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「仏教」を含む問答(Q&A)一覧

2023/04/30

仏教はその目的の実践以外何もない(2)

 阿含経典 縁起 (南伝 相応部経典 12.3. 道跡) 前略  「比丘たちよ、正しからぬ道とは何であろうか。  比丘たちよ、無明によって行がある。(以下十二支縁縁起)受→愛。愛→取。取→有。有→生。生によって老死・愁・悲・苦・憂・悩が生ずる。かくのごときが、このすべての苦の集積のよって起こるところである。  比丘たちよ、これを正しからぬ道というのである。  比丘たちよ、では正しい道とはなんであろうか。  無明を余すところなく滅することによって行は滅する。(以下十二支縁起)愛→取。取→有。有→生。生の滅することによって老死・愁・悲・苦・憂・悩が滅する。このすべての苦の集積のよって滅するところである。  比丘たちよ、これを正しい道というのである。」  (私見)  仏教を知らない人は、皆「無明」なのでしょう。だから縁起に従って生まれてきます。  それは正しい道ではないと警告しています。  生まれてきた人間にお前は正しくないと言われては、何とも救いがなく宗教にはなりません。  従って仏教は「真実の教え」であって生きている人間には救いもなく大変冷たいのです。  救いは次の「正しい道」だと教えています。  しかし無明を「有明」にするのであれば比較的易しいですが、無明を「滅する」となっていますので、とんでもない話です。比丘には「涅槃」を勧めています。いわゆる「心の死(エネルギー化)」ですね。   唯「目的」は「解脱」となっていますので、衆生には、浄土(天界?)へ行く「生まれ変わらない」道をを含んでいるようですので少しは安心です。

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2023/04/30

仏教≒物理学と言われたけれど?

 いつもお世話になっております。常々こちらで申し上げております 通り、私は、昨今の仏教情勢に強い危機感を感じています。この道に 関心や知識のない方からは、 「仏教は、非現実的で、拝めばどうにでもなると思っている偶像 主義・神秘主義で、拝んでいない奴は救われない、拝んでいる自分 たちは特別な存在だと思い込んでいて、現実的な考え方ができない 人たち」 という印象を持たれ、信者側には、 「拝んでいない連中は、貧乏暇なし。私たちは、拝んでいるから 努力しなくてもいい。神仏が何とかしてくれるから。全ては、 神仏の働きによって成り立っている。拝めばなんとかなる。 ○○寺は強い、××寺は弱い。だから○○寺のお守りを持って いれば、力を得られる」 などという、宗教ではなくオカルト的な認識が蔓延しています。 信者だけでなく、本山や有名寺院まで、オカルトビジネスで 儲けています。  私もそんな愚かな妄信者でしたが、こちらのお坊様のお話を 勉強させていただくうち、 「世の中でまことしやかにささやかれているオカルト的な考え方は、 本当の仏教じゃない。仏教は、とことん現実を見て、現実に存在 する事物を駆使して苦しみを除き、間違った論説に惑わされず、 冷静に生きていく教えなんだ」 と感得しました。  そこで私は、学生時代に大嫌いだった理科を学ぶことにいたしました。 基礎、有機、生化学の教科書が家にあります。白衣も、簡単な実験器具 もあります。  近所のお寺の住職様にこの考えを伝えたところ、 「化学もいいけど、物理が大事な気がするなあ」 と言われました。  しかし、物理は戸口が大変広い学問です。力学、電磁気学、量子論、 相対性理論、光学…身近な例だと、心霊写真は光学でしょう。霊感は、 精神疾患や劣悪な環境(カビ毒など)、低周波音が原因といわれる ので、化学なら生化学、物理なら音波…  色々調べているのですが、わかりません。大学に行けば、と言われ そうですが、私は持病があり、大学受験に割くことのできるエネルギー がありません。市民講座や、好きな科学者さんの実験ショーにはお邪魔 しようと考えていますが…  物理学の中では、何が一番仏教に通じていますでしょうか? ご高見を賜りたく存じます。よろしくお願い申し上げます。

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2023/04/23

仏教はその目的の実践以外何もない(1)

 「仏教の目的」とは「輪廻転生からの解脱」ですが、阿含経によれば、それだけと言う大変厳しい教えです。  従って、この説教は釈尊の予言通り、没後500年で滅亡したようです。  自己否定の説教では誰も就いていけなかったのでしょう。  現代の仏教は四苦ではなく多くは「老病死」の三苦となっていますが、滅亡した仏教では「生」が最大の問題です。  以下順を追って経典を眺めて見ます。 阿含経典 縁  (南伝 相応部経典 12.20. 縁 )  前略  「比丘たちよ、縁起とはなんであろうか。生によって老死がある、という。このことは如来が世に出ようとも、また出まいとも、定まっているものである。」(以下略)  (私見) ここで「縁起」とは「生老病死」の四苦を言い、しかもそれは仏教とは関係のない、自然の摂理であると断定しています。  自然の摂理ですから、仏教はそれを救うことは出来ないと言う意味に取れます。 生まれたら苦しみを逃れるにはひたすら死を待つだけです。死ねば四苦から解放されます。  死後が無ければ、それですべて解決しますが、身体(色)は死んでも心(受想行識)は同時には死なないようです。身体は構造が複雑ですから故障しがちですが、心はその構造もわからず、臨死体験から想像すると多分空気のように軽いでしょうから、死ぬ要素が無いのでしょう。だから仏教では「死」を死と言わず「往生」と言っています。  従って仏教の救いは死後にあると言いうことになりますが、四苦が無いですから、仏教の出番は無い筈です。  多分前世に残った欲の記憶が、再び生へのあこがれになるのでないかと思います。  これは人間に限らずすべての動物に共通の営みでしょう。  これ等を生前に理解して実践し、再び出生しないよう救うのが滅亡した仏教です。

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2023/04/27

真言宗のお坊様

不躾なお話になりますが、お許しください 私は単身者もうすぐ40になります。 福祉の仕事で、専門職として働いておりました。 10数年勤めておりました。やりがいはもちろんあるのですが、お役所仕事と言いますか、毎日の大人同士の人間関係を大切にしてその日を過ごす。そのような雰囲気があります。 ここ最近は無気力な気持ちに苛む事が多くなりました。これについては私生活における大きな悩みも要因でした。少しメンタルの不調が続いています。 今はまたチャンスを頂き、同業他社で働く予定で仕事開始を控えております。 経済的な事もあり、求人を読み漁ってました。その中でこれがやりたいという気持ちも一切湧かず、前職と比べたら給与も安く肉体労働系の仕事など今より条件が悪くなるものばかりです。 働く事は生活のためであるのだから自分の考えでは甘いと思います。 物事を思い詰めてしまうところがあり、何事も見通しが持てないと不安が強くなる特性もあります。 今までの仕事での充足感や必要とされていた感覚を捨てて、異業種に行く怖さがとても強くあります。 そんな中ここ数年、YouTubeなどでお坊さんの話を聴く機会を多く持ってました。 そして生まれ育った環境の影響もあり、真言宗僧侶に興味関心を持っております。 なぜ興味を持ったのかというのも正直なところ、仏教の先人達の教えを学び、自分の人生をより豊かにしていきたい。というのが大きな理由になります。僧侶になれば自分の精神的な弱さも含めて救われるのではないか?と考えました。人のために役立つ事は苦にならないのですが、反面人付き合いが得意ではありません。人間関係の疲れ、俗世から脱出したいというのもあります。 僧侶といっても宿坊へ就職する感じになります。 お坊様からこのような考えについて何かご意見頂きたかった事。 男性社会であるお寺(宿坊)での実際の業務や修行の話を伺いたく相談いたしました 私の勝手な想像ですが、お寺(宿坊)が僧侶としての道を支援して頂ける。これは一生仕える気持ちでそのお寺に就職という事を相手様も希望している。生半可な気持ちでは来て頂きたくない。というのが本音ではないかと思っております 次の内定が決まった福祉の仕事を長く続ける事が、今自分にとっての最適解と考えてはおりますが、この次はお寺で働きたい。とやはり考えてしまいます 何か方向性を示して頂けましたら幸いです

有り難し有り難し 7
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2023/04/16

神通力

 前回「釈尊の悟りは神通力を得た結果?」を投稿しましたが、当たりのようです。  駒沢大学学長を歴任された水野弘元先生の著書「釈尊の生涯」の「成道と三明六通」には「(前略) そして濾尽智通以外の五神通は、必ずしも仏教者だけでなく他の宗教家や鬼神狐狸の類に至るまでも、浅深の差はあっても、これも得ることが出来るとせられる」と書かれています。  三明六通の「六通」とは先ほどにに記述の「五神通」とあるように、「六神通」と考えることが出来ますので、「神通力」を得たと考えて差し支えないと思います。  古代インド社会では「輪廻転生」は常識であったそうですが、当時のインド宗教者は、互いに神通力を競い合ったと考えられます。  三明の最初の一明は「過去に関するすぐれた智慧の宿命通(宿命明)」となっていますから、釈尊だけでなく、それ以前の宗教者にもそこに到達して、「輪廻転生」が世間に広まったと考えられます。  余談ですが、阿含宗を創設した桐山靖雄師は、著書「輪廻する葦」のなかで、成仏法と称して、神通力を修練することを勧めたようです。私は読んでいませんので想像ですが、論理の「阿含経」ではなく実践法の「雑阿含経」を研究していたようです。

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2023/03/21

発起心について

私は34歳で会社員として働いているものです。 出家する事についての質問です。 私は今まで人より良くありたい、という虚栄心で人に対する劣等感で生きてきました。そのため親しい人やパートナーなどはおらず、なぜ生きているのかよくわからない空虚な状態が続いています。 一時的な慰みとして飲酒、暴食などをして気を紛らわしますが虚しさを感じうつうつとして気持ちになっています。 仕事も順調とは言えず、自分の居場所が無いと感じ、この職場を去りたいと常に考えています。でもそれは逃げているのではないか?という葛藤があります 職場の方は良い人ばかりなのですが、私自身の問題で態度に出てしまうため自分に対して罪悪感があり、それが元気が出ない原因にもなっていると思います。 (いい歳してお恥ずかしい限りなのですが・・・) 気力がわかない状態が辛く、自分なりに考えたのが出家です。環境を変えて厳しい環境に飛び込めば自分を変えられるのではないかと一縷の希望をいだいています。 20代前半のころから生きづらさを感じ、強い興味を持ち仏教書などをよく読んでいました。(ブッダ、道元禅師、親鸞上人の著書)出家願望はあり、親などにも話しましたが反対にあい今まで生活をしてきました。しかし年齢を重ねて自分が人生をかけて学びたいものは仏教だという確信めいたものを感じていて、生き方として僧侶の姿勢を学びたいという気持ちがあります。 老いた時、病気の時、死ぬ時苦しみが襲ってきたときに苦しみを和らげてくれるのは仏教ではないかと考えています。また自分が辛さを感じて生きてきたため克服、寛解できたときに苦しむ誰かの力になれるのではとも感じています。 もちろん出家したからといって完全に救われるわけではないと思いますし、修行の厳しさや職業としての僧侶を成り立たせることの難しさも考えないわけではありません。このまま社会人として生活し、仏教を学びながら日常を修行として生活していく道もあることは頭ではわかっています。 しかし自分の中では、一度きりの人生、年を重ねて後悔して死ぬよりも、昔からやりたいと思っていたことをやるべきなのではないかと考えています。 皆様にとって、私が出家をしようとしているきっかけについてどう思われますでしょうか。 これは逃げでしょうか。発起心でしょうか。 ご回答いただけますとありがたく存じます。

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2023/03/20

供養などは遺された者のため?自己満足?

いつも有難いお言葉本当にありがとうございます。 文字数の関係でタイトルが乱暴な表現で申し訳ありません。 決して他の、大切な方を亡くされた方に向けたものではなく、愚かな私自身のことです。 今回も私が殺してしまった犬ちゃんに関連する件でお言葉を頂戴したいです。 今まで何度も質問させていただいている通り、私は愛犬を殺してしまっています。 不慮の事故などではなく、私の勝手な思い込みなどや勘違いなどから苦しめた挙げ句に死なせてしまいました。 それに気づいたのは亡くなってからで、それまで自分はできることはしたと愚かな勘違いをしていました。 自分のせいで亡くなってからの、今更。 ペット用のお仏壇や仏具セットなどを購入しました。 常にお花やお供えも用意し。 祥月命日には火葬してもらったお寺に行き、お経を唱えてもらいました。 浅ましいことかもしれませんが、あのときにこれらのお金を遣っていれば、と悔やむ気持ちが溢れます。 当時お金を使ってきちんと環境を整えることができたのに、それをせず殺したくせに(なぜかそれで大丈夫と思い込んでいた) 今更になってお金を使って色々しても遅すぎるという気持ちが抑えられません。 あの子にはもう届かない。 このように亡くなってから色々することは、結局あの子のためにはなるわけではなく、遺された側の気持ちの整理のためにあるのでしょうか? それでも少しはあの子のためになるのでしょうか? 懺悔文や南無阿弥陀仏108回も毎日欠かさず唱えていますが、自分のためなのかあの子のためになっているのかもわかりません。 いつも申し訳ありません。 お考えを頂戴したいです。よろしくお願い致します。

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2023/03/16

お彼岸のお参りに行くか迷っています。

もうすぐお彼岸ですが、納骨堂にお参りに行くかどうか迷っています。 去年まで、お彼岸はお参りに行かなければという思いでお参りに行っていました。しかし、最近、自分の子ども時代を思い出し、父方の祖父母からあまり可愛いがられなかったと思うことが増え、祖父母の納骨堂に行くと、心の中で文句やひどい言葉ばかり出てきたり、感謝の気持ちがしっかりと持てず、上辺だけの言葉を並べてしまいそうで行くのを躊躇しています。 子ども時代ではなく、今現在見守っていただいていることに対する感謝を言葉にすることも考えましたが、心の中は黒々しているし、見られて喜んでもらえる生き方など全くできていないので、見守られていると感じると恥ずかしく感じています。なのでこれからも見守ってくださいなんて言葉も言えません。 祖父母に感謝しなくてはならないのにしっかりとできていないのも申し訳ないです。 こんなこと思っているのが酷いのですが、毎年お彼岸を憂鬱に感じていて、お参りに行くのが嫌だと感じてしまっています。ですがお彼岸なのだから行くべきなのではという気持ちもあります。 アドバイスをよろしくお願いします。

有り難し有り難し 7
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