたら良いのでしょうか。 先祖代々からのお墓ですので、ほかのお寺に変えるのは困難だと思います。 誠に申し訳ありませんが、至急ご回答をお願いします。
本日インドネパールの仏教聖地に向けて出発いたします。 色々とご相談に乗って頂いた皆様ありがとうございます。 大乗や上座部を問わず仏教でいえば、功徳の回向というのがあるそうですね。 インドネパールをめぐるのは縁で功徳があるとしたら、それは全ての生命に対して回向致します。 全ては過ぎ去る、執着することなく刈り取ることになる種をまき、手放しながら今を一歩一歩しっかり生きる。それを死ぬまで続けていけばあとは何も必要ない。 皆様の回答を見て上のようなこと何かなと思いました。 後は実行あるのみ。
私は家は曹洞宗の者ですが 護摩焚きに真言宗のお寺と天台宗のお寺の 両お寺に行っておりますが 同じ仏様に対して 真言宗は、ノウマク~ 天台種は、なうまく~ たとえば不動明王でもかなり真言が違いますが それぞれの宗派で唱えられている真言を使い分けて 唱える必要があるのでしょうか? それともどちらか言いやすいほうの真言で統一してよいのでしょうか? お寺の方にはきけません。 よろしくお願いいたします。
また よろしくお願い致します。 私の生家は、先祖代々続いている旧家です。 生家には、年の離れた弟夫婦がおりますが、子供がいないため、 弟夫婦の代で終わることになります。 しかし菩提寺が「永代供養」を行っておりません。 今後どうするかは検討中だと言われました。 生家の、お墓は菩提寺の中に、あるのではなく 田んぼの中にポツンとあります。 昔は土葬で、火葬に代わってからは、 カロートの中に、祖母と母の、お骨が二つ入っているだけです。 本来ならば、今後の判断は弟夫婦に任せなくては いけないことですが、 私も高齢だし、いつ死ぬか分からないので、 私が、まだ元気なうちに、「永代供養」をしてくださる 同じ真言宗のお寺に、祖母と母の、お骨を移すのを 見届けたいと思っております。 母と祖母が大好きだからです。 まず、何から始めれば良いでしょうか? 現在の菩提寺(真言宗)は、とても小さな古いお寺で、 ご住職のお母様が 「貧乏寺で古くなった寺の建直しもできない状態です」 とのことです。 土地は、もうイッパイで、おそらく「永代供養塔」など 建てる場所さえないのだと思います。(予算も無い) まずは、菩提寺に、 「永代供養」が不可能なら、菩提寺を替えるしかないか 相談から始めれば良いでしょうか?
ここ7年くらい、お墓参りに行けてません。そのお墓は叔父が管理(お布施など?)していたのですが、その叔父が亡くなり何回かはお墓参りに行ったのですが今は遠のいています。 叔父が亡くなってから叔父の奥さんと連絡が取れず、今もお墓があるかわかりません。普通お墓がなくなることはありませんか? あるかないか、誰にも聞く人がいません。 12月に叔母が来るのですが、お墓参りしたいと言われてしまいました。近くではないため、行ってお墓がなかった時のことを考えるとどうしていいかわかりません。 直接お寺さんに電話して聞いても失礼に当たらないでしょうか? 一回お寺さんに行って確かめることも厳しいです。最善の方法はありますか? お墓があったとして、今後行くときはお寺さんにお布施など持った方が良いのでしょうか? お墓に関して無知で申し訳ありません。 教えていただけたらと思います。