お疲れ様です。北風小僧と申します。 今回の質問は 自分自身が自殺したい云々では無く、 仏教的な観点から見て "自殺"とは一体何なのか。 そこに興味を持って質問させて 頂きたく思います。 まず、なぜそう思ったのかと言うと 趣味で歴史や宗教について 調べていたところ、 様々な方が論文やブログ等で 自殺とは仏教において "許される"のか"許されない"のか という点に触れておりました。 人によって 「お釈迦様が自殺について明確に咎めた記述は無いから許される。」 という方、 「動物に対する殺生をそもそも禁じているのだから人間も動物だし、自らを殺めることは許されない」 という方、 十人十色の見解があり、非常に興味深かったです。 そこで、 「お坊さんの考えはどうなんだろう?」 と思いました。 是非とも多くのお坊さんにお答え頂きたいです。 どうかよろしくお願い致します。
最近、家族を亡くして仏教の本を読むようになりました。 浄土真宗では、浄土へ往生すると、またこの世へ戻り人々を救うとあります。 浄土へ往生できても、また苦しいこの世へ生まれ変わるのでは、救われた気がしません。還相が、前世で学べなかったことへの機会が与えられる慈悲ということでしょうか。また、現世に戻って生きるなかで、ある人にとっては、私の行動が救いになるということでしょうか。
仏教のどの教えがオススメとか、私は仏教のここが好きとか、もしあれば教えてください。 一人で仏教を勉強することに疲れました。 薬物依存の治療中の友達のいない一人暮らしの無職の男です。 よろしくお願いします。
先日、NHKで『戦禍のなかの僧侶たち〜浄土真宗本願寺派と戦争〜』という番組が放映されていました。 日中戦争、太平洋戦争の戦時下の動員に仏教自らも(当番組では対象を同派としていましたが、国民総動員法の元ですので宗派に関係はないと思います)戦争に加担してしまった、その実態を取材した内容でした。 77年前のはいえ、生々しい出来事の記憶です。 一方、日本史という仏教が伝来し、今日に至るまでの長い目で見たとき、お坊さんはある時、僧「兵」でもありました。また、信仰のため、民衆のため、中々アグレッシブな姿になる事もあったと思います。 私は、仏教については高校の教科書程度の知識しか持っていませんが、印象としては「穏やかな宗教」といったものです。 例えば、キリスト教やイスラームには「聖戦」という教義がありますよね。 では、仏教ないし仏教徒が「戦う」とき、戦いを「是」とする考え方はあるのでしょうか? もちろん、それぞれの事象の背景には「そうなる経緯」があります。ですので、一概には言えないと思いますが、こんな考え方、こんな教義があるというものがあれば、宗派関係なくご教示願いたいです。 あと、これは愚痴?ですが、いつも戦時下の鉄の供出にはがっかりします…お寺さんの鐘もさぞかし由緒があったろうに…。 お忙しい中とは思いますが、ご回答をよろしくお願い致します。
お盆で夫の祖父(戦死)のお墓に墓参りに行きました。 戒名を見ると◯◯院釈◯◯居士、となっていました。 夫は自分の家のことに無関心で、宗派のことなど全くわからないと言っています。 この戒名のお宗旨を教えていただけませんでしょうか?
私はイラストを見る事が好きで、イラスト投稿サイトをよく拝見するのですが、その際あるイラストを見つけ、少し気がかりに思ってしまいました。 仏画風のイラストと言うのでしょうか。漫画のキャラクターを仏様になぞらえて描いているようです。これは問題ないのでしょうか。拙い質問で恐縮ですが、ご回答頂けますと幸いです。 参照 https://drive.google.com/file/d/1FU0_Wh_x8-5QxLFdiqBIuzj5Pbpq45FO/view?usp=sharing ・上記リンク先のファイルに、問題のイラストへのリンクを記載してあります。 ・イラストを描かれた方へのご迷惑、又は晒し行為にならないよう、このような形を取らせて頂きます。お手数をお掛けしてしまい申し訳ございません。 ・ご回答を頂けましたら、この質問からイラストにアクセスできないよう、上記リンク先のファイルは削除致します
私は宗教宗派に縛られるのが苦手です。 無限なるこの大宇宙の如く、真理の大海を自由無碍に飛びまわりたいのです。 これは罪 でしょうか❓ (個人的には高野山真言宗で家系の宗派は、浄土真宗本願寺派です。改宗するつもりは、ありません。)
私の家は法華宗でして前回質問時の、 回答に浄土真宗の観点からの答えを見させていただきまして思ったのですが法華宗では悪い事をした人は全員地獄に落ちると聞きました 私の家は法華宗なので浄土真宗の教えとは違うので仏様の教えを聞き続けてもダメなのでしょうか? 分かりにくかったらすいません
不動明王真言についての質問なのですが 小呪、小咒?1字咒(ノウマク サンマンダバザラダンカン) を魔よけや厄除け、生霊よけ、家内安全、疫病退散、 身体健康、病気平癒のために最近、毎日唱えているのですが、 ネットで調べると中咒が一般的なものと出ていて、 小咒は中咒や大咒に比べて短いですが、 中咒や大咒のご真言と同じ御利益があるのでしょうか? 中咒や大咒のほうがパワーあったりしますか?また三つ全て唱えた方がいいのでしょうか? (気になることがあると何でも気になりずっとモヤモヤしてしまい、1年前から不安障害になってしまったともあり、お返事頂けると嬉しく深謝です) #真言 #不動明王真言 #小咒 #小呪
インターネットで生配信や投稿動画を毎日のように観るのですが、メディアの大半は修羅界なのではないかと思うようになりました。 視聴者をもっと獲得しようもっと獲得しようと競い合っているのです。 そこには後ろめたさのようなものはありません。 ここまでするか!というものも多く目立てば勝ちのような雰囲気がただよっています。 若者がよく使う「○○過ぎる(「美人過ぎる」など)」と言う言葉は争いに勝ち、目立つための言葉のような気がします。 そう言う僕も配信などはしていませんが外に出れば人より先に道を渡ろうとか、道は譲らないでおこうとか、修羅界にいるときもよくあります。しかしこんな人生はやめ、人界や天界に行き、さらにその上の仏教の世界に行きたいです。 どうすれば行けるでしょうか?
私は浄土真宗大谷派の門徒ですが、亡き息子又先祖供養で毎朝毎夕お仏壇に手を合せ仏説阿弥陀経を唱えているのですが、時として仏説阿弥陀経を唱え続けていいのかそれとも他の経を唱えるべきか悩んでいます。
いつもお世話になっております。このほど、私の尊敬している 学者の先生が、てんかんをお持ちだということがわかりました。 先生は、お仕事で危険な薬品をお使いになります。万が一の事が、 非常に心配です。 そこで、休日に酷暑の中スーツを着て、たくさんお寺や神社を回り、 先生をお守りくださいと神様や仏様にお願いをしました。営業さんの ようです。 ちなみに、私は本来、願い事が嫌いです。願掛けや縁起物、 お守り等に依存するのは本来の仏様の教えからは逸れる (親鸞上人の「正像末和讃」に、とても共感しました)、仏様の 教えは、「ヒト」をバックアップし、パフォーマンスを引き上げて くれるもの、「お見守り」だと考えているからです。 巷で妄信されているような、「拝んでいれば大丈夫」ではないと 考えています。 大学入試に例えると、受けるのは自分、周りの方は、叱咤激励、 応援してくれるだけ。それが受験生さんの大きな支えとなりますが、 「私が代わりに受けてあげる!」まではいきませんよね。 なので、自分が試験を受けたり、自分の障害の寛解について などの願掛けはしたことがありません。お守りも、持っていません。 護摩札はありますが、それは、「本尊」として拝んでいます。 ちなみに願意は、「御礼」です。 回向というと対象は死者、というイメージでしたが、法話で 「自分以外の生きている人を守り給えと祈ることも、回向に入る」 と伺った気がします。これには、なるほどと思いました。 しかし、若干「願い」にも入る気がするので、願った後は、 現実的な事をしようと思いました。例えば、 ・先生は動画配信をなさっているので、動画を拝見する ・ご自身のホームページでアフィリエイトもなさっているので、 ページのリンクからサイトにアクセスし、その商品を購入する ・てんかんについて勉強し、応急処置など、理解を深め、いざと いうときに行動できるよう備えておく 仏教は「神秘主義」ではなく、「現実重視」と思って、「相手を苦から 遠ざけ、楽を得る一助となる事をする」「自分のためには、正しく事物 を見極め、邪見に惑わされぬよう努力する」これが、私の仏教観だと 思っています。 長くなりましたが、私の回向、仏教観について、先生方のご高見 を賜りたく存じます。
仏教に関心があり、真言宗の勤行集を買って朝夕読経するようになりました。 今大体2ヶ月目となります。 読経していると最初はとても気持ちよく感じていましたのですが、最近は読経中、後に関わらずやけにイライラしたり、悪い事を考えてしまって戸惑っています。 これは読み方が悪いのでしょうか? 回数は唱えている方ですが、特別な事はしていないつもりです。 それとも潜在意識の汚れが浮かび上がっているのか? 自分には判断ができません。 僧侶の方でも同じような経験をされた方いらっしゃいますか? 何卒アドバイスよろしくお願い致します。
日々の生活の中の心の拠り所として、部屋に仏像を置きたいと考えています。 居住空間が広いわけではないので、仏壇は置かずに棚の一角に仏像の設置を考えています。 また、現在私は単身で住んでいますが、実家では浄土真宗を信仰しています。私自身は現在、特に信仰があるわけではありません。 以上を踏まえまして、下記の通りご相談があります。 ①知識や作法もなく、直感で仏像を購入してもいいのか。また、仏壇がなくてもいいのか ②実家の宗派のことは考えず、自分で仏像を選んでもいいのか(◯◯宗御本尊などは遵守するべきか) ③心の拠り所としての仏像には、魂入れのような儀式は必要か ④中古で売られている仏像は購入してよいのか、悪いのか ⑤仏像以外にも最低限揃えなくてはならないものはあるのか お忙しいところ申し訳ありませんが、何卒ご回答のほど宜しくお願い致します。
永遠に幸福でありたいです。「諸行無常」とは、幸福は永遠には持続しないという意味でもあるのでしょうか。もし永遠に幸福であれるならば、私にできることはなんでしょう。私は人に優しくしたり人を愛することは当たり前で、そこに見返りを求めないことが自分の生きる意味だと思っております。それはきっと、どんな貴金属や財産と違ってあの世に持ち帰ることのできる宝だと思っているからです。お知恵をよろしくお願いします。 宗派は浄土真宗ですが、自分だけでなく、全ての命あるものみんなで愛し合い、みんなで永遠に幸福でありたいと思っております。私は病気で才能も実力も無いので、その辺は他力本願7割(仏様に助けを求める)、自力3割(縁を結んだ全ての人を愛する)ですが…。
大学院で障害学を研究しようとしている者です。仏教について質問があり書き込みました。 現在、日本の障害の歴史について考察しているのですが、障がい者という弱者とお寺の関係は無視できないと思い、色々調べているところです。 ですが仏教といっても宗派がたくさんあり、どれを掘り下げていけばいいのかわかりません。 そもそも仏教における障害とは何か(前世の罰、今生での修行など)、そしてもし可能であれば異なる宗派同士の考え方の違いなどあれば教えて頂けないでしょうか? 私自身障害があるため、気になっている問題でもあります。 どうぞよろしくお願い致します。
当方、浄土真宗です。 今度、お寺の合同墓に納骨して頂ける事になりました。 規約を見ると「永代納骨冥加金」とありました。 それでお聞きしたいのが、そのお金をお渡しする際の封筒と表書きは何にしたら良いのでしょうか? 白い無地の封筒に上段に「冥加金」、下段にフルネームでしょうか? また、それは申込書と一緒に先にお持ちする事になっているのですが、納骨をして頂く日は、別途『御布施』を用意するものなのでしょうか? その場合も白の無地の封筒でしょうか? 色々調べてもはっきりと分かるものはありませんでした。 冥加料で、黄色の水引に「御布施」もあれば、無地の封筒に「御布施」もあったり、よく分かりませんでした。 無知な自分なので、出来るだけ失礼のない様にしたいと思っていたところ、こちらを見つけ、ご質問させて頂きました。 どうぞ宜しくお願い致します。
元々喉が悪いので、お仏壇や仏様にお線香の代わりにお茶やコーヒーをお供えしているのですが、大丈夫でしょうか?