私は阿弥陀如来様が大好きです。 毎日救っていただくことへの感謝として念仏を唱えています。ハスノハでもたくさんの問答を見るのが楽しみです。 ところが、先日、ハスノハで真宗のお坊様が「極楽浄土があると信じていない」人への解答で、「阿弥陀如来様や浄土というのは働きのことで、実際亡くなった人が浄土という場所で生まれ変わるということではないのだろう。だから浄土とはこの世での働きのことで、死後の世界としてあるわけではないと思う」「仏様というおとぎ話を使って今生での安寧を得るのだ。だから阿弥陀如来様が実在するか否かはどうでもよい」「自分も科学的に極楽浄土の世界は懐疑的」 という旨のことを仰っているのを拝見しました。一人ではなく何人かのお坊様がそういったことを仰っているのを見ました。 誤解していただきたくないのですが私はハスノハのお坊様方のことを尊敬しております。ですが少なからずショックでした。私は今生で死んだら、阿弥陀さまに迎えに来ていただいて極楽浄土に生まれ、そこで仏となる修行をできることを嬉しく思っていたからです。 また、何があっても阿弥陀如来さまがいつも一緒にいてくださることが喜びであり、心の支えです。 法話を聞いたりしていると、「阿弥陀如来様という素晴らしい仏様がいらっしゃる(=阿弥陀如来は実在する)」「死んだら極楽浄土にいき仏になる(=極楽浄土は実在する)」とお経も親鸞様もハッキリ仰っているように思います。 阿弥陀如来様や極楽浄土の存在を確信するのが、浄土真宗ではないのですか? 私が、元はキリスト教を学んでいたこともあって、阿弥陀如来様や極楽浄土への解釈が違うのではないかと不安です。 (極楽浄土と天国は、極楽浄土は阿弥陀如来様の国(他の仏様もそれぞれ浄土をもっていらっしゃる)。という違いだと理解しています) 私はこれからも阿弥陀様といつも一緒だと思っていても良いですか?
数年前に大好きだった祖母が亡くなりました。今、祖母の信仰していた浄土真宗について学んでいます。 (本当はお寺をお尋ねし、お坊様のもとで学ぶのが良いと聞きましたが、コロナ禍で、幼い子供もおりますので、You Tubeやhasunohaでお坊様のお言葉から学ばせていただいております。いつもありがとうございます) 先日、買い物帰りに倒れた自転車を見かけました。 通り過ぎようとしましたが、ふと恐れ多くも「阿弥陀如来様なら直すかな〜」と思い、結局その自転車を直して帰りました。 帰り道はそれなりに良い気分で、仏教を学んで私も良い人間になれたのかなと思いました。 でも、ふと、これはたまたま心に余裕があって直せただけじゃん。私が良い人間になったとかそんなこと思うのおこがましいな……と思い、 「たまたま私が人に親切にできるときには、それは私の人間性が良くなったからではなく阿弥陀如来様のはたらきがあったからだ」「でも、いい人になれなくても救っていただけるんだ」と気づきました。 その時、浄土真宗や阿弥陀如来様の教え・ありがたみが、とても腑に落ちたような気がしたのです。 そしてこれからは、念仏を唱えて、お釈迦様の教えをなるべく(全部は守れない凡夫なりに)守ることが、阿弥陀如来さまの御恩に報いることだ!とも思いました。生きる指針が見つかったような気がしました。 しかし、先日歎異抄を読み、自分の腑に落ちた答えが合っているのか、自信がなくなってしまいました。 考え直すと、自分の行いが御恩に報いることになるなんて自惚れです。 そして、私は正直あまり頭が良くないので、夫から「念仏に出会わず虐待されて死んじゃった子供は救われないの?」「どんな悪人でも、信じてなくても唱えればいいの?」とか聞かれたり、仏教の本を読んでて?と思うことも、「難しいことは考えても私には分からない。私は念仏を唱えればいい!」としていたのですが、これも自分の都合のいいように解釈し、助けてもらおうとしてるんじゃないかとモヤモヤしています。 浄土真宗門徒として、どんなふうに生きていけばよいのか、混乱してきました。お坊様からアドバイスがほしいです。また、こんなふうに仏教学べばよいというアドバイスもあれば嬉しいです。よろしくお願いいたします。
以前の2回の相談では大変お世話になりました。あれから絵については難しいことはせず、3分間スケッチを続け、仕事も復帰して数ヶ月になります。お答えくださった お坊様方、ありがとうございました。 さて今回は厄年について質問があります。 付き合っている彼が今年大厄を迎えるので心配になり、神社かお寺に厄祓いに行こうと提案したところ、生来面倒くさがりで宗教を信じない彼は、迷信のためにわざわざお詣りに行くのは嫌だと拒否され、その日はケンカになってしまいました。私が本気で心配したのには、母から大厄の歳には必ず悪いことが起きる、特に身内に不幸があるという言い伝えのようなものをずっと聞かされてきたからです。実際父も大厄には遠方に転勤になり、祖父が亡くなりましたし、私も大厄には最愛のペットを亡くし、その後の厄年には(歳がバレますね(笑) 体調を崩し休職しました。 彼が厄祓いを拒否していることを当の母にポロリと話したところ、母は今度は家によって慣習が違うかもと言い出しました。 遠縁のおばさんの一家では、厄年の歳には神社に寄進し、友人親類には贈り物をし、周りの人にはとにかく親切にする、つまり施しをして厄を祓う習慣があるそうです。 少し調べた限りでは厄年に対する考えや行いは地域によって様々あるようです。厄というものはどちらかというと神道の分野ですが、仏教では厄というものをどのように見做しているのでしょうか?そして私は厄年にどう恐れずに向き合っていけば良いのでしょうか?仏教からの見解をどうかお聞かせください。
いつも相談に乗っていただきありがとうございます。自分の相談へのご回答のみならず、他の方へのお坊様がたのご回答を拝見しては、納得、感心し、癒される日々を送っております。心より感謝と尊敬をお伝えさせてください。 自分もお坊さんになる、とまでは行かないのですが、日常を心健やかに過ごし、他者を元気づけるために、仏教の考えを学びたいと思っています。巷にはたくさんの書籍がありますが、初心者にも学びやすい本があれば教えていただけないでしょうか? 本屋さんで眺めてみたのですが、なかなかピンと来るものがなく。一朝一夕には身につかないものと承知しておりますが、もし何かおすすめの書籍や学びはじめの方法(お寺の法話に行ってみるとか?)がありましたら教えていただけると幸いです。
こんにちは、初めまして 僕は死ぬのが怖いです。だから救い的なものを求めて、ずっと浄土真宗の聴聞をしてきました。けれどもなかなか信心が頂けません。 ひょんなことから、坐禅で悟りを開いた方と知り合い、在家でも修行すれば悟りを開けるということを知りました。 しかし、禅で悟ったらどうなるのかがよくわかりません。初期仏教であれば、輪廻からの解脱が「救い」だったんでしょうが、僕を含めてほとんどの日本人は輪廻を信じていないと思います。一休さんが、死後は無いと言ったという話を聞いたことがありますし、どこかの老師が死にとうないと言いながら死んでいったという話も聞いたことがあります。 若くして死んでいった母親にも会いたいし、自分も死ぬのが怖い、という思いで浄土真宗を聴聞してきましたが、先程書いたように信心がなかなか頂けません 坐禅をして悟りを開くと、どういった救いがあるのでしょうか?少し不遜かもしれませんが、凡夫の僕から見れば悟った人も死ぬので、救いではないんじゃないかと思ってしまいます 長文失礼しました
最近、坐禅に興味を持ったものです。 恥ずかしながら十年間引きこもりで、障害年金で暮らしています。 井上貫道師の著作を読み、坐禅に興味を持ち、その弟子筋にあたる方に電話面談を予約しようとしたのですが、自閉症ゆえ、極度の人見知りが発生して、キャンセルしてしまいました 只管打坐と言っても、ただ坐るのが難しく、参禅は必須と聞いております けれど、田舎住みなので近くに寺もなく、本当にハッキリした方につくのは難しそうです。 坐禅をしたい理由は、お釈迦さまの見た光景をこの目で見たいというものです。 けれども坐禅は諦めるしかないのでしょうか? この本があれば大丈夫、というのもないと思いますし、電話で気軽に坐禅を訂正してもらうというのも、忙しいお坊さんには無理ですよね… 長文失礼しました
僕は真宗徒なのですが、法義が薄い土地なので、周りには真宗の人は誰もいません。 そこで質問なんですが、現代日本でぶっちゃけどれぐらいの人が信心決定してるんでしょうか?体感で教えてくださると助かります お坊さんも信じてないみたいな話も聞きますが… ちなみに僕は信心頂いてます
小学生の頃にテストで100点を取りました。嬉しかったので母に見せました。褒めてもらえませんでした。母子家庭でしたので父はいません。 私は電車に乗って祖母の家に行きました。褒めてもらうためです。祖父はいません。 私は祖母に100点のテスト用紙を見せました。 祖母は大変喜んでくれ、「私が毎日仏壇に拝んでいたおかげだ」と言いました。 更にこうも言いました。 「あんたも手を合わせてお礼を言いなさい」 私は仏壇に向かって手を合わせて「テストで100点を取らせてくれてありがとうございます」と言いました。 未だにこの一連の情景が年に数回ほどフラッシュバックします。 悔しさ、後悔、むなしさ、憤怒、悲しさ。様々な感情が込み上げてきて、自分の口を掻きむしりたくなります。 私はただ、誰でもいいから「よく頑張ったね」と言ってほしかったのです。そして他ならぬ私だけは、自分の努力を否定する言葉を自分自身で口にしてはいけなかったのです。 祖母はその出来事から数年後に鬼籍に入りました。 私はこれから、フラッシュバックを起こさずに生きていけるようになると思いますか? また、深い信仰心によって人を傷付けた祖母は地獄に落ちたでしょうか?
仕事柄、いろんなお宅を訪問しますが、浄土宗の檀家さんは裕福で人柄も穏やか、長生きの人が多いように感じます。 これは浄土宗が正しい教えだから仏神の御加護があるのでしょうか?
仏教では死ぬ瞬間の感覚をどのように捉えているのでしょうか? 死にたいわけではないのですが、幼い頃から希死念慮というか、死について考えることが多く、最近はコロナの影響で拍車がかかっています。 亡くなった方には聞けないし…。
いつもすみません。ありがとうございます。 好きな人の事でお話してました。散々振り回されて酷い仕打ちをされて嫌な思いをしました。 お坊さんに聞きたいです。 私が思ってる事と使い方が違うのかもしれませんが、因果応報とはあるのでしょうか? 教えて下さい。よろしくお願いします。 今も気持ちが辛くてもがきながら生活してます。普段も思い出すと涙が出るし仕事中も涙が出たりしますが、なんとか仕事は支障なくやれてます。私はなかなか体調良くならないので支援センターの精神福祉士のワーカーさんに話したら引きずる人も居るし人によるからと言われて病院とは言われてません。 趣味の卓球を夜、地域の活動で体育館にやりに行ってます。おじさん達に優しく教えてもらってます。辛さを忘れようとしたり、今年は原付を取ろうかと思い教習所や警察署にわからない事問い合わせしたりして自分なりにやってます。 私は彼の事とても許せなくて実際に因果応報とはあるのかとお坊さんに聞きたくて今回ここに聞いてみたいと思いました。 因果応報ある事を私は信じたいと思ってます。 私は彼やその彼の事を上手く操ってる彼女に対して何かしらバチが当たって欲しいとか辛い思いして欲しいと思ってしまうんです。 私みたいに彼もいつか辛い泣く目にあえばとか思ってしまい良くないんですがそう思ってしまうんです。 私は生きててこれからいい事あるのかと思ってしまいます。本当にまだまだ辛くて心が痛いです。 今居てくれてる、職場の人達、友達、保健師さんやワーカーさん達、卓球してくれてる人達やまわりの人達、大事な母親にとても支えてもらってます。 本当にありがたい、感謝です。 早く元気になりたいです。 聞いて頂きありがとうございました。
仏教、特に最近では浄土真宗に関心がある者なのですが、「阿弥陀如来とは何か」「(阿弥陀仏を)信じるとはどういうことか」という疑問が拭えず、調べていくと、こういう文章に出逢いました。 〈親鸞聖人のおすすめ下さる信心は、「思い込み疑わないこと」という意味ではなく、「疑いがなくなって帰依する」という意味であります。「疑いがなくなる」とは「明らかになる」ということです。 では、何が明らかになるのかと言いますと、縁にふれたら、どちらへ転んで行くか解からないような危なっかしい自分の相が明らかになると共に、「あなたがどちらに転んで行こうがほっておく事はありません」と、私をしっかり抱きしめて下さる確かな阿弥陀如来のお心が、明らかになるのです。〉 阿弥陀仏が他の宗教でいう絶対神(創造神)ではないことは聞いたことがありますが、こういった文章を読むと、多分にそういった要素があると感じてしまいます。上記引用の阿弥陀如来をイエスに置き換えればそのままキリスト教ではないでしょうか? 仏教は、釈迦が無記を説いたように、形而上のことは判断しないとする極めて理知的な宗教だと思うのですが、浄土真宗のお坊様方はは、いつも傍らにいて下さるイエス様を信じるように、阿弥陀仏を信じておられるのでしょうか。そうでないならば、どのような形で阿弥陀仏を信じておられるのでしょうか。 不躾な質問の仕方になってしまい大変恐縮ですが、御回答いただけると幸いです。よろしくお願いいたします。
即身仏はお寺で祀られておりますが、祀られているということは仏像扱いなのでしょうか?もし仏像扱いなのであれば、日本にある即身仏は、如来・菩薩・明王・天の中で何に当てはまりますか?理由と共に教えて頂きたいです。またもし即身仏が仏像扱いでないのであれば、それはなぜでしょうか? 数年前から即身仏に興味を持ち、そこから仏教に興味が湧くようになり、自分でも色々調べてはおりますが、一人で知るにはとても難しいので、ぜひ教えて頂きたいです。よろしくお願いいたします。
お坊様に質問があります。 病や怪我で苦しんでる方のお役に立てればと思い、定期的に献血をしているのですが、献血も菩薩行(布施行)なのでしょうか?
こんにちは。初めて書き込みさせていただきます。 私は現在仏教徒としての道を歩んでいきたいと考えております。 きっかけとして仕事などが原因でどのような生き方をすべきか悩んだり、死への恐怖について不安になったりした時、いつも自分を助けてくれたのは仏教の教えでした。 先日母からうちが新興宗教の元信者だったことを知らされました。 母は所謂二世だったのですが、今は脱会しており仏教(真言宗)へと改宗しています。 私は母親の告白から真言宗について興味を持ち、調べていくうちに大日如来様や弘法大師様の御心に惹かれ、真言宗の信徒として歩んでいきたいと考えました。 しかしどのように学んでいけばいいのかいまいち分かりません。 仏教はキリスト教やイスラム教のように洗礼を受ける必要がないと聞きました。母が真言宗なので私も真言宗という考えでいいのでしょうか。(父は多分別の宗派だと思いますが) また、仏壇を購入するなどして形から入るべきなのだろうかとも考えましたが、何が正しいのか分からないので、とにかく今は仏教に関する本や記事をたくさん読んでいるところです。 何から始めればいいのか、どうすればいいのか教えていただければと存じます。ご回答のほどよろしくお願いいたします。
灌頂を受けていないと真言を唱えてはいけないと聞きましたが、般若心経や毘沙門天王功徳経にある真言も唱えてはいけないのでしょうか? 唱えてはいけない場合は真言の部分だけ飛ばして読めば良いのでしょうか?それとも読まない方が良いのでしょうか? また、この様な場合唱えても良い真言などはありますか?
最近死後の世界が存在せず、ただ意識も無い『無』の世界が永遠に続いたら嫌だな、と思っています。 もちろん世の中で死んだ事のある人なんていないのですから、悩んでいたって死ぬまでそんな事は分からない事は承知しています。それでも怖くて泣いてしまう事もあります。怖くて仕方がありません。 今年は親戚が亡くなってしまったり、身内が病気になって状況が悪くなっていく一方で、そう言う雰囲気にも影響されつつあると感じます。 死後の世界がある可能性も無い可能性も否定できません。私はあってほしいですし、亡くなった方がそこで幸せな気持ちになってほしいとも思っています。 この生涯で幸せになった分を大切な人に与え、最期を迎えた後は天国などでその人達を見守っていたい、とも願っています。 良ければ、 ①死後の世界について不安や恐怖を感じた事はあるか ②あった場合、どのようにして克服したか ③死後の世界や生まれ変わりについての考え ④死後の世界があるとして、そこで何をしたいか 教えてくださると嬉しいです。 このような事で悩んだ事は初めてではなく、前回は小5の時、そして今は中3です。悩んで怖くて勉強が手につかないほどなので、不安を軽減したいです。 よろしくお願いいたします。
変えられるもの。変えられないもの。その線引きについての質問です。 仏教版の「二ーバーの祈り」を知りたいと思いました。 ※二ーバーの祈り(大木英夫 訳) 神よ、 変えることのできるものについて、 それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。 変えることのできないものについては、 それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。 そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、 識別する知恵を与えたまえ。 (ここまで) そこに明確な線引きなど無い、と分かってはいるのですが…。 例えば、他人の感情・行動です。 原則として、変えることができない、と思います。 しかし、自分から働きかけることで、一部変えられる可能性もあります。 だからこそ、自分から働きかけて、相手が自分の思い通りにならないときに、苦しいんだと思います。。 ならば、変えることができるものは、「自分の感情と行動だけ」と捉えて、それ以外は、変えることができないものと、割り切るべきでしょうか。少しストイックすぎるようにも思えますが。。 漠然とした質問で恐れ入りますが、ぜひ皆様のお考えをお聞かせください。
真言宗のお寺に護摩祈祷して頂いたお札の祀り方で迷っています。 家には神棚と仏壇があるのですが、神棚でも良いとする説、仏壇が良いとする説などを読み悩んでおります。 神棚が南向きなのですが方角も考慮した方が良いのでしょうか。皆様の知恵をお貸しください。