おはようございます ある宗派のお寺で 行事ごとに度々参加してましたところ 僧侶の方から 在家得度しないかと言われました 行者となり 行事をする側にこないかと言われました 戒名もしてやると言われました 私もそういう行事ごと大変関心があるのですが できれば行者としてやりたいのですが 私は曹洞宗の檀信徒で 納骨堂も生前に 結構な金額を出して 既に買い 死んだら、 その曹洞宗のお寺で 戒名してもらうつもりです しかし、その度々言っているお寺で 祈祷行事をしたいという気持ちが同じくらいあり それをするには、そこのお寺で得度戒名しなくてはいけません 生きているうちは 祈祷行のお寺で得度戒名し 死んだら、曹洞宗のお寺で戒名を変更することなどできるのでしょうか? また、戒名というのを二重に持つことはできるのでしょうか? 戒名という意味自体あまり分からないのですが 戒名しろ、簡単に言われるものなので どうしたら良いのか分からなくてご相談をいたしました よろしくお願いいたします
精神病を長年患っており死ぬ事ばかり考えています。病苦も有ってか嫌な事に対して敏感で過剰反応します。特に人間の醜い所を見聞きするのがウンザリです。早く解放されたいです。 方法は死ぬ事でも良いのですが、輪廻してしまっては苦しみの繰り返しになるので輪廻から解脱したいです。この事は消滅する事と同じなのでしょうか? 私は仏様になって誰かを救いたいという気持ちよりも、早く苦しみから逃れたいという気持ちから消滅したいと考えています。 精神科医には「肉体があるから消滅は出来ない」と言われました。死ねば消滅するのでしょうか?どうしたら消滅出来るのでしょうか? 痛いのも苦しいのも醜いのも…全て嫌です。完全消滅して、1秒でも早く全てから解放されたいです。 上座仏教やチベット密教の記事を読むと「輪廻から解脱=消滅」と捉えられるような記述がありました。 輪廻から解脱する事と消滅する事の違いは何でしょうか? どうしたら輪廻から解脱(消滅)する事が出来るのでしょうか? 1秒でも早く人間を辞めたいです。なるべく簡単な方法を探しています。 助けてください。これ以上、人間の醜さに触れたくありません。 早く死にたい、消滅したい、輪廻から解脱したい。
はじめまして。唐突ですがほぼ無宗教の人間が仏像を作る事は罰当たり、または仏様への失礼にあたりますか? 海外でアート関係の仕事をしており、締め切りやミスなどによってストレスを感じる事が多く、最近ふと机に仏様の優しいお顔があれば落ち着いて作業ができるのではと思いました。 ただ現地で購入できるのはア◯ゾンや得体のしれないウェブサイトでの仏様ばかりで、ほとんど信仰心のない私としても不安です。 それならばアーティストである自分で制作すればいいのではと思ったのですが、文頭の通り勝手に作るのは大丈夫なのだろうかと気がかりです。しかも素材が木ではなくプラスチックのような物になってしまいます。 また仏教や仏像がほぼ無知識だったため色々とハスノハを含めて調べさせていただいたところ、開眼の儀やそもそも偶像崇拝ではない事などを知り余計に「落ち着きのある顔」を求めて側に置くのはよくないのかなとも思っております。 また完全に無宗教とは言えないので亡くなった父や祖父を思ってたまに開眼供養していないのに拝んでしまうかもしれません。インテリアとして割り切る事は難しいと思います。 日本にいつか帰国した時にちゃんとした仏像を購入できるかもしれませんが、それはそれで魂の入った仏像をあまり拝まないのは申し訳ないです。 この質問が仏様や僧侶の方、仏教徒の方への失礼にあたらないといいのですが、もしそうでしたら申し訳ありません。 よろしくお願いします。
以前にも臨終の相と来迎に関しての弁長上人の言葉が納得できなくて質問させていただきました。 それ以外にも例えば弁長上人は聖浄兼学しなきゃ念仏のありがたみはわからないと言っていますが、これは法然上人が否定した「学問をして念のこころを悟りて申す念仏」ではないでしょうか。 どうも僕の目には弁長上人は法然上人の教えを歪めまくっているような気がするのですが、浄土宗のお坊さんはこの矛盾を心の中でどう消化しているのでしょうか?
こんにちは。趣味で仏教を勉強しているものです。 最近「愛着慈悲心(愛見の大悲)」という仏語があると知ったのですが、仏語辞典などを引いてもよく意味がわかりません。 愛着から慈悲が生まれるものなのでしょうか…?どういう状況だと愛着から慈悲が生まれるのですか? そして仏教では慈悲が良いことだとされていますが、なぜ愛着慈悲心はいけないのでしょうか。 例え話などがありましたらわかりやすく教えていただきたいです。
而今とは今を生きることだと認識しています。 しかし、どんな人でも何かを思い出したり、予定を立てたりすると思います。 そして、記憶や予定は、過去や未来そのものだと思います。 刹那に生きることと上記のことが矛盾しているように感じます。 この矛盾はどう解いたら良いのでしょうか? よろしくお願いいたします。
お世話になっております。 この質問と関連があるかもしれませんが https://hasunoha.jp/questions/34134 以前、修験者の方が行う護摩行に参加し、手持ちの数珠(108玉のもの)をお加持してもらったところ、数珠を結び、真ん中に大きな結び目をつくり、その結び目の左右から蝶の羽のように数珠が出る(独鈷杵のような?)形の結び方をしていただいたことがあります。 行者曰く、如何なる穢れからも守る最強の結び方といっていました。 その後、数珠はほどいて使っていましたが、結び方がわかりません。 ・この結び方の名前や意味 ・結び方 がわかれば教えてください。 よろしくお願いいたします。
以前、仏教とは?と質問させていただいたものです。沢山の回答がありまして、その中に仏教とは善い行いをするためにする事とあったので、善い行いを心がけてますが、毎日仕事をしていて、雑草を抜いたり、害虫を殺したりしています。お客様や職場の人は喜びますが、これって仏様からみたら善い行いなんでしょうか?また、私の友人の住職は善い行いをするのではなく慈悲の心でする事瞑想をとうして、仏様が私の心になる。とおっしゃっていました。心が瞑想すると第4図という好き嫌いの心から、慈悲の心になるそうで、例えば誰かに刺されたとしても心は穏やかなままになるそうです。その方は曹洞宗です。友人にさそわれ私が信仰していた日蓮宗系なので、お経を毎日あげる事で先祖が喜んで力をかしてくれるという教えでした。わたしは今はお金がかからないので曹洞宗のお寺に行ってますが、日蓮宗が間違えではないと思うので、曹洞宗のお坊さんが読んでる般若心経を譲ってもらったのでそれを毎日よんでます。日蓮宗が間違ってるとは言わないですが、その団体の独自の解釈で抜粋されたお経はスッタニパータ読む限りではずれているので。本物の日蓮宗のお坊さんとは出会った事がないので、自動的に私は曹洞宗になってしまったというか檀家なのでお墓は曹洞宗のお寺なので、わざわざ、変える必要もないというか、遠くてお墓参りにいけないんならいくら日蓮宗のお寺さんにしたいといっても先祖も自分も喜ばないと思います。うちの近くの曹洞宗のお坊さんいいかたですが、日中ずーっと瞑想して座ってるだけの日もあるんそうなんですが、日蓮宗系のお坊さんからしたらお経も読まないで何してんだ感じだろうけど、そのプロセスの違いだけなんだと思います。何を信じたらいいかわからなくなる時もありますが、慈悲の心になればいいし、先祖も大切に生きていきたいです。
自殺をしたらどういうところに行きますか?やはり地獄なのでしょうか、
1ヶ月ほど前から仏教の動画などを見ていて「貪瞋痴」というものは自分に起きているとはっきりわかりました。 そして仏教に書いてあるということはおれだけじゃない。「貪瞋痴」は人間に起こることなんだと思いました。 そう知ってから自分に貪瞋痴が起きても「俺の中に内在されている貪瞋痴が発生しただけ、誰かを恨んだり憎んだりする必要はない」冷静でいられる自分がでてきました。 他者が貪瞋痴を起こしていることも「今、あの人は貪瞋痴を起こしてる、近づかないておこう 」など冷静でいられます。 以前は怒ったり恨んだりにされるのは自分のせいだと思い罪悪感を感じたり、相手を恨んだりしてきました。 しかし貪瞋痴を知ってからというものそういうことは人間にプログラミングされた心の働きなのですね。 ざっくり言うと貪欲が妨げられると瞋恚が生まれ愚痴が生まれる。 これが人間に起きていることなのですね? そう思うようになってから世界が変わりました! 仏教に感謝です! 読んでいただいてありがとうございました!
いつもお世話になっております。 質問ばかりすみません。 小さい頃、悪いことをしたときにバチが当たるよなど言われました。 その時に、仏様や神様なんていなくなれー!と思ってました。もちろん、今はそんなこと思っていません。仏様や神様を殺したことになりますか?謗法罪になりますか?仏様は怒っておられますか? 今まで仏様に対して失礼なこと、ここに書けないほどたくさんあります(泣) 仏様に申し訳なくて、、許してもらえる方法ありますか?
SNSにて 『死んで償える罪などない 死んで癒える苦しみも悲しみもない 自死は罪と苦しみと悲しみを増やす最悪の選択 だから、生きて償い、生きて癒される事だけが、人の唯一無二の道』 という投稿がありました。 その方はヒーラーさんです。 やはり自死にはそれだけの重い罪が着せられるものなのでしょうか? 49日もやっと過ぎ、死を受け入れられてきた矢先で目に止まってしまったのでまた色々と考えてしまい始めました。 ※信仰先は真言宗です
私は普段『仏前勤行次第』を使用していますが、『念彼観音力』の読み方は『ねんびかんのんりき』となっています。 しかし他の観音経の経本を見ると読み方が 『ねんぴかんのんりき』となっています。 『ねんびかんのんりき』『ねんぴかんのんりき』どちらが正しいのでしょうか? 『び』と『ぴ』の違いなのであまり気にしなくて好きな方で唱えたらよいのでしょうか? 私はずっと『ねんびかんのんりき』と唱えていたので『ねんぴかんのんりき』はなんかしっくりきません。
よろしければ皆様の意見をお聞かせください。 仏教は向上心を否定するか。 向上心とは現状に満足せず、さらに高い目標を目指す心の有り様を表す言葉です。 向上心は現代社会で広く受け入れられ、むしろ向上心が無いことは悪い事という風潮すらあります。 私は向上心の動機として、欲と執着は不可欠だと感じます。 小欲知足を基本とする仏教において、向上心は否定されるでしょうか。 否定される、と言うのが私の考えです。 現代社会は、キリスト教等の禁欲思想を否定し、 欲望を肯定し、それを達成する事で発展してきたように感じます。 ゆえに、欲望を受け入れ自らを切磋琢磨する向上心は、社会の発展に有意義なために広く受け入れられていると考えます。 人の無限の欲望をエネルギー源としている現代社会は、仏教思想と相容れない部分があると思います。 よって、仏教は向上心を否定すると考えます。 皆様はどのようにお考えでしょうか。また、お弟子さんやお子さん等、身の回りの方に向上心が見られない場合、どのように指導する(あるいは指導しない)か教えていただけると助かります。
人は反省をして利他に生きる姿勢を築くのが人生だと考えています。 ですが、そのためには沢山の無駄ともいえる遠回りをして、一切皆苦の経験を必要とするのだと思えています。 沢山の無駄ともいえる遠回り。 こういう無駄を無くして、利他に生きる姿勢に、この世があって欲しいと願っています。 何故なら、最初から 人は、そういう道を求めていると考えるからです。 指針を失い迷い惑い、嘆き悲しみ、また道を探す。 それを是としなさいと、仏教では教えられるのでしょうか? 遠回りをしてきた私は、そういうものを無くしたくて仕方がありません。 悲しくて仕方ありません。 だからといって能力に優れてることもありません。 でも虐められて悲しみ苦しむ人の気持ちが痛いほど伝わります。 無視したくありません。 なのに前進することもままならず、健康や生活が損なわれ傷つきっぱなしです。 悲しくて仕方がないのです。 どうすれば良いのでしょうか?
お経を読む蛇腹の本は宗派のお寺でお金をお渡ししたらいただけるのでしょうか。 最近はネットで検索すると通販であったりしますが、私の宗派(西山浄土宗)が見当たりません。近くのお寺と連絡が取れず、遠方ですが、総本山に問い合わせをしてます。しかし、連絡が取れておりません。失礼をしてしまったのでしょうか。 余談でお経本が必要になっている理由ですが、家族が亡くなり、勤行を曽祖父などがしておりましたが、非常に古くめくるだけで破れてしまうためです。
本当はこれと決めた阿弥陀如来像を一体、自分の揺るぎない念持仏としたいのですがあれこれ目移りしてしまい、小さな仏像・絵像をあちこちで購入してはしばらくじっと眺めていると「白毫が中心からずれている」とか「蓮台の葉の並びが整ってない」とかの粗を見つけてしまい、それを理由に結局タンスの肥やしにしてしまうことを繰り返しています。だからといってお焚き上げに出すのもそれはそれで購入した時の思い出なんかがあって抵抗がありますし、仏様が可哀想な気もします。どうしたらいいでしょうか。 そんな状況で息が長いのが信州善光寺で頂いた手のひらサイズの善光寺如来像です。小さすぎて細部が見えないのでかえって粗も見つからないという訳ですが、僕にふさわしい念持仏はやはりこれなのでしょうか。
自分の部屋をきれいにするのはいいことでしょうが、「もっともっと」ときれいを求めて際限なく掃除をするのは貪欲でしょうか?
先日、自分の守本尊様を知る機会がありました。そこで気になったのが、干支と守本尊様との結びつきの由来?です。調べてみてもイマイチ分かりませんでした。
この世は迷い苦しみの世界であり、私たちはこの世界を生まれ変わり死に変わり、終わること無く繰り返しています。 仏教の目標は、この六道からの解脱だと伺っております。 しかし苦しみから開放された不変の世界があるとする事は諸行無常や空説に反していないでしょうか。 仏陀は「愛は苦しみの原因」と仰られました。 他にも、様々な欲求は苦しみの原因だと仰りました。 仏陀の仰る通りだと思います。 人は手に入らなければ悩み、手に入るともっと欲しくなりまた悩みます。 そして手に入れた物はいつか失います。 失うと悲しみます。 しかし何も求めず、何も持たないのが苦しみからの開放に繋がると言うのは 極端なニヒリズムに感じます。 仏陀の目指した解脱とは何だったのでしょうか。