私は、国家公務員として38年間勤めあげた定年退職者です。公務員生活の後半はボランティアでライフセーバーも経験しました。 もともと人のために役に立ちたいという気持ちを強く持っていましたが、こだわりの強い性格のためか、自分自身を省みることなく頑張りすぎることが何度もあり、そのたびに精神的に落ち込んでしまい、公務の現役時代にはうつで2度休職しました。 定年退職後に、子どもたちの夢や希望に寄り添いたいという思いから、教育支援業を立ち上げましたが、私の経営能力のなさから半年で廃業いたしました。 今回の教育支援業の失敗で、情けない思いでいっぱいでどこかに逃げてしまいたいと思いましたが、会社を整理するまでは頑張ろうと思っています。 公務は防災に関する職種で、ライフセーバーも人命救助の最前線でありました。しかし、防災でもライフセービングでも、どうしても救えない命があるという事に悩んでしまっていました。 第2の人生を教育支援業に賭けようと頑張りましたが、その失敗でも苦しんでいます。 いまは、「私は誰も助けることができない」という思いで、死んでしまいたくなることもあります。 いつかは出家したいと思っていた時期もあって、会社の整理が終わったら、臨済宗妙心寺派の「第二の人生プロジェクト」で出家したいと考えております。 もともと、宗教や精神世界、心理学や哲学に惹かれるものがあって、中学の頃から独学で座禅や瞑想をすることもありました。 仏教は書籍で薄く独学した程度ですが、ネットでテーラワーダ仏教を学んだりしています。 こんな妄想や煩悩でいっぱいの精神的に弱い私なので、自分自身61才での出家の覚悟があるのかどうかさえしっかりしていないように思います。 そんな私でも、人の悩み苦しみに寄り添いたいという思いを強く持っています。その思いだけで出家する事について、なにかしらアドバイスをいただければと思います。 忌憚ないご意見をいただければ幸いです。
我が家ではお寺との関わりがまだないため、こちらで相談させていただきます. ̫.)" 私の家はシングルマザーの家庭でして、 母方の先祖が真宗大谷派とわかりました。 真宗大谷派には先祖供養というものはないと見ましたが、 仏壇を設置した方が良いかなぁと思っていました。 お盆の時期で、お供え物をどこに置こうとなり、 カラーボックスの上を綺麗にして、白いタオルをひいて、その上を仏壇代わりとしました。 正直お金に余裕はなく、 仏壇は買えないので、カラーボックスの上で落ち着いておくれ……と願うばかりなのですが、 流石に、御本尊がないのはどうなのかと思い、 今御本尊をAmazonなどで買うか予定しています。 本山から取り寄せるのが良いと聞きますが、、Amazonなどで、買うのは良いのでしょうか。。 三具足は必需品だと言いますが、そんな余裕もなく…… おりんと、念珠程しか準備出来ませんでしたが、大丈夫でしょうか。 お経も何も知らず(般若心経くらいで)南無阿弥陀仏くらいしか唱えられませんが… こんな揃えられないなら、御本尊様を祀らない方がよいでしょうか。 お願いします。
毎年、お盆がくるのを怖く感じています。 繰り返し相談させていただいていますが、私は強迫性障害(おそらく涜神恐怖)があり、その影響もあってか神様や仏様に対し、とても酷いことを考えてしまっています。お寺に行くと特に考えてしまいます。 考えることで自分に不利益があることを恐れるということはありません。仏様に対して最低なことをしていて、しっかりと反省し謝らなければと思っても、十分に反省ができず、それどころかさらに酷いとを次々考えたり、反省もできていない自分がいます。 2つお尋ねがあります。 ①実家に仏壇がありますが、両親は迎え火などせず、お寺にお迎えや見送りなどもしないようです。それでも大丈夫なのでしょうか?(曹洞宗です) ②私もお寺に行かずに実家の仏壇で手を合わせようか迷っています。それでもいいのでしょうか?(理由は、酷いことを考えるのが怖いのと、これも最低なのですが、お寺に足を運ぶより実家に行く方が楽だという考え) ③お寺にも行かないのに、お盆休みを娯楽で過ごしてしまってもいいものでしょうか。 よろしくお願いいたします。
大黒天様と大自在様は何が違うのでしょうか? 両天部シヴァ神ですよね?
念持仏として、また戌年の守り本尊として小さな阿弥陀三尊を購入しました。 これから毎日般若心経を唱えようと考えています。 宗派は曹洞宗。普段は親戚の家の仏壇に手を合わせています。 質問ですが、 開眼供養はした方が良いでしょうか。 また仏具などは何を購入し、お供え物は何が良いでしょうか。 その他にした方が良いことなどがあったら教えてください。 よろしくお願いします。
こんにちは。表題の件について質問させて下さい。 忌中には、天部の神様を祀ってあるお寺に参ってはいけないという話を聞きました。 理由は「死は穢れで、特に聖天さんなんかは穢れを嫌うから」「天部の神様は人間に近いから、死を思い出させることで荒れ狂ってしまうから」「本当は神様はそんなこと気にしないんだけど、あなたが悲しいときに無理してお参りしなくていいよ、という意味だ」など、お坊さんによって様々なようです。 私も最近祖母を亡くしました。 祖母とは生前不仲でしたが、遺体を見ていると「生まれて生きて死ぬとは本当に大仕事で、この人はそれをやってのけたんだな。お疲れ様」と素直に見送る気持ちになれました。 死ぬのは怖いけど、それは死に際しての苦痛への恐怖が主であって、死自体はどんな生き物にも訪れるものですし、決して穢れではないと思うのです。 肉体が腐ることだって、微生物に分解され、本来なら動物や植物の糧になり、土に還るという尊い過程です。 何なら生きることより尊いと思うし、衛生管理のため仕方ないとはいえ、死んでまで化石燃料バンバン使って骨にして何の役にも立たない壺に収めて保管して、アホらし、とすら思いました。 そう考えると、「死は穢れだから」とか「天部の神様が死を恐れるから」という理由は、個人的にはあまりしっくり来ません。 人によって死への解釈や意見は違うものでしょうが、実際のところ、天部の神様にとって人間の死とはどういう扱いなのでしょうか? どうして忌中に参ってはいけないのでしょう? 現役のお坊さんの意見をお聞きしたいです。 よろしくお願いいたします。
自ら死を選ぶ人間を仏様は許してくれるでしょうか? それだけが心配なのです。 沢山悪いこともしてきました。ですが、死後は心地よい風に当たり何も考えず空を仰いでぼうっとしていたいのです。 わがままなのはわかります。 許して欲しいのです。家族を助けた後は私は一人になります。どうしてもその選択しか出来ないことを許してください。 死後も辛いのは嫌なのです。 ごめんなさい。どうか許してください。 仏様はこんな私を笑って包み込んでくれますか?
9月末に第二子を嫁が出産予定で長男の時は追々は一人娘の嫁の家系を継いで貰う為に嫁の家系の遠い先祖から一字を頂いて名付けしました。 第二子は私の家にちなんだ名付けをしたいと思い名付けを考えていたのですが 自分の家の家系図は祖父までしか追えず近くから名付けは代々受け継いでいるのと違い縁起が悪いと本やサイトで前に知っていたので嫌だという気持ちで 家系からの名前ではなくな私自身、色々な宗教の中から仏教を信じているので仏教の経典、教えや宗派を問わず宗祖、高僧の言葉から良い字を頂きたいと思い 自分の菩提寺が浄土宗なのでまずは浄土三部経の現代語訳を読み名付けを考え読み終えて良い言葉、字などありましたが素人が経典の真の意味や伝えたい事が飲み込めているかも不安ですし。 一応は菩提寺の浄土宗を信じていますが宗派問わず仏教全体を信じているので 名付けでも引き続き、法華経、大日経、金剛頂経などの現代語訳を読んで良い言葉や字、教え、本で宗祖のことばを調べ続けていきたいのですが 私自身、仏教系大学の知り合いがいなく菩提寺の住職が他県の住職になってしまいその息子さんが住職をしているので関係が薄く聞きに行きづらく それとここで宗派を問わず経典で一番大切にしている言葉や字、 大学や先代住職、師からの教えでその宗派で大切にしている仏の言葉、教典の言葉を色々とご教授頂けたらと思い質問をさせて頂きました。 お坊さんも十人十色などで同じ宗派でも違う言葉、教えを大切に思っていると思いますので色々と教えて頂きたいです。 宜しくお願い致します。
自在天と大自在天の違いって何なのでしょうか?? 大自在天様=ヒンドゥー教のシヴァ神ですよね?
私はお坊さん(霊など見える方)に何度かお祓いをしてもらってるのですが 先日酷い体調不良で薬が効かずお祓いしてもらった際 いつも使ってる手錫杖がいつも以上に気になってしまいました。 Amazonなどでも売られていて一般人が手に入れやすくなってますが お祓いなどの効果があると書いていました。 私や家族が人より霊障が多く体験する家族なので、 手錫杖を持っておいたら便利かなぁと思っているのですが お坊さん視点で考えた際 錫杖を一般人が持ってもよろしいのでしょうか そのお祓いをしてくれているお坊さんが手錫杖を降っている際心地よく落ち着いたので気になります。 使い方等も良ければ教えて下さると嬉しいです(どこにも書いてなくて、、右手で持つくらいしか…)
初めての質問失礼します。 これまで神様も仏様も特に信じず生きてきましたが、この世で1番の味方であり大好きだった祖母が亡くなった事をキッカケに、日蓮宗に心惹かれるようになりました。 というのも、祖母が日蓮宗の信徒だったということを亡くなってから知ったのです。 子供の頃、祖母の家に遊びに行くと、祖母はよくお線香を上げてお仏壇に手を合わせていました。けれど、それがどのような意味をもっているのか、どこの宗派なのかを今まで知らなかったのです。 祖母が亡くなってからというもの、心にぽっかりあいた穴が日毎に大きく深くなっていくようで、毎日泣きながら祖母を想い、日蓮宗について調べるようになりました。 すると、どうしてなのか、行ったことのないお寺の写真に強く心を惹かれ、日蓮宗のYouTubeでお坊さんが日蓮大聖人の生涯をお話してくださる動画があるのですが、それを初めて聞いた時涙が溢れて止まらなくなったのです。 日蓮宗の教えは間違いなく私を救ってくださいました。 その感謝の気持ちをお伝えすべく、9月に身延山久遠寺へ2日間のお参りとお勤め体験に行く予定です。 さてここからが本題なのですが、今月末に背中にタトゥーを入れます。 祖母の誕生花と自分の誕生花、それと生まれ年である梵字を組み合わせたデザインです。 ただその梵字がキリークで、阿弥陀如来を表すものだと最近知りました。 まだ勉強中なのですが、日蓮宗は阿弥陀如来をご本尊として祀ってはいませんよね。別の宗派のご本尊だったはずです。 そうなると、これから先の人生で、日蓮宗の信徒として生きていく私の背中に 阿弥陀如来の梵字が掘られているのはおかしいでしょうか? 大々的に背中を見せて歩くわけではありませんが、日蓮宗の教えとして、阿弥陀如来はどのような立ち位置にあるのか分からないのです。 もしどこかの教えの中で、日蓮大聖人が阿弥陀如来を否定なさっているとしたら 私は背中に阿弥陀如来の梵字を背負う訳にはいきません。 どうしたらいいか教えていただけないでしょうか。 ちなみに、タトゥーを入れるのは決定しています。 祖母が亡くなった日に思いついた事で、痛みを伴う記録を肌に残すことで、祖母から貰った愛を忘れず、背負って生きていくと決めたので。 梵字のキリークを選んだのは、戌年の文字だからなのですが、日蓮宗の方からみてどうでしょうか?
お経とはお釈迦様の教えを広く弟子に残す為にあると聞きました。 だとしたら、この現代の日本で意味不明なままお経を聞く意味とはなんですか? そしてお坊様は経文を理解されてるものだと思うのですが、理解してるものを声に出して何度も読む意味とは? 又、お経は残された家族の心を沈める意味あいもあるとありましたが、知らない言語で何か言われても一向に癒される事はないのですが…
ここ最近仏教に関する書籍などを読み漁っていますが、仏教を知る上での重要な要素の一つであろう「空」についてわかりそうでわからない状態が続いています。 空は無ではない、空は増えも減りもしない、空は関係性によって成り立つ。 わかりそうでわかりません。。。 考える上でのヒント等ご教示いただけないでしょうか。
仏教では「目的」をどう捉えているのかを知りたいです。 ・目的を持つとはどういう状態なのか? ・目的を持つメリット ・目的意識を持つには? ・「目的」の解像度を高めるには? などを、仏教的な観点から知りたいです。 しかし「仏教 目的」といった検索をすると「仏教が目指す最終的な目的とは」などの解説が多く… 仏教では「目的」や「目的意識」を、違った言葉で表現するのでしょうか?
私はある地域の八十八ヶ所のお遍路をしていて、それをYouTubeで紹介しています。 あるお寺でYouTubeの事を話すと、金儲けのためにやっているなら撮らないでくれと言われました。 今までお寺を何十と回って来て、初めて言われた事なのでとてもショックを受けました。 もしかしたら私のしている事は、とても失礼な事だったのかと思い、この活動を今後続けて良いのか迷っています。 そのお寺の方は、話の中でNHKの番組の話をたくさんされていたのですが、例えばテレビ局がドキュメンタリー番組を作るのと、YouTubeで個人がドキュメンタリーを作るのと何か違いがあるのでしょうか? 仏教では、金儲けは悪なのでしょうか?
「三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰」、 「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経」 この辺は私には全く理解できていませんが、最も注目すべきは、当然、呪文の「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 般若心経」でしょう。 花山先生の訳によれば、「往きて彼岸に往き、完全に彼岸に到達したものこそ、悟りそのものである」という意味だそうです。 これは多分、前回お話しした梵天勧請事件の経緯のように、喜びと共に生涯を終える実践をした時のことを表現したのだと思います。 「彼岸」が実在していることを示し、それは梵天勧請事件で生き返ることを三度も拒否したほど素晴らしい眺めのようです。 (完)
例えば目の前で罪のない大切な人がナイフや銃をつきつけられ殺されようとするときどうしたらいいのですか? 自分や大切な人の命を守るため対象を殺すことは正当化できるものなのですか? そのようなことが起きてしまうこと自体悲しいことですが、 仏教ではどのように落とし所をつけていますか。 自分がどうあるかを決めることが答えでしょうか。それを乗り越えるためのなにかが仏教にあるのでしょうか。 これという回答がなければ そのヒントになる本などあれば教えて欲しいです。
最近仏教に興味を持ち始め、勉強しています。 仏教における大事な考えとして「執着を捨てる」事があると思います。 確かに、その理屈には納得できます。 しかし一方で、執着を捨ててしまえば、「何かに向けて努力できなくなってしまうのでは」と疑問に思いました。 私は今、資格取得に向けて勉強しています。それは、仕事をする上でもっとレベルアップしたい、という思いからです。 しかしこの「資格取得したい」思いもまた執着でしょうか。 目標という執着をも捨ててしまえば、人生において何かに向けて頑張る事ができなくなってしまいます。 執着と目標、どのように考えれば両立しうるのでしょうか。 もしくは、目標・努力という執着を捨てよ、というのが仏教の正しい教えなのでしょうか。 ご回答よろしくお願いいたします。
いつもお世話になっております。 私は、教会に通っております。他宗教の教えも勉強して みたくなった、また、正しい知識を身に着けて、カルト 宗教から自分や身近な人を守りたいと思ったからです。 教会に生きていらっしゃる皆様は、素敵な方ばかり です。私が見てきた、お寺に集う人たちとは大違い。 比べるのも失礼かと思うほどです。 牧師さんも大変博識で、聖書の内容を、いかに実生活に 活かせるか考えてお説教をされているご様子です。 私も、しっかり、自分の宗教の教えを勉強しようと思い ました。他宗教者の姿勢を見て襟を正したくなるなど、 皮肉なものですね。 ちょうど、自宅の本棚から、中村元先生の、 「真理のことば・感興のことば」という本が出てきました。 パラパラと読んでみると、素敵な事がたくさん書いて あります。仏教版聖書のようです。 そこで、私は、ダンマパダを勉強したい、身に着けたいと 思いました。 しかし、教会のように毎週お説教を開いているお寺は、 貴重です。開いていたとしても、他の宗派をけなしたり、 宗派の本尊以外の仏様を馬鹿にしたり、神秘主義に 走って、免罪符売りのようなことをしていたり… 信者も驕りに凝り固まっている人が多い印象です。 また、歴史上の偉人の名言などを、悪い言葉で言えば パクって話をしていて、教会のようにお経の解説をし、 お経の考えを実生活に生かすよう促しているようなお寺は、 皆無といった印象です。 ダンマパダは、とりあえず、「一組ずつ」、「汚れ」、 「怒り」、「はげみ」、「悪」、「心」から手を付ける つもりです。 しかし、一節一節の意味をこちらでお尋ねするのは、 こちらのシステム上、なんとなくはばかられます。 1週間も待てません。もどかしくて。 魔境状態に陥らずダンマパダを解釈するには、どうすれば よろしいでしょうか? ご高見を賜りたく存じます。
「舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減」 これが第二のキーフレーズです。 「諸法」について花山勝友先生は「この世の中のあらゆる存在や現象」と解釈されていますので「宇宙」と解釈するのが正しいと思います。 横道にそれますが、「空相」は「空の姿」ですから、それに対比する「実の姿」があっての「空相」です。 従って本来はその前に「是諸法実相 生滅 垢浄 増減」(諸行無常)があるべきです。 「如是我聞」は釈尊が弟子(比丘)に説教するのが大部分ですから、常識的な会話は無に近いです。だから重要な「輪廻転生」の話はほぼ皆無です。 ここでも「諸法実相」が省略されたのでしょう。 では「諸法空相」に戻って、ちっぽけな「色」(身体)の説明になぜ宇宙を持ち出さなければならないのか不思議です。ここがキーポイントです。 「空の姿」の宇宙は自然界で唯一「閉じた系」です。 「閉じた系」の有用性は、皆様も中学、高校時代に物理で教わったように、「エネルギー保存の法則」です。 同じ空相でも「閉じた系」でなければ、「不増不減」(一定量)とはなりません。だから「色空相」として説明できないから宇宙を持ち出したのです。 これで「空(空性)」が「エネルギー」であることが確定したのです。 「是故空中、無色、無受想行識 無眼耳鼻舌身意無色声香味触法 無眼界 乃至 無意識界、無無明 亦無無明尽 乃至、無老死、亦無老死尽、 無苦集滅道、 無智亦無得、以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃」 「是故空中」とあるので、諸法空相を受けて、宇宙全体をエネルギーと見做せば、総てが無になることを説明したに過ぎません。 以上が「色即是空 空即是色」に関する説明です。 明治時代以前迄は、釈尊が悟りを開いたとき「これは非常に高尚で誰も理解できないだろうと」と布教を諦め、「この喜びのうちに生涯を終えたい」と神通力を駆使して自殺をし、彼岸に渡って「梵天勧請」事件を経て、再び生き返り諸転法輪を回したほど、難解な内容でしたが、現代では教科書で学ぶほど、「般若心経」は科学的常識となったのです。