軽く気になってみたこの二つについて、否定された物が分かりにくくお聞きしたいと思います まず、有我説における我とはなんでしょう?「不変の物」と言う意味なのでしょうか? ここが「不変の物」と言う意味であれば、五蘊が我である・我は五蘊を有す・我中に五蘊があるは大体理解が出来ると思っています 「それは不変ではない」はすぐに分かります 最後に「五蘊中に我がある」これが例え「不変の物がない」と言う意味でもいまいち理解(イメージ)出来ません。どう言った事を語っているのでしょう?各々の要素がそれぞれいずれ変化すると言うような事を語っているのではない様に感じます まぁ、それを言い出すと五蘊が我であるもいまいちイメージが一致しないのですけど… この辺りはどう理解されている物なのでしょうか?
仏教の修行で家でもできるものはありますか?
お坊さんの着てる作務衣が、欲しいです。 お寺関係者じゃなくても、購入できますか? 購入できるとしたら、お店なら何処で買えるか知りたいです。 仏具等の通信販売カタログが、あると聞きました。 それもどこで手に入りましか?
瞑想をしようとすると、またしていると、右頭のこめかみらへんがピリピリと神経痛のような痛みを感じてしまいます 瞑想をしていて、頭にピリピリ感を感じていたお坊さんはいらっしゃらないでしょうか 質問受付数も制限されている今に聞く質問ではないとずっと考えていたのですが、 自分にとって瞑想(サマタやヴィッパサナー)ができないということは、生きるという行為が無意味と感じてしまうほど 大きなことなので、質問させていただきました
不躾な質問でしたら申し訳ありませんが、お坊様を志そうと決めたきっかけはございますか? 座右の銘や大切にされているお言葉などお聞かせいただけますか?
こんにちは。かなり答えにくい質問ですし、センシティブな内容ですが聞かせていただきます。 数年前、私が大学生だった頃に、大学院生の先輩であったお寺生まれの方が自死を選びました。 私とその方とは特段仲が良かったとかではなく、ただ一回きりの講義でデュルケムの論文を訳すことがあり、その時のペアになっただけでした。 私の日本語にもなっていないような滅茶苦茶な訳を、もっとこうした方がいい、この単語はこういう解釈ができると、的確に、淡々とアドバイスしてくださりました。 講義の時のデュルケムの解釈もしっかり練られていて、とても真面目な方、いい人だと思いました。 その半年後くらいに、その方は自死を選びました。 私たちにはただ、「大学のことではなく、家(お寺)関係の継ぐかどうかで悩んでいた」と教授からアナウンスがありました。 ここでも私は何度か自死について質問し、迷います。 自死はいけない。私は今そう思えています。 しかし、あの方のことが頭を時たまよぎります。 彼の選択が間違いだった、彼が…、彼の周りが…と彼を否定したくないです。 もし、たとえ、「間違いだった」と全員に言われても、「あんまりじゃないか!」と泣きたくなります。 どうにもこうにも心の整理はつきません。 彼との関係はその講義一度きりだったので、なに宗の方だったかも今はわかりません。 難しいことですし、私に直接関係あるかと言われればないのですが、お答えいただくとありがたいです。
もし、お寺に参拝や、悩みなど相談に来ている相手に、連絡先を聞かれたり、好意があると言われたら、どう思いますか? お付き合いする・・・までには、至らなくても、好きだと言われたあとに、お寺に行ったりしたら迷惑ですか?
いつも お世話になります。 私は今日一日 行きつけのお寺で座禅を組んだのですが お坊さんからなるべく何も考えないように言われたので 何も考えないように頑張ってみたのですが、雑念だらけでどうしても 無 になれなかったので 諦めかけた時 昔 母から 楽しいことだけ考えて生きよう と言われたことを思い出して これだ!と思いました。 これが 答えだ! って思いました。 これは ある意味では 悟りに準じているのでしょうか?
色々な宗派に興味があります それは非難される事ですか? たとえば臨済宗のお経が好きですが、曹洞宗の永平寺の修行にも興味があります また、いつか宿坊に行ってみたいと思いますが煙草やお酒を飲むのでこんな人間が宿坊になんて行けないと考えてしまいます 幼稚園、高校と仏教系で仏縁はあると思っています
おはようございます。仏教について 考えていました。 お釈迦様の教えが根本であり 原点でございますね 教え通り 生きたら人じゃなくなる気がします。 人間で生まれた以上 人として人らしく生きることが 素晴らしいとも思うのは よく 言われるのは タオルはタオルとして使われるのが幸せである とも言いますよね 仏教の教えは 人でなくなり 仏様のようにいきる 事ですよね 仏教の教えを 根本として 自分達が 幸せに 生きる知恵となればいいとは思うんですが 煩悩を断ち 執着を無くしとは 人じゃないよな、、、と思ってしまいます。 お坊様方は お釈迦様や空海様と同じ土俵におられますが お坊様として生きるいじょう 仏様を 目指されるのでしょうか?
私はよく神社やお寺で、その日のご縁を頂いた事にお礼を言って「遠く離れた家族がいつまでも元気で長生きできますように」と祈ったり「自分と神様と仏様とで良いご縁で結ばれますように」と祈ったりしています。 その御利益か、願い通りに電話で家族の元気な声を聞けたり、胸がワァーっと熱くなるような神仏との良いご縁を頂いたり、特に頼んでもいないのに「思わずニヤけるようなラッキーが舞い込んだり」しています。とっても嬉しいです。 ただ、それらはあくまで「私の幸せ」です。 そういった「利己的な事」とは別に「神仏の為の事」をしたいと思ってます。 というのも私はいつも神仏に「何か“してもらう”側」だと日々の参拝の中でフと気が付きまして、流石にそれだけでは申し訳が無い。 私も日々、世話になっている神様と仏様の為、私なりに「何か“してあげる”側に」なりたいと思い始めました。 …ってのは良いのですが、具体的に「神様や仏様はどうすれば嬉しがる」のかがサッパリ分かりません。 シンプルに参拝の際に「神様と仏様が幸せになりますように」と祈れば神仏は私の時と同様にその願いを叶え、神仏自身が幸せになって歓喜しますか…? …いや、そもそも“ヒト”ごときが“神仏”に対し「○○してあげる」って発想がおこがましかったりするの…?って考えが頭を過る事もあります。 あ、ちなみに最初に書いた「家族の健康」や「神仏とのご縁」といった利己的な参拝はこれからも続けるつもりです。 それと並行して神仏を喜ばせる為の事をしたいって事です。 私自身どれだけ利己的で欲深くなろうが思われようが別に構わないので自分と同じように大好きな神様と仏様にも胸が熱くなるような喜びや幸せを感じて欲しいです。 読みづらかったらすみません どっちか片一方だけに偏らない、私も神様も仏様もみんなでハッピーラッキーになれる道、或いは行動を知りたいです。 どうか回答よろしくお願いします。
私は、お坊さんに対してとても好意的に思っています。 子供の時に観た映画の映画の影響が、大きいですが、大人になってからは、話を聞いてもらったり、相談にのってもらい、とても親切にしてもらって、大好きになりました。 周りの人達は、お布施と称して、お金をとろうとしてる、壺など、何かを買わせようとする、騙されてるんだ、目を覚ませと言われます。 私が、出逢ったお坊さんは、皆優しい方ばかりなので、何も被害にはあっていませんが、洗脳されてる、病んでると言われてます。 どうしたら良さをわかってもらえるかわかりません。
お坊さん方は、見たり会ったりしただけで、この人は苦しんでいるかいないか分かりますか。
妙音菩薩品第二十四で 「聲聞の形を以て得度すべき者には、聲聞の形を現じて爲に法を説き…」と、ありまして 観世音菩薩普門品第二十五 「聲聞の身を以て得度すべき者には、卽ち聲聞の身を現じて爲に法を説き…」と、ありますが 「形を以て」と「身を以て」で、うん?どう言うこと??似ているようで全く違うものだし、この違いはなんなのかな?と。 すいません、まだ二十四を数回しかあげたことしかないのでまだまだわからない部分が多々ありますし、理解力が及んでないのも十分に承知しております。 もし、教えて頂ければ幸いです
また、よろしくお願い致します。 私達夫婦は、後継者が、いない為、 寺院の境内にある「永代供養付樹木葬」の 見学を始めました。 候補が、二つに、しぼられて どちらも格式高い、お寺様で、二つとも気に入って 本当に、どちらにしようか真剣に考えております。 二つとも「永代供養墓普及会」の紹介なので、 形や値段は全て同じです。 ただ、一つは「浄土宗」の寺院、 もう一つは「真言宗」の寺院です。 樹木葬墓地は宗派は問わないのですが、 納骨する時は、その寺院の御坊様に拝んで頂くことになります。 私は、戒名は頂きたいので、やはり選んだ寺院の宗派の 戒名になると思います。 そこで、 「浄土宗」と「真言宗」の考え方が、 どのように異なるのか教えてください。 できれば、 「浄土宗」の御坊様と、「真言宗」の御坊様の 双方の立場から教えて頂けると有難いです。 よろしくお願い致します。
今晩は、質問させていただきます。 仏教には悪因悪果、善因善果とありますが 世の中には嘘で人を陥れ、貧しい者から富を搾取し、 人種、民族を差別し、暴力を行い、戦争を扇動し なんの生活に影響なく生きている人たちがいます。 彼、彼女らはむしろこの世では成功者、勝利者といわれているようです。 (無論、仏教でいう成功、勝利者はそんなものではないということは承知しています) しかしそのような人々が現世で行っている数々の悪行為が何の報いもないということは甚だ疑問です。 それはつまり自らが行ったかもしれぬ過去世の善業によって現世の悪からある意味その人は守られているのでしょうか? また、その逆も然りであり善行を励む人が無残な結末に遭うことも珍しくありません。 それも過去世の善業が切れてしまった証拠なのでしょうか? いかんともしがたい不公平が生まれるのも業によるものでしょうか? 私は悪因悪果、善因善果について誤解をしている可能性があります。 それについて詳しく教えてください。 とりとめない乱文申し訳ありません。 よろしくお願いいたします。
子供を亡くして 私も毎日をやっと過ごす日々ですが、 夫がとても参っていて心配です。 夫の仕事中に電話をかけると、 元気のない声で 泣いてばかりいる と言います。 私よりも 夫の方が毎日泣いていると思います。 あと、昨日 子供の姿が一瞬見えた気がした という話や、 夜 目が覚めたら黒い渦が見えて 窓の方に消えていったから 子供が来てくれるかと思って 起きて少し待っていたけど 戻って来てくれなかった、と聞かせてくれました。 俺 頭いっちゃってるのかな?と… 夫は会えるなら会いたいと思っているそうです。 でも話を聞いて、夫が心配です。 心を病んでしまうのではないかと… 私は自分はなんとか頑張って 家族を支えていきたいと思ってます。 お坊さんがたは どう思われますか…
日蓮宗のお寺の住職である父親が急死して、まだ高校生である長男がお寺を継ぐ為に修行する事になりましたが、周りの方にいいお坊さんにならなければだめだと言われました。いいお坊さん?どんなお坊さんがいいお坊さんなんだろう?檀家さんなどとうまくコミュニケーションがとれるお坊さん?お経、作法などが完璧でなんでもこなせるお坊さん?人間的に器の大きい優しくどんな時でも冷静な判断ができるお坊さん?色々考えてもわかりません。私は母親ですが、私も的確なアドバイスができませんでした。どんな風に言ってあげたら良いでしょうか? また、もしおわかりになったら教えていただきたいのですが、日蓮宗 清澄寺での度蝶交付式は来年の1月の何日に行われますか?来年の事でなくても今年の1月は何日に行われたかでも結構ですのでお願いします。
日本には、なんとなく政治と宗教な話は、親しい間でも話しにくいような風潮があると思います。例えば私自身家族の中でも応援している政党が違ったりするとなんとなく気詰まりな感じがします。そういう宗教や政治の話がなかなか気軽にしにくい日本の風潮にお坊さんはどう思いますか? 話は違いますが、うちは曹洞宗ですが、遠くに住んでいる親戚の叔父が韓国の方が教祖のキリスト系の新興宗教を信仰しています。叔父さんはとても元気でタフで明るくて面白くて好きですが、宗教の話をしている時に進化論を否定していることに驚きました。たしかに進化論が正しいかは、私自身教科書でしか教えられておらず、自分で確かめたことはないので、確証や証拠で反駁することはできないのですが。 あと人間だけ霊界があるというその宗教の教えに対しては、全ての生き物が限られた生を命の限り全うするということは同じな世界で、人間にしか霊界が用意されていないという考えがしっくりきませんでした。当然信仰の自由があるので何を信じるかの選択の余地は一人一人あり、全く否定する気はありませんが。その対話をしている時の母がもううんざりといった言動でもう終わりにしてほしいというオーラが全身から漂っていて、とりあえず途中で私が引き下がりました。(こういうところでも宗教の違いを対話するのを嫌がる日本の風潮を感じました。) 比較的歴史の洗礼に耐えて伝統を長く受け継ぐ仏教の宗派のお坊さんは、新興宗教と呼ばれている宗教の特徴や教えについてどういうお考えをお持ちなのか、気になりまります。 お手すきの時にお返事頂けたら嬉しいです。
仏教とは思考停止を勧めているのですか?