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「心構え・生きる智慧」を含む問答(Q&A)一覧

私のことを本当に尊重してくれているなら、こうしてくれるはず

 「本当に私のことを思ってくれているのなら、○○してくれるはず」 という思い(以下、「相手への期待」と呼びます)が消えません。そう思ったら最後、「○○してくれないということは、私のことを嫌っているんだ、なんとも思ってないんだ」という思い(以下、「思い込み」と呼びます)が生じ、相手へ疑いの目や憎しみを向けてしまいます。  こうした「相手への期待」や「思い込み」が無くならない限り、人に疑いや憎悪をむけ続けることになると思います。親切心で接してくれた人に、悪意を向けることをやめたいです。 「思い込み」をなくすために、「思い込み」の発端となる「相手への期待」をやめるべく、以下のような努力をしています。  まず、相手へ期待することをやめるために、多くの人と関わり、色んな人の考え方を聞き、十人十色の価値観を受け入れようとしています。その結果、私と全く違う考え方や価値観をもっている人がたくさんいる、だから、相手が自分の思い通りになることはめったにない、ということは分かりました。しかし、それでも、人と会話をしているときに、「私のことを配慮していたら、そんなことはふつう言わないよな。」といったような気持ちが生まれ、最悪、相手と会うのをやめたくなる時があります。   また、相手へ期待することをやめるために、自分磨きも注力しています。自分に自信がつけば、自分に期待して、相手へ期待しなくなるだろうと考えたからです。そこで、内面磨き(勉強、趣味、家事等を頑張る)から、容姿の外見磨きまで、出来る限りやっているつもりです。そのかいあって、以前よりもできることが多くなって、自分は少し頼もしくなったかなと思えてきました。それでも、相手への期待をやめることができません。 長くなりましたが、お尋ねしたいことは以下の点です。  「私のことを大切に思ってくれるのならば、○○するはず」と相手へ期待しなくなるためには、上述のような努力は無駄なのでしょうか。もし無駄であるならば、何を行うべきなのでしょうか? 相手へ期待することは無駄なことだと、どうすれば心から納得できますでしょうか。

有り難し有り難し 30
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自因自果の話を知り、怖くてしかたありません。

なぜ自分がこんな目に会わないといけないのかと、ひどく悩んだ時期があり、自因自果の話を本で読んだ時にものすごく府に落ちました。 今まで自分の我欲を一番に生きてきた因に、それそうなりの縁が来て結果が出たのだと、自分の生き方を深く反省しました。 それでも私は、その時は「自分が正しい」とがむしゃらに頑張って生きてきたのだと、その当時の浅はか自分も許しました。 しかし、すべての過去の行い(自分が浅はかだったと思う行為)がこれからの私の人生に結果として何かを出すのであるならば、怖くてしかたありません。 たとえば、好きな人に嫌われたくない一心で、言われるがままに猥褻な画像や動画を撮らせてしまったこと。 恋人との別れが辛すぎて、好きでもない人に色目を使い何人かと情事をしながら、何をしているのだろうと我にかえり、良くしてくれたのに連絡を一切絶ってしまったこと。 など、主に自分の性へのふしだらだった時期に行ったことへの因果です。 今、私は非常に愛にたいして真面目に考え、将来はちゃんと結婚して家庭を持ちたいと考えています。 しかし、もしか私の画像などが誰かがインターネット上に上げていて、それを大切な旦那さんに見られてしまったら、とか、家族で幸せに歩いているときに過去に情事を交わし連絡を絶った相手にいいよられたら、など考えると、怖くて、なぜあんなことをしてしまったのかと後悔の日々です。 因果とは、どのような結果として現れるのでしょうか。 教えお叱りいただけたらありがたいです。

有り難し有り難し 16
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本当は生きていたいけれど、実際は生きづらい

生きづらい世の中で、生きづらい性質を持った私が、どう生きていけばいいのか分かりません。 (以下、経緯などについて挙げます。長いですが、何卒、ご容赦ください) 私は幼少期に祖父母のもとに預けられました。2歳上の兄が先天性の病気のために手術や入退院を繰り返していたため、母が私の面倒を十分にみることが出来なかったためだと聞いています。私自身はその時のことを覚えていませんが、思い返してみれば子供の頃、妙に寂しかったり、周囲の大人に素直に甘えることが出来ず、自分の気持ちを限界まで押し殺して、最後は閉じこもるということを何度も繰り返していたように思います。 その性質は今でも変わらず、どうやって人に甘えてよいのか、また今は甘えてよい時なのか判断がつかずに気を逸し、一人苦しむという有様です(非常に負荷がかかるので、強烈な自己嫌悪と共に表層的な出来事をきっかけとした他者への怒りや憎しみをも生み、やがて定着してしまいます) また、集団生活に馴染めない性質で、学校や職場など、ある種の集団に属して、一つの型や考え方の枠に自分を合わせることが出来ません。それよりも一人で勉強(仏教や哲学などの本や詩などの文学作品を読むこと)することを好みます。落ち着いて大事なことが学べるから好きなのですが、残念ながら活かすことが出来ていません。 こういった経緯や私自身の愚かさにより、自己を追い詰め、精神的に耐えられなくなって、去年、仕事を辞めて実家に戻りました。 私はこれからの将来どうするのか、よく考えたいのですが、両親に心配もかけている状態です。本当はすぐにでも自分の性質に合った仕事を見付けて、本当の意味で人のためになることをし、その喜びを味わって生きてみたいのですが、実際には自分も他人も疑わしく、ただ虚しく、苦しいのです。 子供の頃から続いているこの苦しみから、いい加減自由になりたい。

有り難し有り難し 13
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この先の人生、どう生きていけばいいのかわかりません。

昨年秋に四年制大学デザイン学部を中退しました。 将来のビジョンが全く持てないし、やる気もない無職です。 小さい頃から絵を描くのが好きで、特に強い気持ちや明確な夢があったわけでもないのですが、得意だからという理由で高校大学と美術・デザイン系に進学しました。 中学・高校で精神を病んだり体調を崩したりする程度の苦労をしてきたので、大学ではバイトもサークルもしない、趣味をたくさんやって生きる!と、頑張らない決意をしてスタートした大学生活。 デザインについて学ぶうちに、デザイン業界の労働環境を考えるとどうしても将来デザイナーになりたい!と思えず、課題をやるモチベーションが保てないようになりました。 絵は好き勝手に描いてもいいけれど、デザインは必ず「クライアントが納得する答え」を用意しないといけない、その性質も私にとってはストレスでした。 そうしてこの先卒業するまでの時間も、卒業するためにやる課題も無駄に思えてきた最中、就活のためのセミナーが始まりました。 就職に有利な資格とか、企業にウケのいい面接の答え方とか、立派な社会人になるためにあなたはこういう性格を直しなさいとか、そういった内容です。 とにかく、すさまじい嫌悪を感じました。 生まれ持った性格を変えてまで、明るく活発で気遣いのできるはきはきとした人間に、皆がならないといけないのか? 微塵も思っていないことを言う面接ってなんだ? 現代の日本社会で生きるのに非常に適さない気持ちを抱いてしまいました。 結局、上記の二つが原因で体調を崩し(9割は前者ですが)、三年生の前期で退学しました。 退学後は、事務職や製造業などの仕事をしようとぼんやり考えていました。 給料は高くなくていいから、6時間くらい働いて余暇をのんびり楽しめる文化的な生活が望みでした。 しかし、実際は二つ短期の仕事に勤めたのみで、年明けからずっと無職の状態です。 雇用形態を問わず八つほどの案件に応募してきたのですが、ことごとく不採用です。 性格的に難ありだという自覚はあったのですが、ここまでくると私は本当に社会に不適合だったのだなと悲しくなってきます。 やりたいこともない、何かを頑張るエネルギーもない、この先どんな仕事をして生きていけばいいのか、自分のことなのに全くわかりません。 なにか、糸口のようなものをご教授いただけないでしょうか。

有り難し有り難し 25
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