何年か前に仏教の本(題名は忘れてしまいました)で読んだのですが、観音様に少しでも供養したら多くの仏様に供養したのと同じぐらいの功徳があり何回生まれ変わっても尽きることの無いと書いてあったのですが、本当なのでしょうか?
私は小学6年生の元日、初めてアームカットをしました。 頭の中に砂嵐が流れ視界が黒ずんでいるような感覚で、まともに考えられず傷つけてしまいました。 傷つける寸前、初めに「死にたい」と思い、次に「死にたいわけじゃない」「傷付ければ今までの償いになる」と言い訳をしました。1度目は滑らせただけでしたが、その時点で「こんなことをしても償いになるはずがない、むしろ罪を重ねているのではないか」と思い始めました。しかし、「中途半端は嫌、どうせなら血が出るまで」「切れば報われる」「今までの辛さはこんなものだったのか」と自分に言い聞かせ何度も切りつけました。途中「傷が残れば皆に私が今まで耐えていたことを認めてもらえる」と考えが浮かび少し嬉しくなり、そんな自分が怖くなりました。血を見て焦りました。もう後戻りはできないと感じました。 耐えきれず、すぐに母に私の行いを告白しました。懺悔のつもりでした。母は母自身を責めていました。そして私を叱ってくれました。その日私はもう二度としないと母と約束しました。 しかし、中学1年生になり、また傷つけてしまいました。1度目の傷が薄くなっていくことに不安を覚え「自分は今まで耐え、頑張ったのに認められない。それに姉にばかり注目がいく、切ればまた私を見てもらえる」と思ったからです。姉は何も悪くありません。私が勝手に姉を僻んでしまったのです。皆口を開けば一言目は姉で、私のことは話にすら出ないこともあり寂しかったのです。 その日から恐らく百何十回と切り、ほとんどが消えない傷として残りました。 ある日、ネット検索をしている時に"仏様の体に傷をつける"ことが大罪になると記載されているのを見ました。 私は「人は死後仏様になると聞いたことがある。なら生きている今、自分の体を傷つけることも大罪なのではないか」と考え、焦り、不安、恐怖、後悔が押し寄せました。 そして、自傷に対する仏教的なお話を伺いたくここへ書き込むことにしました。 初めて切った日が元日なことにも罪悪感を覚えています。元日を選んだ理由はなく、偶然その日に我慢が切れてしまったのです。 今年の元日からアムカはしていません。しかし、心療内科の薬を過剰摂取してしまいました。 心配されずとも、私の辛さを家族や先生に理解して欲しかった。 こんな私は死後、地獄に落ちるのでしょうか。許されないことをしてしまったのでしょうか。
いつも聞いて頂きありがとうございます。 Kousyo Kuuyo Azuma様の話が気が休まるので聞いて頂けたらと思います。話のわかる方や男性の方に聞いて頂きたいです。 先週の水曜日から調子崩してしまいこの前話してた酷い事された男性に電話してしまい、でも着信拒否されてて凹んで不安定になり、仕事の帰りにその男の乗るバイクに女乗せてるのを偶然見てしまい嫌な気持ちになりました。 でも見たあと幻滅も感じました。 今私は気持ちに波があり彼には死んで欲しいと思う事もあります。 ショックで職場の元上司のおじさんに話聞いてもらいました。 彼は彼女と職場一緒でトラブルになり仕事辞めて彼女は子持ちで離婚して彼の実家にすぐ入ってます。 元上司のおじさんは私がかなり泣いたのであいつには私にした事以上に何かしらかえってくると言ってくれました。今の時点で起きてるよと。 いつまでも幸せとは続くのでしょうか?職場の元上司のおじさんはあいつは見る目がなかったんだよ。となぐさめてくれました。友達も大事な物を失ったんだと言ってました。 おじさんから今は自分とお母さん、まわりの人を大事にした方がいいと言ってくれました。そうすれば相手も大事にしてくれるからと言ってくれました。 うちの母もその男性の事はそんなことしてれば将来はいい思いしないし人に色々やってもらってて、人を傷つけてクズ人間だと言ってました。 私はその男性や彼女にもそれなりに辛い思いしてもらいたいと思ってしまいます。 暇で寂しい時の穴埋めや利用されて自分ばかり幸せになり悔しいです。 一緒に暮らすかと言われたり、酷いこと言われ膝枕も男女の関係もありでも付き合えないと言われてました。男女の関係の時の動画も撮られた事もありました。 実際に酷い事をしたその男には何かしらバチなり悪いことが起こるのでしょうか?人に対して酷いことしてれば自分に返ってきたりしないのでしょうか? 私は傷つけられたけど幸せになれるのでしょうか?今は健康に過ごせてることが幸せと思いたいです。 その男性の連絡先や写真とかは消した方がいいのでしょうか? 少しでも気持ちが休まる話をお聞きしたいです。 仕事は色んな人がいますが、学んだり嫌なこと言われても冗談で返すという事を覚えていく場だと思い頑張って仕事してます。 人との関係を大事にして行けたらいいなと思いました。よろしくお願いします。
仏教には「一切智」という言葉があるそうですね。下記の資料で知りました。 2021-01-12 一切智とは三明のこと 仏陀は、6年間にわたる苦行(断食行と止息行からなる)は、何ももたらさないと考え、スジャーターからもらった乳粥を食べ、瞑想に入ります。 そこで、四禅を行じ、三明を得ます。 この三明こそ、仏陀の悟りを解き明かすものです。 仏陀が言う一切智とは三明のことです。 三明とは、宿住智、天眼智、漏尽智のことです。 【宿住智】についての記述 わたしは欲するままにさまざまな過去の生存を思い起こす。 すなわち一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯、四つの生涯、五つの生涯、十の生涯、二十の生涯、三十の生涯、四十の生涯、五十の生涯、百の生涯、千の生涯、十万の生涯、幾多の消滅の劫、幾多の生成の劫、を思い起こす。 そこにおいては、わたしはこのような名前であり、このような姓であり、このような種族であり、このような食べ物を食べ、このような安楽と苦痛を感受し、このような寿命をもっていた。 そのわたしはそこから死没してこのところへ再生し、そこでも、このような名前であり、このような姓であり、このような種族であり、このような食べ物を食べ、このような安楽と苦痛を感受し、このような寿命をもっていた。 そのわたしはそこから死没し、この世へ再生した。 このように様々な過去の生存を、様相と細かな状況ともども、思い起こす。 (後略) この桁外れの記憶力は神通力に依るものではないでしょうか?「欲するままに思い出すことが出来る」とは単なる記憶ではなく神通力を発揮したときそれが可能になると考えられます。 更に濾尽智ではより深い瞑想にふけり、宿住智以上の神通力を深め、それよりはるかに遡って物質誕生以前の宇宙まで見通して得た、実体がない「空性」を発見したのです。 駒沢大学学長を歴任された水野弘元先生は著書「釈尊の生涯」で次のように語られています。「後夜には、世界人生の真理に関する智慧としての濾尽智通(濾尽明)を得たとせられる」と表現されましたが、「世界」は多分「諸法」の翻訳と思われますのでこれを「宇宙」と翻訳されていたら「世界人生」が「宇宙人生」即ち「宇宙生成に関する智慧としての濾尽智通」となり、世間の注目を浴びて早い段階で「空性」とは何かが明確になったと思います。
いつもお世話になっております。 毎週、近所のお寺の法座に上がってお勤めをしているのですが、 数年前に通うようになった2人の奥様が気に掛かるのと、それに付随 した10年来の疑問があります。 法座が終わるとお堂の外に出て皆さんで世間話をするのですが、 お寺の境内でするにはあまりにも不適切な内容の話で奥様が 盛り上がります。 「皇族の@@殿下は頭が悪い」 「@@(大企業)の社長、旅行に行ったきり帰ってこなければいいのに」 「政治家の@@は裏でこういう事をしているそうよ。嫌ね」 というような、大企業、皇室、政治家などといったいわゆる「力ある 人」の醜聞や誹謗中傷です。 私も一時期、聞かなければ失礼かと思ってそれにお付き合いして しまっており、別の参詣者様が後ろで 「信じらんない…」 と呟いていたのを聞き、同類視されたと思い、あまりのショックで 帰宅して嘔吐しました。 お寺に全く行かない私の知人も、 「お寺に行かない私でも、そんな話はお寺でする話じゃないってわかる」 と言っていました。 1人の奥様は栄養士の資格を持っているので、役に立つ事を教えて くれます。それはありがたいので聞きます。しかしそういった悪い ゴシップが始まると、私は一緒くたにされたくないので 「お先に失礼いたします。お疲れ様でした」 と言って早々に離脱するようにしました。 先述のように、普通はお寺で人の悪口や醜聞など語るべきではないと 思っています。 権力に歯向かうのが功徳になるとでも思っているのでしょうか。 昔通っていて今決別した寺院も、住職が 「@@主義は仏法に通じる」 と公言し、寺報で政策を優しさの中に激しさを包含する言葉で批判する などしていました。まるで過激派の機関誌です。 私は当時体調がよくなく、でも家に籠っているのは嫌なので日参を していたら寺の職員全員から執拗な嫌がらせを受けました。 別のお寺でも、境内で防犯キャンペーンをしていた警察の人に 大声で暴言を吐き、言い終わった後にお坊さんを捕まえ、警察の人が 聞こえるように警察の人を指さして喚き散らしていた人を見たことが あります。 せっかく気持ち良くなりたくてお寺に来ているのに…これも修行 でしょうか。私の対応は適切ですか?また、仏法は反権力主義 なのですか? ご教授よろしくお願いいたします。
以前、上司からのパワハラについてこちらで相談させていただきました。 その後、仏教について改めて調べました。お釈迦様の考えを思い出すことで、少しだけ仕事でのストレスが減ったように感じました。 その経験から日々、何かしら仏教の教えに触れたいと感じるようになりました。 仏教については幼稚園と大学が浄土真宗真宗大谷派で、お釈迦様の教えと親鸞聖人については少しだけ知っています。 しかし、お釈迦様の教えに触れられる方法で私が知っているのは教えを幼稚園児が学べるようにした歌のみ、物としては手元には大学からもらったお守り的なお数珠があるのみです。 祖父が住職だったこともあってか、小さな仏様の像は家にあるのですが、他の家族の部屋にあり私はあまり入ることができませんし、入ることができても仏様に手を合わせることしか仏教に触れる方法が分かりません。 ネットや図書館で探してみても、同じ宗派でも内容がさまざまでよく分かりませんでした。 また、転勤族のため特定のお寺の檀家ではなく、気軽にそういった相談ができるお寺がありません。 そこで ・宗派的にどのお経を唱えれば良いのでしょうか ・大学でもらったお守り的な数珠は身につけた方が良いのでしょうか ・念持仏など小型でも仏像を持った方が良いのでしょうか ・念持仏をお迎えすることとなった場合、真宗大谷派では阿弥陀如来一佛を本尊としていますが、干支守り本尊は不動明王である場合はどちらを選べば良いのでしょうか ・檀家でなくても、同じ宗派ならお寺にお話を聞きに行っても良いのでしょうか。 以上を質問させていただきたいです。 無知ゆえ、お坊さんからすると当たり前のことをお尋ねしているかもしれませんが、教えていただけますと幸いです。
先日、6歳の姪から「地獄ってどんなところ?」と聞かれました。最近友達から地獄の話を聞いたようです。 しかも、その友達は「少しでも悪い事をすると地獄に堕ちる」と教えられたらしく、「お茶をこぼすと地獄に堕ちる」とまで言っていたようです。 姪はすっかり怖がってしまって、1日中地獄について質問されました。 やりとりの一例として↓ 「悪い事ってどんな事?」 「誰かをわざと悲しい気持ちにさせる事かな」 「弟に意地悪したから、私は地獄に堕ちるの?」 「意地悪はよくないけど、ちゃんと謝って仲直りできたでしょ。 それに、今はまだ子どもで、これからたくさんの人とお話したりして、いい事と悪い事がわかるように勉強していく時間なんだよ。 だから、もしよくない事をしてしまっても、ちゃんと謝って『次はもうしない』って覚えていったらそれでいいんだよ。 地獄には堕ちないから大丈夫だよ」 「悪い事しても謝ったら地獄に堕ちないの?何歳までよくない事しちゃってもいいの?何回までしてもいいの?地獄に堕ちたら何されるの?」 という感じで、どうすれば地獄に堕ちないか、地獄はどんなところかを一生懸命聞いてきます。 安心させようと色々考えてみたのですが、具体的な答えを求められ困っています。 地獄が気になって仕方ない姪は、地獄が考え方の中心になってしまい、警察は「みんなが安全に暮らせるため」ではなく、「自分が地獄に堕ちたくないから」悪い人を捕まえる=いい事をしている人達だと考えていた時はとても驚きました。 そんな姪に地獄を説明したいのですが、私自身が詳しくない事もあり上手く説明できません。 また、今以上に怖がらせたり、躾と称した脅しの言葉として教えたくありません。 子どもでもわかるように説明するにはどう伝えればいいでしょうか? できれば、姪が安心するような、生活上の心掛けのようなものも教えていただけると嬉しいです。 長文となり恐縮ですが、どうぞよろしくお願いいたします。
先日もご相談したのですが愛染真言を唱えた後に元彼と付き合えました。ですが満願と同時期に彼の女友達が事故死してしまっていた事が判明しました。 私が真言を唱えたから彼が私の所へ来るべく彼女は変わりに亡くなってしまったのか。 また僧侶の彼を罵ってしまったり盗みや嘘など多くの悪いことをしてしまっています。 私は地獄地獄に落ちてしまうのでしょうか、、。 また自分では無間地獄行きだと思っているのですが仏教的に私の罪は何処に行くのでしょうか。 善行を積みたくても裏目に出てしまったり我が儘も治らず迷惑ばかりかけてしまっています。 それと最近地震が多発しておりその時に震災で亡くなってしまったら死後の行き場は極楽には到底いけない身分だなと。 地獄は存在しますよね、、
前月俳優の河津祐介氏が亡くなられました。 10年以上前から体調を崩されていて、その当時の近況を話されているのをネットで見て記録しましたので転載します。 あの人は今こうしている 川津祐介(ベテラン俳優) 2008年02月22日10時00分コメント(0) トラックバック(5) ブックマーク 23歳で映画「この天の虹」(木下恵介監督)の主役に抜擢されて以来、110本以上の映画に出演し、テレビドラマ「ザ・ガードマン」(TBS系)で人気者になった川津祐介さん。俳優以外にも「くいしん坊!万才」の5代目リポーター、「てれび博物館」のキャスター(ともにフジテレビ系)を務める一方、自然食レストランの経営、ダイエット本「こんなにヤセていいかしら」の出版と多方面で活躍した。しかし、最近は露出が減ったようだ。さて、今どうしているのか。 会ったのは調布市内の自宅。愛沙夫人に案内されてリビングルームに足を運ぶと、毛糸のセーターの下に何枚も重ね着をした川津さんが待っていた。 「ブカブカで驚いたでしょ。冷たい空気に5分もさらされていると、狭心症を起こす恐れがある。96年に『てれび博物館』のロケ先で心筋梗塞で倒れて以来、生きているのが不思議なくらいなんです。だって、倒れたときから余命3週間、長くて3カ月と診断され、今も心臓の下の方は壊死(えし)したままですからね。実際、心臓の機能を示す駆出力は健常者の30%、5メートル歩いただけで息苦しくなることがあって、3級の身体障害者手帳を持ってます」 もっとも、ニコニコほほ笑みながら話す様子を見る限り、深刻な状態には思えない。 「毎日、きょうが最後と思って生きています。家族といただく朝飯、昼飯、晩飯が最後の晩餐ですよ。仕事もひとつ、ひとつを大切にこなしてる。来月は『四人は姉妹』というコメディーの舞台で東京、兵庫県、新潟県を回って、5月には京王プラザホテルで趣味の絵画と陶芸の個展を開くことが決まってます」 生命を脅かす持病を抱えながら、前向きなのは、特殊な経験をしたからだという。 (つづく)
真言宗の僧侶の方に回答頂けると幸いです 昨年にFacebookきっかけで好きな人が出来、ネットの愛染真言を唱えたり聞き流したりしていた所実際に元彼と付き合えましてその元彼の口からガールフレンドがバイクで事故死してしまったと聞き私が真言唱えたから彼女は亡くなってしまったのではないか....と考えてしまいます。 またその彼が僧侶をしていたことも知り余計に僧侶を罵ると奈落に落ちるそうで罪を増やしたと それに会うたびに体調不良が続いて愛染様の怒りをかったのではと。 今後起きる地震で命を落としたら地獄に落ちる条件全部クリアしてしまっています。 落ちるの嫌ですが無間地獄は実在するのでしょうか。 また地獄はどのような場所なのか知りたいです 優しいお言葉一切無しで事実でのご解答お待ちしています
おはようございます。個別相談について質問です。個別相談したら家に領収書とか届いたりするんですか。私は銀行振込みしか出来ないのですが、振込み用紙が届くのですか?家族には内緒で、相談したいのですが、おきもちの、支払い方法が具体的に書いてないので一歩踏み出せないでいます。
この言葉は私が最も好むこの世の処世術です。 私がこれを知ったのは数年前、法華経のCD販促の新聞広告ですが、その解釈が「現世安穏とは、自分だけが幸せになることではありません。お釈迦さまのいう幸せは、他の多くの人々の幸せがあって初めて自分の幸せがある、ということです。」 となっていました。 あまりの意訳に唖然としたのですが、釈尊の説教は判りやすく伝えていますから、直訳で充分の筈です。 これは多分最も貧しい村に、弟子らが布施が少ないと反対したのを振り切って説教に赴いたときの言葉ではないかと想像します。 貧しさで苦しみと恨みに満ちていたところを、現世は心にとって仮の姿であるから安穏な気持ちを持って過ごすようにすれば、後生は良いところに生まれるよと諭したのだろうと想像します。 貧しくなくても人間関係で苦しみや恨みも生じやすいので、それをプラス思考で安穏に過ごせば、後生は吉報が待っている気がします。 現世では生きるために直接、間接の殺生を積み重ねていますから、通常の人間にはその悪業は免れません。今生は今更悪行を我慢したり改めることなく、後生に「精進料理」を残して置いて、安穏を優先するのが良策かと思っています。 しかし果たして後生にその記憶が残っているかは心もとない限りです。 互いに安穏であれば争いも少なくなるし、自殺の心境では後生で更に悪化するので、思い止まるきっかけにもなるでしょう。
アニメ平家物語を見ました。 歴史は全然詳しくないのですが、後白河法皇や平清盛など出家した人たちが自分の家で政治をしたりしていて気になりました。 出家というと家との縁を切ってお寺等に入るというイメージがあるのですが、後白河法皇や清盛はどうして家に戻ってきているのでしょうか? 出家しても家に戻れるんですか?
以前にも質問をさせていただいた件についてです。 以前の質問はこちらです。 https://hasunoha.jp/questions/52980 この問題について自分なりに考え続けてきたのですが、もしかするとここで言う「世の中の人」とは、念仏者ではない人々という意味なのではないかという可能性が閃きました。 そう思う根拠は、法然上人が入滅の時に勧められた臨終行儀を「普通の人はそういうこともするけど、私はやらなくていいんだ」と断ったことです。これは念仏者なら死の直前になってわざわざ臨終行儀をやらなくていいという意味でしょう。 法然上人が言う「普通の人」と同じ意味で聖光上人は「世の中の人」という言葉を使っているのではないか? そうだとしたらこの言葉もやっと納得がいくのです。 僕は「念仏名義集」の前後の文を読むことができません。ぜひお坊様方の解釈をお聞きしたいです。
2ヶ月前に、妹が自宅で自死しました。遺書に葬儀をしないでとあり、義弟の意向とコロナ禍ということもあり、両方の両親と義弟、姪、甥、私の夫、私のみの家族葬で送りました。 義弟のご両親に宗派を聞いたのですが、よく分からないようで… 義弟のご両親は他県在住で、本家ではないのでお墓を持っておりません。 義弟も宗教や宗派がよく分からないとのことで、急なことでもあったので家族葬にしたのですが、お坊さんに来て頂くこともなく葬儀を終えたので、初七日や49日法要など何もしておりません。 お骨は、義弟の家にありますが戒名が無いためお位牌もありません。 妹は嫁いだ身ですから、私の両親や私は宗派や供養の仕方について、なかなか意見を言い出せずにおりますが、ずっと違和感を感じるとともに、妹が成仏しないのではと悩んでおります。 自死したうえに、読経も戒名も法要も無しでは成仏できないのでしょうか? 妹が成仏できずに彷徨っているのではと思うと…私の両親も私も心が落ち着かず、悲しみが増すばかりです。 義弟も、気持ちがまだ落ち着かず妹の死を受け入れられないこともあり、今後の供養方もきちんと決められてないようですが…義弟の相談にはのるつもりです。 今後、どのように供養していけばよろしいのでしょうか? 義弟の家の近くのお寺を探して相談するべきか、他県在住の義弟の両親の家の近くのお寺に相談するべきでしょうか? ご意見、ご見解をよろしくお願いいたします。
写経の願文について質問があります。 時間がある時に写経をしているのですが、願文で「諸人健康祈願」や「医療従事者健康(守護)祈願」と書いてるいるのですが、問題はないでしょうか?
輪廻転生が真実であるとすれば誕生の考え方が大きく変わります。 まず結論から言いますと、「心は自分自身であり、親から貰ったものではない」と言うことです。 即ち自分の生老病死は自己責任であるということです。 ことわざからはじめますと、 「身体髪膚これみな父母より賜う。あえて損傷せざるは孝の始めなり」 これは身体だけであり、心は別ということになります。 「子は授かりもの」 もし心も親譲りであれば我が子であって、授かるとは言わないでしょう。 「とんびが鷹を産む」 親子の気質は別物であるという事でしょう。 「愚兄賢弟」 もし親譲りであれば、兄弟でも性格が違うとは、遺伝子的には考えられません。 原則的には類を以って集まるはずですから、性格が似ていることは多々あります。 臨死体験者(新堂のぶ子氏)の言葉(講演会にて) 「親が子を生むのではなく、子が親を選択する。」 ある宗教学者はネットで「龍樹と輪廻転生」と題し 「ブッダは、『大縁経』で、意識が母胎に流れ込むことによって、そして、そこで身心(名称と形態)が増大することによって、この世に転生するありさまを説明した。」と述べています。 「意識」は心と同一と考えてよいと思います。 以上が結論の根拠です。
最近また悩みが発生したため、ハスノハを訪れては様々な質問や回答を参照し、自分の将来への糧にしようと努力しています。 様々な回答を拝見していく中で、一つ疑問に思ったことがあります。 「過去に起こした過ちや罪悪感をため込んで苦しい」という趣旨の質問に対しての多くに、「仏さまに詫び、許してもらう」や「仏さまにつらいことを預ける」という主旨の回答(多少違うかもしれませんが)がありました。 確かにそうすることで、当事者は過去の懺悔を清算でき、「幸せ」とまではいかなくとも「平凡」な生活をすることができるのだろう、と思いました。 しかし、仏様がそれを受け取り、また詫びを許す、などに関して、実際にそれを視認することはほとんど不可能なのではないかと思うのですが、どうしてお坊さんはそれを認識できるのでしょうか。 ちなみに、仏様が許さなかったことや受取を拒否されたことはあるのでしょうか。 これからもつらい時にここに頼りたいからこそ、どうしても気になってしまいました。よろしくお願いします。
今回は、自分でもちょっと精神的におかしくなってるので、ご相談させていただきます。 文章が支離滅裂すぎて、申し訳ないです。 二つほどありますが、仏道を否定したらなんか色々不安な気持ちやらなんやら色々改定はあるんですが、否定しちゃだめだとぶつぶつ呪文のようにつぶやいたり、 仏教やその他色々な事を否定や悪口を言ったら無間地獄に行くと調べてしまって否定しちゃダメだ、悪口もダメだ、謗法になってしまうので、同じように呪文のように 呟いたり頭の中で自分に言い聞かせています。 だけど、否定という言葉の意味を調べた時に、肯定した方が正しいのではと思ってしまい・・、 今に至るという事になります。なんていうか・・もうダメなのかなと思ってます。 否定しちゃだめだと自分に言い聞かせていますが、否定ではなくて肯定するべきだともっと早く気が付いてればよかったのではないかなと思います。 お坊さんの方々はどう思われますか教えてください。 私はこのまま無間地獄に行くの確定になりますか・・?