アニメの一休さんの考える時の姿勢は坐禅をしているように見えるのですが、仏教では何かを考える時ああいう姿勢になることはあることなのでしょうか?
こんばんは。 度々失礼します。 近畿圏内でご住職の法話を聞けるお寺がありましたら教えて頂きたいです。 お願いします
最近、仏様に興味が湧きまして、いろいろ調べていたらいろんな仏様が居られて、自分の干支の守護本尊があるのですね。自分の一生をお守りいただけると説明がありました。 他の干支の仏様も見ていたら、気になる仏様、惹かれる仏様も居られます。 また、お願いの分野もあるみたいですね。 護符や、お守りとして持つ小さな木彫りの仏様はやはり自分の守護本尊様がいいのでしょうか? 自分が産まれた干支も意味があると思いますし、その仏様と縁があって産まれて来たので、自分の仏様をお守りにした方がご利益もあるのでしょうか? よろしくお願いいたします。
法会、雑務中に、説明できない体験談、生々しい夢などございましたら、教えて頂けますでしょうか。
空とは例えば人間は肉と皮と内臓の組み合わせで出来ていて実態が無い。 他の動物や植物もまた家電製品や車ありとあらゆるものは何かの組み合わせで出来ていてなんら実態はない。 核がない、そんな感じでしょうか?
仏教でもそれぞれの宗派があって 開祖とされる方がおられますが、 お坊さん達はそれらを信じてますか? お経を唱え信仰を持てば その通りになると心から信じてますか?
檀家さんとかも。。。 これから、日本の仏教が廃れていかないか心配です。
毎日朝、昼、夜にテーラワーダ仏教の「慈悲の瞑想」をして、5分ほど坐禅をして、お経(般若心経か阿弥陀経)を読んでいます。 宗派がばらばらですがこういうことはしてもいいものなのでしょうか?
なぜ、日本の仏教のお経は漢字の羅列で、信者のために分かりやすいように別に生き方の手引書のようなものを作ってこなかったのでしょうか。 僧侶の読経のためだけに存在しているとしか思えません。
合った時、宗教に関する話をされることがありますか? あえてそういうのを避けて、世間話とかで抑えますか?
説法を聞ける寺院を探しているときに このhasunohaを知りました。 過去に幾つかの宗教を少しづつ経験しましたが 仏教が一番と感じたけれど 無宗教で良いか…って
真言宗の「伝法灌頂阿闍梨位事」という書類について 江戸時代の伝法灌頂阿闍梨位事という画像を図書文庫のインターネットサイトで 何点か閲覧したのですが、これらは江戸時代のものでした。 今も、まったく同じ内容の文言で、伝法灌頂の書類として使用されているのでしょうか。 また文書の中に「弘法大師八葉、今至、愚身第四十四葉、大悲胎蔵第四十三葉伝受」との 文言がありますが、これは伝受を受けた僧侶が、金剛界での血脈の師匠を遡ると人数が四十三人、胎蔵界の血脈では、一人少ない四十二人いるという意味でしょうか。 以上、お教えください。
空海さん、法然さん、親鸞さん、道元さん、栄西さん、日蓮さんなど各宗派の宗祖に会えるとしたら、お坊さんはどういうことを聞きたいですか?
臨済宗で、修行の途中です。 師僧から、自分の修行の方向は自分で決めなさいと、言われています。 そこで、日本の臨済について色々と調べてみたところ、開祖の栄西師は、比叡山で天台教学を学んでいたことを知りました。日本仏教の母とも言われているそうですね。 わたしも臨済の座禅を学びつつ、天台教学を学んでみたいのですが、この方向性で、間違っていないですよね。 ラッキーなことに天台の尼さんになりたい人のお勉強会を聴講してもよいことになりそうです。 他宗派を学んだため、破門!と、言うことはないですよね。 ちょっとビクビクしています。
相談ではなく質問で申し訳ないのですが、お坊さんは普段どのような1日を過ごしているのでしょうか? 私の中では朝早くから夜遅くまでお勤めをされているイメージです。 やはりお坊さんの生活は私のイメージ通りなのでしょうか? それとも案外私たちの生活とそれほど変わらなかったりするのでしょうか?
以前山形県を訪れその際に即身仏を拝観させていただきました。 そこで疑問に思ったのですが、即身仏は何故現代でも信者や崇敬者が多数いて、信仰されるのでしょうか? 古代(?)では病を治したり、その時代の人々が衆生救済で即身仏となった上人様を有難く思いお参りをするというのは分かるのですが、飢饉などが無くなった現在何故信仰されるのでしょうか…? 僧侶の皆様のお力を借りたく質問させていただきました。よろしくお願い致します。
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こんばんは。 はじめまして。 私は今大日如来様観音様不動明王様薬師如来様毘沙門天様をおまつりしています。 家でその仏様がたに読経をいまのところ毎日続けているのですが、雑念とかめんどくさいとか、お経にたいする疑問などがわきあがってきて、集中して、読経できません。今唱えてるのは開経文、懺悔文、般若心経と十三仏真言、延命十く観音経、観音経普門品げです。それプラス毘沙門天さんの真言をとなえています。 仏様が喜んでくれたらなと思い始めた読経ですが雑念が消えず、先ほどは、毘沙門天さんの真言唱えるのめんどくさいなと読経中思ったのですが、最終的にめんどくさいといってすみませんでしたと念じながら真言をとなえました。 こういうときお坊様たちはどうしておいでですか? 仏様と共にありたいのでこの雑念がきえたらなと思います。よろしくお願いします。
先日、父が旅立ちました。母が喪主としてお通夜や葬儀のことを決めていったのですが、先祖代々の宗派は日蓮宗であるにもかかわらず別の宗派のお坊様にお願いし(経済的な理由から)、父の兄弟から反感をかってしまいました。(母は父の兄弟が怒っていることを知りません) これから四十九日の法要や一周忌、初盆と、親族が集まる度に、本来なら南妙法蓮華経のお経のはずが、南無阿弥陀仏のお経となってしまいます。もちろんお坊様はその経緯はご存じないです。 いまさら日蓮宗にお願いは出来ませんし、父の兄弟に別の宗派のお経で法要に出席してもらうことになりますが、このままでいいのか悩んでいます。
hasunohaでの問答で勉強させてもらっています。 ふと思いました。 僧侶の先生方は 僧侶を辞めたいと思われた事はないのでしょうか? 『クソ坊主』だの『生臭坊主』だの 『税金を優遇されてる』だの 気分が悪くなる事も有るかと思います。 どう対処されてますか? 師走でお忙しくなるかと思いますが 先生方、どうぞご自愛くださいませ。