2024/04/11伝統と原理主義の境。不幸=神仏の怒り?
いつもお世話になっております。
私が尊敬する情報科学の先生がXで、
「未だに、天災や気象現象を『神仏の怒り』と考える人は多く
いる。しかも議員になれてしまうほど支持率が高い。なんでも
かんでも『神仏のせい』にすれば、自力で考えなくて済むから。
だから自分は、宗教の原理主義的なものは嫌いだ」
とおっしゃっていました。
私は、宗教は「生活規範」「安心と励ましを与えてくれるもの」
と捉えています。
昔の人は、不幸な事…災害の発生や疫病の流行が起きると、
「仏様神様がお怒りになっている」
と捉えたと聞きます。
しかし、私は、
「地震だ!身を守れ!備蓄はあるか?火は出ていないか?神仏が見守って
くれている。頑張って知恵絞って、みんなで力を合わせて乗り越えよう」
と捉えています。
私は、原理主義…つまりそのまま文字通りに経典等を捉えることは、
思考停止、理解が浅いと思っています。理解の浅さや霊感商法にも
繋がると思っています。
私は、宗教とは、経典を生活規範としつつ、いかに世渡りをして
いくかを説いてくれているものだという認識です。
「宗教やってる奴なんて狂人」とネットで言っている人がいました。
私は、昨今のゆがんだ宗教観が原因でそういった認識も広まったと
思っています。霊のせい、神仏のせい、墓があるせい、方角が…
お告げが…
お告げに至っては、現代ではメスカリン、アヤワスカの作用や
精神疾患が原因と分かっています。
また、ある工学の先生は、
「自分の感覚では、宗教は『頼る人』と『信じる人』に分かれると
思う。頼る人は、自己分析不足で盲信的、信じる人は客観的な
自己分析ができ、自分の非力さを理解したうえで、足りないところを
宗教の裏付けで上手くバランスをとっている印象がある」
とおっしゃっていました。
私は原理主義者、「頼る人」ではなく、伝統墨守、「信じる人」と
いう立場でいたいです。原理主義者にならず、伝統を守りつつ、
世渡りをしていくにはどうしたらよいでしょうか。
有り難し 10
回答 2