非我説(無我説)と仏陀の否定した我見について、差異が知りたいと思います 因果論も関わるかもしれませんが、私は「生き物は縁によってその在り様を生じる」と見ています そしてその見解は基本的に「仏教の見解と一弦する」と思っています しかしこの「生き物は縁によってその在り様を生じる」と「五蘊が我である」と言う「我見」は非常に親和性が高い様に思います そして、「我見」は仏陀によって否定されています 「行為」としての戒めであれば「我見を否定する」のもなんとなく分かるのですが(丹下さんありがとうございます)、 「事実はそうではないからそう見てはいけない」だとすると「え?それだと事実五蘊が我なのでは…?」となってしまいます あくまで仏教は実践宗教であって、真理や真実を追い求める様な科学や他の宗教とは違う、 とすれば、私がそもそも勘違いしていただけなのですが、仏教が余りに優れて科学的(妄想的な所が少なく真理と真実を良く見通している)せいもあってか、 特に「我」と「因果」については「真理や真実」の話だと思っている部分があります この件についての誤りについて教えて頂ければと思います この見方についての補足ですが、 そもそも私の仏教に対する興味がそう言った真理や真実からであったせいがあると思われます もっと言うと「正しいからそれをしてよいしそれをした方が良い」みたいな感じですね 恐らく悟りについても私の中ではそのような物だと思います 「悟れば苦しくないよ」と言われて「じゃあ苦しみたくないから頑張る」と言う領域ではないのだと思います 「善くなる」の「善さとは何か」とかそう言った部分はさておき「少しでも善くなりたいだけなら図書館にでも行きなさい」と言われたら、図書館に行ってしまうような状態ですね 仏教が一般的な意味での善悪からは外れた彼岸にあるのは分かっているのですが、ただ己の為にそこに辿り着くと言う類の物ではなく感じているせいだと思います
私の中学生の時の「将来の夢」は、「動く植物を開発すること」でした。 一番興味があったのが、『地球温暖化』全般。一番、地球温暖化を促進されるのが牛のゲップと聞けば、「ゲップし難いエサ(植物)の開発」を、生き物(動物)が出すCO2を吸収しているのは緑(植物)だと習えば、「とんな場所でも行ける緑(植物)の生き物(動物)の開発」を、と考えてきました。 自分が排出するCO2は、自分のペット(動く植物)に吸収してもらい、酸素をまかなう。そういう世の中、地球に優しい生き方が出来る社会にしていきたいと思っていました。 それで、中学生の時も高校生の時も、農学部に行きたい!新しい環境作りに貢献したい!と思い続けていましたが、幸か不幸か、何故か勝手に出された推薦入試の願書→受かったら辞退出来ない受験に合格してしまい、長年の夢を変更するしかないという形で幕を閉じました。 でも、高校1年生の時に被災(阪神淡路大震災)した記憶のせいか、医学を学ぶのも楽しかったので、新たな道を歩む決意をしたのです。 そして、「只今」違う生き方をしながらも、ふとしたことから、また「動く植物」が必要なのではないかと思い、過去の自分の夢を思い出すようになりました。 西日本豪雨災害に遭ったからからです。もちろん、根本的には『地球温暖化』が背景にありますが、今回は『豪雨による土砂崩れ』でたくさんの尊い命が失われた背景から、人の手が入らない山、森の木々たちが、自分で動いて、土砂災害を防ぐ働きをしてくれたなら、少しは亡くなる方が減らせたのではないかと思ったのです。 でも、人間が、自然・地球をこうなるまで放置し、対策を練らなかったのもまた事実。 私は有馬温泉の近くに住んでいます。避暑地でもあります。が、最近、自分の部屋にデジタル式の温度計を置くようになり、自分の部屋の温度が、冬と夏で「なぬっ!!!」と思う程、寒暖差があることが判明しました。(昔と明らかに違うと肌でも感じられますが)。 この今年の猛暑、酷暑。北の端の1番涼しいハズの部屋の温度が、35度に到達しているではないですか。この前の冬には、部屋の中なのに氷点下になっていたのにです。 何故、もっともっと『地球温暖化』のことをちゃんと考えてこなかったのかと痛感している毎日です。 お坊さま達も、お寺さんの中で熱中症になっていませんか? 地球温暖化をどう捉えていらっしゃいますか?
こんにちは。 私は30歳の女性です。 今半年ほどお付き合いしている男性がいまして、その男性は猫を飼っていて、人間より猫が好きという方です。動物が大好きで、ニュースで動物虐待の話を聞くと、「生き物を大事にできない奴は人間じゃない。死ぬべきだ。」と憤慨します。 私はそのたびに罪悪感と自責の念に駆られて胸が苦しくなります。なぜなら、私は数年前にインコを飼ったのですが、私の知識不足のせいで3日で死なせてしまいました。インコはたくさん餌を食べると言うことを知らず、食べ過ぎではないかと心配し、餌を控えました。さらに、私の経済的余裕のなさから、冬にはゲージに絶対必要だったヒーターを設置せずにいました。 インコの落鳥には仕事から帰宅して気づいたのですが、夜になっていました。なので引き取ってくれたり、火葬をしてくれたりするところが見つからず、死体が腐るのが怖くてパニックになり(冬の北国だったので、地面が雪に埋まっており、埋葬する事は不可能でした)、あろうことか燃えるゴミに捨ててしまいました。 私は彼が動物の話をするたびに、とても苦しくなってしまいます。しかも、彼は私とずっと一緒に過ごしていき、将来猫を飼いたいと言っています。私はもう一生二度と生き物を飼わないと誓いました。 ですので、彼にこの事は話さなくてはいけないような気がします。恋人だろうが、夫婦だろうが、なんでも話せばいいわけではない、という事はよく巷で聞きますし、その通りだと思います。 ですが、私はこの事はたとえ別れることになったとしても、覚悟を決めて、彼に話さなくてはならないような気がします。 私が話そうとする事は間違ってないでしょうか? 長々と書いてしまい申し訳ありませんが、ご回答いただきますとありがたいです。よろしくお願いいたします。
普通に生きていて焦燥感に襲われます。 何のために生きているのか分からなくなって、死ぬのは嫌だけど生きているのが苦しいと感じます。 そう思う理由は人と関われないコンプレックスにあると考えています。 人間は動物なので、悩みの答えは生物学とか脳科学にあると思ってよく本を読みます。 生物的には、この世に生まれた意味は「遺伝子を残す」というシンプルなものに行き着きました。 また、人間は社会的生き物なので、社会的にこの世に生まれた意味は「歯車となって社会の役に立つ」といったものだと思います。 どっちも一人で生きていくのを否定し、群れで暮らすことで達成できる目標です。 一方で。自分にはこの世に生まれ、やりたいことが一応あります。絵を描くことです。芸術は自分の内面と向き合う孤独な作業だと感じます。描いてる間は時間と身体感覚が吹き飛んで没頭できる時もあります。 でも、お金にもならず、究極に自分のためでしかない行動をしていると不安になるのです。 生まれた意味、生き物としてすべきこと、役割を放棄しているおまえは存在していたらいけないんだ。誰かと繋がって次世代に貢献しないといけないんだ。人のためにならないお前はだめだ。 そんな気持ちになります。 そのため勉強して人との上手い付き合い方を日々実践していますが、皆がよそよそしくて深い仲になれないと感じてるのが現状です。 この世に生まれた意味は、自分の生きたいように生きるためでしょうか? それとも、誰かの役に立つためでしょうか? 以前に投稿した内容と少し被っていてすみません。幸運にも回答を頂けてずいぶん考えましたが、どうしても辛くて2回目の質問に至りました。 自分の経験は取るに足らない、もっと苦労されている方が大勢いるのだと教えて頂けた気持ちで、改めて自分は弱いことに気付けました。 もしお時間が宜しければお答えいただけるとありがたいです。長文失礼しました。
「生きているのではなく、生かされていることに感謝すべき」だとおっしゃるのでしょう。 けれど、どうしても「生きていること、生かされていること」を肯定的に捉えることができません。 「盲亀の浮木」というように、この比較的平和で当たり前のように安全な生活ができる存在として生まれたことそのものがとんでもない奇跡、という理屈も承知しております。 しかし、「だから生まれたことに感謝すべき」と言われても感情が追いつかない上に、「存在するということはとんでもなく危険なことなのに、誰もそこから逃れられない」と、存在そのものをどうしても否定したくなってしまいます。 限られた運の良い生き物しか安全に生きられない。 限られた運の良い人間しか生きることを許されない(そんなことはないとおっしゃるかもしれませんが、自己責任論と優生思想のほうが人間の本音だとどうしても思ってしまいます)。 これまでの人生で幾度となく自殺を考えましたが、死んだところで「存在」からは逃れられないと気付き、「じゃあ生きるって何なんだ! なんでこんな悪趣味なことを強いられるんだ!」と、閉じた恨みの感情ばかりが強くなります。 所詮、うまくいかない自分の有様と社会問題を歪みきった認知で安易に結びつけているだけなのでしょう。 ただ、そこから脱却するための、理論的にも感情的にも強い根拠が見つからず鬱屈としています。 「生き物だから生きるのだ」と言われても、「それは存在の『罪』から目を背けているだけだ」「生きることは悪であるという、自分にとって都合の悪い真実を見て見ぬふりしているだけだ」と思ってしまいます。それとも、私が「生きることは善である」という真実を見て見ぬふりしているのでしょうか。生きることを肯定されてしまっては、私の苦しみに満ちた人生をも肯定しなければならないから、「生きることは悪である」という幻想に逃げているだけだとおっしゃるのでしょうか。 痛みや苦しみを憂うあまり存在さえ否定したくなるのが煩悩だとしても、「存在することをやめたい」「ありとあらゆる感覚器官を捨て去りたい」「物質的制限にまみれたこの次元から脱出したい」と思わない時はありません。 まして、この世界から「生きるに値する根拠」は急速に失われつつあるのではないでしょうか。 死ねないなら生きる苦痛を受け入れなければならず、しかしその覚悟が決まらないのが課題です。
仏教では動物の殺生は禁止されていますよね。 私も殺生するのは心が痛みますし、好みません。実際、つい最近までヴィーガンでした。 ですが、 「私達が殺して食べる動物も他の動物を殺して食べている。自然界じゃ楽にとか優しく殺したりなんかしない。私が殺生を拒否するという事は、生を尊んでいるようで、実は生を拒否しているんじゃないか。生死から目を背けて、向き合っていないんじゃないのか。」 と、ふと思いました。 いくらヴィーガンであろうとも、歩くとアリは殺しますし、洗濯するとダニは死にます。 もっと言うなら、植物だって生きているのに、それは良い事だと言って食べます。 革製品を使わないにしても、ポリエステルや綿や麻だって、科学薬品やゴミ処理によって環境を汚しています。それが巡り巡って、多くの生き物を殺しています。 詰まるところ、ヴィーガンもミートイーターも、何かを殺して生きている事には変わりないと思います。 ヴィーガンを経験して考え至った事は、 「自分の為に殺された命に対して感謝と尊敬を忘れず、謝罪は絶対にしてはいけない。自分の為に死ぬ生き物に対して、自分が殺す覚悟を持てないなら、自分が殺されても文句も言えない。」 と痛感しました。 凄く詰まるところ言うと、人も動物も植物も命の重さは一緒であり、人を殺して食べても、動物を殺して食べても、同じ事だと思います。 法律で赦される事でも、何かの命を奪った事実は同じだと思うんです。 だからといってむやみやたらに命を奪いたくはありません。自分の手で助けられる命は救いたいし、環境だって少しでも良くなるように努力したいです。 ちょっと話が逸れますが、アメリカのスキープレーヤーのガスケンウォーシーという方は、平昌五輪の時、韓国の食用犬の牧場を買い取り、ワンちゃん達をアメリカで里親に出したそうです。 エゴだと言う方もいますが、彼は勇気ある人だと思います。 これらは全て私の考えであり、いち意見です。 誰かに強制する気もないし、否定もしません。 ついさっき、少し思う事があったので、自分以外の方のご意見を聞いてみたいと思い、ご相談しました。 殺生について、皆様のご意見ご回答お待ちしております。どうぞよろしくお願い致します。
人間、とりあえず、日本では、20歳(そのうち18歳)になったら「大人」と見なされます。でも、20歳になったからといって、特に見た目が変わる訳ではありません。生まれたら、毎日毎日、確かに成長したり老いたりしていきますので、長い目で見たら、変化にも気づきますけれども…例えば、はい!大人になりました!では「ヒヨコ→ニワトリに!」ってほどビックリ仰天な変化はしないですよね。赤ちゃんとおじいちゃん&おばあちゃんが同じとは思えないですけれども…また、見た目を気にしてはいけない!とは言いますが…もし仮にですけれど、私たち人間が「ヒヨコ」だったなら、「ニワトリ」にはなれないのではないでしょうか?見た目も含め、中身においても、です。自然界で生き抜く為に、体の色などを変化させなきゃならないから、ヒヨコ→ニワトリと変化していく生き物がいる、明らかに子どもから大人になったと分かる生き物と一緒に考えるのは、私もどうか思います。でも、もし私たちが「ヒヨコ」だったなら、何故、「ニワトリ」になれないのか?と、私が思ってしまうのかと言いますと…人間は、生きている限り、ずっとずーっと修行の毎日じゃないですか、毎日毎日、ずっとずーっと修行を重ねても、死ぬまでずっとずーっと修行は終わらない…言うなれば、「ヒヨコ」のまま死んでいく…みたいな…意味不明なことを言ってすみません。でも、私の中では、人間はすごく未熟で、どんなに努力しようと修行を重ねようと、やっぱり未熟で、洗練された風な人でさえ未熟だから、洗練された風な人でさえ修行し続けなければならなくて…うーん…つまりは、死ぬまで修行しても、「人間ヒヨコ→人間ニワトリ」になれないのではないではないか?と…私の言わんとすること、伝わりますでしょうか…?答えが欲しくて書いているのではありませんが、皆様は、もしこの私の意味不明な発想、「人間は一生ヒヨコ」「人間ニワトリにはなれない」説?みたいなものを、どのように思われるかと思い、長々と書かせていただきました。読んで下さった方、ありがとうございます。
私28歳、夫30歳です。 結婚当時夫は優しい人のように見えました。 妊娠後子宮外妊娠が発覚。 私自身も危険な状態でした。 夫はそれを知りながら病院に顔を出すこともなく浮気相手を妊娠させる等、裏切り行為が絶えませんでした。 退院後に後遺症やストレスで起き上がるのもやっとの私と無理やり性交しようとし喧嘩になり、「お前が子宮の外で妊娠なんかするから悪い」「男は本能的にセックスしないとダメ、お前が入院しなけりゃ揉めることもない。ストレスを発散するために浮気するのも仕方ない、男はそういう生き物だと知らないお前が世間知らずなだけ」と言い返されました。 私はショックで気を失い起きたら夜中で床に倒れたままで夫は寝室で寝ていました。 朝になっても眩暈があり横になっていた私に「生めない女は生物として失格」と更に暴言を吐かれ・・。 その後妊娠中の浮気相手から養育費を出せと電話がかかってきたり、夫の友人から「男の浮気は身体だけの関係で悪くない」と言われ開いた口が塞がりません。 私は今男という生き物が信じられません。 確かに本を読んだりすると男性には本能的にそのようになってしまう傾向があると書かれています。 だとしたら改善することは無いという事ですよね? ただでさえ妊娠出産育児などで身体的負担が大きく行動等の制限もかかるのに、命がけで子どもを生んでる最中に男は浮気、そして本能だから仕方ないと言い訳する。 社会に出ても男と同じ成果を上げても出世は出来ない。 ところがこれを言うと「女は努力してないからだ」「女は男に劣ってるから」と言い返される。 私の以前勤めていた会社は結婚もせず何十年もひたすら会社の為につくしてきた女性が何人かいましたが、彼女らは役職すらつけてもらえていませんでした。 役職付きの男性と同じかそれ以上の仕事をしているのに。 仕事に必要な資格も男は会社が費用を全額負担しますが女は全額自己負担でした。 これじゃ女が損するばかりじゃないですか。 妊娠出産を生命の神秘と美化する風潮がありますが、そもそも女は妊娠したくてしているわけではなく、女に生まれた時点で自分の子供がほしければ命がけで自分で生むしかないのです。 男は種をばら撒けば自分は苦しまずに子孫を残せる。 不公平過ぎます。 私は男が憎いし女に生まれてきたことが嫌でたまりません。 女は損しかありません。 死んでしまいたいです。
今はまだ、世界規模で見れば幸福な環境の中に居ることがわかります。しかし、いつかは死ななければならないし、死んだ後はどんな残酷な世界に産まれるかもわかりません。この世界で起こっているあらゆる残酷なことが、いつかどこかの自分が体験する可能性がある。それが恐ろしくてたまりません。 この人生は、これから繰り返す過酷な自我の前の休憩地点でしかない、と最近感じるようになりました。自我を作っているのは脳味噌と感覚器官なのですから、自分が死んだ後はまた別の生き物の感覚器官が「自分」になってしまいます。だから、できるならばこの命が終わった後はもう存在していたくない、もう二度と物質的世界に生まれたくありません。 けれど、この「生まれたくない」「存在していたくない」「他者から加害されたくない」「とにかく自分の安全がほしい、安心したい」といった煩悩が強い中で成仏などできるのでしょうか。南無阿弥陀仏と唱えればお浄土に導かれるとも言われていますが、信じるのが難しいです。物質的世界とは違った世界があるという確固たる証拠があれば安心して生きられるのですが、そうではないから毎日を不安と絶望の中で過ごしています。 科学によって生き物の在り方が判明し、政治によって私達の未来はどうしたって暗いことが判明してしまいました。故に死を意識するようになり、死んだ後の残酷さに気づいてしまい、繰り返される死へと至る苦痛に怯えるようになりました。これは「死にたかった」私への罰なのでしょうか。 物質的世界の残酷さが強すぎて、精神的世界の温かさや理想論を信じられなくなっています。人間も動物なのですから、自分を守るためならどんな残酷なことだってします。こんな世界なのに、どうすれば「死んだ後は極楽浄土に導かれる」と信じることができるでしょうか。希望を持つことも何かをすることも怖いです。何をしようとしても、「途中で自分の人生が終わらされる」と感じてしまいます。家畜や戦争地帯に生まれる覚悟、できていますか? 私にはできる気がしないのですが、今の世界の仕組みを変えることもできないと諦めている時点で、この世界の残酷さに加担しているという罪を背負っています。いつかは世界のために自分を犠牲にしなければならない時がくるのでしょうか。 この世界の残酷さからは逃れられないという事実に狂いそうになります。どうしたってたどり着く先は絶望。
初めまして 主婦をしています 先日、主人とテレビを見ていて 亀に関してことが出てきたので、小さい頃(小学4年生〜中学生ぐらい)亀を飼っていた時のことお話をしました 緑亀2匹と茶色い亀2匹を飼っていましたが 緑亀は亡くなり茶色い亀は逃げ出してしまって 一度は見つかったものの2度目は見つからないままどこかへ行ってしまったことを小さい頃の思い出話をしていると 緑亀が亡くなった時の亀の変化を話したとき 私が今まで普通だと思い込んでたことを主人に 多分、それは違うと言われて そういう形になった可能性を聞かされて ものすごくショックでした でも思い当たる節はありました… その時のやりとりを書きたいのですが 書いてもいい範囲なのかどうか分からないので控えさせて頂きます 主人とその話をしてから なんだか心が苦しくて わたしのところに来てくれた亀さん達は幸せではなかったかもしれないと思うと辛いです 辛い思いをしていたのかもしれないと思うと もっと辛いです 自分なりに世話をしてたと思っていたのですが 怠っていたのかもしれない 幼かった…を言い訳にしてはいけない すごく知識不足だったと思います もっとちゃんと面倒見てあげるべきでした 心の中で何度も謝って、あの時に戻れるものなら戻りたいと思うばかりです ただ、あの時に戻れない 今の私にはどうしてあげればいいのでしょうか? 今の私にできることがあればぜひ教えて頂きたいです。
3度目の相談になります。よろしくお願いします。 前回と同じで旦那の事です。 旦那が嘘つきで信用できなくなり、体調悪いのは旦那なのかと。 今回もまた旦那に嘘をつかれました。 最近は知らない会社から融資の手紙が旦那宛てにきます。本人は知らない、それしか言いません。 結婚した時から旦那はおこづかいはいらない、お弁当、水筒を持っててるのでお金を使う必要がない。それなので、そのぶんは貯金に回しています。 ですが日曜日出勤の時は日払いで貰っている事を知りました。私に内緒で口座も作っていました。 旦那はお金を貯めるためだ。としか言いません。ですが、現実はサラ金らしいとこから手紙がきてるから振り込み先にするため?に作ったのかと疑っています。 旦那はもう嘘つかない、なんでも話すから許してほしいと。 私はもうこりごり。毎日毎日、旦那を疑ってみる自分がイヤになります。 ケンカになり家を追い出して3日になります。 子供と2人でゆっくりできます。 このままの生活を送りたいと思っている自分と、もしかしたら旦那は変わってくれるかもしれない。 どうしたらいいでしょうか? 男の人は嘘つく生き物なのですか?
素朴な疑問について、質問させていただければと思います。 よく話をききます、男が不倫をしたとか、相手を妊娠させたとか。または、女の人をセフレ扱いなどを平気でする男とかも、ざらにいます。 人は、ストレスがたまったら何をしでかすかわからない生き物だと思います。大変な仕事について、毎日仕事と勉強と人間関係のストレス漬けの日々を送っていて、我慢ばかりの人だったらなおさらでしょう。だから、どんなひとでも過ちを犯すし、人を傷つけることだってあると思うんです。それは仕方のないことだと思います。 しかし、不倫だの妊娠させただの、セフレ扱いするなどの行動は仕方のないことだとは思いません。これらの行動は、相手の体や心を傷つけるだけでなく、相手女性の生き方や考え方、男性への見方を大きく歪ませることにつながります。こうした結果になるのが目に見えてるのに、なぜ男は女性に対してこうも傷つける行動ができるのでしょうか。理解に苦しみます。ストレスがたまってたからやった、とかであれば、そのストレスの捌け口が女の人に向く前に、人ではない別のものに捌けさせれなかった男に責任があります。また、相手に好意が少なからずあったからやった、という理由も通用しないと思います。女性という存在を大切にするという意識があれば、そんなひどいことは人道的にできないと思うのです。 長くなりましたが、お尋ねしたいことは、以下のとおりです。 男は、不倫、妊娠、セフレ扱いなど、女性を不幸にする結末をわかっていながらなぜするのでしょうか。やはり性欲をコントロールできてないの1点だと思うのですが。
何度か相談させて頂きました。 やはり、頭の中から(死)と言う文字が消えません、子供の将来を考えると死んではダメだ…大人になった姿が見たい…でも、生きて未来が見えないんです。 離婚してから、ずっと壁にあたってばかりです…苦しくて、腹の底から大笑いした事なんて、いつからしてないんだろうって考えてます。 心の底から疲れた、相談する人も居ない、八方塞がりの人生に疲れました。 死ぬ以外の道が見えません、人間は残酷な生き物だとつくづく感じました。 きっと死んでも、私に手を合わせてくれる人など居ませんし、泣く人も居ません、一体何の為に生まれてきたのか、生まれてきたことを恨むばかりです。 神様や仏様は、どうして悲しむ人を作るのでしょう? 笑い合える人ばかりを、どうして作らなかったのかわからない。 争う事もない、悲しむ事もない、平和な世界になるのでは、と思います。 不平等過ぎる。
>「環境やタイミングで良縁、悪縁の価値観は逆転する 」 人間は自分というモノサシを中心としてあれこれ考え、悩む生き物なのですが、自分の環境や、タイミング、自分が変化すればその良縁、悪縁の価値観も逆転したりします。 いかなる悪縁でも、恨んだりする事だけで終わらず、色々教えてくれた縁と思い歩んでみますと景色も変わってくるのではないでしょうか? これは、こちらで、お坊様が書かれてた説法です。 仰られてること、わかります。そう思うように自分の心を変えていくことで、人を恨んだり、憎んだりしなくなるのでしょう。 しかし、過去に傷つけられた傷は、なかなか癒えません。 そして、人を平気で言葉で傷つけたり支配したりした人が 、反省と謝罪をしてくれる人はいいですが、「忘れた」や「過去の事でしょ」と何もなかったように、ふるまう人には、どう、自分の心を持てばいいのでしょうか?人を傷つけておいて、人の心を痛めておいて過去の事だと言う人の気持ちがわかりません。 また、忘れた風にして、過去に傷つけた人を、頼ろうとしてくる人の 気持ちもわかりません。
今日、長男が生まれました。 今の所、母子共に元気で、目に見える障害等は無いとの事ですが やはり親と言う生き物のサガで、様々の不安は尽きません。 とにかく心身ともに健康に育ってくれるよう、 また万が一の時は私達が強い心を持ち、全力で慈しみ守りぬく事が できるよう、仏様や観音様に祈るばかりです。 私は、仏教は生きている人がより良く生きる為の 知恵でもあると認識してるのですが、 (間違っていたらゴメンナサイ・・ですが) 実際、仏教では生まれた赤ん坊にどのような形で 祝福を授けるのでしょうか? 具体的な言葉(経文、ダラニ等)や祈祷等があるのでしょうか? それとも、祝福なんて概念がもともと仏教のものではなかったり するんですか? 宗派宗旨により様々な形があるのであれば、 色々なご意見をお聞かせ頂きたく存じます。
今朝、家のガレージを掃除していたら目の前で野良猫が轢かれました。 頭が潰れ、体はのたうち回っていましたがどうみても手遅れで、なにもできないまましばらくしたら息絶えました。 何度か近所でみたことのある野良猫でした。 私も猫を数匹飼っていて、そののたうち回る様子があまりにショックで頭から離れません。 道の真ん中で死んだので脇に退かすために死骸を触りましたが、暖かく、ほんの5分前までは生きていたことを考えるとなぜ死なせてしまったのかという後悔が溢れました。 私がガレージに居たから警戒して道の真ん中に居たのではないかとか、私が道に出ていたら道路に来なかったのでは、車も注意して走行したのではないかとも考えてしまいます。 誰が悪いという話ではないですが、車という自然ではありえない鉄の塊を転がし自然の生き物を殺す人間、そして私自身も車に乗りますし、そういったことに対する罪を感じます。 死んでしまったのだからどうにもできないし、野良猫なのだからそのような死に方もしょうがないことだとは分かります。ほんの一瞬で生死が決まるのは猫に限ったことでない事もわかります。 しかし、このことをまだ気持ちの面で処理できません。悲しいです。
タイトルの通り、ペットを不注意で殺してしまいました。 小学1年生の時です。 飼っていたハムスターをお向かいの友達に見せたくて、手に抱えて外に連れ出しました。 友達見せるため地面にハムスターを置いたところ、すごいスピードで走り出したので、用水路に落ちてしまう!と焦った私は勢いよく追いかけたところ、誤ってハムスターを踏んづけてしまいました。 あ、と思った瞬間、見てみると目は飛び出し、血は出ていて、やってしまったことにショックを受け、ハムスターをすぐにゲージに戻したら、そのあとは泣きじゃくるだけでした。 翌日母がお庭に埋葬してくれましたが、可哀想なことをしてしまったという後悔で、その日から高学年になるまでは毎日夜にごめんなさい、おやすみなさいとその子に謝っていました。 高学年に上がったら勉強が忙しく、できなくなったのですが。 ただ、今でも可哀想なことをしてしまったという気持ちは消えず、ネットやテレビで流されるハムスターの可愛い動画も辛くて見れないし、もっといい飼い主のところに飼われていたら、、、という気持ちを引きずっています。 生き物の命を粗末にして、許してほしいは図々しいのかもしれないですが、どうしたら気持ちが楽になるでしょうか。
私はファッションが大好きです。 特にこれからの時期は麻の製品が多く出てきました。 私は麻が大好きです。その根底には、麻は植物で生き物で、一緒に育てていくものだからと言う気持ちがあるのだと思います。 麻にかかわらず、服は私にとって自己表現で自己実現。 しかし、最近、服を欲しがりすぎている自分がいます。同じ色、素材でも個性がある…欲しい。 しかし、予算もあるから悩む。 でも欲しい。本当に最近欲しがりすぎているんです。欲望ですか? 欲望だとしたら何故こんなに強いのでしょうか。 でも、究極、Tシャツにパンツがあればそれでいい、と思う自分もいます。 とにかく物欲がすごいです。 因みに4月に夫が新型コロナ陽性により2週間半入院して人工呼吸器一歩手前までいった出来事がありました。 その時は物欲食欲、全ての自分の欲がありませんでした。私の人生に夫さえいれば、という気持ちで過ごしていました。 退院から2週間以上経ち、またファッションの好きな自分に戻りました。(私だけでなく、夫婦共にファッション狂いなくらい共通の趣味です。) この物欲はいったいなんでしょうか?
よろしくお願いします。 わたしは生き物、特に哺乳類が好きです。世の動物には本当に幸せになってもらいたいです。しかし、ニュースなどで動物虐待や、SNSに乗せるためだけに動物に悪さするなど、酷い人間たち知り憤りがなくなりません。同じ目に合って死んで欲しいです。食べるものがあるのにわざわざ山菜採りに行き熊に襲われ、熊を射殺。許せません。わたしが許せないと言ったり思ったところで何にもなりませんが悲しく悔しいです。正直、人がかわいそうなニュースを見ても無感情です。動物にだけ異様に気持ちが動きます。可哀想な猫のことを聞けば、泣きたくなります。そんなときはその猫の分まで飼い猫を可愛がりたいと思います。動物虐待をする人は血が通っているのでしょうか?この世で一番醜いのは人間だと思いましす。可哀想なニュースを目に耳にいれないようにしても、知らないところで行われていると思うとどうにもなりません。どうやって向き合っていけばいいのでしょうか?よろしくお願いします。
いつも有難うございます。 この歳になっても無知で、お恥ずかしいのですが、 「男性」という生き物について教えてください。 「男性の怖さ」について教えてください。 真面目に聞いています。 私は女性なので女性の感覚しかわかりません。 何故、性病の温床にもなっている風俗業が国から正式に認められて いるのかが、やっと分かりました。 性犯罪を防ぐ為だったのですね。 そのような場所を、あえて作ることによって、 一般の女性が襲われないようにとの配慮だったのですね。 でも、男性の体の中で生産された精子は、自分自身で 処理(排泄)できるようになっているのに、 何故、法を犯してまで女性を襲ったりすることがあるのですか? 自分で処理してしまえば、その後はスッキリするのでは ないのですか? また、体の中で生産され続けている(?)精子を、 体の外に出さないと、どうなってしまうのですか? たとえば、 精巣が満タンになって破裂してしまうとか。 排泄しないと何か体に害があるのですか? また、精神的にも発狂してしまうとか。 若い頃、お付き合いしていた男性に 「男の怖さを全く知らないね」と言われました。 そんなに、理性のロックが外れると怖い存在に 豹変してしまうのですか? 変な質問ですが、真面目に疑問です。 よろしくお願い致します。