以前、上司からのパワハラについてこちらで相談させていただきました。 その後、仏教について改めて調べました。お釈迦様の考えを思い出すことで、少しだけ仕事でのストレスが減ったように感じました。 その経験から日々、何かしら仏教の教えに触れたいと感じるようになりました。 仏教については幼稚園と大学が浄土真宗真宗大谷派で、お釈迦様の教えと親鸞聖人については少しだけ知っています。 しかし、お釈迦様の教えに触れられる方法で私が知っているのは教えを幼稚園児が学べるようにした歌のみ、物としては手元には大学からもらったお守り的なお数珠があるのみです。 祖父が住職だったこともあってか、小さな仏様の像は家にあるのですが、他の家族の部屋にあり私はあまり入ることができませんし、入ることができても仏様に手を合わせることしか仏教に触れる方法が分かりません。 ネットや図書館で探してみても、同じ宗派でも内容がさまざまでよく分かりませんでした。 また、転勤族のため特定のお寺の檀家ではなく、気軽にそういった相談ができるお寺がありません。 そこで ・宗派的にどのお経を唱えれば良いのでしょうか ・大学でもらったお守り的な数珠は身につけた方が良いのでしょうか ・念持仏など小型でも仏像を持った方が良いのでしょうか ・念持仏をお迎えすることとなった場合、真宗大谷派では阿弥陀如来一佛を本尊としていますが、干支守り本尊は不動明王である場合はどちらを選べば良いのでしょうか ・檀家でなくても、同じ宗派ならお寺にお話を聞きに行っても良いのでしょうか。 以上を質問させていただきたいです。 無知ゆえ、お坊さんからすると当たり前のことをお尋ねしているかもしれませんが、教えていただけますと幸いです。
先日、6歳の姪から「地獄ってどんなところ?」と聞かれました。最近友達から地獄の話を聞いたようです。 しかも、その友達は「少しでも悪い事をすると地獄に堕ちる」と教えられたらしく、「お茶をこぼすと地獄に堕ちる」とまで言っていたようです。 姪はすっかり怖がってしまって、1日中地獄について質問されました。 やりとりの一例として↓ 「悪い事ってどんな事?」 「誰かをわざと悲しい気持ちにさせる事かな」 「弟に意地悪したから、私は地獄に堕ちるの?」 「意地悪はよくないけど、ちゃんと謝って仲直りできたでしょ。 それに、今はまだ子どもで、これからたくさんの人とお話したりして、いい事と悪い事がわかるように勉強していく時間なんだよ。 だから、もしよくない事をしてしまっても、ちゃんと謝って『次はもうしない』って覚えていったらそれでいいんだよ。 地獄には堕ちないから大丈夫だよ」 「悪い事しても謝ったら地獄に堕ちないの?何歳までよくない事しちゃってもいいの?何回までしてもいいの?地獄に堕ちたら何されるの?」 という感じで、どうすれば地獄に堕ちないか、地獄はどんなところかを一生懸命聞いてきます。 安心させようと色々考えてみたのですが、具体的な答えを求められ困っています。 地獄が気になって仕方ない姪は、地獄が考え方の中心になってしまい、警察は「みんなが安全に暮らせるため」ではなく、「自分が地獄に堕ちたくないから」悪い人を捕まえる=いい事をしている人達だと考えていた時はとても驚きました。 そんな姪に地獄を説明したいのですが、私自身が詳しくない事もあり上手く説明できません。 また、今以上に怖がらせたり、躾と称した脅しの言葉として教えたくありません。 子どもでもわかるように説明するにはどう伝えればいいでしょうか? できれば、姪が安心するような、生活上の心掛けのようなものも教えていただけると嬉しいです。 長文となり恐縮ですが、どうぞよろしくお願いいたします。
先日もご相談したのですが愛染真言を唱えた後に元彼と付き合えました。ですが満願と同時期に彼の女友達が事故死してしまっていた事が判明しました。 私が真言を唱えたから彼が私の所へ来るべく彼女は変わりに亡くなってしまったのか。 また僧侶の彼を罵ってしまったり盗みや嘘など多くの悪いことをしてしまっています。 私は地獄地獄に落ちてしまうのでしょうか、、。 また自分では無間地獄行きだと思っているのですが仏教的に私の罪は何処に行くのでしょうか。 善行を積みたくても裏目に出てしまったり我が儘も治らず迷惑ばかりかけてしまっています。 それと最近地震が多発しておりその時に震災で亡くなってしまったら死後の行き場は極楽には到底いけない身分だなと。 地獄は存在しますよね、、
前月俳優の河津祐介氏が亡くなられました。 10年以上前から体調を崩されていて、その当時の近況を話されているのをネットで見て記録しましたので転載します。 あの人は今こうしている 川津祐介(ベテラン俳優) 2008年02月22日10時00分コメント(0) トラックバック(5) ブックマーク 23歳で映画「この天の虹」(木下恵介監督)の主役に抜擢されて以来、110本以上の映画に出演し、テレビドラマ「ザ・ガードマン」(TBS系)で人気者になった川津祐介さん。俳優以外にも「くいしん坊!万才」の5代目リポーター、「てれび博物館」のキャスター(ともにフジテレビ系)を務める一方、自然食レストランの経営、ダイエット本「こんなにヤセていいかしら」の出版と多方面で活躍した。しかし、最近は露出が減ったようだ。さて、今どうしているのか。 会ったのは調布市内の自宅。愛沙夫人に案内されてリビングルームに足を運ぶと、毛糸のセーターの下に何枚も重ね着をした川津さんが待っていた。 「ブカブカで驚いたでしょ。冷たい空気に5分もさらされていると、狭心症を起こす恐れがある。96年に『てれび博物館』のロケ先で心筋梗塞で倒れて以来、生きているのが不思議なくらいなんです。だって、倒れたときから余命3週間、長くて3カ月と診断され、今も心臓の下の方は壊死(えし)したままですからね。実際、心臓の機能を示す駆出力は健常者の30%、5メートル歩いただけで息苦しくなることがあって、3級の身体障害者手帳を持ってます」 もっとも、ニコニコほほ笑みながら話す様子を見る限り、深刻な状態には思えない。 「毎日、きょうが最後と思って生きています。家族といただく朝飯、昼飯、晩飯が最後の晩餐ですよ。仕事もひとつ、ひとつを大切にこなしてる。来月は『四人は姉妹』というコメディーの舞台で東京、兵庫県、新潟県を回って、5月には京王プラザホテルで趣味の絵画と陶芸の個展を開くことが決まってます」 生命を脅かす持病を抱えながら、前向きなのは、特殊な経験をしたからだという。 (つづく)
真言宗の僧侶の方に回答頂けると幸いです 昨年にFacebookきっかけで好きな人が出来、ネットの愛染真言を唱えたり聞き流したりしていた所実際に元彼と付き合えましてその元彼の口からガールフレンドがバイクで事故死してしまったと聞き私が真言唱えたから彼女は亡くなってしまったのではないか....と考えてしまいます。 またその彼が僧侶をしていたことも知り余計に僧侶を罵ると奈落に落ちるそうで罪を増やしたと それに会うたびに体調不良が続いて愛染様の怒りをかったのではと。 今後起きる地震で命を落としたら地獄に落ちる条件全部クリアしてしまっています。 落ちるの嫌ですが無間地獄は実在するのでしょうか。 また地獄はどのような場所なのか知りたいです 優しいお言葉一切無しで事実でのご解答お待ちしています
おはようございます。個別相談について質問です。個別相談したら家に領収書とか届いたりするんですか。私は銀行振込みしか出来ないのですが、振込み用紙が届くのですか?家族には内緒で、相談したいのですが、おきもちの、支払い方法が具体的に書いてないので一歩踏み出せないでいます。
この言葉は私が最も好むこの世の処世術です。 私がこれを知ったのは数年前、法華経のCD販促の新聞広告ですが、その解釈が「現世安穏とは、自分だけが幸せになることではありません。お釈迦さまのいう幸せは、他の多くの人々の幸せがあって初めて自分の幸せがある、ということです。」 となっていました。 あまりの意訳に唖然としたのですが、釈尊の説教は判りやすく伝えていますから、直訳で充分の筈です。 これは多分最も貧しい村に、弟子らが布施が少ないと反対したのを振り切って説教に赴いたときの言葉ではないかと想像します。 貧しさで苦しみと恨みに満ちていたところを、現世は心にとって仮の姿であるから安穏な気持ちを持って過ごすようにすれば、後生は良いところに生まれるよと諭したのだろうと想像します。 貧しくなくても人間関係で苦しみや恨みも生じやすいので、それをプラス思考で安穏に過ごせば、後生は吉報が待っている気がします。 現世では生きるために直接、間接の殺生を積み重ねていますから、通常の人間にはその悪業は免れません。今生は今更悪行を我慢したり改めることなく、後生に「精進料理」を残して置いて、安穏を優先するのが良策かと思っています。 しかし果たして後生にその記憶が残っているかは心もとない限りです。 互いに安穏であれば争いも少なくなるし、自殺の心境では後生で更に悪化するので、思い止まるきっかけにもなるでしょう。
アニメ平家物語を見ました。 歴史は全然詳しくないのですが、後白河法皇や平清盛など出家した人たちが自分の家で政治をしたりしていて気になりました。 出家というと家との縁を切ってお寺等に入るというイメージがあるのですが、後白河法皇や清盛はどうして家に戻ってきているのでしょうか? 出家しても家に戻れるんですか?
以前にも質問をさせていただいた件についてです。 以前の質問はこちらです。 https://hasunoha.jp/questions/52980 この問題について自分なりに考え続けてきたのですが、もしかするとここで言う「世の中の人」とは、念仏者ではない人々という意味なのではないかという可能性が閃きました。 そう思う根拠は、法然上人が入滅の時に勧められた臨終行儀を「普通の人はそういうこともするけど、私はやらなくていいんだ」と断ったことです。これは念仏者なら死の直前になってわざわざ臨終行儀をやらなくていいという意味でしょう。 法然上人が言う「普通の人」と同じ意味で聖光上人は「世の中の人」という言葉を使っているのではないか? そうだとしたらこの言葉もやっと納得がいくのです。 僕は「念仏名義集」の前後の文を読むことができません。ぜひお坊様方の解釈をお聞きしたいです。
2ヶ月前に、妹が自宅で自死しました。遺書に葬儀をしないでとあり、義弟の意向とコロナ禍ということもあり、両方の両親と義弟、姪、甥、私の夫、私のみの家族葬で送りました。 義弟のご両親に宗派を聞いたのですが、よく分からないようで… 義弟のご両親は他県在住で、本家ではないのでお墓を持っておりません。 義弟も宗教や宗派がよく分からないとのことで、急なことでもあったので家族葬にしたのですが、お坊さんに来て頂くこともなく葬儀を終えたので、初七日や49日法要など何もしておりません。 お骨は、義弟の家にありますが戒名が無いためお位牌もありません。 妹は嫁いだ身ですから、私の両親や私は宗派や供養の仕方について、なかなか意見を言い出せずにおりますが、ずっと違和感を感じるとともに、妹が成仏しないのではと悩んでおります。 自死したうえに、読経も戒名も法要も無しでは成仏できないのでしょうか? 妹が成仏できずに彷徨っているのではと思うと…私の両親も私も心が落ち着かず、悲しみが増すばかりです。 義弟も、気持ちがまだ落ち着かず妹の死を受け入れられないこともあり、今後の供養方もきちんと決められてないようですが…義弟の相談にはのるつもりです。 今後、どのように供養していけばよろしいのでしょうか? 義弟の家の近くのお寺を探して相談するべきか、他県在住の義弟の両親の家の近くのお寺に相談するべきでしょうか? ご意見、ご見解をよろしくお願いいたします。
写経の願文について質問があります。 時間がある時に写経をしているのですが、願文で「諸人健康祈願」や「医療従事者健康(守護)祈願」と書いてるいるのですが、問題はないでしょうか?
輪廻転生が真実であるとすれば誕生の考え方が大きく変わります。 まず結論から言いますと、「心は自分自身であり、親から貰ったものではない」と言うことです。 即ち自分の生老病死は自己責任であるということです。 ことわざからはじめますと、 「身体髪膚これみな父母より賜う。あえて損傷せざるは孝の始めなり」 これは身体だけであり、心は別ということになります。 「子は授かりもの」 もし心も親譲りであれば我が子であって、授かるとは言わないでしょう。 「とんびが鷹を産む」 親子の気質は別物であるという事でしょう。 「愚兄賢弟」 もし親譲りであれば、兄弟でも性格が違うとは、遺伝子的には考えられません。 原則的には類を以って集まるはずですから、性格が似ていることは多々あります。 臨死体験者(新堂のぶ子氏)の言葉(講演会にて) 「親が子を生むのではなく、子が親を選択する。」 ある宗教学者はネットで「龍樹と輪廻転生」と題し 「ブッダは、『大縁経』で、意識が母胎に流れ込むことによって、そして、そこで身心(名称と形態)が増大することによって、この世に転生するありさまを説明した。」と述べています。 「意識」は心と同一と考えてよいと思います。 以上が結論の根拠です。
最近また悩みが発生したため、ハスノハを訪れては様々な質問や回答を参照し、自分の将来への糧にしようと努力しています。 様々な回答を拝見していく中で、一つ疑問に思ったことがあります。 「過去に起こした過ちや罪悪感をため込んで苦しい」という趣旨の質問に対しての多くに、「仏さまに詫び、許してもらう」や「仏さまにつらいことを預ける」という主旨の回答(多少違うかもしれませんが)がありました。 確かにそうすることで、当事者は過去の懺悔を清算でき、「幸せ」とまではいかなくとも「平凡」な生活をすることができるのだろう、と思いました。 しかし、仏様がそれを受け取り、また詫びを許す、などに関して、実際にそれを視認することはほとんど不可能なのではないかと思うのですが、どうしてお坊さんはそれを認識できるのでしょうか。 ちなみに、仏様が許さなかったことや受取を拒否されたことはあるのでしょうか。 これからもつらい時にここに頼りたいからこそ、どうしても気になってしまいました。よろしくお願いします。
今回は、自分でもちょっと精神的におかしくなってるので、ご相談させていただきます。 文章が支離滅裂すぎて、申し訳ないです。 二つほどありますが、仏道を否定したらなんか色々不安な気持ちやらなんやら色々改定はあるんですが、否定しちゃだめだとぶつぶつ呪文のようにつぶやいたり、 仏教やその他色々な事を否定や悪口を言ったら無間地獄に行くと調べてしまって否定しちゃダメだ、悪口もダメだ、謗法になってしまうので、同じように呪文のように 呟いたり頭の中で自分に言い聞かせています。 だけど、否定という言葉の意味を調べた時に、肯定した方が正しいのではと思ってしまい・・、 今に至るという事になります。なんていうか・・もうダメなのかなと思ってます。 否定しちゃだめだと自分に言い聞かせていますが、否定ではなくて肯定するべきだともっと早く気が付いてればよかったのではないかなと思います。 お坊さんの方々はどう思われますか教えてください。 私はこのまま無間地獄に行くの確定になりますか・・?
お世話になっております。 供養や祈願をして頂いているお寺さんには遠方なのですが大変お世話になっています。 私は法話を聞くのが好きで、YouTubeや本で聞いたりしています。 最近、生で聞きたいと思い、公民館で月一回ある法話会に参加しています。 写経することもあります。 お話を聞くのは楽しいのてすが、普段お世話になっているお寺、御本尊様、お坊様に後ろめたい気持ちもあります。 失礼なことをしてきるのかな、あっちもこっちも欲深いのかな、やっぱり法話を聞きにいくのは辞めた方がいいのかなと悩んでおります。 よろしくお願いいたします。
解脱は最高の「涅槃」から最低の「浄土」までレベルがあるようですが、日本の仏教は、目指すレベルに従って多宗派に分かれたようですね。 最初日本に齎された仏教は解脱の実践方法だったようです。 仏教の基本は真理の「般若経」、真実の「般若心経」、そして論理の「阿含経」で構成されていると思いますが、「阿含経」は南伝だったので、日本ではなじみが薄かったのでしょう。 これらを基本とする根拠は 金剛般若経の次のような記述に依ります。 説法の本質 「それはなぜか。スプーティよ。如来は真実を語るものであり、如来は真理を説くもの、ありのままに語るもの、誤りなく説くものだからである。如来は虚偽りを語るものではない。」 ところで、「阿含経」には解脱の処方迄示されています。 有縁 (南伝 相応部経典 12.23. 縁) 前略 比丘たちよ、そのように、無明を条件として行がある。(中略)愛→取。取→生。生→苦。 (ここまでは十二支縁起と同じ) (続けて)苦→信。信→悦。悦→喜。喜→軽安。軽安→楽。楽→三昧。三昧→如実知見。如実知見→厭離。厭離→離貪。離貪→解脱。解脱によって煩悩を滅尽したと知るのである。 後略 如実知見→厭離。厭離→離貪、の意識が芽生えれば、 離貪→解脱、に至ります。 厭離は徳川家康の旗印「厭離穢土 欣求浄土」の事ではないでしょうか? この世が「穢土」であることの認識が重要です。 これによって衆生は「浄土」、菩薩は「涅槃」を求めることになると思います。
私の家は無宗教で、地域も特にお寺はありません。生死の意味を問うて哲学や仏教をして、浄土真宗にたどり着き、ユーチューブで法話を聞いたり仏書を読んで信心を得ました。ですから、信仰の友といったものはおらず、友達は全員無神論です。インターネットにしか友達がおらず、その人達とツイッターやラインで交流しています。ふとした拍子に信仰の話をすると「好きなものを信じたらいいと思うよ」と言われるのですが、内心「ああ、馬鹿にされてるんだろうな」と思ってしまいます。政治と宗教と野球の話はしてはいけないと言われますが、もう一切信仰の話はしない、という方法しかないのでしょうか。別に布教したいとは思いませんが、「狂ってる」と思われているんだろうなと思われると、つらいです
10代の頃から悩みの多い人生で、未熟なまま大人になりました。 家庭を持ち30代になっても周囲に対して愚かな言動をしてしまい、人を気付けたり迷惑を掛けたりしてトラブルになってしまった事が複数ありました。 反省と後悔で苦しみながらこちらにもお世話になっています。 様々な問題を抱えており、これから先の人生に希望をなかなか持てずにいます。 ハスノハでもいろいろな回答を読み、特定の宗派と言うよりは、お坊さんのお話で自分にしっくりきたものを取り入れさせてもらっています。 ある宗教評論家の方が出されている本で、とても気になる事が書いてありました。 それは、「この世の中には善人も悪人も必要」 そして「人間は皆それぞれに役割が決まっていて、それぞれ精一杯にその役を演じれば良い」 更には、「お浄土へ行った時、仏様に労われるのは悪人・罪人の方」との事。 極端な物言いを売りにしているので、この抜粋だけでは著者の本意が伝わらないかも知れないのは恐縮ですが、お坊さん方はこの考えについて、どのようにお感じになりますか。 (ちなみに、誤解を恐れずに言うと、私は少し救われた気持ちになりました。 だからと言って、罪を犯していいとか人を傷付けていいとは決して思いませんし、著者もそういう意味では言っておられないと思います。) お坊さん方の見解をお聞かせ頂ければ幸いです。
今の私は、仏教をどう活かしたら良いか分かりません。 例えば、人を疑ってしまう、死にたいと思う、物事全てをネガティヴに考えてしまう…等。 そういう時から考えを(見方を)変えるのが仏教なのかな、とは思っているもののイマイチ分かりません。 今だけの事、目で見たモノ、肌で感じたモノのみが今で、あとは脳が勝手に作り出し、それはもう過去の事、それが仏教とも思うのですが、なんだか腑に落ちません。 お忙しい中、大変恐縮ですが私にも分かるように教えていただけませんでしょうか?