私は過去に父親からひどい虐待を受けて育ちました。その影響もあり精神疾患を持っています。 今は両親は離婚し虐待からは解放されましたが、過去のことが今も私を苦しめます。 毎日死にたいという気持ちがあり悩んでいます。 そんな気持ちから解放されたくて、最近尼僧侶に興味を抱きました。 尼僧侶になり神に支え修行すれば、過去のしがらみからも解放され、私らしく生きられるのでしょうか? 私は結婚をしていますが、出家しますと、もう家族とは会えないのでしょうか。 出家してから子供を持つことはいけないことでしょうか。 宗派を決める決め手はなんでしょうか。 教えていただきたいです。
いつもお世話になっています。前から気になっていたのですが、真言密教と天台密教はどういう違いがあるのでしょうか?経典も違うと聞きましたし、主神も違うと聞きました。教義とか概念とか難しい言葉になっても良いので教えて下さいませ。 追記 なぜかまだお答えをいただいていません。お答えお願いいたします。
日々神社仏閣へ参拝に出かけたいという気持ちが強いものの、北米(保守的な土地)に住んでいるためそのような環境がありません。 中華系のお寺はいくつかありますが、あまりウェルカムな雰囲気でなかったり、何となく禍々しい雰囲気が漂っていたりして、どこも気軽に出かけられる雰囲気ではありませんでした。また、いくつか教会に出かけたこともありますが、そちらも何となく自分とは合わないと思いました。 そのような場合に家でできることなど、信仰上のおすすめの方法などがありましたら教えてください。(朝晩の勤行は数年来しています) よろしくお願いします。
真言宗の三摩耶戒についての質問です 私の手元にあります勤行次第(檀信徒常用経典)には三摩耶戒という項目があります。 密教ならではの戒律のようですが、私は結縁灌頂を受けていませんがお唱えしても大丈夫でしょうか。 (毎日、勤行次第の順番通りにお唱えしています) ネットで調べたところ「心と仏と衆生は平等一如」みたいな教えのようですが、このへんも詳しく教えて頂けたらと思います。 それと素朴な疑問なのですが、どうして普賢菩薩さまと同じご真言なんでしょうか? いつも質問ばかりですいません。 よろしくお願いいたします。
いつもお世話になっております。最近気が付きました。 私は、色々な人に「私は仏教徒です」と言っていますが、 仏教徒らしい事を何一つしていない事に。 そして、せめて、十善戒くらいは守ろうと思い立ちました。 そこで疑問が生じました。 「何すればいいんだ…?」 生き物を殺さない(殺虫殺鼠より防虫防鼠)、物を盗まない。 悪口や乱暴な言葉を言わない。偽情報に惑わされず、正しい リテラシーを持つ。キレない(これが私の最難関)。他人も自分も 守るため、正しい性教育知識と、性処理方法を身につける。ケチらず 困って頑張ってる人に施す。嘘つかない。 ここまでは分かったのですが、「不両舌」「不綺語」の 解釈が難しいです。 ご教授のほど、よろしくお願いします。
いつもお世話になっています。長年の疑問ですが、テレビや本で霊能力者とかがよくサラッと言ってる守護霊の事ですが、いまいちその存在を信じられません。私の親も信じられないと生前言ってました。がその反面、虫の知らせ的な悪い予感的なもので事故やピンチを切り抜りぬけた事もあると言ってました。しかし、即それがイコール=守護霊とは考えてませんでした。私も同じくです。仏教には守護霊という教義や概念はあるのでしょうか?難しい話になっても構いませんので詳しくお答えお願いいたします。すみませんが納得しない場合もありますので気を悪くしないでくださいませ。
こんにちは。ちょっとだけ、質問させていただきます。六波羅蜜の一つ、忍辱は具体的に、どういった修行なのでしょうか?日頃のストレスに反発せずに耐えるみたいなことであってますか
つれづれなるままに小学館 日本古典文学全集 歎異抄を読んでみました。 さすが親鸞聖人、輪廻転生をどう逃れるか、その難しさを嘆いておられます。 歎異抄は「仏教の目的」を如実に示しています。 歎異抄(現代語訳) 第一部 三 ーーーすべての煩悩を身につけているわたしたちは、どんな修行によっても、生死を重ねる迷いの境地をのがれることができないことをーーーーー 五 ーーーそのわけは、あらゆる生き物は、すべてみな、過去のいずれかの世に生まれ変わり生まれ変わりした、いずれかの時の父母や兄弟だからです。ーーーーー 九ーーー限りなく遠い過去から今まで生まれ変わり死にかわってきた、苦悩に満ちた故郷ともいってよいこの世は捨てにくく、まだ往生していない、ーーーーー
現在60です。 最近、退職しました。これから浄土真宗本願寺派の僧侶になって、できたら死ぬまで僧侶として働きたいと考えてます。 まず、僧侶になるためには、得度を許可し所属寺になってくださる師僧さんを探さなくてはいけないこと、そしてそれがかなり大変なことは調べて分かりました。その難関をなんとかクリアーできたとして、その後の僧侶としての生活について教えて頂ければ嬉しいです。 どこかの所属寺に所属する教師僧侶になれたとして、その後、そのお寺に雇って頂くということをまず考えました。しかし、最近では、他人を雇うほど余裕のあるお寺はあまりないと考えました。そこで、自分でネット(イオンやお坊さん便)などを利用して、法事の機会を与えてもらいつつ、修行&生計を立てることができれば、色々良いのではないかと現在考えています。 そこで教えて頂きたいのですが、お坊さん便などを利用して、所属寺外で法事を営むことは、所属寺から許可してもらえるでしょうか?また、許可してもらえるとして、やはり収益の何割かをお礼として喜捨させて頂けば良いのでしょうか。 僧侶になることは真剣に考えています。そこから、生活できるくらいの収入をもちろん得たいと考えていますが(年金が少ないので)、残りの人生を他の人に貢献するために使い切りたいという気持ちが強くあります。ご相談頂ければ大変うれしいです。
悟りについて興味があります 現在は、「今、ここを生きる」というチベットのお坊様の書かれた本に従って、一日中マインドフルでいられるように精進しています 禅の本やテーラワーダの本、チベット仏教やボン教の本まで読みましたが、実際に現場にいる僧侶の方の体験を聞いてみたいです 「認識が止む」のような、なにかしらバチっとした特殊な体験が一度だけあるのか それとも徐々に深まっていくようなものなのか 宗派を問わずご教示くださったら幸いです
父兄は曹洞宗の住職、副住職の僧侶です。 寺族である母が亡くなりました。 その後四十九日、秋春のお彼岸、一周忌、新盆。 何も連絡がありません。 伯母や従姉妹達にも連絡はありません。 亡き母の誕生日に孫達が実家に集まる事も拒否されました。 理由を教えてくれる事もありません。 こちらからの連絡は直接してはならず弁護士を通すように伝えらています。 法要とは故人を偲び、残された遺族が悲しみをのり越えて生きていくために、心の折り合いをつける大切な仏教行事であると思っています。 その機会を尊敬していた僧侶である父兄に一方的に奪われて 驚きと理不尽さと不安で心がいっぱいです。 今年は三回忌になります。 たぶん連絡は来ないでしょう。 お寺で産まれ、一生をお寺の為に尽力した母があまりにも可哀想で不憫でなりません。 今後、僧侶として檀信徒の方々に何を布教していくのでしょうか。 僧侶も人間です。 間違いも犯すでしょう。 保身に走りたくなる気持ちも分かります。 でも、逃げずに向き合う時は必要です。 やってない。俺じゃない。知らない。覚えていない。分からない。 と逃げ回っていても誰も解決などしてくれません。 誤魔化し、嘘をつき、欺くことをやめて 自分の立場を自覚して誠心誠意、他者に対して心を尽くす事を 人して僧侶として今生を生きて欲しいと思っていますが、 無理な願いでしょうか。
1. 解脱=悟り=涅槃ですか? 2. 解脱とは実際にあることですか?なにか架空のことではないですか? 解脱がなにかわかっているわけでもなく、質問しています。 インターネットや本で調べたほうがよい内容ですが、よくわかりませんでした。
日蓮宗の信徒です。 幼少期より、朝夕の父の仏壇のお勤めを見て、方便品第二や寿量品第十六など自然と覚えておりました。 一昨年父が他界し、今は私が仏壇へのお勤めをしております。 その後、二十一、二十六、二十五、十二と徐々に読めるようになり、更に今まで知らなかった内容(意味)についてもYoutubeなどを見始めております。 二十八品全ての道のりは長いですが、敢えて順番を付けるとすると、次やその次とどのように勉強していけば良いのか、ご意見を頂けますと幸いです。 また、具体的に、次の時にはどの品を読まれているのかもご教授頂けますと幸いです。 今後、菩提寺様や久遠寺など、行事に参加する機会を増やしていきたく、その際にお上人様とご一緒に唱えられるものを増やしていければと思っています。 ・*周忌法要 ・御施餓鬼 ・立教開宗会 ・祥月命日 ・お葬式 ・その他、重要な行事 よろしくお願い申し上げます。
はじめまして。 地方の田舎の寺を親から継いだ40代独身です。 20代で修行を終え、最近登記も済ませ、住職となりました。 姉(独身)と父(もう高齢化してきてます)と私の3人でやってます。 母親は檀家の紹介でお見合いし、父と結婚。しばらくアパートで暮らしてましたが、姉が産まれ、しばらくして、弟である私が産まれました。 その後、寺に入ってほしいと祖父母からの要望で、田舎の寺で祖父母と同居となりました。 母はそこそこ有名企業で収入もよく、当時結婚が当たり前の時代、相手はほかにもいたというのに、なぜ寺なんかに嫁いだのか・・・。 私らの子育てがあったので、仕事をやめ、寺で生活してましたが、慣れない祖父母との同居生活、加えて急に来る檀家の対応等で精神疾患となりました。 どうしても無理だと思った母を見かね、父は私らを連れて寺を出ることになりました。寺から1時間程度離れた別の場所に家を建て、そこで私らは育ちました。住所変更も済ませ、学校などもそちらの地元を出ました。 その後、私は専門を出て就職したのですが、父が病気にかかり、寺を継いでやってくれと頼まれまして、仕事をやめ、そのまま修行を終え、寺に入って住み込みで約10年ほどやってきました。 田舎の檀家寺になりますので、近辺のほとんどが昔からの檀家です。 付近の住職死亡後誰もやらなくなった無住の寺を代務でいくつも抱えており、その負担が私に全部来るようになってます。 朝でも夜でも電話もなく、いきなり急に来る檀家が多く、毎回相当なストレスを感じてしまいます。少しでも出れなかったり、いないと、なんでいないんだ?どうなってるんだ?と怒鳴る檀家もいて、もう寺にいたくないとさえ思うことが多いです。 葬式が入れば、戒名いらない、葬式だけ1日でやってくれ、寺に親が昔勝手に建てた墓があるから仕方なく、住職を呼ばないと納骨ができない・・・そんな感じの檀家がほとんどで、毎回対応するのがものすごい大変です。 今はまだなんとか父がいますので、いろいろ聞きながら、私が檀家の接客電話担当、姉は裏方で主婦みたいな感じでやってます。 もう姉も私も結婚は難しいと思ってますし、檀家は全部あわせると400件ほどおり、次はいったいだれがやるのか・・・。 できることなら私と姉はやめて、寺から出ていき、よそから住職呼んで継いでもらいたい・・・甘い考えなのでしょうか?
こんにちは。私はバツイチ子なしです。 前の旦那と別れて6~7年くらいで彼氏が出来ません。 私は菩提寺で開かれている瞑想会に参加して週一回、一緒に瞑想しました。 私が仕事のことで悩み上手くいかないと相談し、瞑想で心がよくなれば仕事も出来るようになるから、お寺の本堂は開けておくのでお付き合いするので毎日きて良いとおっしゃっていまし た。 その後、母が倒れて実際にはそんな暇なかったのですが、お付き合いというのは、男女的なものなのか、ただ単に瞑想に付き合うという意味なのかよくわからないまま、通わず仕事と介護とでいっぱいです。 私は住職とは男女の関係になりたくないけど、瞑想会の人達は好きだし、あのお寺も本当にキレイで清潔ですが、 住職のことはどうしても好きになれないので距離をおこうと思っています。本人にきくのははばかれるので質問してみました。
母がお仏壇をお祀りするにあたり、ご本尊は普通のお仏像ですが脇侍を見ていて可愛い童子型の地蔵菩薩様か観音菩薩様をお祀りしたいと考えているのですが一般的なお姿の普通のお仏像が良いのかアドバイスをよろしくお願い申し上げます。
いつもお世話になっています。故人がなくなった四十九日について質問させてください。一般的に四十九日間は故人がまだ現世にいるとなっていますが、ずっと昔、霊能力者の人が書いた本には、四十九日間は確かに故人の魂は現世にいますがちょうど四十九日後にあの世からその故人の魂を、あの世の使いが迎えに来る、もし、それについて行かなければずっとこの世を漂う事になる。 と書いてましたがこれは本当の事なんでしょうか?お答えお願いいたします。
引き寄せを信じている人から以下の話をしていました。 『畑は自分を信じる心、種は願い事、肥料は現状に満足出来る気持ち いい状態の土(心)は、良い土(心)を作る事 良い土(心)の状態は自然体な状態で心が喜んでいる状態で、 その時々の気持ちに忠実になり自分が自分に寄り添ってあげる事 自分を好きで信じてるからこそ、他者を好きになれて信頼できて、人を許せるようになり、世界を愛せるようになる 世界を愛せるようになる頃には、自然に日常の幸せに気付いて感謝出来る心が自然に育っている これが畑でいう肥料になる』 そして、 ブログを書いてるお坊さんも… 『仏道を歩む上で大事なのが、 最近よく耳にする【引き寄せの法則】 「思考が現実化する」「自分の心が現実を作る」 仏道を歩む上で大事なことは、「いい気分でいる」ということこそ大事で、 自分の「今その時の感情がとても大事」 この感情がまわりと共鳴して、 また、「嬉しい、楽しい、良かった」と思えることが起こってくる。 「投げかけたものが返ってくる」という引き寄せの法則そのもの。 たとえ念仏していても、気分や感情が不平、不満、愚痴等なら、それらを味わう現象が起こってくる。 だから、仏様を味方につけたのだから、 この娑婆世界、どうにも汚い世界かもしれないけど、この至らない私もそこで精一杯生きているし、生きていく。 その人生をやはり「幸せなもの」にしたいと願う。 だから、そのためにお念仏して、自分に起こり得る 全ての事を仏様にお任せして、 現世での起こる結果は、お任せした結果の「ギフト」と受け取り、最後は、死後、極楽へ往生させていただく。 その過程の中で、 自分の機嫌は自分でとって、いい気分でいる時間を増やす。 ネガティヴな思いが出てきたら、仏様にすべてを聞いてもらい、お任せをし「念仏瞑想」を実践していく。 そして、常に自分に与えられた現実の中から 「しあわせ、ありがたい、よかった、うれしい」と思える事を探して、今の現状を満足して感謝していれば 仏様ご先祖さまから更なるお導きが得られ、引き寄せられるようになってくる。』 仏教でも心は畑のようなお話はあるのでしょうか? 「心は畑」「マザーテレサ」の言葉も引き寄せに繋がっていると言っていまして、お坊さんまで引き寄せを話していましたが… 仏教と引き寄せは何か繋がっている部分があるのでしょうか?
先日祖父が亡くなり、生前からの祖父の意向もあり、家族のみ参列し、所謂直葬を執り行いました。 無宗教ということと、以前身内の葬儀の際にお坊さんの振る舞いについてとても嫌な思いをしたことがあったようで、それ以来自分が死んだら戒名もお経もいらないから家族だけで見送って欲しいとのことでした。 祖父の希望通りに直葬を執り行ったのですが、せめて火葬場ではお経を1回くらい読んで貰った方がいいのではないか、と親族の一人から声が上がり、じゃあそうしようということで、その際お世話になっていた葬儀屋さんに相談し、お坊さんを手配して下さるとのことで火葬の前に読経していただけることになりました。 お経が始まり、喪主である祖母がまず焼香し、それに続いて参列者が順番に焼香を行っていたのですが、一人ずつではなく三人ずつ焼香を行って欲しかったようで、お坊さんが読経中ですが参列者のいる後ろを振り返り、すごい目付きで睨んできました。 確かに焼香台は三つありましたが、特に何も言われなかったため、喪主に続き一人ずつ焼香を行っていました。 お坊さんの様子に気付いた火葬場の職員の方が、三人ずつどうぞと声をかけてくださったのですが、その間も時折こちらを睨みつけるように見ており、更には肩を竦めため息を吐いていました。 あまりの出来事に唖然としたと同時に頭にカッと血が登り、動悸が激しくなりました。 そのくらいの衝撃を受けました。 そのお坊さんにとっては数ある内の一つかもしれませんが、私たち遺族にとってはそうではありません。 大切な祖父を侮辱されたようでとても腹が立つと同時に悲しくて仕方ありません。 祖母も気付いており悲しがっていました。 こんなことなら祖父の言葉通り、読経してもらうべきでは無かったと後悔しております。 そのお坊さんへのお布施は一万円お渡ししましたが、お金さえ貰えれば後はどうでもいいのでしょうか? 腹の中で何を思ってようが自由ですが、それを表に出さないようたった数分も我慢できないのでしょうか、それが不思議でなりません。 上記したように、以前にもお坊さんのことで嫌な思いをしたことがあり、それに今回のこともあり、もちろんそんな事はないと分かってはいるのですが、こんな人ばかりなのですか? また、この悔しい気持ちの落ち着け方が分かりません。 アドバイスいただきたいです。 よろしくお願いいたします。
初めて質問させていただきます。 日蓮宗の本尊形式についての質問です。 日蓮宗の本尊では一塔両尊(多宝塔の隣に釈迦如来と多宝如来がいる)と言われる形式に四菩薩や四天が加わり、その前に日蓮さんが配されていることが多く、また地域によって曼荼羅の位置が異なったり、曼荼羅の前に地域で信仰されている諸天が配されている場合が見受けられます。 ところが先日京都で拝観させていただいたお寺では、一塔両尊の前に釈迦如来が配されている(つまり釈迦如来の前に釈迦如来がいる)本尊を見かけました。 これは本仏に対する応身を強調するためなのか、それとも日蓮さんに法華経を伝える迹門の釈迦如来を重視する意図なのでしょうか。 そのお寺では聞きそびれてしまったので、もしご存じの方がいましたら考えられることでも構いませんのでご教示頂けると助かります。 以上、よろしくお願いいたします。