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「仏教・お坊さん」を含む問答(Q&A)一覧

十字架のネックレスについて

お世話になっております。 連続の質問、大変申し訳ございません。 次回からは、連投しないように致します。 また、前回の質問では、 とてもご丁寧に教えて下さり、誠にありがとうございました。 さて、早速、質問の内容なのですが、 とある十字架のネックレスに一目惚れしてしまい、購入を迷っております。 前回の質問で、私が観音様の仏像を持っていることを お話させて頂き、観音様には、とても感謝していますので、 キリストのシンボルである 十字架のネックレスを買うのに躊躇してしまっております。 前回の質問では、仏像はあくまで「モノ」ですよ っと仰ってくださり、私もその通りだと思うのですが、 十字架のネックレスを付けることにより、 いくら仏像がモノとは言え、私に色々と気付かせてくださった、 観音様に失礼にならないでしょうか? 前回の質問で教えて頂いた、 観音様の仏像も「モノ」ですっというのは 頭ではわかっているのですが・・・ 色々と調べて、十字架の起源が卍だという説もあるようですし、 昔は十字架はキリストのシンボルではなかったという説もあるようで、 調べれば調べるほど、何とか理由付けをして 自分を納得させようとしてしまう情けない自分がいます。 もしかしたら、 私が持っている仏像も、 十字架のネックレスも両方とも「モノ」ですので、 気にしないで大丈夫ですよ! と言って頂いて安心したいような 本当になんとも情けない気持ちが 私自身にあるだけなのかもしれません。 連投な上に、このようなどうしようもない質問をしてしまい、 大変申し訳ございません。 男がネックレスなんてするな! っとお叱りを受けそうですが、普段、仕事ばかりで、 もう何年も全くオシャレをすることが無かったので、 ついつい欲しくなってしまいました・・・ 一目惚れしたネックレスとはいえ、 これも只の煩悩なのかもしれません・・・ もし、これを読んでいる方で、 クリスチャンの方がいらっしゃいましたら、 申し訳ございません。 また、今後は連投をしないように致します。 色々と悩んでいる方が多い中、 そして、お坊様から貴重なお時間を奪ってしまった上に、 このような、しょうもない質問で大変恐縮ですが、 ご教授頂けましたら幸いです。 お手数をおかけしますが、よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 22
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勉強すればするほど、阿弥陀仏に疑いを持ってしまう

こんばんは 最近浄土真宗の勉強を始めたのですが、前掲の質問で 「救いから漏れようと願文を読むのでなく、誰をも救おうとするものとして読みましょう。」とご回答されたにも関わらず 「自分は〇〇だから救われない」という読み方ばかりしてしまいます 例を挙げると 1第41願に「他方国土の菩薩は諸根闕陋しない」と書いてある。親鸞聖人は著作のいくつかでは信心決定した人を菩薩と仰っている 「本願を信受するは前念命終なり。すなわち正定聚の数に入る。 即得往生は後念即生なり。即時に必定に入る。また必定の菩薩と名くるなり」と愚禿抄に書いてある 教行信証にも、現代語訳の問題かもしれないが、正定聚を「大乗の菩薩」と訳しているものがあった 浄土真宗の本にも「正定聚の菩薩」という表現がたまに出てくる 信心決定したものは菩薩である。だから信心決定した人は五体満足であるはずだ。自分は将来目が見えなくなるかもしれない だから救われないかもしれない 2正法を謗るものは救われないと18願に書いてある 自分は浄土門は嫌いだと公言していたことがあるし これからももしかしたらするかもしれない だから救われないかもしれない 観無量寿経には五逆や十悪をするものは救われるが、正法を謗るもの については書かれてない気がする下品下生とは正法を謗るものも入るのか  3こんな風に、自分は救われないかもしれないとばかり思ってしまいます 自分は自閉症スペクトラム障害で、言葉を文字通りに受け取ってしまう癖があるので、そのせいかもしれないです 比喩的な解釈を聞いても、”でも”こう書いてるじゃないか。。。となってしまう 勉強すればするほど、疑いが強くなってしまう自分がいます…。けれどもっと浄土真宗のことを勉強したいという思いもあります 法然上人が仰っていたように何も考えずに「智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏」していたほうがいいのでしょうか 〇〇だから自分は救われないかもしれない、というのは 間違いなのでしょうか?信心一つで必ず救われるのでしょうか? 矛盾するようでワガママなお願いですが、1と2の誤解(だと思います)を理論的に論破(?)していただいて、3の悩みにも答えていただきたいです

有り難し有り難し 36
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仏教の今後

仏教は日本人の死生観に深く根を下ろして文化として素晴らしいものがあると思います。 しかし、こんな歳になるまで不勉強で恥ずかしいのですが、大乗非仏説を初めて知りました。 そして原始仏教と日本の仏教はかなり異なる事、律蔵があまり重視されなかったので、日本の僧侶は在家と変わらない事を知りました。 よく、キリスト教徒が進化論や地動説を信じないのを不思議に思ってきましたが、日本の仏教は実は(全てではないでしょうが)偽経だったと分かってどのように折り合いをつけているんでしょうか? 釈尊は口伝でしか伝えなかったから、全ての経蔵は直説でないとか、全て仏の御心から方便として出た物だとか、あまりに苦しい言い訳に見えます。また鰯の頭も信心からと言いますが、信心とは受け容れる事から始まるから信心はそこを問題にしないと言うのもそこに身を捧げる者としては辛い選択ではないでしょうか。 大乗非仏説は新しい概念ではないですが、時代を経るに従って消えることもないでしょう。今後、このまま伝統を重んじて変わらない事を良しとしていくのか、それとも時代と共に新しい研究成果を反映して変化していくのか、どのように考えられてますか?

有り難し有り難し 236
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観察日記(空と念仏)

空とは無分別だと聞きました(100分で名著・維摩経)、番組内では大乗仏教を代表する理念、二項対立を解体する手立て、縁起を発展したものと説明されてましたが、色々な表現があって素人にはポカ〜ンとする話しです。色即是空、空即是色、有るけど無い無いけど有る、五蘊は空、幻、実態が無い、一切皆空。 聖と俗、浄と不浄、善と悪、生と死、二項対立は苦の原因。……救いどころか何を頼ればいいのか虚無感を感じていました。 hasunoha内では弱者の味方や弱者に寄り添うと言った言葉をお坊さんがよく使われるのを見て思ったんですが、「正義の味方」と言ってしまうと正義面した私(自我)が立ち、無意識に相手を悪にして二項対立を勝手に作りその悪を叩き下手すりゃ喜ぶ、でも弱者の味方ならそこに善悪の隔てがないし煩わしい私(自我)を立てる必要が無く目的を見失うこともない。自我や善悪を解体していく空の実践のような話しなのかな〜と思いました。 嫁さんも子供も仕事も家も自分のものなど何も無い期待もしない、虚無と感じるのはご都合主義の自我を立てるから、悩み苦しみリアルな課題が無くなることもない全ては縁起し空、私は私として生きるだけ一歩引いて願うだけ、無我とは心の自由に感じれるようになった気がします。 話しを広げすぎかもしれませんが、どんな生きざまでも死にざまでも関係ない、念仏すれば阿弥陀様が救ってくれるとどなたか仰っていましたが、念仏の導きも同じ作用(心の自由)な気がするんですが検討違いですかね。 空(念仏)→無分別→自我の解体→無我→心の自由→空(念仏)…?

有り難し有り難し 33
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〝感謝〟

「仏教的・釈尊の法として、〝感謝〟〝御恩〟の 概念 とは、どのようなものでしょうか?」 昨年は、大変、お世話になりました。 件の問題は、そのまま遺恨となったままですが、私自身は回復傾向にあり。 家族間 以外に関しては、至って順調… だと思います。 父母や家族に対しては、新しい境地です^^; 日々、試行錯誤のリハビリ中で、周囲の皆さんの 理解と協力 に、感謝しきりの毎日です。 先日、ふと、(宗教全般に関してではありますが、まずは仏教的に釈尊へ)疑問が浮かびました。 シッダルッダは、かつて、妻子を捨て国を捨てて、悟りへの修行の道を進んだと記憶しています。 息子や国の民は、その後を追い続け。 妻や女性たちは、追うことも許されなかった(ただ後を付いていったけれど受け入れてはもらえなかった)…? 宗教的には、神や仏へ対しての敬意や信仰については説かれていると思うのですが。 では、その他の存在への〝感謝〟〝御恩〟とは、どのように話されているのでしょうか? “生きる”ということは、決して 独り では行えないのだと思います。 だからこそ、他に 救い を求める。 生きとし生けるものすべて。 救い 救われ。 支えられ支えて。 そういうことについての、仏教の概念を。 そういえば、私は知りませんでした。 寺院や僧職でいえば、在家の方からの支えがあってこそ、成り立っている職だと思います。 宗教全般に限定したものでもありませんが… 個が尊重されるのは、大変に良いことだと思うのですが、個人主義に偏向し過ぎてしまっているように感じてしまう昨今。 仏教という立場では、どのように解釈されているのかが気になりました。 浅学を恥じるばかりです。

有り難し有り難し 7
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忍辱と苦行の違いは?

 いつもお世話になっております。 苦行は推奨しません!だけど、忍耐も忘れずにね!! という教理に疑問を抱きました。  仏様なら神通力や体の構造云々で、何をされても言われても 平気の平左かもしれませんが、私たちは生身の生き物です。  撃たれたり刺されたり、毒ガスを吸い込んだりしたら死にます。 妊娠もするし、性病にもかかります。  怪我の程度では、後遺障害も残ります。  脳と体は一対ですので、悪意の人の行動で二進も三進も 行かなくなることもあります。  忍辱って何…?ずっと疑問です。逸話などを聞くと、 殴られても耐えるとか、甚だ物騒なエピソードばかり…  自分の弱さを受け入れて、修正する努力をするのが忍辱?  風邪気味で耳鼻科行ったら、鼻に管やら長い綿棒やら 突っ込まれるじゃないですか。痛いじゃないですか。 でも、治療や感染拡大防止のため…  余裕ぶっこいて、わざわざ危ない所に突っ込んでくのが苦行?  私自身の体験談で、とある所のデーケアで、 「ロータスの信条が気に入らん」ってんで、必要な教育を 受けさせて貰えなかった。それどころか通所日減らされたり。  ちなみに他の利用者も嫌がらせを受けてました。  結局私は、本庁に通報し、今は別の施設で修行しています。 この後、この施設は本庁の偉い人からキッツイ指導を受けた、 と本庁の人から聞きました。  この、推奨される忍辱と避けるべき苦行の違い、 5年以上考えても疑問です。  「ピーマンと青酸カリ」みたいな感じなんでしょうか?

有り難し有り難し 26
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ラブラブ「これぞ私の仏教愛」

私にしてはお久しぶりです 最近ニュージーランドでテロ事件があり沢山の人々が亡くなりました 宗教を越えて祈りが捧げられているというニュースが流れています 私がhasunohaをお休みしていたのは これまで何度も挑戦してきたのですが様々な宗教を勉強する為に仏教からいったん離れていたからです 正当な宗教(?)から怪しげな宗教(?)まで其々の教えに耳を傾けてきました 旧オウム真理教のテロ事件の被害者やご遺族の方々の意見や現在の心境なども極力汲み取るよう察せられるだけ察してきました 学べば学ぶ程いろんな宗教に寄り添っていきたいなぁと思うようになり そして信仰の自由のない家庭で勝手に信仰心を持ちつつ改めて思ったことは… 今の私は仏様の教えが一番好きだということです とってもとっても大好きだということです なのでまたhasunohaに戻ってきました 巡り巡って元に戻る それだけ今の私は仏教に魅力を感じているようです 質問になりますが 仏教三昧のお坊さまにとって も~ここがたまらん!と強く強く想う仏教の素晴らしさとは何ですか? 一言では言い表せないとは思いますが お坊さまの皆様にとって ついつい熱く語りたくなる ラブラブ「これぞ私の仏教愛」をお聞かせ下さい

有り難し有り難し 86
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仏教は虚無的思想?

最近思うのは、 「仏教は科学を補完するのではなく、包合するものだ」ということ。 科学は森羅万象を解き明かしますが、森羅万象は既にそこに存在し、極めて柔軟かつ精緻に動き続けています。 例えば、未踏峰に初登頂しても、既にそこには太古より山はあり、命名する前から、山なるものは山であり続けたはずです。 人間は、人間が生命として「生き延びる」為に、「生命に必ず備わる生の渇愛」という衝動を原動力に科学を発展させ、生命力の強い種に進化しました。 ただ、進化と言えるか怪しいのは、科学は「外部的要因(環境、自然)」に手を加えて、人間に利するように、供する為の手段と言うこと。 人を支配するのは心ですが、その心を軽視したが故に、あるいは物質科学と心の科学のバランスを軽視した故に、様々な問題が起きているのではないかと思います。 本題ですが、では心の科学の仏教ですが、お釈迦様や南方仏教、明治以前の多数の僧侶は結婚していませんでした。 非常な覚悟、決意のもと、正師の導きで修行しても、「お釈迦様でも七回生まれ変わって漸く…」と言われるように、医王釈尊の入滅後、人は悟りが難しくなりました。 そうした中、結婚せず、子孫も残さずというのは、「虚無」に陥り易いのではないでしょうか。 生命として、子孫を残したいという衝動は根元的なもの。 インドにあるような、人生を何期かに分けて、「林遊期」に仏教を真剣に学ぶのが、生物としての人間に無理が無い気がします。 突き詰めれば、人類という種が滅する、結婚しない生き方が良いのか、囚われずに生きた方が良いのか、どうなのでしょうか?

有り難し有り難し 11
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