質問です。2つの宗派の僧侶になる事は出来ますか?例えば家が浄土宗のお寺で浄土宗の僧侶になったが、天台宗の教えの素晴らしさにも気づき、どちらの宗派の教えも深めたいと思い天台宗の僧侶にもなった、みたいな状況です。日本史で見ても初めは~宗の僧侶だったけど後に~宗を開いた様な事例はあると思います,2つの宗派の僧侶になる事は違法なのか?可能なのか?回答お願いします
成田山の見習い僧侶の求人を発見しました。現在24歳女です。僧侶になるのは大変ですか?又、過去質問で僧侶としての働き先はあまりないとの事なのですが。どうなのでしょうか?
先日親が他界し自分の家の宗派が解らず、葬儀屋さんに実家の仏壇の写真を見せて浄土真宗大谷派と判断して頂きその宗派で葬儀致しました。その数日後宗派が本願寺派とわかり以前にお世話になっていたお寺さんもわかり早速お寺さんに相談し最初は連絡無しに引越ししてしまいお寺さんにお叱りを受けましたが満中陰法要をお引き受けして致けました。 その満中陰までの間に親が元々住んでいた所が好きだった事からその町内のお寺さんの敷地内の墓地を契約しました。ただその墓地のお寺さんは法華宗でそのお寺さんいわく他の宗派のお寺さんも墓地に来てもらってお経唱えて頂いても問題ないですよと言われました。 その事を今お世話になってるお寺さんにお願いしたらウチはそれは致しませんと断られそこの宗派の違うお寺さんに今後面倒見てもらってくださいと突き放されまた。。 私自身は宗派に拘りなく親戚も僕に一任しております。 ただ先祖代々続いて来た浄土真宗本願寺派をここで変えて良いのかなやんでます。御葬儀の時も大谷派と間違えたのにどうして良いのかわからないのでアドバイスよろしくお願い致します。
初めてご相談させていただきます。 禅寺の住職と結婚し、数年の内に寺族安名式と寺族研修を修めております。 ですが私の性格上(向き不向き)、どうしても寺の嫁として期待される作務で日々を過ごす・働くのは窮屈に感じてしまいます。 一般企業で就職し、会社の駒でいるほうがずっと働きがいを感じられます。 ですが、結婚を機に引っ越したお寺は田舎で周りに会社が少なく、また菩提寺として檀家さんからのお布施でつつましくも兼業が必要のない所です。 なので周囲も義家族も夫も私に対して「あなたは当然お庫裏さんでしょう」の感覚を当たり前のように押し付けてきます。 もちろん結婚前に夫の言う「大丈夫、難しいことなんてないよ。できるよ」を深慮せずに、大好きな人との結婚に舞いあがってた私に責任が無いとは言いません。 ですが在家のイメージと寺育ちのイメージの乖離にお互いが気付くには、結婚前だと中々難しいものがあると思います。 檀家さんとお寺を護っていこうとする夫や義両親の姿勢は尊敬していますが、結婚して一緒に過ごせば過ごすほど私にはできない、したくない、寺族としては関わりたくないという気持ちが、強く固まってきています。 もちろん人付き合いはしますが寺の嫁と見られますし、狭い田舎なのでとにかく身元が筒抜けなのも気持ち悪いです。日常の買い物ですら監視されている気分ですし、大げさに言えば清く正しく慎ましくあって当然、すばらしい義母に導かれ良き寺嫁になってくださいね。と重圧すら感じます。 婚姻届に寺族の誓約書でも付いていたっけ?と思うほどに信教と職業選択の自由を奪われています。 夫が住職なんだから当たり前でしょ、と言われますが、例えば自衛官の妻に国防の意識を強制しますか…? 仏教だから疑問に思われにくいだけで、義家族と夫の行う宗教マインドに染まりましょう、というのは私からすれば新興宗教の勧誘と変わりないのではと思うようになりました。 頼まれた時に手が空いていれば留守番や片付けくらいはします。ただ毎朝本堂へ手を合わせに来いだとか、夕方の鐘をつく役割をしてほしいとか、寺族の勤めを促してくるのはやめてほしいです。 長くなりましたが私だけは、在家・OLのように過ごしたいと思っていることを どのように伝えればいいでしょうか。相手の人生を否定する気はないのですが、私の❲生きやすさ❳は否定されそうで悩んでいます。
摩訶不思議な能力(透視とか霊感的なやつ)が身に付いたら今後の人生楽しそうだと思い色々ネットで調べたところ、ある方のブログで ちゃんと修行して伝法灌頂を受けた?人じゃないと摩訶不思議な力は身につかないし、偽物だ ぐらいの事が書かれていたのですが事実ですか? むしろ、個人差はあれどちゃんと密教の修行をすれば身につくものなのですか? 私のような不純な動機、中年女性、実家の菩提寺は禅宗とかでも可能ですか?
Kousyo Kuuyo Azuma様 質問ではないのですが、この場をお借りしてお礼を申し上げます。 先日「ペットがいなくなって」と質問し、回答いただいた者です。 昨日、愛犬が無事に戻ってきました。親切な方に保護されて、病気も怪我も汚れもせず元気に戻ってきました。 私は神は信じておりませんが、仏様に手を合わせることはしています。 私が小学生の時に亡くなったおばあちゃんがいつも見守ってくれているなと感じることが前からあり、久しぶりに実家に帰りおばあちゃんに手を合わせて一心にお願いしたところ、その2日後に保護した方より連絡がありました。おばあちゃんがそう導いてくれたと思えてなりません。 また、捜索中は大変辛い思いをしましたが、とても良い経験でもありました。いかに自分が幸せであったかと気づかされ、みなさんの優しさや励ましにたくさん触れられました。 一番辛かったとき、ありがたいお言葉をいただき、祈っていただき、助けられました。 心からお礼を申し上げます。ありがとうございました。
いろいろな出来事があって、浄土真宗の本(一般書ですが多数)を2年程度読んでいます。癒されるためには懺悔や祈りはとても大切だと思うのですが、どの本を読んでも阿弥陀様はすでに私たちを助けているため懺悔も祈りもしてはならないような解釈がされています。 私にとって叶わないとしても祈りや懺悔は心を安定させるためにも重要で、最近キリスト教会へ行ってみましたが、やはりご先祖様から続く浄土真宗の門徒でいたい思いもあります。 現状でもう救われているでは諦めのような心境になります。祈りも叶わなければそれが仏様の願いであればよいのですが、祈る必要もないと言われると複雑な心境となります。 私の解釈は間違っているのでしょうか。よろしくお願いいたします。
こんにちは。いつも、お世話になっているものです。 仏教にはアングリマーラさんの伝説がありますが、アングラマーラさんのしたことは99回分殺されないと、割に合わないのかなと思います。しかし、アングリマーラさんは解脱したので、もう生まれることはありません。 ここから考えるに、過去世において、99回分理不尽に殺されたとか、あるいは99回分の人の命を救ったとしか思えないです。私たちも、同じように人から理不尽に迷惑をかけられたりしても、やり返さなければ、それを耐えた分の苦しみは絶対に報われるし、頑張って人助けすることが、来世、アングリマーラさんのように、報われると解釈することもできるのでしょうか?
友人が子供を亡くしました。 もう10年前の話になりますが、私が友人宅に遊びに行った時に遺骨がお墓に納められておらず、家に置いてありました。 私は「え?遺骨はお墓に納めてないの?」と聞くと友人は「葬式に来てくれたお坊さんが別に墓に入れなくていいって言ったから納めてないよ」と...。 私は『いや・・・それはまずいだろ・・・ずっと遺骨を家に置いておくなんて・・・』 と思いましたが、何故お墓に遺骨を納めなければいけないのか?その根拠を友人に示すことができませんでした。 多分今でも友人のお子さんの遺骨は家に置いたままだと思います。 遺骨をお墓に納める理由、お墓の役割などを教えてもらえないでしょうか?
家の宗旨である浄土真宗から思うところあって浄土宗に改宗した者です。かつて西本願寺で帰敬式を受けて授かった法名がありますが、新たに浄土宗でも授戒を受けたいと思っています。 その際、事情を話してすでに真宗での法名を持っていると言うべきなのか(そうしたらその法名がそのまま採用される?)、そのことには触れず新しい法名を貰ってもいいのか、どうでしょうか? 宗旨によって法名の形式は違っても法諱の部分は漢字2文字なのは一緒なので、その部分の話です。 今の法名も好きですが、新しい名乗りをと考えるとそれもワクワクするんです。
先日大好きな妻が亡くなりました。妻は本当に僕の全てで大事な大事な宝物でした。 子供もおらず、独りぼっちになってしまい、今は絶望しています。生きる目的、意味が全く無くなりました。 僕の唯一つの願いは最愛の妻の魂にずっとずっとすぐそばにいてもらい(お骨も手元に)、自分が亡くなるときに一緒のお墓に一緒に納骨してもらい、そしてあの世でまた会えることだけです。 質問なのですが、49日に審判され遠くへ行ってしまい最終的に極楽浄土を目指すという理解をしているのですが、疑問があります。 白木の御位牌から本位牌となり、魂を入れて頂くと思うのですが、位牌に魂が宿るとするならば、極楽浄土などに魂は向かうのに、魂はいったいどこにいるのでしょうか? 魂は分割され2か所にいるのでしょうか? また、お盆には年に一回戻って来るという話しも子供の頃から聞いており、迎え火で迎え送り火で送り帰って行くということでした。帰ってしまったらいないということなのでしょうか? 極楽浄土等、御位牌、お盆、魂の居場所をわかりやすくご説明頂けますと幸いです。 僕は妻にずっとそばにいて欲しい、遠くへ行って欲しくないと考えております、魂の居場所によっては仏教と考えが合わないのでしょうか? 実はそのように悩んでいる間に49日が過ぎてしまいました、49日の法要は過ぎては良くないと聞きますが今から行って頂くことは難しいのでしょうか? どうぞ宜しくお願い致します。
いつもお世話になっております。 私が尊敬する情報科学の先生がXで、 「未だに、天災や気象現象を『神仏の怒り』と考える人は多く いる。しかも議員になれてしまうほど支持率が高い。なんでも かんでも『神仏のせい』にすれば、自力で考えなくて済むから。 だから自分は、宗教の原理主義的なものは嫌いだ」 とおっしゃっていました。 私は、宗教は「生活規範」「安心と励ましを与えてくれるもの」 と捉えています。 昔の人は、不幸な事…災害の発生や疫病の流行が起きると、 「仏様神様がお怒りになっている」 と捉えたと聞きます。 しかし、私は、 「地震だ!身を守れ!備蓄はあるか?火は出ていないか?神仏が見守って くれている。頑張って知恵絞って、みんなで力を合わせて乗り越えよう」 と捉えています。 私は、原理主義…つまりそのまま文字通りに経典等を捉えることは、 思考停止、理解が浅いと思っています。理解の浅さや霊感商法にも 繋がると思っています。 私は、宗教とは、経典を生活規範としつつ、いかに世渡りをして いくかを説いてくれているものだという認識です。 「宗教やってる奴なんて狂人」とネットで言っている人がいました。 私は、昨今のゆがんだ宗教観が原因でそういった認識も広まったと 思っています。霊のせい、神仏のせい、墓があるせい、方角が… お告げが… お告げに至っては、現代ではメスカリン、アヤワスカの作用や 精神疾患が原因と分かっています。 また、ある工学の先生は、 「自分の感覚では、宗教は『頼る人』と『信じる人』に分かれると 思う。頼る人は、自己分析不足で盲信的、信じる人は客観的な 自己分析ができ、自分の非力さを理解したうえで、足りないところを 宗教の裏付けで上手くバランスをとっている印象がある」 とおっしゃっていました。 私は原理主義者、「頼る人」ではなく、伝統墨守、「信じる人」と いう立場でいたいです。原理主義者にならず、伝統を守りつつ、 世渡りをしていくにはどうしたらよいでしょうか。
こんにちは。 お坊様に質問があります。 時々、お地蔵様や観音様や有縁無縁万霊等にお線香や飲み物をお供えしているのですが、その際に、お地蔵様や観音様や万霊が満腹になります様にと心の中で思っているのですが、問題はないでしょうか?
お世話になっております。 何度かこちらに投稿させていただいたり、ネットや本で仏教のことを知るたびに、仏教の教えが自分に必要なこと、訓練しなければならないことということを知りました。 今は、お坊さんのように上手にはできないけれど、できるだけ煩悩に流されずに生きたいと思っています。 ですが、やっぱり中々うまく出来ずに「自分はダメだ」と落ちこんでしまいます。 こういうとき、僧侶の方はどのように自己否定感と向き合っているのでしょうか。 特に、自分が手放したいけど手放せない煩悩は「怒り」です。母と姉への強い怒りがあり、それを隠そうと思っても、顔を見た瞬間に怒りと憎しみの気持ちがムクムク溢れてきて、止まらなくなります。 母と姉を「許す」ための取り組みも試みましたが、未熟な私にはまだ無理のようです。 煩悩(強い怒り)に勝ち平穏に生きるために、僧侶の方がされていること、また仏教的にしたらよい取り組みがあればご教示いただきたく、よろしくお願いいたします。 (ちなみに先程イライラして、ストレス発散のためにまたコンビニで無駄買いしてしまいました。自由と安寧にはほど遠いです…。)
いつもお世話になってます。実は友人にクリスチャンの人がいるのですが、カトリック、プロテスタントも仲が悪いし、プロテスタント内でも色々な教派がありお互いに仲が悪いそうです。それに比べ、仏教は宗派に別れていても昔はともかく現在は仲がよくいい関係みたいに見える、うらやましいと言ってました。そこで質問なのですが宗派間でお話し合いとか協定?とかされているのでしょうか?
10日ほど前に父親が亡くなりました。葬儀は浄土真宗のお坊さんにお願いしました。実家には高齢の母親が1人で住んでいるため、1人でいるときに火を使うのは危ないと思い、お線香をあげないようにお願いしてしまいました。しかし、四十九日まではお線香を絶やさないように、といったものを見るとほんとうにそれでよかったのか悩んでいます。お茶や、ご飯、生前好きだったお酒などお供えして手を合わせることでも大丈夫でしょうか。またそれらを母が毎日しなくても大丈夫でしょうか。 ろうそくも危ないので、蝋燭灯を買い求めつけてくれています。 離れて暮らしている私も手を合わせることで供養になりますか。その時お念仏を唱えるのか、父に話しかけたらよいのか、どのようにしたらよいでしょうか。 父親は、生前お念仏を唱えたり、信仰があったわけではありませんが、それでも救われますでしょうか。お酒好きでわがままなところもあり、怒りやすく人に迷惑もかけたこともあったと思いますが、優しく愛情もある人だったと思います。 間違った行いをしたこともあると思いますが、それを反省したのかはわかりません。 父がどこにいくのか確かめようがありませんが、救われて欲しいと願っています。 質問が複数になってしまいすみません。どうぞよろしくお願い致します。
仏教の出家得度について質問です。僕は仏教の教えの素晴らしさに気づき家がお寺では無いですが僧侶になろうと考えています。以前までは浄土宗の僧侶になろうと考えていましたが最近曹洞宗の教えにも惹かれるようになりました。ここで気になったのですが、浄土宗、曹洞宗の両方の宗派で出家得度し両方の宗派の僧侶になる事は可能なんですか?
いつもお世話になっております。朝からネットで法話を聴いて いました。 「老いた人は邪魔にされ、病む人は嫌がられ。これが人生。 仏教の教えに通じる」 とお坊さんが言っていました。 老いることは止められない。病むこともどうしようもない。 私は発達障害があり、体にも影響が出てしまうので、ヘルプ マークを付けています。満員電車など、「座らせていただけませんか」 とお願いすることも多々あります。 私の主治医の先生や支援者さんは、 「差別的、排除的な考えを持つ人は、世の中でも一部だよ」 「障害、病気だからみんなから攻撃されるという考え方は、 とても損」 と言います。 私が尊敬するくられ先生も、 「人は、不健康な人を見ると恐怖を感じるように進化してきた」 と言っていました。 しかし、 「障害を負っている人たち。確かに、周りの人は違和感を抱く。 でも、勉強している人や知っている人は、理解してくれる」 と続けました。 くられ先生は、毒物学や生化学に詳しい科学ライターの先生です。 しかし、お坊さんはその法話で、 「檀家の90歳のおばあさんは、いつも笑顔で『おかげさま』『ありが とう』が口癖の人。そのため、町内でも人気」 と言っていました。 私も、席を譲ってくださった方には、飴玉を勧めるように しています。断られてしまいますが、お礼の気持ちです。 私は、周りの人を怖がらせている、不快にさせているの でしょうか?どうすれば、病んでいても老いていても、邪魔にされない 嫌がられない存在でいられるでしょうか?
お世話になっております。六波羅蜜の忍辱と因果応報について、合わせてお聞きしたいことがあります。六波羅蜜の忍辱の修行は、人それぞれの解釈というか、正解があると思います。僕は忍辱は、自分の考えかたや、捉えかたを、変えることだとは思います。ですから、僕に自因自果、というか悪因悪果の報いが現象化してきた時に、「それ」をどう捉えるかということを、意識して変えようとするのですがうまくいかないです。どうしても瞬間的な怒りが湧いてきて、そのまま精神を持っていかれたりするからです。さらに言えば、悪果が理不尽なことであればあるほど、何か月も思い出すたびに相手やその出来事を恨んだりしてしまいます。これは、僕自身が因果応報を心の底から信じられないよう所為な、己の無知の所為なのかもしれないです。ということは、因果応報を心の底から信じられるように、自分の解釈を変えられたら怒りや恨みが抑えられるのかもしれません。このように、自分の信念を変えることが忍辱なんでしょうか。
私は先祖代々◯◯◯◯宗なのですが、とある和尚さんとの出会いで真言宗に興味を持ち、真言宗を勉強しています。 月一で参拝するお寺も真言宗のお寺様です。 先祖代々◯◯◯◯宗でそのうち本家の仏壇なども私が見なくてはならないのですが、私は真言宗に改宗したいと考えています。 先祖代々◯◯◯◯宗なのに私の代で真言宗に改宗することは良くないことなのでしょうか? あと改宗するにはどうしたらよいのでしょうか? お寺様に行って改宗したい旨を伝えれば改宗はできるのでしょうか?