実家の菩提寺は浄土真宗なのですが、私は下記のようなことを体験してから、毎年比叡山延暦寺さまにお詣りをしています。 親世代は付き合いがあり、改宗は難しいと思いますが、私は天台宗に改宗したいと考えております。後継者がいないので、お墓もどのみち両親でおしまいになるかと思います。 しかしながら、近辺で天台宗のお寺にご縁がなく、どのように改宗手続きをすればよいかわからないでおります。 どうかよいお知恵をお貸しくださりますよう、お願い申し上げます。 死んだ祖母が初7日の頃、私と弟の名を呼びながら、実家を彷徨う夢を見ました。 当時所用があり、滋賀県に滞在していたことから、翌朝比叡山延暦寺さまにお詣りし、お薬師さまに祖母をお願いしたところ、翌週、少し若返った祖母が綺麗な服を着て、真新しい桧風呂の前でニコニコしている夢をみました。ちなみに、私は入れないといわれました。 30日位には、紙の戸籍に祖母が死亡したことが載った夢を見たため、行くところに行ったのだ、と認識いたしました。その後は大きなお寺さまで修行をしているような夢を何度か見ました。 死ぬ直前は本人の意に沿わないまま施設に入れられたり、と不遇に過ごしていたため、死んでからとはいえ、お薬師さまに導いていただき、まっとうなところにいけたのでは、と今でも感謝しております。ですので、是非ともお薬師さまとご縁のある天台宗へと改宗したいと考えております。 何卒よろしくお願いいたします。
7月に夫が急死し、49日の法要を済ませました。 浄土真宗では亡くなった人はすぐに成仏する、と聞きました。 お尋ねしたいのは、故人を思い出したり、あたかも、故人がそこにいるように話しかけたりするのは、故人にとって悪いことにならないか、ということです。 家の中のあちこち、外出先の車の中、夫といつも一緒にいたので、どうしても話しかけたりしています。 義実家の仏壇には週に一度、分骨していただいた手元供養の小さい骨壷には毎朝毎晩手を合わせ、話しかけたりしています。 仏壇やお墓以外で故人に話しかけたり、思い出したりすることで、故人が苦しんだりはしないですか? くだらない質問になってしまいますが、ご回答何卒よろしくお願い致します。
今年の2月に母が亡くなり、私は嫁いだ身ですが 私の家に母の位牌と仏壇があります。 (父と兄と主人に頼み、快諾してもらいました) 父は2年前に老人ホームに入居して、母が一人で住んでいました。 母が亡くなり、今実家は誰も住んでいません。 私が1日おきに実家に行き、掃除など風を通しています。 実家には祖父の位牌と祖父の先祖代々の位牌があります。 祖父は真言宗です。 (父方の祖父母は、父が10代の頃に離婚しており、 その後は全く音信不通でしたので、 母も兄も私も、お棺の中の祖父が初対面でした。) 母は浄土宗です。 初盆供養に来て下さるお坊さんに相談させて頂き、 祖父と先祖代々の位牌を私の家に持って来て、先祖供養もして頂きました。 祖父にこのまま私の家に居て貰おうかなと思っていますが、 仏壇には阿弥陀様がいらっしゃいます。 祖父の御本尊はどうすれば良いのでしょうか? そのまま実家の仏壇に居て頂いても良いのでしょうか? 祖父は来年三十三回忌です。 来年閉眼供養をして頂くつもりですが、せめてその時まで 誰もいない実家よりは私の家の方が良いのかなと思っているのですが、 孫とはいえ、生前会った事もない私の家じゃ居心地悪いかなとも思い どうするべきか考えています。
はじめまして。 29歳、浄土真宗のお寺の長女です。 ここ数年我が家では後継者の話題になることが多いのですが、私は今の仕事を続けたいと思っているので、自分自身が僧侶として働くことは難しいと思っています。 私が結婚して、夫となる方がお坊さん、またはお坊さん志望で継いでもらえたら嬉しいのですが…一般的な婚活に何度か参加しましたが、この話題を切り出すタイミングが難しく、うまくいってもお寺のこと言うと振り出しに戻ってしまいました。 職業で結婚相手を選ぶなんて!と周りに言われたこともあり、「お寺を継いでくれる人と結婚したい」や「お坊さんやお坊さん志望の方と結婚したい」とも言いづらくなってしまいました。 ですがお寺を継いでもらえるとしても、それだけですぐ結婚するのではなく、時間を設けてお相手の方とはきちんと向き合って一緒に幸せになれるように私の方から努力していきたいと思っています。 独身のお坊さん、またはお坊さん志望の方とはどこで出会えるのでしょうか。 紹介などしてもらえる場はあるのでしょうか?(お寺の婚活サイトにも登録しましたが、養子に入りたい方は人数がとても少なかったです。) よろしくお願いいたします。
毎年お盆が来ると、仏様が普段どこにいるのかが気になります。 お盆の時のみ迎え火、送り火などをして仏様を迎え送りますが、その他の日はどこにいるのでしょうか?? 宜しくお願い致します。
私の罪をお許し頂くために、お坊さんに個別で直接お会いしたいのですが、このご時世では無理でしょうか。
今、大学で、全然宗教とは方向性が違う学部を選考してやっていますが、この時点からどうすれば、お坊さんになれるのでしょうか? 大学は中退した方が良いですか? 正直、真面目に就職して社会と自分を無理矢理結びつけるよりもお坊さんになって大自然の中で悟りを開く修行に打ち込んだ方が自分にとって有意義だと感じた為です。
お坊さんにも、悪いことをしたことがありますか? 間違ったことをしてしまったこともあるのでしょうか? 昔の罪や自分を許せないことはありますか? 過去の自分を許せない時、どのように立ち直れば良いのでしょうか。 私は悪いことをした自分が目標の仕事に就きたいなんて思っていいのか、と自分を責める気持ちがあります。 お坊さん方も、自分がお坊さんになることに対して躊躇した経験や、自分がこの仕事をしていいのか、と考えたことはありますか? お坊さんは善人というイメージが個人的に強い様に感じます。しかしハスノハの回答を見ていると、お坊さんでも過去に罪を犯してしまった方もいるようです。 私のなりたい職業よりも、お坊さんは善や心、道徳を大事にする部分が多いため、葛藤もあったのではないか、と疑問に思いました。 罪を犯した自分が夢を追いかけることに対してどうしても罪悪感が拭いきれないため、お話を聞かせていたたけたら有り難いです。 どのようにして罪や過去の自分、今の自分、そして仕事に向き合っていますか? 僧侶や仏教、宗教というものにあまり詳しくないため、検討違いな文章になっているかもしれません。 僧侶を職業だと認識して、仕事として書いておりますが、お坊さん方は「仕事ではない」と認識されているかもしれません。 知識不足でご不快な文章になっていましたら申し訳ないです。
仏教について調べていると、葬式とその後の供養が最重要トピックの用に扱われているのが不思議です。 親や先祖の供養ってそこまで大事なのですか? 血縁ってそこまで重要なのかしら? 先祖供養は儒教ではないのかしら? いえ、私も木の股から生まれたわけではないので、縁なり因果なり何かしらあるのだろうとは理解はしていますが。 この世に産み落としてくれたことは有り難いのですが。 血のつながりばかり大事にしなくてもそこかしこに縁はあると思うのです。 個人的に家族の縁が薄いこともあり、 親や先祖のことはよく知らず供養もしていません。 私の死後供養してくれるものもおりません。 しかしそんな私が死んだ時も 仏さまなら何とかお慈悲をくださるのではなかろうか というのが信仰を持ちたいと思った動機なのです。 「私と仏さま」の話ならわかる気もするのですが「私と先祖と仏さま」の話がよくわかりません。 先祖供養が必須なら、親のない人間は仏さまに救っていただけないのでしょうか。 そもそも私の理解が間違ってるのかもしれませんが、 苦しみの多い輪廻の輪から解脱するため修行をしよう、また大乗仏教においてはいろいろな仏さまの力を借りたりおすがりして解脱にいたろう、 というように仏教的な死生観を解釈しています。 修行が足りず仏さまとの縁も結べなければ輪廻の次の段階に進むでしょうし、 宗派によっては生前から成仏しているわけですし 浄土系の宗派では阿弥陀さまのお慈悲によって極楽往生できるでしょうし…。 死後、死者の行く末に関して、生者はどれだけの干渉ができるのだろうか、というのが疑問です。 それは死者本人と仏さまの間の話ではないのかと思います。 そうすると供養とは何のためにするのでしょうか。 お教えをいただければ幸いです。
先月母が亡くなりました。 父から葬儀の事に関して、丸投げされていたので、私が葬儀屋さんに電話し、喪主を勤めました。 葬儀屋さんと打ち合わせ中に、お寺のお坊さんがいつ葬儀に来てくれるか電話するように言われました。 お坊さんに電話したら、“枕行に行きたい“と言われました。 今朝母が亡くなった事で気持ちが動転していて、葬儀屋さんとプランの話し中だったことで、また後で電話すると言って電話を切りましたが、私は電話をするのをすっかり忘れていました。 それから2〜3時間後にお坊さんから連絡があり、お坊さんを怒らせてしまいました。 母の戒名を考えるために明日、寺に来るのかと言われましたが、私は逆ギレしてしまい、上から目線だとお坊さんに言ってしまいました。 うちにはお金も無いと伝えました。 私のほうからお坊さんに用事があって電話したのに、逆ギレしてしまうほど、まともでは無く、冷静ではありませんした。 葬儀の日に待合室で、“待てど暮らせど電話がなかった。自分から連絡してきて、あの態度は何だ。枕行をやらなかったのは初めてだ。“ともっともな事を言っていました。 今日は母の49日でした。 お経を詠んでもらい、お話しを聞いていましたが、お坊さんは私とは目を合わせませんでした。 お話が終わると、お坊さんさんは烈火の如く怒り始めました。 “何故遺骨を持ってこない?こんな事は初めてだ。“ “何故49日の打ち合わせに来ない?今日は来ないかと思っていた“ “枕行をやらなかったのは初めてだ“ “お父さんは萎縮してしまって、あなたに何も言えない“ “自分のやりたい事だけをやって、周りに迷惑をかけている“ “枕行しに行きましょうかと言った日は、もっと若い女性が悩んでいるのかと思ったら、36歳だったなんて!“ “あなたがした事で、お父さんは謝っているのを知っているか?“ “葬儀の時にお布施5万、御膳料5千円、御車代5千円の6万だったけど、0が一個足りねぇよ“ と親族の目の前で言われました。 お坊さんの大きな声で何故何故といわれて私は何も言い返すことができませんでした。 私の実家はこの先墓じまいになります。 母の遺骨はそこには入れたくありません。 お骨は私の家にあります。 来年の一周忌、3回忌、七回忌…毎回このお坊さんに会うと考えると気が重くなります。
無知な私に曹洞宗の仏事の事でご相談させて頂きたいのです!(;_;) 去年祖母が亡くなり、葬祭会館まで和尚さんに来て頂きました。 お葬式の数分前に和尚さんから瓦代を請求され、状況が状況だったので腹が経ったのですが今から葬儀をして頂くにあたって揉めるのも…と思い記帳しお支払しました。 ※支払いたくないとかではなく、瓦代なら葬儀の後で良いのでは…と祖母を亡くし涙が止まらないまま和尚さんと話ていたのでその時思いました コロナ禍で親族が県外に多い為100か日法要まで繰上げで行ってもらい、一通り葬儀を終えてから一度もお会いしてなく、電話や文書でやりとりも全くないのですが 先日、護持運営費の他に和尚さん直筆で未納本堂瓦代の振込用紙が届きびっくりしています。 何もお話のないまま未納で振込み用紙が届く事は、本来普通の事なのか… 葬儀前にお支払いした瓦代とまた別で、お話もお便りもないまま未納というのはどういうことなのかと… 毎年お支払いしている護持運営費のお便りのみでしたので、総額の詳細等は全く分からない状態です、、 余談ですが、数十年前に和尚さんのお寺の墓地に土葬されていたお骨を掘り起こし、総合墓地へ移動しております。 以前ちょっとした事で和尚さんの気に障ったのか、分かりやすく態度に出されて本来聞くべき和尚さん本人に聞けない状態です… 10月に一周忌を控えているので、どうしたら良いものか…長々と申し訳ありません 新盆でお経を上げて頂くのが8月12日で和尚さんに直接お会いする前に解決出来たらと思いご相談させて頂きました 私が無知なのは承知です 厳しい意見も受け止める覚悟です 宜しくお願い致します
おはようございます ある宗派のお寺で 行事ごとに度々参加してましたところ 僧侶の方から 在家得度しないかと言われました 行者となり 行事をする側にこないかと言われました 戒名もしてやると言われました 私もそういう行事ごと大変関心があるのですが できれば行者としてやりたいのですが 私は曹洞宗の檀信徒で 納骨堂も生前に 結構な金額を出して 既に買い 死んだら、 その曹洞宗のお寺で 戒名してもらうつもりです しかし、その度々言っているお寺で 祈祷行事をしたいという気持ちが同じくらいあり それをするには、そこのお寺で得度戒名しなくてはいけません 生きているうちは 祈祷行のお寺で得度戒名し 死んだら、曹洞宗のお寺で戒名を変更することなどできるのでしょうか? また、戒名というのを二重に持つことはできるのでしょうか? 戒名という意味自体あまり分からないのですが 戒名しろ、簡単に言われるものなので どうしたら良いのか分からなくてご相談をいたしました よろしくお願いいたします
精神病を長年患っており死ぬ事ばかり考えています。病苦も有ってか嫌な事に対して敏感で過剰反応します。特に人間の醜い所を見聞きするのがウンザリです。早く解放されたいです。 方法は死ぬ事でも良いのですが、輪廻してしまっては苦しみの繰り返しになるので輪廻から解脱したいです。この事は消滅する事と同じなのでしょうか? 私は仏様になって誰かを救いたいという気持ちよりも、早く苦しみから逃れたいという気持ちから消滅したいと考えています。 精神科医には「肉体があるから消滅は出来ない」と言われました。死ねば消滅するのでしょうか?どうしたら消滅出来るのでしょうか? 痛いのも苦しいのも醜いのも…全て嫌です。完全消滅して、1秒でも早く全てから解放されたいです。 上座仏教やチベット密教の記事を読むと「輪廻から解脱=消滅」と捉えられるような記述がありました。 輪廻から解脱する事と消滅する事の違いは何でしょうか? どうしたら輪廻から解脱(消滅)する事が出来るのでしょうか? 1秒でも早く人間を辞めたいです。なるべく簡単な方法を探しています。 助けてください。これ以上、人間の醜さに触れたくありません。 早く死にたい、消滅したい、輪廻から解脱したい。
はじめまして。唐突ですがほぼ無宗教の人間が仏像を作る事は罰当たり、または仏様への失礼にあたりますか? 海外でアート関係の仕事をしており、締め切りやミスなどによってストレスを感じる事が多く、最近ふと机に仏様の優しいお顔があれば落ち着いて作業ができるのではと思いました。 ただ現地で購入できるのはア◯ゾンや得体のしれないウェブサイトでの仏様ばかりで、ほとんど信仰心のない私としても不安です。 それならばアーティストである自分で制作すればいいのではと思ったのですが、文頭の通り勝手に作るのは大丈夫なのだろうかと気がかりです。しかも素材が木ではなくプラスチックのような物になってしまいます。 また仏教や仏像がほぼ無知識だったため色々とハスノハを含めて調べさせていただいたところ、開眼の儀やそもそも偶像崇拝ではない事などを知り余計に「落ち着きのある顔」を求めて側に置くのはよくないのかなとも思っております。 また完全に無宗教とは言えないので亡くなった父や祖父を思ってたまに開眼供養していないのに拝んでしまうかもしれません。インテリアとして割り切る事は難しいと思います。 日本にいつか帰国した時にちゃんとした仏像を購入できるかもしれませんが、それはそれで魂の入った仏像をあまり拝まないのは申し訳ないです。 この質問が仏様や僧侶の方、仏教徒の方への失礼にあたらないといいのですが、もしそうでしたら申し訳ありません。 よろしくお願いします。
実家の菩提寺に、お盆のお布施を送金しました。おととしまでは行事に参加していたのですが、コロナのため、遠方からの参加は見合わせてほしいということになり、昨年からそうしています。寺域にお墓のある人は、行事終了後、それぞれの墓地にお坊様が卒塔婆を持って行ってくださることになっていました。お供物(お菓子など)は後日郵送してくださるのですが、今回、卒塔婆も一緒に郵送されてきてしまいました。電話してみましたら、電話に出た方が「寺にお墓はありますか?」と。寺域の外にある場合は卒塔婆は自分で供えることになっているのでそう言われたのですが、毎年のことなのに、なぜ今年はそのような行き違いが起きたのだろうと疑問に思いました。あとから住職さんが電話口に出てこられ、「名簿にお墓の番号が振ってなかったのでそうなりました」とのこと。父が亡くなり、そのあと母が亡くなってからすでに8年が経ち、今まで毎年お布施等、欠かしたこともなかったのに、なぜそういうことになったのだろうと。お墓は弟が代表で跡を継いでおり、そちらのほうは番号が振ってあったようです。嫁いで姓も変わった人間は、実家の墓など構わなくてよいのだと言われたように感じ、とても寂しく思いました。お墓参りはしたいと思いますが、彼岸のお布施等、もう、よしましょうか・・・という気持ちにもなりました。卒塔婆は向こうで新しく作って供えてくださることになりましたが、電話の最後、向こうから叩き切るような切り方で、後味が悪いです。代替わりのときの儀式費用も、戒名のランクに合わせた金額を、弟も出しましたが私も出しております。もしかしたら、跡継ぎの弟だけが出せばよかったのかもしれない、と思ってしまいました。 お寺様では、お布施の記録というのはどのようにされているものなのでしょうか。 また、嫁いで姓の変わった人間は、実家のお寺とのお付き合いはどの程度するものなのでしょうか。 お考えをお聞かせいただけたら幸いです。
身内を2人、自死でなくしています。 私のせいだと思います。 キリスト教で言う、懺悔がしたいのです。 個人的な面会は出来るのでしょうか。
我が家の菩提寺のお坊さんのことについて相談したと思います。 尼さんで、嫁ぎ先の普通の家庭(サラリーマン家庭)に住んでいらっしゃいます。 お勤めの時にお寺へいらっしゃるようです。(お寺は先代がお一人で住まわれていらっしゃいます) 年齢(70歳前後)を理由に2~3年前よりお彼岸廻りもお盆廻りもされなくなりました。 私は昨年、息子と義父を見送りました。 枕勤めもお通夜も、遺族でと言われ、葬儀のみ来ていただきました。 葬儀の後、初七日含め49日までのお勤めをまとめてして頂きました。 息子は49日と初盆をまとめてしました。 まとめて、と言うのはお坊さんから言われてのことです。 義父は今年が初盆になりますので、日取りのお電話をしたところ「初盆されますか?」と言われ「出来ればしてあげたい」と伝えたところ「どうしても、と言われればやらない事も無い」と言うような反応でしたので無理なお願いするのも、と引き下がってしまいました。 最近は簡単にまとめて、とか、省略される方もいらっしゃると言うことは聞いたことがあります。しかしながら、お仏壇のある家庭に生まれ育ち、嫁いだ今の家庭もお仏壇があり、ずっとお世話させていただいてきました。熱心な信者とは言えませんがそれなりに信仰心はあるつもりでいます。 また、遺族が簡単に済ませたいと思うことの否定の気持ちはありませんが、遺族がきちんとしたいと思っているのにお寺さんの方から簡単に済ませる事への不満が少なからず沸いてしまいます。 息子のことは、出来ればひっそりと、と言う思いもあり私達が供養してあげればいいとも思っています。ただ、義父は「お葬式は派手にしてくれ」と生前言っていたこともあり、お寺への寄付なども他の檀家さんよりも多くしてきたりと言う人でしたのできちんとすることを望んでいるように思っています。 これからもお付き合いしていかなくてはなりませんし、不信感など持ちたくはありません。浄土真宗はお盆のお迎え(?)などはいらないとも聞いたことはありますが、その辺りのことも含めてご教授いただければ幸いです。
以前にも臨終の相と来迎に関しての弁長上人の言葉が納得できなくて質問させていただきました。 それ以外にも例えば弁長上人は聖浄兼学しなきゃ念仏のありがたみはわからないと言っていますが、これは法然上人が否定した「学問をして念のこころを悟りて申す念仏」ではないでしょうか。 どうも僕の目には弁長上人は法然上人の教えを歪めまくっているような気がするのですが、浄土宗のお坊さんはこの矛盾を心の中でどう消化しているのでしょうか?
こんにちは。趣味で仏教を勉強しているものです。 最近「愛着慈悲心(愛見の大悲)」という仏語があると知ったのですが、仏語辞典などを引いてもよく意味がわかりません。 愛着から慈悲が生まれるものなのでしょうか…?どういう状況だと愛着から慈悲が生まれるのですか? そして仏教では慈悲が良いことだとされていますが、なぜ愛着慈悲心はいけないのでしょうか。 例え話などがありましたらわかりやすく教えていただきたいです。
而今とは今を生きることだと認識しています。 しかし、どんな人でも何かを思い出したり、予定を立てたりすると思います。 そして、記憶や予定は、過去や未来そのものだと思います。 刹那に生きることと上記のことが矛盾しているように感じます。 この矛盾はどう解いたら良いのでしょうか? よろしくお願いいたします。