今の私は、仏教をどう活かしたら良いか分かりません。 例えば、人を疑ってしまう、死にたいと思う、物事全てをネガティヴに考えてしまう…等。 そういう時から考えを(見方を)変えるのが仏教なのかな、とは思っているもののイマイチ分かりません。 今だけの事、目で見たモノ、肌で感じたモノのみが今で、あとは脳が勝手に作り出し、それはもう過去の事、それが仏教とも思うのですが、なんだか腑に落ちません。 お忙しい中、大変恐縮ですが私にも分かるように教えていただけませんでしょうか?
妻が先週首吊りで自死しました。 遺書はなく、死んだ理由が分かりません。 妻は鬱でしたが、色々状況が良くなってきていて、これからという時でした。 死んだ理由について色々考えました。これかもというのはありますが、本当のところの理由は分かりません。以下質問でございます。 ▪️仏教的には自死した人は救われないのでしょうか?(妻は無神論者でした。死後の世界を信じていませんでした) ▪️仏教的には自死を止められなかった私が幸せになっても許されるのでしょうか? ▪️この運命は、私達の前世の行いの結果なのでしょうか? ▪️私が妻にできることは何でしょうか? (父は仏教をかじっています。 質問について聞いたところ、自死した妻はまた自死するような人生を歩む。私が許されるかは私の良心次第、この結果は私のカルマ(前世の行い)だと言います。) いかが思われますでしょうか? お考えで大丈夫でございます。
ご先祖様の供養のお経に仏様のご真言を加えてお唱えしていいのですか。 教えて下さい。
20歳の学生です。 私の家は、両親とも一応仏教ではあるのですが、私は生まれた時から東京の都心部のマンションに住んでいて、地域の繋がりも希薄なので、日常に仏教を感じることはほとんどありません。なので、もちろん家にも仏壇はないです。 しかし、最近、私は仏教に興味を持つようになり、仏壇が欲しいと思うよになりました。 そこで質問なのですが、 ①仏壇は、リビングではなく自分の部屋に置いても良いのでしょうか? また、学生で実家暮らしのような自分でも仏壇を置いて大丈夫なのでしょうか。 ②仏壇を設置した時は、お坊さんなどにきてもらった方が良いのでしょうか?また、その場合自宅近くのお寺が良いのでしょうか? ③仏壇は、どこから購入するのが良いのでしょうか? →ネットで検索すると、葬儀関連のサイトばかりが出てきてしまうので… 非常識な質問になってしまったかもしれませんが、ご教授いただけますと幸いです。 どうぞよろしくお願いします。
数年前、願誉浄史ご住職様から「阿含経典」を勧められましたが、驚いたことに此処にすべて仏教の真髄が集約されていました。 ご住職様には、深甚な感謝と共に厚く御礼申し上げます。 そこには、仏教の目的である「輪廻転生からの解脱」が唯一仏教の教えに尽きることが書かれていました。 般若心経に「照見五蘊皆空度一切苦厄」とありますが、「一切苦厄」の主体が生老病死の事でありましょう。 生老病死は仏教の専売であると思っていましたが、阿含経には仏教に関係なく「自然の摂理」で釈尊以前から定まったものであると述べられています。 「自然の摂理」に対しては、釈尊も手の施しようがなく只管死を待つほかありません。 即ち、生きている総ての生物には生老病死はつきもので、仏教の救いは何もないという事です。 従って仏教の救いは死後にあることになります。 しかし死ねば生老病死は消えますから何も問題はありませんので、仏教の救いは必要ない筈ですが、再び誕生することを釈尊は悟りで明らかにしました(過去世)。 それが輪廻転生です。そこから解脱することが仏教の救いであり、仏教の存在価値です。 そのことを阿含経は下記のように述べています。 城邑(南伝 相応部経典 12.65. 城邑) 前略 その時、世尊はかように仰せられた。 比丘たちよ、わたしは、まだ正覚をえなかった修行者であったころ、このように考えた。(この世間はまったく苦の中に陥っている。生まれては老い衰え、死してはまた再生する。しかもわたしどもは、この老いと死の苦しみを出離するすべを知らない。 まったく、どうしたならばこの老いと死の苦しみを出離することを知ることができようか)と。 後略
半年前から一人暮らしを始めました。 浄土信仰がある僕は全長16cmほどの阿弥陀如来像を祀っているんですが、特に信仰を持ってない両親は「異様だからやめなさい。婚活してるんだから、若い女性がそんなの見たら引くよ」と言います。 正直、両親の言い分も一理あると思うのです。 そこで、厨子なし、三具足なしで仏像だけ。本棚の中にブックエンドで本を仕切って空間を作り、その間に仏像を置いて、来客時は卓上サイズのミニ屏風で隠すという形を考えています。 どんな本を読んでも三具足は必ず揃えましょうと書いてありますが、そういう事情なので無しでもいいでしょうか? 万一人に見られても、三具足が無ければガチさが減って、「俺仏像好きだからねー」ぐらいで、そんなにおかしく思われずに済むんじゃないかと思うんです。 なんだか隠れキリシタンのような気分ですが、お坊様方の回答お待ちしています。
いつも大変お世話になっておりお坊様には心から感謝申し上げます。 よく剣道の手ぬぐいに「不動心」と書いてある物があります。 具体的にどういう心を表すのか分からなくてネットを検索していたら「真言宗」と関係があるという記事を見つけました。 差し支えなければ噛み砕いて教えて頂けますと有り難いです。
長文になりますが、見て頂けますと幸いです。 私の曽祖父は神戸市須磨区にあります須磨寺というところで副住職をしていたと伝えききました。年齢的に戦前であったと思われますが、寺務所では確認できませんでしたので、定かではありません。その曽祖父が何らかの理由で須磨寺を離れ、神戸市長田区の善心寺というお寺へ移りました。その後曽祖父の娘婿さんが跡を継ぎ、現在は別の方が住職をされております。 この度祖母の四十九日法要を善心寺で行うこととなりましたので、縁は続いておるみたいです。 私の先祖代々のお墓は曽祖父が須磨寺へ建立しております。四十九日法要のあと、納骨は善心寺の方が須磨寺まで来てくださり行います。 私は今まで宗教に無関心でしたが、祖母が亡くなったことをきっかけに、祖母への感謝、後悔などの想いと真言宗の僧侶であった曽祖父の存在で仏教に関心を持ちました。 仏教をしっかり学び、ご先祖様への供養をしたく、また自分の生き方のヒントとしたく思っております。 私が曽祖父のことをもっと知りたいと思ったきっかけはもうひとつあり、私はご先祖様が守ってきてくださった苗字を受け継ぐ長男です。曽祖父には13人子供がおりその中で男が4人で13人兄妹の末っ子が私の祖父です。そして父、私となりますが、祖父の兄妹のお子様方は女性のみで苗字を守れる血筋が私の所だけとなっております。私は2人子供がおりまして2人とも男の子なので、ここからまた苗字を守れる子孫が繁栄してくれると願っております。 こういう経緯で偶然とは思えずご先祖様方の意志や願いなどを託されていると思うようになりました。 長くなり申し訳ございませんが何点かお聞きしたくよろしくお願いいたします。 ・私が真言宗の仏教を学ぶに当たり、善心寺のご住職へ師僧となって頂きたいと思うのですが、仕事をしながら仏教を学ぶために師僧となって頂けませんか?とお聞きすることは失礼に当たりますか? ・仕事をしながら得度し仏弟子として学んで行くことは可能ですか? ・私の菩提寺はお墓のある須磨寺だと思いますが、これから関係を深めるべきは善心寺でしょうか? 私は父に血筋のことや宗派の話などあまり詳しく聞いてきませんでした。この度のご縁で私のルーツを知り自分の子たちへ受け継いでほしいと思っております。 長くなり申し訳ございませんが、どうぞよろしくお願いいたします。
自分は真宗の門徒なのですが、大乗非仏説を未だにどう消化すればいいか分かりません。文献学的な事実として、大乗経典は歴史上のお釈迦様が説いたものではないと思っています。しかし信仰はあります。「当時の人が苦しい状況から抜けるために書いたんだろうな」とも思いますが、法蔵菩薩の五劫の思惟や兆歳永劫の修行は疑えません。 「当時の人が苦しい状況から抜けるために書いたんだろうな」というのが間違っているのでしょうか?仏教学的、専門的、もしくは信仰的に、導いてくだされば助かります…
他国の仏教と比べて(中国・チベット・インド・韓国・タイなど)、日本仏教の特色とはどのようなものですか?詳しく教えてください。よろしくお願いします。
いつもたくさんの相談と回答を読ませていただき、学ぶことや気づくが多くありがく感じています。 今回2度目の相談です。 前回娘が亡くなったあとの心の持ち方についてご教示いただき、それまで苦しみで澱みきっていた心が浄化されました。ありがとうございました。 あれからも娘のことを思わない日はなく、 でもあちらの世で仏様のお導きのもと、生前抱えていた深い苦しみや悲しみがない在り方(過ごすや暮らすという表現は違うと思いこのように表しました)をしているものと考え、娘の肉体はなくなったけれど存在は私にとって永遠のものになったと感じられるようになりました。 いろいろ考える中で思ったのが、人はこちらの世界で様々な煩悩や苦しみを抱えながら生きていますが、それは学びであって、亡くなった後あちらの世界で仏様になり、生きている人たちの心のよりどころ(?)救いとなるための修行のようなものなのではないかということです。つまり、生きることは決して楽ではないけれど、その経験が輪廻転生の中のどこかで人を救う力になるのではないか…そんなことを考えました。 仏教のことは深く学んだことはなく詳しくわかりません。感じたままのことですが、お坊様方のお考えや仏教の正しい教えをお聞かせいたたければ嬉しいです。
私は今までに嘘をついたり、 子供の頃通ってた塾から本を持って帰ったり 万引きもしかけたことがあります。 でもその行動すべて悪い行いだと思って 反省はしています。 昨日のテレビで地獄のことが流れてて 息子と2人で見てたら2人して怖くなって しまいました。 今からでも気をつけていたら地獄に行かなくても大丈夫でしょうか? それとも今更遅いでしょうか? 正直言って地獄に行きたくないです。 死ぬのも怖くてたまりません。 どうしたら天国に行かれますか? 教えてください。
先日、祖母を亡くしたことをきっかけに信仰心が芽生えました。自宅から車で1時間ほどのところに菩提寺があり小さい頃から正月、お盆等は手を合わせに行っておりました。祖母の死をきっかけに菩提寺さんが真言宗であると理解し、今まで何となくで持っていたお念珠も真言宗のものを新調しました。 先祖代々の墓には曽祖父も眠っておりますが、その方が菩提寺で副住職をされていたと父から伝え聞き、そのことも信仰心の芽生えへと繋がっております。 そこで曽祖父が本当に副住職をしていたのか知りたくなり、菩提寺さんの寺務所で事情を説明しましたが、歴代の住職、副住職の記録はないとのことで、曽祖父の名前を伝えたところ分からないとの回答でした。自分の中ではひいおじいちゃんのお寺と愛着があったので少しショックでした。 その菩提寺は戦後に本山となったみたいで、戦前に僧侶をしていたのなら余計に分からないと言われましたので、仕方ないとは思いましたが、将来私が墓守りをしますし、自分の芽生えた信仰心をご先祖の供養に繋げたい、更には自分の子にその寺が菩提寺である所以を伝えていきたく思っております。 拙い文章で申し訳ございませんが、自分の気持ちを聞いていただきたく質問に書かせていただきました。 何か良いアドバイス等ございましたらよろしくお願いいたします。
私は平屋で一人暮しです。 実家から離れて菩提寺もなく、得度もしていないのですが、仏像を家に祀ってます。 引っ越したときに、豊川稲荷東京別院から御真体の分け御霊を頂いたことから、仏像には曹洞宗のお経を上げています。 曹洞宗のお経を上げていることから、本尊は釈迦如来、そのほか、実家の菩提寺が真言宗であることから不動明王、大日如来、弘法大師、稲荷信仰もあるために、陀枳尼天(ネットで後任)と大黒天も祀っています。 大日如来、不動明王、薬師如来、吉祥天、南海観音の5体は神棚に祀って神仏習合の形にしてます。 陀枳尼天と大黒天は、成田山の出世稲荷さまの神棚に祀っています。(この2体は真言宗のお坊さんによって開眼) 吉祥天は仏像ドットコム(日蓮宗のお坊さん)、その他の仏像は浄土宗のお坊さんによって開眼していただいたものです。 私の行い、お坊様から見たらどのように思いますか?
はじめまして。 よろしくお願い致します。 私は決まった宗派に属している訳ではないのですが、以前からお寺と仏像が好きで、あるお寺に月に1度程度なのですが参拝しています。 そのお寺のご本尊はお不動様なのですが、何度も通い拝んでいる内に、何とも言えない心の満足感や安らぎを感じるようになりました。 そこで、自宅でもお不動様を拝みたく、木彫りの不動明王像を購入しました。(ひと目見てとても気に入り、彫刻家の方に直接連絡をとってオーダーメイドで造って頂きました。まだ手元にはありません。) 生活状況から毎日しっかりお勤めができる自信が無い為、開眼供養はしないつもりだったのですが、調べている内にしないで拝むと魔が入るという事を目や耳にし、大変不安になっております。。。 お勤めがしっかりできなくとも開眼供養はするべきでしょうか? そもそもそんな心構えでは仏像を手元に置くこと自体間違っていますか? 魔が入るといるのはどういった事なのでしょうか? 勉強不足で申し訳ないのですが、ご助言頂けると嬉しいです。
分別(ふんべつ)やその分別から生ずる苦しみも悟りの現われであり、禅宗における“仏性”の一様であるのでしょうか? また、もしその通りであるのだとしたら、それを疑いなく自覚するためにお坊さんである皆さまは、日々どのような修行を行ってらっしゃるのでしょうか?
私は阿弥陀如来様が大好きです。 毎日救っていただくことへの感謝として念仏を唱えています。ハスノハでもたくさんの問答を見るのが楽しみです。 ところが、先日、ハスノハで真宗のお坊様が「極楽浄土があると信じていない」人への解答で、「阿弥陀如来様や浄土というのは働きのことで、実際亡くなった人が浄土という場所で生まれ変わるということではないのだろう。だから浄土とはこの世での働きのことで、死後の世界としてあるわけではないと思う」「仏様というおとぎ話を使って今生での安寧を得るのだ。だから阿弥陀如来様が実在するか否かはどうでもよい」「自分も科学的に極楽浄土の世界は懐疑的」 という旨のことを仰っているのを拝見しました。一人ではなく何人かのお坊様がそういったことを仰っているのを見ました。 誤解していただきたくないのですが私はハスノハのお坊様方のことを尊敬しております。ですが少なからずショックでした。私は今生で死んだら、阿弥陀さまに迎えに来ていただいて極楽浄土に生まれ、そこで仏となる修行をできることを嬉しく思っていたからです。 また、何があっても阿弥陀如来さまがいつも一緒にいてくださることが喜びであり、心の支えです。 法話を聞いたりしていると、「阿弥陀如来様という素晴らしい仏様がいらっしゃる(=阿弥陀如来は実在する)」「死んだら極楽浄土にいき仏になる(=極楽浄土は実在する)」とお経も親鸞様もハッキリ仰っているように思います。 阿弥陀如来様や極楽浄土の存在を確信するのが、浄土真宗ではないのですか? 私が、元はキリスト教を学んでいたこともあって、阿弥陀如来様や極楽浄土への解釈が違うのではないかと不安です。 (極楽浄土と天国は、極楽浄土は阿弥陀如来様の国(他の仏様もそれぞれ浄土をもっていらっしゃる)。という違いだと理解しています) 私はこれからも阿弥陀様といつも一緒だと思っていても良いですか?
数年前に大好きだった祖母が亡くなりました。今、祖母の信仰していた浄土真宗について学んでいます。 (本当はお寺をお尋ねし、お坊様のもとで学ぶのが良いと聞きましたが、コロナ禍で、幼い子供もおりますので、You Tubeやhasunohaでお坊様のお言葉から学ばせていただいております。いつもありがとうございます) 先日、買い物帰りに倒れた自転車を見かけました。 通り過ぎようとしましたが、ふと恐れ多くも「阿弥陀如来様なら直すかな〜」と思い、結局その自転車を直して帰りました。 帰り道はそれなりに良い気分で、仏教を学んで私も良い人間になれたのかなと思いました。 でも、ふと、これはたまたま心に余裕があって直せただけじゃん。私が良い人間になったとかそんなこと思うのおこがましいな……と思い、 「たまたま私が人に親切にできるときには、それは私の人間性が良くなったからではなく阿弥陀如来様のはたらきがあったからだ」「でも、いい人になれなくても救っていただけるんだ」と気づきました。 その時、浄土真宗や阿弥陀如来様の教え・ありがたみが、とても腑に落ちたような気がしたのです。 そしてこれからは、念仏を唱えて、お釈迦様の教えをなるべく(全部は守れない凡夫なりに)守ることが、阿弥陀如来さまの御恩に報いることだ!とも思いました。生きる指針が見つかったような気がしました。 しかし、先日歎異抄を読み、自分の腑に落ちた答えが合っているのか、自信がなくなってしまいました。 考え直すと、自分の行いが御恩に報いることになるなんて自惚れです。 そして、私は正直あまり頭が良くないので、夫から「念仏に出会わず虐待されて死んじゃった子供は救われないの?」「どんな悪人でも、信じてなくても唱えればいいの?」とか聞かれたり、仏教の本を読んでて?と思うことも、「難しいことは考えても私には分からない。私は念仏を唱えればいい!」としていたのですが、これも自分の都合のいいように解釈し、助けてもらおうとしてるんじゃないかとモヤモヤしています。 浄土真宗門徒として、どんなふうに生きていけばよいのか、混乱してきました。お坊様からアドバイスがほしいです。また、こんなふうに仏教学べばよいというアドバイスもあれば嬉しいです。よろしくお願いいたします。