おはようございます。個別相談について質問です。個別相談したら家に領収書とか届いたりするんですか。私は銀行振込みしか出来ないのですが、振込み用紙が届くのですか?家族には内緒で、相談したいのですが、おきもちの、支払い方法が具体的に書いてないので一歩踏み出せないでいます。
この言葉は私が最も好むこの世の処世術です。 私がこれを知ったのは数年前、法華経のCD販促の新聞広告ですが、その解釈が「現世安穏とは、自分だけが幸せになることではありません。お釈迦さまのいう幸せは、他の多くの人々の幸せがあって初めて自分の幸せがある、ということです。」 となっていました。 あまりの意訳に唖然としたのですが、釈尊の説教は判りやすく伝えていますから、直訳で充分の筈です。 これは多分最も貧しい村に、弟子らが布施が少ないと反対したのを振り切って説教に赴いたときの言葉ではないかと想像します。 貧しさで苦しみと恨みに満ちていたところを、現世は心にとって仮の姿であるから安穏な気持ちを持って過ごすようにすれば、後生は良いところに生まれるよと諭したのだろうと想像します。 貧しくなくても人間関係で苦しみや恨みも生じやすいので、それをプラス思考で安穏に過ごせば、後生は吉報が待っている気がします。 現世では生きるために直接、間接の殺生を積み重ねていますから、通常の人間にはその悪業は免れません。今生は今更悪行を我慢したり改めることなく、後生に「精進料理」を残して置いて、安穏を優先するのが良策かと思っています。 しかし果たして後生にその記憶が残っているかは心もとない限りです。 互いに安穏であれば争いも少なくなるし、自殺の心境では後生で更に悪化するので、思い止まるきっかけにもなるでしょう。
アニメ平家物語を見ました。 歴史は全然詳しくないのですが、後白河法皇や平清盛など出家した人たちが自分の家で政治をしたりしていて気になりました。 出家というと家との縁を切ってお寺等に入るというイメージがあるのですが、後白河法皇や清盛はどうして家に戻ってきているのでしょうか? 出家しても家に戻れるんですか?
以前にも質問をさせていただいた件についてです。 以前の質問はこちらです。 https://hasunoha.jp/questions/52980 この問題について自分なりに考え続けてきたのですが、もしかするとここで言う「世の中の人」とは、念仏者ではない人々という意味なのではないかという可能性が閃きました。 そう思う根拠は、法然上人が入滅の時に勧められた臨終行儀を「普通の人はそういうこともするけど、私はやらなくていいんだ」と断ったことです。これは念仏者なら死の直前になってわざわざ臨終行儀をやらなくていいという意味でしょう。 法然上人が言う「普通の人」と同じ意味で聖光上人は「世の中の人」という言葉を使っているのではないか? そうだとしたらこの言葉もやっと納得がいくのです。 僕は「念仏名義集」の前後の文を読むことができません。ぜひお坊様方の解釈をお聞きしたいです。
2ヶ月前に、妹が自宅で自死しました。遺書に葬儀をしないでとあり、義弟の意向とコロナ禍ということもあり、両方の両親と義弟、姪、甥、私の夫、私のみの家族葬で送りました。 義弟のご両親に宗派を聞いたのですが、よく分からないようで… 義弟のご両親は他県在住で、本家ではないのでお墓を持っておりません。 義弟も宗教や宗派がよく分からないとのことで、急なことでもあったので家族葬にしたのですが、お坊さんに来て頂くこともなく葬儀を終えたので、初七日や49日法要など何もしておりません。 お骨は、義弟の家にありますが戒名が無いためお位牌もありません。 妹は嫁いだ身ですから、私の両親や私は宗派や供養の仕方について、なかなか意見を言い出せずにおりますが、ずっと違和感を感じるとともに、妹が成仏しないのではと悩んでおります。 自死したうえに、読経も戒名も法要も無しでは成仏できないのでしょうか? 妹が成仏できずに彷徨っているのではと思うと…私の両親も私も心が落ち着かず、悲しみが増すばかりです。 義弟も、気持ちがまだ落ち着かず妹の死を受け入れられないこともあり、今後の供養方もきちんと決められてないようですが…義弟の相談にはのるつもりです。 今後、どのように供養していけばよろしいのでしょうか? 義弟の家の近くのお寺を探して相談するべきか、他県在住の義弟の両親の家の近くのお寺に相談するべきでしょうか? ご意見、ご見解をよろしくお願いいたします。
写経の願文について質問があります。 時間がある時に写経をしているのですが、願文で「諸人健康祈願」や「医療従事者健康(守護)祈願」と書いてるいるのですが、問題はないでしょうか?
輪廻転生が真実であるとすれば誕生の考え方が大きく変わります。 まず結論から言いますと、「心は自分自身であり、親から貰ったものではない」と言うことです。 即ち自分の生老病死は自己責任であるということです。 ことわざからはじめますと、 「身体髪膚これみな父母より賜う。あえて損傷せざるは孝の始めなり」 これは身体だけであり、心は別ということになります。 「子は授かりもの」 もし心も親譲りであれば我が子であって、授かるとは言わないでしょう。 「とんびが鷹を産む」 親子の気質は別物であるという事でしょう。 「愚兄賢弟」 もし親譲りであれば、兄弟でも性格が違うとは、遺伝子的には考えられません。 原則的には類を以って集まるはずですから、性格が似ていることは多々あります。 臨死体験者(新堂のぶ子氏)の言葉(講演会にて) 「親が子を生むのではなく、子が親を選択する。」 ある宗教学者はネットで「龍樹と輪廻転生」と題し 「ブッダは、『大縁経』で、意識が母胎に流れ込むことによって、そして、そこで身心(名称と形態)が増大することによって、この世に転生するありさまを説明した。」と述べています。 「意識」は心と同一と考えてよいと思います。 以上が結論の根拠です。
最近また悩みが発生したため、ハスノハを訪れては様々な質問や回答を参照し、自分の将来への糧にしようと努力しています。 様々な回答を拝見していく中で、一つ疑問に思ったことがあります。 「過去に起こした過ちや罪悪感をため込んで苦しい」という趣旨の質問に対しての多くに、「仏さまに詫び、許してもらう」や「仏さまにつらいことを預ける」という主旨の回答(多少違うかもしれませんが)がありました。 確かにそうすることで、当事者は過去の懺悔を清算でき、「幸せ」とまではいかなくとも「平凡」な生活をすることができるのだろう、と思いました。 しかし、仏様がそれを受け取り、また詫びを許す、などに関して、実際にそれを視認することはほとんど不可能なのではないかと思うのですが、どうしてお坊さんはそれを認識できるのでしょうか。 ちなみに、仏様が許さなかったことや受取を拒否されたことはあるのでしょうか。 これからもつらい時にここに頼りたいからこそ、どうしても気になってしまいました。よろしくお願いします。
今回は、自分でもちょっと精神的におかしくなってるので、ご相談させていただきます。 文章が支離滅裂すぎて、申し訳ないです。 二つほどありますが、仏道を否定したらなんか色々不安な気持ちやらなんやら色々改定はあるんですが、否定しちゃだめだとぶつぶつ呪文のようにつぶやいたり、 仏教やその他色々な事を否定や悪口を言ったら無間地獄に行くと調べてしまって否定しちゃダメだ、悪口もダメだ、謗法になってしまうので、同じように呪文のように 呟いたり頭の中で自分に言い聞かせています。 だけど、否定という言葉の意味を調べた時に、肯定した方が正しいのではと思ってしまい・・、 今に至るという事になります。なんていうか・・もうダメなのかなと思ってます。 否定しちゃだめだと自分に言い聞かせていますが、否定ではなくて肯定するべきだともっと早く気が付いてればよかったのではないかなと思います。 お坊さんの方々はどう思われますか教えてください。 私はこのまま無間地獄に行くの確定になりますか・・?
お世話になっております。 供養や祈願をして頂いているお寺さんには遠方なのですが大変お世話になっています。 私は法話を聞くのが好きで、YouTubeや本で聞いたりしています。 最近、生で聞きたいと思い、公民館で月一回ある法話会に参加しています。 写経することもあります。 お話を聞くのは楽しいのてすが、普段お世話になっているお寺、御本尊様、お坊様に後ろめたい気持ちもあります。 失礼なことをしてきるのかな、あっちもこっちも欲深いのかな、やっぱり法話を聞きにいくのは辞めた方がいいのかなと悩んでおります。 よろしくお願いいたします。
解脱は最高の「涅槃」から最低の「浄土」までレベルがあるようですが、日本の仏教は、目指すレベルに従って多宗派に分かれたようですね。 最初日本に齎された仏教は解脱の実践方法だったようです。 仏教の基本は真理の「般若経」、真実の「般若心経」、そして論理の「阿含経」で構成されていると思いますが、「阿含経」は南伝だったので、日本ではなじみが薄かったのでしょう。 これらを基本とする根拠は 金剛般若経の次のような記述に依ります。 説法の本質 「それはなぜか。スプーティよ。如来は真実を語るものであり、如来は真理を説くもの、ありのままに語るもの、誤りなく説くものだからである。如来は虚偽りを語るものではない。」 ところで、「阿含経」には解脱の処方迄示されています。 有縁 (南伝 相応部経典 12.23. 縁) 前略 比丘たちよ、そのように、無明を条件として行がある。(中略)愛→取。取→生。生→苦。 (ここまでは十二支縁起と同じ) (続けて)苦→信。信→悦。悦→喜。喜→軽安。軽安→楽。楽→三昧。三昧→如実知見。如実知見→厭離。厭離→離貪。離貪→解脱。解脱によって煩悩を滅尽したと知るのである。 後略 如実知見→厭離。厭離→離貪、の意識が芽生えれば、 離貪→解脱、に至ります。 厭離は徳川家康の旗印「厭離穢土 欣求浄土」の事ではないでしょうか? この世が「穢土」であることの認識が重要です。 これによって衆生は「浄土」、菩薩は「涅槃」を求めることになると思います。
私の家は無宗教で、地域も特にお寺はありません。生死の意味を問うて哲学や仏教をして、浄土真宗にたどり着き、ユーチューブで法話を聞いたり仏書を読んで信心を得ました。ですから、信仰の友といったものはおらず、友達は全員無神論です。インターネットにしか友達がおらず、その人達とツイッターやラインで交流しています。ふとした拍子に信仰の話をすると「好きなものを信じたらいいと思うよ」と言われるのですが、内心「ああ、馬鹿にされてるんだろうな」と思ってしまいます。政治と宗教と野球の話はしてはいけないと言われますが、もう一切信仰の話はしない、という方法しかないのでしょうか。別に布教したいとは思いませんが、「狂ってる」と思われているんだろうなと思われると、つらいです
10代の頃から悩みの多い人生で、未熟なまま大人になりました。 家庭を持ち30代になっても周囲に対して愚かな言動をしてしまい、人を気付けたり迷惑を掛けたりしてトラブルになってしまった事が複数ありました。 反省と後悔で苦しみながらこちらにもお世話になっています。 様々な問題を抱えており、これから先の人生に希望をなかなか持てずにいます。 ハスノハでもいろいろな回答を読み、特定の宗派と言うよりは、お坊さんのお話で自分にしっくりきたものを取り入れさせてもらっています。 ある宗教評論家の方が出されている本で、とても気になる事が書いてありました。 それは、「この世の中には善人も悪人も必要」 そして「人間は皆それぞれに役割が決まっていて、それぞれ精一杯にその役を演じれば良い」 更には、「お浄土へ行った時、仏様に労われるのは悪人・罪人の方」との事。 極端な物言いを売りにしているので、この抜粋だけでは著者の本意が伝わらないかも知れないのは恐縮ですが、お坊さん方はこの考えについて、どのようにお感じになりますか。 (ちなみに、誤解を恐れずに言うと、私は少し救われた気持ちになりました。 だからと言って、罪を犯していいとか人を傷付けていいとは決して思いませんし、著者もそういう意味では言っておられないと思います。) お坊さん方の見解をお聞かせ頂ければ幸いです。
今の私は、仏教をどう活かしたら良いか分かりません。 例えば、人を疑ってしまう、死にたいと思う、物事全てをネガティヴに考えてしまう…等。 そういう時から考えを(見方を)変えるのが仏教なのかな、とは思っているもののイマイチ分かりません。 今だけの事、目で見たモノ、肌で感じたモノのみが今で、あとは脳が勝手に作り出し、それはもう過去の事、それが仏教とも思うのですが、なんだか腑に落ちません。 お忙しい中、大変恐縮ですが私にも分かるように教えていただけませんでしょうか?
妻が先週首吊りで自死しました。 遺書はなく、死んだ理由が分かりません。 妻は鬱でしたが、色々状況が良くなってきていて、これからという時でした。 死んだ理由について色々考えました。これかもというのはありますが、本当のところの理由は分かりません。以下質問でございます。 ▪️仏教的には自死した人は救われないのでしょうか?(妻は無神論者でした。死後の世界を信じていませんでした) ▪️仏教的には自死を止められなかった私が幸せになっても許されるのでしょうか? ▪️この運命は、私達の前世の行いの結果なのでしょうか? ▪️私が妻にできることは何でしょうか? (父は仏教をかじっています。 質問について聞いたところ、自死した妻はまた自死するような人生を歩む。私が許されるかは私の良心次第、この結果は私のカルマ(前世の行い)だと言います。) いかが思われますでしょうか? お考えで大丈夫でございます。
ご先祖様の供養のお経に仏様のご真言を加えてお唱えしていいのですか。 教えて下さい。
20歳の学生です。 私の家は、両親とも一応仏教ではあるのですが、私は生まれた時から東京の都心部のマンションに住んでいて、地域の繋がりも希薄なので、日常に仏教を感じることはほとんどありません。なので、もちろん家にも仏壇はないです。 しかし、最近、私は仏教に興味を持つようになり、仏壇が欲しいと思うよになりました。 そこで質問なのですが、 ①仏壇は、リビングではなく自分の部屋に置いても良いのでしょうか? また、学生で実家暮らしのような自分でも仏壇を置いて大丈夫なのでしょうか。 ②仏壇を設置した時は、お坊さんなどにきてもらった方が良いのでしょうか?また、その場合自宅近くのお寺が良いのでしょうか? ③仏壇は、どこから購入するのが良いのでしょうか? →ネットで検索すると、葬儀関連のサイトばかりが出てきてしまうので… 非常識な質問になってしまったかもしれませんが、ご教授いただけますと幸いです。 どうぞよろしくお願いします。
数年前、願誉浄史ご住職様から「阿含経典」を勧められましたが、驚いたことに此処にすべて仏教の真髄が集約されていました。 ご住職様には、深甚な感謝と共に厚く御礼申し上げます。 そこには、仏教の目的である「輪廻転生からの解脱」が唯一仏教の教えに尽きることが書かれていました。 般若心経に「照見五蘊皆空度一切苦厄」とありますが、「一切苦厄」の主体が生老病死の事でありましょう。 生老病死は仏教の専売であると思っていましたが、阿含経には仏教に関係なく「自然の摂理」で釈尊以前から定まったものであると述べられています。 「自然の摂理」に対しては、釈尊も手の施しようがなく只管死を待つほかありません。 即ち、生きている総ての生物には生老病死はつきもので、仏教の救いは何もないという事です。 従って仏教の救いは死後にあることになります。 しかし死ねば生老病死は消えますから何も問題はありませんので、仏教の救いは必要ない筈ですが、再び誕生することを釈尊は悟りで明らかにしました(過去世)。 それが輪廻転生です。そこから解脱することが仏教の救いであり、仏教の存在価値です。 そのことを阿含経は下記のように述べています。 城邑(南伝 相応部経典 12.65. 城邑) 前略 その時、世尊はかように仰せられた。 比丘たちよ、わたしは、まだ正覚をえなかった修行者であったころ、このように考えた。(この世間はまったく苦の中に陥っている。生まれては老い衰え、死してはまた再生する。しかもわたしどもは、この老いと死の苦しみを出離するすべを知らない。 まったく、どうしたならばこの老いと死の苦しみを出離することを知ることができようか)と。 後略