私の母親が54歳で自ら命を絶ちました。 母親は約25年統合失調症と戦いました。 最近は精神症状は昔ほどひどくないかわりに、手足のシビレや脱力に悩まされ。 排便や移動などを父親が介護する場面も多々あったようです。 本人は父親や周りの方に迷惑をかけてしまっていることや、自分で自分のことができないことで精神的に落ちていたようでした。その日は父親が仕事に出かけるため訪問看護の方がくる予定でしたが、訪問看護の方がきたときにはベッド柵にベルトをかけ亡くなっていたようです。まだ暖かっかったとの状況も聞きました。 手足のしびれと戦い、25年間も精神的な病と闘い。家族としてはとても頑張って生きていたと思っています。亡くなっていたその顔も窒息とゆう要因ながら、とても穏やかだったそうです。本人も辛さからも解放されたのかなと考えることしかできません。 ですがネットなどを調べていると、自害した人はあの世にいってもとてつもない苦しみを与えられる、いわゆる天国?という場所には行けないなどという情報がたくさんあり、今後の母親のことがとても心配です。 残された遺族が、49日までの7日ごとの供養以外できることはありますでしょうか? この世で苦しんだ分、少しでも楽にしてあげたいです。 読みずらい文法、文脈で申し訳ありません。お時間がありましたらお答えください。
仏教では 宗派が違うとあの世で別れ別れ 霊になっても生き別れになる と言う解釈になるのですか? 私は歴史小説などを読むのが好きです そこで出てきた話ですが 徳川家康が亡くなる前、病床で藤堂高虎(伊勢国津藩主)に対して 「宗派が違うからあの世では会うこともできない、今が名残惜しい」 のようなことを言い 藤堂高虎が 徳川家康と同じ宗派に改宗した と言う話があります。 これは 仏教では当たり前の考え方ですか? もし仏教ではなく、結婚や養子縁組などで 相手の宗派だけでなく宗教そのものまで違っていた場合 あの世ではもう会えないという考え方が一般的なのですか? ちなみに 徳川将軍家の菩提寺は 増上寺と寛永寺があったと思うのですが 宗派は違います。 どちらに葬られるかはそれぞれの将軍が遺言を残していたと思うのですが 先代将軍と違う寺に葬ってほしいと遺言した場合は 父親、兄、養父などには会えないで構わないという気持ちだったのでしょうか? そうなると 徳川家の血筋で かつ 江戸時代後期は 養子縁組を繰り返した 会津藩の場合は 代々仏教ではなく 神道でしたが 養子に出る→死後は親に会えない と言う覚悟が必要でしたか?
大変失礼な質問かもしれませんが、聞ける人がいないのでお願いします。嫌味でなく素直な疑問です。 仏は実際には助けてくれない(祈っても病気が治るわけではない)と言いますが、それならなぜお寺はお守りを売るんでしょうか? 私は子供の頃、神社仏閣で「病気平癒」とあるので「これで治してくれるんだ」と本気で信じていました。なので大変裏切られた思いをしたことがあります。 現在は「超常的な存在が良い人間を助けてくれる」という考えは本当の仏教ではない、あくまで学問という風潮ですが、ならなぜお守りを売ったり祈祷するんでしょう? 施餓鬼や戒名などで、なぜ「これで〇〇が良くなるよ」とするのですか。故人が対象だと、「故人には幸せでいてほしい」という感情を利用されているようで、複雑な気持ちになります。 お寺や宗派によって違いはあると思いますが、よければ教えてください。
24歳の男です。 もしも今死んだらどうなるんですか? 49日であの世に行くんですか? どうやってあの世行くんですか? 極楽に行けますか? あの世でもう亡くなった祖父に会えますか? 病気で死ぬのも事故で死ぬもの自殺も同じですか? 素朴な疑問です。質問攻めですいません。
10月1日になると全国の神様が出雲大社に集まって会議が行われます。 そこで疑問があるのですが、出雲大社に仏様も会議に参加する事はあるのでしょうか? 答えが難しいとは思いますがよろしくお願いいたします。
私は浄土真宗本願寺派の門徒です。 この度家族が他界した事をきっかけに、仏教に携わる仕事をしたいと思うようになりました。 先日見つけた求人が他宗派の寺院でした。 信仰宗派ではありませんが、そこで働いても良いでしょうか。
こんばんは。お坊様に質問があります。 先週の金曜日に喉の調子が悪かったので、お医者様に診て貰ったらアレルギーの影響だとおっしゃってました。 なので、御薬師様に、アレルギーの症状が無くなる様にとお祈りしたいのですが、問題はないでしょうか?
仏教も各宗派も、成立も発展も、ずいぶん昔からの歴史あるものですので、現代的な価値観と相容れないものもあるかと思います。 良く言われるところでは女性蔑視だとか。障害や病気を因果応報で説明される事だとか。 お坊様たちは、そういう教義と、現代的な価値観とどのように折り合いをつけておられますか? 私自身女性ですので、どのように考えて行けば良いのかわからないところがあります。 「その時代の人にもわかるように説明しただけ、方便」だとか 「解釈が間違っていただけ、仏様の本意ではない」みたいに言うのも、なんか都合が良すぎるような…。 たとえばある経典や説話集などを、全体としては採用し信仰したり説明に用いながら、特定の部分を現代の価値でジャッジして、美味しいところだけをつまみ食いするようなやり方、本当に正しいのかな、と。 お坊様たちはどうお考えですか? 考えるヒントをくだされば幸いです
皆様、いつもお世話になっております。僕は今「老子」についての本を読んでいます。そこで感じたのが、老子の思想は仏教の教えに通じるものがあるのではないか?ということです。例えば老子の言う無為自然という考え方は、仏教で言う空の考え方に近いものがあるのでは?と個人的に考えています。お坊さんの意見を教えて頂けますか?
家族を亡くして3ヶ月、心を落ち着かせるために、何冊もの仏教書や動画の法話など聞いておりました。いろいろと疑問も出てくるので、大学通信教育で専門に学ぼうとさえ思うようになりました。 しかし、最近は仏教がおとぎ話のように感じるようになり、易行と言われる浄土真宗についても、本当に信じることができる方がいるのだろうか、苦行とさえ思ってしまいます。せっかくの心の拠り所が無くなってしまうのはとても辛いことです。僧侶になられた方はどのように信心を深めていったのでしょうか。
私は精神疾患を持っていますが性格みたいなものだと医師から言われています。 質問ですが、ヴィパッサナー瞑想を行っていて逆に精神疾患の症状が悪化したり自我、我が逆に強烈に強くなってしまうのはなぜでしょうか? メカニズムというか原因といいますか・・・ またその状態におちいった際の対処も教えて頂けると助かります。 この反動みたいなものが日常生活にも影響がでてきて非常に困ります。
祖父の葬儀を境に改めて仏教を学び始めました。 宗派は、曹洞宗です。 お坊様が唱えて下さるお経を理解した上でご先祖様や祖父に手を合わせ今後、向き合いたいと強く感じたからです。また、現在の生活の中でお経について調べる事は、小さな安らぎを感じられる学びの場になっています。 現在の学び方ですが、hasunohaにてお経についての質問をブラッシュアップしたりしながら般若心経や修証義について調べています。 また修証義については、以下の現代語訳をみつつ内容を深めています。しかし、解釈や内容が正しいのか不安もあります。 https://www.zen-essay.com/entry/soujyo そもそも、現代語訳事態がダメでしょうか? 曹洞宗の教えが分かる書物があれば知りたいです。浅い状態ですが曹洞宗の教えに…悟ることすら手放す(悟りたい欲求を手放す)座禅スタイルが凄く衝撃的で素敵な考えでもっと色々と知りたいのです。 また、触れてみた状態な上での発言で恥ずかしいのですが…お経を調べると供養する相手よりも供養する側に対する生きる上での教えを説いている様に感じました。間違ってたらすみません。 余談ですが、普段、お世話になっているお坊様の爺様に法事後、お経について調べている事や内容を理解したいとの相談をしましたら笑顔で学んで来なさいと言って経本を頂きました。宿題を逆に出された気分で終わりましたので次の法事が違う意味で緊張します…。後、曹洞宗の本山は、身近な場所にあるので一度行ってみようと思っています。 ※質問して申し訳ないのですが現在、生活苦なので「お気持ち」は後々にさせて下さい。申し訳ありません。
毎回相談させていただくたびにありがたいご回答を賜り、本当に本当に感謝しております。 毎日夫とともに朝晩仏壇に向き般若心経を唱えています。 私はお経を唱えるとき、精神というか意識が100%完全にお経に集中できていません。 夫が般若心経を読む脇で手を会わせるのがいつものかたちですが、私は亡き娘を思いながらなので生前の娘のあれこれが頭に浮かんで、 娘との面白おかしかったことを思い出したり、仏前に備えてある供花に目がいけば、花がいたんでるから取り替えなきゃいけない→どこの花屋にいこうかな→そういえばいつもいくあの花屋は…などといろいろなことが頭に浮かんできてしまい、 そうしている瞬間は、仏様に気持ちを向ける大事な時であるのはわかっているに、集中できていないということで、 これでは仏様に失礼で供養になっていないのでしょうか。正しく向き合う姿勢はどのようにあるのでしょうか。ご教示いただき改めたいと思います。
いつもご丁寧な回答ありがとうございます。 心願成就についてお尋ねいたします。 どうしても叶えたいことがあり、9月にいつもお世話になっている厄除大師で心願成就をしてもらいました。 その場では「いつまで」ということは明言しませんでした。 家に帰り、毎日お願い事をすることを初めて知ったのですが、毎日お願いをする際の言い方に「いつまで」も言うということを知り、「9月まで」で毎日お願いしていました。 しかし、残念ながら叶う様子はありません。 ですが、どうしても叶えたく、明日からは「今年中」に変えて毎日お願いしたいと考えています。 このようにお願い事は途中で変えても良いのでしょうか? 叶わなかった際は、キッパリ諦めるしかないのでしょうか? また、心願成就をした厄除大師以外の神社・お寺にお参りするのはご法度でしょうか? ご教示よろしくお願い申し上げます。
お坊さま方には彼岸後のご多忙の中、失礼いたします。 我が家は日蓮宗ですが、この質問は宗派関係ないかと思います。 母が先月、救急車で運ばれ肺癌ステージ4と診断されました。 数ヶ月前に、同じ病院でレントゲンを撮ったにも関わらずです。 母はその時分かってくれてたらと話しました、私も同じ気持ちです。 主治医や家族は、時間がないと諦めモードです。 そんな病院の入院生活の中、母は『もっと生きたい、治療をやってみる』と言いました。 一時意識がなくなってもです。 【写経について質問】 母の本当の願い『もっと生きたい』を叶えて頂けるよう行動の一つとして、写経を始めました。 日蓮宗はあまり写経がなかったのですが、観音経をみつけました。 知っているお寺さんが写経を納めて頂けることも分かりました。 初めて写経を納めて頂くので、分からないことがございます。 ①写経をやっている最中に、誤って手で擦たり筆が触れて汚してしまったものも納めて頂けるのでしょうか? やはり汚れなどないもの、所謂きれいに仕上がったものだけでないと、仏さまやお寺さんに失礼に当たるのでしょうか? 私は20年近く精神病(鬱病)を患っており、なかなか集中力が継続しないながらも時折休みながら(日を跨ぎながらも)、書き始めました。 ②万が一、汚れた写経を納めるのは失礼な場合、それは破棄してよいものでしょうか? 【お参り・お礼参りについて】 母の病で、私はずっと神社やお寺を回りました。 縁の深いお寺には、ご祈祷をお願いしました(遠方で行かれないお寺には郵送で)。 自分の病気のせいか、記憶が定かではないのですが、途中母が意識を失った際に、お願いごとに『母の意識が戻りますように』とも加えました。 当病平癒の場合、病気の症状によってお願いが、少し変化しやすいのです。 ③お礼参りは、母の治療の途中、良くなったらその都度行くべきでしょうか? 私の最終的な願いは『母の本当の願いであるもっと生きたいが叶うように』です。 『もっと生きたい』がどのくらいかは分かりません。 例え5年生存率が数パーセントでも、私の本心は『長く生きてほしい』ですし『治ってほしい』です。 拙い文章で申し訳ございません。どうか3つの質問よろしくお願いいたします。
法華経に魅了され、法華経を読み続けていますが、一つだけ気になる点があります。 譬喩品の後半には、法華経を誹謗した者は来世において身体に障がいをもつことや、病人になり死に至ることや皮膚病になることなどが書かれています。 実際にこのような状況にあり苦しんでいる方々がいる中で、法華経のこの部分を理解することがとても難しく、苦しいです。
観音経に出てくる無尽意という方に方について以前よりどういう方か気になっています。 それで、真言宗のお坊様に質問したら80種類位の法門を説く方だと教えて貰いました。 そして、禅宗のお坊さんなら詳しく分かるかもしれないともお聞きしました。 観音経の本や訳を読んでももさっぱり分かりませんでした。
いつもお世話になっております。先日、こちらで、「お寺で、私に だけあれこれ言ってくる怖い奥様」のご相談をしました。それの続きの ようになるのですが、近頃、思った事があります。 「宗教と危険物は、似ている」 適切な管理と用法用量を守れば人の助けになるけれど、盲信… つまり、管理方法や使い方を間違えれば、プシュー、ドカン。 その奥様は、博識で、元から教えたがりの性格のようです。 他の事を話すときは和やかに見えるのですが、仏事の事になると豹変、 「私の知っている事が正しい。私の知っている事を聞け」 といった感じの態度や表情になります。後からお坊様に尋ねると、 「ああいった作法やしきたりは、定めていないよ。そこまで、 こだわらなくてもいい」 と笑っています。もしかしたら、カルトなのかもしれませんが… 家に誘われたこともあるので。 宗教映画を手掛けた、カルト問題にも詳しいある映画監督さんが、 「宗教は、必要ではあるが、危険を伴う」 とおっしゃっていました。なるほどと思いました。 「いい」「悪い」の二極で言うと、宗教は、「いい」事を説いて いるものでしょう。ですが、先述の奥様のように、「私たちが一番 正しい、一番いい」と盲信し、儀式行為等に執着する、つまり、 用法用量や管理方法を間違えると、宗教は、たちまち、「薬」から 「毒」…はたまた、「化学兵器」にもなりえると思います。 この奥様の延長線上が、新興宗教や、海外のテロ組織でしょう。 こちらの問答でも、しばしば、先生方が質問者様に、 「独学は危険なので、お寺のお坊さんに教わってください」 とご助言なさっているのをお見掛けします。 私は、独学の結果か、親鸞上人のお歌にあるような、誤った認識を 持っているご信徒様が多いように感じており、憂慮しております。 「かなしきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ 天神地祇をあがめ つつ 卜占祭祀つとめとす」 拝む事だけ熱心で、何かが起きれば、全部「霊」や「神様、仏様」 のせい。祈りというより、たたり信仰。拝んでさえすればいい… 「薬」だったはずの宗教が、「毒」や「化学兵器」になりかけて しまっている印象です。 半分、私の愚痴でした。どうにかしたい、でも、できない。 先生方のご高見、賜りたく存じます。
いつも私の独特な質問におこたえ下さり、ありがとうございます。 お彼岸なのでお参りに行こうと思っているのですが、また不安なことがあります。 お寺の門から入ってすぐ横に、仏様がいらっしゃいます。 私はお寺で仏様に対して酷いことを考えることが度々あり、そちらの仏様に考えた時にも手を合わせて謝っていたのですが、 今日お参りに行く時にも門から出る前に「いつも失礼なことを考え申し訳ございません」と手を合わせた方がいいのか、素通りして良いのか・・・ 謝る時には 1 お辞儀をする 2 合掌して礼拝 3 手を合わせて謝る時に頭を下げる 4 合掌して礼拝 5 お辞儀をする で良いものでしょうか? 門の前で何度も頭を下げている姿を他の人に見られるのも恥ずかしいという思いもあります。お寺に行くのに罪悪感や気の重さを感じています。 また、お寺に行っても、いつも心が乱れていて、酷いことを考えるか謝るかばかりで、感謝の気持ちを伝えなきゃと思ってもその気持ちが不足していてしっかりと伝えられない私がお寺に行く意味は何だろう?そもそも行っていいものなのか?と考えています。 何かアドバイスをいただけないでしょうか。よろしくお願いします。
こんにちは 日本に住んでいる外国人です。 キリスト教で育ってきましたが日本で仏教を出会い、とても素敵だと思っています。仏教について本読んだり、お寺に訪問したりしています。 キリスト教から仏教に改宗するのは可能ですか?仏教の信者になるため儀式ありますか?