我が家は浄土宗ですが、私は必ずしも浄土宗の教えがしっくりきません。 後世安穏、往生安楽国という表現があります。死んだら極楽浄土に行く、というのですが、じゃあ浄土では安楽にのんびりと暮らすんでしょうか?何も苦がない世界では何をしているんでしょうか?それはとても退屈で飽きる生活が延々と続く事ではないかと悩みます。 解釈が間違っているかも知れませんが、私は最澄さんは「生きていることそのものが菩薩行だ」と言われたように思っています。だから日々、観音経を唱えるのは「自らもかくあれ」ということだと思って唱えています。 でも生きている間には私たちは菩薩の域には到達できません。となれば、死んでからも菩薩になるための修行をするんだと思っているのですが、すると浄土では何をするんでしょうか。地獄についてはたくさんの絵も説明もあります。しかし、極楽世界といわれるところで、私たちはどのような生活を、どのような思想的な深みを目指す営みをするのでしょうか。今が苦しい、その救いとして安楽な浄土があるという理解ではどうしても納得がいかないのです。 浄土で、私たちは何をする覚悟をもって旅立てば良いものでしょう。
この前、阿難尊者のお母さんが餓鬼道へ落ちた話を聞きました。 お母さんは自分の息子ばかりを可愛がっており、周りに気を配らなかった為に落ちたと解釈しております。 そこで思ったのですが、上座部仏教の僧侶達は自分の悟りのことしか考えていないように見受けられます。 これだと餓鬼道においてしまうのでしょうか? それともこれはまた別なのでしょうか?
以前に質問させて頂いた者ですが、仏教を学ぶ中、従来の信仰宗派とは別宗派の教えに魅力を感じるようになりました。改宗ということも可能な世の中ではありますが、大事になることは重々承知であり、現段階では実行せずにと思うのです。そんな中、自分自身その別宗派が重んじている教えに心を打たれた訳なのですが、現在の宗派に属しながらも個人として別宗派の教えにあやかると言うのは善として捉えても良いのでしょうか?勿論ご先祖様の供養について無礼なく従来通りで供養に努めて参りますが。また改宗についてもし何かアドバイスが頂けるとしたならば有難いです。よろしくお願いします。
とある新興宗教に入った姉の誘いを断りきれず、その宗教に入会してしまいました。 姉は旦那さんの説得付き添いのもと今は退会しています。 わたしもやめたいのですが、優柔不断なのと何か不幸が起こるんじゃないかと思うと退会の申し出ができません。 実家の家族は近くのお寺に檀家としてお世話になっています。小さい頃は祖母と一緒にわたしもそのお寺によく通わせてもらっていて、本当に優しい方ばかりでご飯をいただいたり、たくさんお話ししてもらったり、大変お世話になったのを覚えています。 本当は祖母との思い出が詰まったこのお寺に戻りたいです。 ただ祖母が亡くなってからお寺に行くことはほとんどなくなり、また新興宗教に一度入ってしまったこともあり罪悪感から訪れることができません。 本当に自分の優柔不断さが情けないし、良くして頂いたのに申し訳ない気持ちでいっぱいです。 もし新興宗教をやめたとしても、元のお寺に戻るのはやはり難しいでしょうか。
御真言と印について、お尋ねさせていただきます。 先程、無知なのに、誤った印で御真言を唱えてしまいました。 以下にいきさつを書かせていただきます。 この場合の対処を教えて頂ければ幸いです。 —————— 先日、お隣の人から心無い事を言われてしまいました。詳細は割愛させていただきますが、それは、明らかに相手からの悪意(私へのコントロールできない嫉妬心のようなものだと思います)が滲み出てしまった言動でした。 私の方は、お陰様で冷静に対応させていただきましたが、相手の悪意(厄)を被ってしまったので、どうしても抑えきれない悲しみ、怒りが残ってしまいました。こういう時は忘れることに努めるのみですが、相手が隣人であったため、物音などで気配がわかってしまうのです。 そこで、藁にもすがる思いで“厄除け“を検索してしまい、不動明王の御真言と印についての記事に辿り着きました。無知な私は、左右逆に印を組んで無心に御真言を唱えてしまいました。 そのあと、素人が印を組むものではない事を知り、なので、“ごめんなさい“という気持ちと共に、再度合掌で同じ不動明王の慈救咒を唱えさせて頂くことにしました。 気持ちが落ち着いてから、色々と不動明王のことを調べていて、先程の自分の行為を反省しました。 実家は仏教と神道です。わたしは1人海外に住んでいるため、近くのお寺へお参りに行くことができません。御真言などを唱える習慣は皆無でしたので、今回の私の行為は浅はかなことだったかもしれません。 間違った印と御真言を唱えてしまった場合、どうすれば良いでしょうか。 何卒よろしくお願い致します。
いつもお世話になっております。 ある日、仲良くなった女子神主さんと話していて、 「科学じゃ説明できないこともたくさんあるのよ」 「お医者さんも信用しきっちゃだめよ」 と言われました。 私はこの神主さんを怪しみ、あえて科学界隈の精神科の先生に、 神主さんからこう言われた、と伝え 「先生、科学で説明できないことって何だと思う?」 と尋ねてみました。 「たくさんあるじゃない。精神の現象なんて最たる例だよ」 と言われました。 「個々人の物事に対する捉え方とか、病気を治したいっていう 気持ちを起こさせたりとかは、科学が干渉できないってこと?」 と聞いたら、その通り、科学はあくまで目に見えるものを探求する 学問だと言われました。同時に、 「みんな、科学に期待しすぎ」 と。 精神科の先生のことは信頼しています。でも、科学のプロが 「科学に期待しすぎ」という考えなのはどうなの?とも思います。 以前こちらで、宗教心、仏教心とは何か、と質問したら、 「当たり前のことを分かるようになり、惑いをなくすこと」 とお答えいただきました。目を開けたら見える、おならは臭い、 というようなことだとご説明いただきました。 しかし、世の中の人は、 「どうしてこうなるの?どうすればいいの?怖い!」 とあらゆる事に惑います。 科学は、 「これはこうだからこうなるんだよ(当たり前の提示)。こうすれば 怖くないよ」 と人々に教えてくれます。 そして、素直にその事象を受け入れ、科学で明らかになった対応策を、 (例えば病気の治療)ありがたく実行させていただく。この謙虚さと やる気を起こさせるのが、宗教心だと思うのです。 こちらのお坊様も、 「仏教では、物事には必ず科学的原因があると説く」 「科学の発展なしに、現代社会はあり得ない」 とおっしゃいます。 時折、「科学が人を貧しくした!」と言っている宗教家を 見かけます。私は、こういう人は危険だと思うのですが。 ちなみに精神科の先生は、「僕を100%信用しないで」と言い、 神主さんも、医者を信じきるなと言いつつ「治らない人は、治そう としない人よ」と言います。 実は、長年の疑問です。私は、仏教は科学を否定する危険な宗教 だと思いたくないです。
うちには 生みの母、父、育ての母の3人のご位牌が仏壇にあります。 このご位牌が移動して育ての母の御位牌が真ん中にきてしまいます。 それを近所の拝み屋のおばさんに話してみたら 御位牌の置く順番を 左から育ての母、産みの母、父親 のものにしなさい と言われました。 また、近所のご住職の方が、仏壇に本尊がないせいだ と言われ、大日如来の御本尊に気を入れてくださいました。 今、頂いた御本尊を仏壇の中央に置き、御札をリビングに貼っています。 ごのご住職は真言宗です。 私の家は曹洞宗なのですが、真言宗で頂いた御本尊や御札を飾って良いものでしょうか? 最後に、御札というのは 仏教と神道のものを同時に貼っていいものでしょうか? また、位牌を置く順番は 拝み屋のおばさんの言った通りでいいのでしょうか?
私は浄土宗であり 阿弥陀様を渇仰している者です。 御本尊様のお力添えを頂きたいのは 勿論のこと、真言宗の仏様と言われている 不道明王様のお力添えも頂きたく 思っているのです。浄土宗と真言宗。 宗派が違うのですが信仰しても 良いのでしょうか?また、仏教において 宗派は違えど仏様は全宗派に 通じておられると考えており 固定の宗派でありながらも 自身の成長に向けお力添え頂きたい 仏様に対し心から念仏や読経をする事が 正しい事であると考えているのですが 如何なものでしょうか。
前回の質問でありがたい事に 真言を唱えても良いと教えて頂きまして 実家の仏壇に十一面観音様がいらっしゃる事もあり 十一面観音様の真言から唱えて そのあとに好きな不動明王様の真言を唱えようと思っているのですが 十一面観音の真言は オン ロケイ ジンバラ キリク ソワカ オン マカ キャロニキャ ソワカ で 不動明王様の真言は ノーマク サンマンダー バザーラダン センダー マーカロ シャーダー ソワタヤ ウンタラター カンマン でよろしいのでしょうか? ヤ ソハタヤ ウンタラタ カンマン
妻の実家が絶え、遠方にあるため義父母の墓を終い近くの納骨堂に移そうかと御住職に相談したところ、離檀料なる話をされ、墓の撤去費用以外に300万円払えと仰られました。思い悩み、弁護士に相談したところ、法律的に離檀料など1円も必要ないと言われました。しかし、私の気持ちとして今までの感謝として、50万円を持ち、御住職にその旨を話したところ烈火の如くお怒りになられ(それは法律の話、私は宗教の話をしているのだ)と仰られました。もちろん、50万円も撥ね付けられました。お金のことより離檀料がわかりません。離檀料とは存在するのですか?教えてください。よろしくお願いします。
日蓮宗の方のYoutube動画で、水行修行についてのものを拝見し、「世の中は楽しみ、苦しみの量が決まっていて(同じ)。修行者が苦しみを皆の身代わりに受ける」 その覚悟で臨んでいるという内容でした。 大変感銘を受けました。 自分もそうですが、とかく人は「どうして自分だけがこんな目に」的な考えで不平・不満を抱きがちですが、自ら進んで苦行に臨む姿に尊敬します。 どうすれば、こうした心境や境地に至れるのでしょうか? 最近仏教思想に興味を持ち、「少欲知足」など、色々な言葉を知るようになりました。ただ、どうしてもまだ頭だけ(知識のみ)で、実践にまで至っていません。 僧侶の方々も人間ですから、時には煩悩に苛まれることもあるかと思いますが、どう考え、日々の実践に移されているのでしょうか? アドバイスいただけますと幸いです。
お坊様に質問があります。 精神的・身体的に辛い時に南無観音菩薩と心の中で唱えても良いでしょうか? 時々、内科に通院しています。
1.私は、不安に弱い人間なのですが 自分を勇気づける為に不動明王様の真言を 心の中か口で唱えてみたいと思いました 不安は自分自身の心の問題なので 別にご利益が無くてもいいのですが (正直、あったら嬉しいです) 僧籍ではない、お経すら覚えていない 私が唱えても失礼にはなりませんでしょうか? 罰が当たったら怖いなと思ってしまいます。 2.仮に問題がないといたしまして 暗記せずに、調べた真言を見ながら唱えるような形でも失礼にはあたりませんでしょうか? そして印は組んだほうが良いのでしょうか? 組まないほうが良いのでしょうか? 3.不動明王様の真言を唱えるとして (仮の話に仮を重ねてすいません) 自宅の仏壇には十一面観音様を祀っているのですが やはり身近の観音様の真言も唱えた方がよろしいのですよね? そもそも観音様の真言は唱えてもよろしいのでしょうか? 4.いずれ愛染明王様の真言も唱えたい 近所のお寺さんが愛染明王様を祀ってて 自分自身も幼い頃や今でもお参りをしたり 除夜の鐘を叩いていたりしたので 可能であれば唱えたいと思うのですが よろしいのでしょうか? ちなみに何故、不動明王様の真言を唱えたいかと申しますと 昔から、家族がお世話になってる、お参りしてるお寺さんが 不動明王様を祀られているのと酉年の守護なのとカッコイイからと思ったからです。 拙い文章に加え、仮の話に仮を重ねてで 申し訳ありませんが お答えいただけると幸いです。
修験道になることを考えているんですが修験道になった後どのような生活を送るのでしょうか? 24時間365日修行できるのか.お金は必要なのか.一日のスケジュールはどのような感じなのか、などを教えて頂きたいです。
いつも美味しいご飯を作ってくれる優しいお母さんに私の誕生日などに行きたい場所に連れて行ってくるお父さんと、ちょっと素直じゃないけれど可愛い妹がいます。 私は情緒不安定で、妹に手を上げたりしたことがありますしすぐ怒ってしまいますし 虫を殺したり嘘をついたりしたりする、 怖がりで泣き虫な情けないダメな娘です 家族みんなで死後天国でまた暮らしたいけれど、恐らく私は地獄行きです。どうにか地獄行きにならない方法はありませんか? とても不安なんです
いつもお世話になっております。 今回は、スマホからです。 こちらの問答を拝読したり、 オンライン法話などを聴いて いても、 「ありのまま、あるがままを 受け入れなさい」 というお言葉を散見します。 しかし、これは少々危険な 解釈もできてしまうのでは?と 思いました。 例えば、 ・ガンになった →放っておけ。治療を受けるな ・統合失調症等で、暴力行為が 激しい家族がいる →甘んじて受け入れろ ・発達障害等で、誤解を招く 行動が目立つ →障害なんだから仕方ない というものが思い付きます。 しかし、私は、仏教はそんな 怠惰で放逸な教えではないと 思いたいです。 明らかに自分や周囲が困って いる状況も放っておけ、という 解釈もできてしまうと思う一方、 「ああ、今はこう言う状態 なんだな」 と目の前の、あるいは自分の状況 を淡々と受け止め、それに合った 対応(応病与薬的な)していく のが、仏様の教えだと思いたい と思っています。 ありのまま、あるがままを 受け止める、とは、どういった 意味なのでしょうか? 上述したような、危険な意味 ではないと思いたいです。
維摩居士でも文殊菩薩さまの知恵には、敵わなかったのでしょうか?私が読んだ「維摩経」をマンガにしたものには、維摩居士が文殊菩薩さまに帰依したことは書いてなかったのですが、文殊菩薩さまのことを検索していたところ、どのサイトかは忘れてしまったのですが、その様なことが書かれていた記憶があります。
罪を憎んで人を憎まずと言う言葉がありますが、この言葉の意味は分かります。 自分も普段から心がけてる事の一つでもあります。 ですが、一つ疑問が残ります。 もし、人類を滅ぼす存在が現れた場合です。 だいぶオーバーだと思いますが、人類を滅ぼす存在が居たとして、その存在が人類を絶滅させようとしたとしても、その存在を憎まずに愛で包み込んで人類はそのまま絶滅しました。←これで良いんでしょうか?
「厭離穢土欣求浄土」の意味について、今年の大河ドラマをはじめ昨今の小説やドラマでは「この世を浄土のような平和な世にする」というスローガンだと説明されていることが多いですが、浄土宗は唯心の浄土ではなく指方立相の浄土を説くはずで、凡夫に浄土は築けないと教えているはずですから、この解釈は浄土宗の教義に矛盾していないでしょうか。元来の意味が厭世的過ぎて現代人に受け入れにくいので無理矢理こじつけたように思えます。これはむしろ即身成仏を説く真言宗や娑婆即寂光土を説く日蓮宗の考えに近い解釈ではないでしょうか。 凡夫に浄土が作れるのなら弥陀も念仏も要らないことになってしまいます。 ただ、「浄土宗は死を待つだけの教えではないのか? 法然上人の時代のように道を歩けば死体がゴロゴロ、いつ自分もその仲間入りするかしれない世ならともかく、現代ではそんなに今生きているこの現世を否定しなくてもいいんじゃないか?」というこの胸に芽生えた疑問への答えとしては厭離穢土欣求浄土の現代風解釈は便利なので、指方立相の浄土とは矛盾すると知りながら都合よく取り入れてみるのも悪くないかなとも思っています(真剣勝負と八百長との狭間をウロウロするプロレスファンなので、こういう曖昧な考え方は得意なのです)。 できれば浄土宗のお坊様のみならず、他宗のお坊様のご意見も聞きたいです。
私は2週間前に祖父を亡くしました。 とてもつらく、主に後悔と自責の念に押し潰されそうな日々を過ごしていましたが、残された父と支え合い、友人にも支えてもらい、葬儀の際にはお寺の住職さんとも色々なお話をさせていただき、なんとか今日という日を過ごしている次第です。 49日を迎えるまでの間、故人はまだ私たち家族のそばにいてくれているという話を聞きました。 実際、祖父が何度か夢に出てきてくれたり、父も少し不思議な体験をしたりなど、近くにいてくれてるのだなと感じる瞬間があります。 ですが49日を迎えた後、亡くなった人が天国へ行きこの世界を離れてしまったら、もうそこで本当にお別れになってしまうのかと思うと悲しくて仕方がありません。 仏壇に手を合わせたり、お墓参りをしたり、心の中で問いかけたり、その度にその人はいつも残された人々を見守っていてくれてる、という話は聞きますが、それは成仏が出来た後でもそうなのか、魂というものについてどういった考え方を持てばいいのかわからず不安になっています。 ぜひ、ご意見を頂ければ幸いです。