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「仏教」を含む問答(Q&A)一覧

お経について(大きな勘違い)

またよろしくお願い致します。 私は今まで、告別式等で、御坊様があげる「お経」とは 亡くなった人が迷うことなく浄土に辿り着くようにと、 お祈りをしている感じに捉えていました。 しかし、本日、NHKのテレビを見ていたら、 「お経」とは亡くなった人のためではなく、 残された人のために、あげていると聞いて びっくりしました。 これは本当でしょうか? 私は既に終活を始めていますが、 後継者等がいない夫婦なため、最終的に一人になって 自分にとって残された人という存在が無い場合は、 「お経」は必要無いということでしょうか? もう一つ、疑問があります。 よく「亡くなった人の魂を慰める」という言い方を聞きますが、 亡くなった人の魂は、今、生きている人が慰めてあげなくては いけないほど、悲しんでいるということでしょうか? この「慰める」という言い方が気になります。 以前、テレビで見たのですが 夫が病気で激しく苦しみながら息を引きとった時、 奥様が泣きながら「あなた、やっと楽になれて良かったね」と 声をかけたそうです。この気持ち、よく分かります。 たとえ病気で亡くなった人も、痛み・苦しみを持った肉体から 解放され、浄土で安らかにニコニコしていてほしいです。 だから「慰める」という言い方は、浄土でも苦しんでいるみたいで、 違和感があります。

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仏教で気持ちが楽にならないです。

全体: 仏教はこの世が苦しくてたまらない人が解脱or楽になる為に信仰している。 今回のタイトル: 全く楽にならない。 なぜ 1楽にならない助けて!というと本人の思考、もしくは生まれる前の前世が最悪だったからというどうしようもない提案をされる。 さてその本人の考え自身も、彼自身が会得したものではないという事すら苦しみなのです。 人を殺めていいという環境に生まれた人が、別環境に押し込められて考え方を根性で変えよ!というような暴論。 また前世は証明されたわけではないのにどうしようもない変えようがない物をあげて耐えろ!という暴論。 2信じないのなら離れろ!という暴論 信じないのなら離れて、消えて。みたいな事を言われます。だとしたら楽にならないけど仏教を続けて一部の人は楽になるのに一部の人は楽にならないわけでそれ自身が苦しみになるのでは? ブッダの考え方はとても好きだけど、その後の仏教の考え方が嫌いな場合でも信仰をやめて離れろよ?的な暴論が苦しい。 論理を求めたから仏教にたどり着くのに論理がしたいなら仏教の論文でも書け!みたいな無理な事を求めるのは根拠はない!根拠は俺!みたいな考えではないですか?それこそ私が嫌いなものです苦しみの根源です。 3圧倒的な不幸な人より煩悩にまみれた仏教徒の方が幸せ スマホに、結婚や性行為に、家に、車に、欲しい物に、他の生物を食べて生きる事、を普通にやってて、それ以下の苦しみしか得てない人は一切幸福が得れない。 結局煩悩を満たす為に欲を満たすしか方法がないという事なのではないか?という結論に至りそう。 4論理的に反論できない時は、修行が足りないorその人に聞いてみろ。その人の不幸は実際に本人の気持ちにならないとわからないという逃げ。そしてその中に内包するお前はそんな事情も知らないで嘆いてるんだろ?という攻撃。 修行なんていつまで続けるか?という区切りがありません。だとしたら楽にならないのでは?という事。また早く死ぬ可能性もあるわけで惨憺たる人生のまま亡くなってしまう事もあるわけでその人自身は苦しむ為に生まれたの?を否定できなくなる。 5織田信長は天下を取れたという事。 彼は焼き討ちしたのに幸福な人生を生きた。 ↓ 楽になりたいのです。さて上の説明を含めてどうすれば良いでしょうか?

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仏舎利

いつもありがとうございます。 先程TVでお釈迦さまが入滅 (お釈迦さまが亡くなられた時の言葉で合っていますでしょうか?) なされた時の状況の彫刻が映されていて、 なんかお釈迦さまのお弟子様達の悲しみとか 気持ちがわーっと伝わって来る様で、 いつ造られたのかは分からなかったのですが 迫力がありました。それで、そういえばちょっと前に何でも鑑定団で仏舎利が鑑定に出ていたのを思い出しました。 確かその仏舎利のいわくは、あまり覚えていないのですが、昔はよく仏壇や仏僧の中に小さなガラスの中に入ったきれいなビーズや宝石みたいな物を封入して仏舎利と呼んでいたそうなのです。 で、もっと前にまたTVで申し訳無いのですが(苦笑) 外国で本物の仏舎利を人々が象に乗ってパレードするようなお祭りがあったのを見たんです。 ありがたいな〜と思ったのと同時に、お釈迦さまのお骨が現在に存在するの?と1人で驚いてたんですが さっきのお釈迦さまの入滅の彫刻を見た後、 何の気なしに現存する仏舎利のある場所を検索してみたら、 なんと日本に一箇所だけ存在すると出ました。 なんだかイメージ湧かないのですが、名古屋にあるそうですね。一度行ってみたい、そして仏様の御光に触れてみたい、拝んでみたいと思いました。 私は倹約しなくちゃならない身なので 旅行などそうそう出来ないので TVとネットで我慢します。 つまり何が良いたかったのかとゆうと    ほとけさま    大好きなのは    ホットケーキ           字余り すみません。ごめんなさい。おやすみなさい。

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不審と信心と往生について

1年前にも同じような質問をしたのですが 41願のことを「信心を得たものは諸根が具足する」と書いてある本があって(蜂屋賢喜代という方の四十八願講話という本です)、それなら 身体が具足することが信心を得た証拠になるじゃないか、おかしいじゃないかと思っていろいろな善知識の方に相談しました。 すると先生のように、身体は関係ない、と様々な方からいろいろな理由で言われました。香月院深励師の本には『初住以上の菩薩』と書かれてありました。 そこで素直に「そうだな、合理的に考えて41願以降の願が念仏者に向けられているとは考えられないし、41願のことは考えなくていい」と思えればよかったのですが、なぜか「41願によって信心を得たものは諸根が具足する」という思いが1年ほど強迫観念のように頭にありました。 今も、前ほどではありませんが、1日に何度も「41」という数字が頭に浮かびます。これは疑いなのでしょうか? この不審があっても、往生の障りにはならないのでしょうか。念仏や生起本末には疑いがないのですが、この不審が頭に浮かぶたびに 「こんな心じゃ往生できない」と思ってしまいます。 けれど今はもう不審の「内容」は嘘だと分かっていて、41願の内容は念仏者ではない菩薩のことだと思っています。 この心は蓮如上人の言葉で言うと、自力の心を振り捨てて、の自力の心なのか、妄念妄執がおこるのもとどめるにあらず、の妄念妄執の心なのか、専門的に言えばどちらなのでしょうか 長文失礼しました。変な質問ですみません。ご返事いただければ幸いです。

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主人と宗派が違う

私の実家と、嫁ぎ先の宗派が違い、どうにも馴染めず苦しいです。どうしたらいいでしょうか。 小さいから仏教に親しみのある家庭で育ちました。 毎日お題目をあげるわけでないですが、お正月や期末試験の前(!)はいい点がとれますようにと仏壇に手を合わせるような家庭でした。 法事も多かったため、気づいたらお経もなんとなく覚えています。 結婚するまでは、自分の宗派に一才拘りはなく、なんちゃって仏教徒だなぁとしか認識していませんでした。 しかし結婚し、嫁ぎ先の仏壇に手を合わせるようになると、罰当たりなことをしているような気持ちになってしまうのです。 嫁ぎ先も熱心な仏教徒というわけではなく、帰省した際に仏壇にただいまを言う程度ですが、そこで唱えるお題目が違い、自分の宗派を裏切っているような気持ちになってしまいます。 もう私は主人の宗派に変わったのだ、と割り切れればいいのですが、小さい頃から沢山守ってくださってきた自分のお題目も大事にしたい思いが強いです。 同じ仏様を信じているのに、どうにも割り切れません。 結婚して10年以上が経ちますが、未だに夜道で怖い時、心の中で唱えるのは生家のお題目です。 違う宗派に鞍替えすることは、悪いことではないのですか? 菩提寺が変わっても、心の中で違うお題目を唱えているのは非常識でしょうか。

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リーディングは占いに入る?

こんにちは。 いわゆるスピリチュアル系の技法で、「リーディング」というものがあります。 心や体や頭の中を読み取る技術です。 私はその技術が得意で、悪用したことはありませんが、本人から依頼された場合のみ、料金を頂いてサービスを提供していました。 覗き趣味はありませんので、無断でリーディングしたりはしません。ご本人以外についてもリーディングしません。 例えば、こういう考え方や行動の癖や傾向があるようですから、こんな風に気を付けると良いですよ、とか、自他を苦しめる思考パターンをお持ちの場合、それを解除してあげたり。 クライアントには、すごく喜ばれてきました。ほとんどの人がリピートするほどでした。 それでも、もしも仏教的に、その行為が悪だったら嫌だなと思い、その手のサービスの提供は一切やめていました。 悪業になってしまうならば、今後も再開したくありません。最近、昔のクライアントを立て続けにみかけ、私のサービスを受ける前よりも生きやすくなったと言い、さらには仕事でも大活躍されてました。私自身も、そのサービスを提供してもしなくても、裕福に健康に人と仲良く暮らせています。 長年の鬱がなおった人や無職を脱してリバウンドしていないクライアントたちもいます。 人を幸せに導けているようならば、再開してもいいのか、それとも仏教的には、罪なのか。知りたいです。罪ならば、再開しません。 初期仏教に詳しい、もしくは、大乗仏教であれば龍樹に詳しいお坊さんからのアドバイスを、特に期待しています。それらに特に、共感同意するからです。 実生活でご縁を頂いているので天台密教もしくは真言密教のお坊さんも有難いです。 宜しくお願い致します。

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世界は美しい 人生は甘美である

皆様ご多忙の中とは思いますが、目に留まりましたら、お話を聞かせていただけたら幸いです。 タイトルの言葉を、仏陀の最期の言葉として知ったのは、数年前に納棺師日記という本を読んだ時です。びっくりして一瞬時間が止まりました。最近ふとその言葉を思い出しまして、いい言葉だよなあ、と感動しています。 御釈迦様の時代にもきっと今以上にたくさんな悲惨な事や恐ろしい事があったと思うのですが、最期にそういう言葉を言われた、というのが、 この世の中、どんなに嫌で悲しい事があったり、様々な人間がいて争いごとが尽きず酷い現実があっても、「世界は美しく、人生は甘美である」という事は、 世の中に悪なんて存在しないんじゃないかな、性善説みたいなことだろかと受け止めてしまうのは、飛躍しすぎでしょうか。 あいにく私はこの言葉の背景や前後の言葉を知りませんが、その道のプロの方々が、どのように受け止めたり、とらえられているのかお話を伺ってみたいと思いまして、質問させていただきました。 沢山の方が質問されている中で、緊急性の低い内容でお手間とらせてしまって申し訳無いのですが、、よろしくお願いいたします。

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