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検索結果: 2922件

声変わり

お坊さまの声は大きくて深くて大人っぽい 私の声は小さくて浅くて子どもっぽい お坊さまのような声は憧れます 私ももう40なのだから40らしい声になればと思うこともあります でも昔から声優に向いていると言われているぐらい特徴ある声で 時にはラッキーに思うこともあって… ピンポン鳴って見知らぬ人が立っていたら微かな声で「は~い」と出ると「お忙しいところ失礼します~◯◯新聞ですが…」と勧誘だと分かったら「あのね~今みんな出かけているの」と言うと大概「じゃあまたお母さんがいるときに来ますね~」とあっさり諦めて帰ってくれる ピロロロと家の電話が鳴るけど見覚えのない番号なら微かな声で「もしもし~」と出ると「こちら△△建設の□□と申します!この度は無料の耐震検査のご案内で…」としゃべり倒されたとしても途中で「あの…あのね、今誰もいないの」と言うと大概「えっと…おばあちゃんは何時ぐらいに帰ってくるかなぁ?」「うーん…分からない」「お留守番偉いねぇ!じゃあまた電話しますね」と優しく電話を切ってくれる 「今誰もいない」が40の私がいる 「おばあちゃん」って私は母の孫じゃない 姪や甥からはハッキリこう言われる 「なんで芳美ちゃんはそんなに話すのがゆっくりなの?」 「なんかお人形さんの声みたい!」 私は…常にフツーに話しているつもりでいる フツーの声の音量と高さとスピードで ごくごくフツーに話しているつもりだけど 特別な話し方をしているように聞こえるらしい それがイヤに思うことだってあるけど どうしようもない 全国大会で優勝するぐらいの混声合唱団に所属して発声練習にボイストレーニングもしてみた でも声変わりすることはなかった 自分にないものを望んだところで意味ないことも分かっているけど お坊さまがお経を読んでいる時のようなカッコいい声を出してみたい 私がお経を読んだらお寺中に笑いが起こりそう 大人のお坊さまで声がとっても子どもっぽいお坊さまっていますか?

有り難し有り難し 42
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母の顔色を伺うのに疲れました。

私は離婚した事をきっかけに、猫3匹を連れて、母と再婚相手、二人の間の子ども(妹)の3人家族と一緒に住んでいます。高校生〜22歳までも一緒に住んでた時期があります。 相談させて頂きたいのは、母の機嫌が突然悪くなることが年に数回あり、その時の耐える為のモチベーションの保ち方です。原因も心当たりもなく、私にだけ態度が変わるります。そしていつのまにか元通りになっているのです。母も態度の変化に自覚しているのかすら謎です。ただ、その期間は妹や家族には異常にご機嫌になるので、私は顔色を伺いながら存在感を消すことに徹しています。 普段なら挨拶をすれば返してくれ、食事も仕事から帰れば食べられるように作り置きしていてくれています。部屋は与えてもらっていますが、寝る時以外に部屋に居続けると多少文句は言われます。 しかし、機嫌が悪くなると、挨拶すら無視され、「しんどいなら食事の用意がなくても大丈夫」と言っても、お弁当のおかず用の冷食を1つ2つお皿に出して常温に戻した物がテーブルの上に置かれています。 そしてその時はなるべく部屋にいるようにしているのですが、リビングからは家族の楽しそうな会話が聞こえだします。そして、飲み物を取りに行くと母が私がいる間は黙ってしまいます。 話しかけてきたと思えば、「部屋にずっといて、さぞかし部屋が片付いたんやろね」と謎に嫌味を言われるか、「居候の分際で」と言われるくらいです。 あとはこちらから話しかければ全て無視されます。 仕事の間は、私が連れてきた猫のお世話もしてもらっていることもあり、あまり話し合って逆にぶちギレられるのも困るので、耐えていますが、正直学生の頃から度々あることなので、慣れればいいのですが、その前に疲れてしまいます。 更年期や生理と思ってやり過ごすんですが、私が家族の輪にいない時に楽しそうにしていることもわかっているので、原因はそれではないのだろうなと感じます。 ただ昔、実の兄が亡くなった後に両親の離婚が決定した時に私が「どうすれば離婚しなかったのか」と聞いた時に母が、「兄が生きていれば」と答えたので、その時から親子としては終わっていたのかもしれません。だから一緒に住んでる今は耐えることしかできないのかもしれませんが、耐えるためのモチベーションの保ち方のアドバイスを頂けたら幸いです。 愚痴のような文章になり、申し訳ありません。

有り難し有り難し 9
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姉の供養について

姉が亡くなりました。事情があり10年以上も疎遠でした。波乱万丈な人生で周りにも迷惑をかけてきた姉でしたが、根は優しい性格で私も昔は可愛がってもらいました。 自殺ではないのですが、ずっと自殺願望がありさみしいとずっと思っていたみたいです。 姉の一人暮らししていた部屋に行きました。20年も前に私が書いた手紙をずっと持っていてくれました。写真などもたくさん出てきました。 私は自分の生活を守る為に、姉に優しい言葉もかけず冷たい妹でした。何かしてあげれなかったのか...今は辛く寂しい気持ちです。 遺骨は姉の旦那さん(籍のうえで)が持ち帰りお寺に納骨すると言っていました。私は分骨してもらい、今は自宅の父のお仏壇に。もう少ししたら、父の納骨堂に納骨するつもりです。 事情があり、お葬式もあげてなく火葬の時にお経をすこしあげてもらっただけです。今は毎日、般若心経をあげています。 そこで教えてください。 1,般若心経以外にもお経をあげたいです。どのようなお経をあげたらいいですか?(浄土真宗です。) 2,納骨後も家のお仏壇でも供養したいのですが、戒名もこちらにはなく、(姉の旦那さんは戒名をつけてくれたかは分かりません。)自宅のお仏壇には姉の写真だけしか残らないのですが、それでも姉がいるお仏壇として供養できますか? 3.今後、一周忌や、三回忌、、、ずっとお経をあげていきたいのですが、お経の本とかがあれば教えてください。 生きている間に仲良くなれなかったことはとても心残りですが、これから姉が上の世界で成仏できるように供養したいです。 どうぞ宜しくお願いします。

有り難し有り難し 3
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法華経が好きなのにお念仏

私が仏教に興味を持ったのは、ある落語家兼尼さんの著書で仏教と法華経の解説を読んだからです。 私はそれまで大乗非仏説を支持していたのですが、この方の著書を読んで考えが180度変わりました。 ところが、私は不思議とお題目を唱える気にはなりませんでした。天台宗で法華経が顕教だけではなく、密教の経典としても扱われていることを知り、すぐにご真言に興味を持ちました。 ある時、法華経に「一称南無仏 皆已成仏道」と書いてあるのを知り、私はこれをお念仏の教えと解釈し、今度はお念仏に興味を持ちました。 大無量寿経を読むと、お釈迦様が「私が死んでも阿弥陀如来に関する教えがなくなることはない」というようなことをおっしゃっていて、お釈迦様の最後の教えである法華経とも矛盾しておらず、何だか嬉しくなりました。 しかも私は統合失調症という精神病を、軽くですが患っておりまして、「厳しい修行やなんやかんやは無理やけど、阿弥陀さまを信じてお念仏を唱えるだけでいいなんて、なんと大きなお慈悲なんだろう!」ととても感激いたしました。 更に、法華経で「法華経の説く清浄な意根を持っていれば、他の宗教や信条を信じていてもお釈迦様の教えに通じている」と説かれていることから、大乗仏教の裾野の広さ、寛容さを実感し、「みんなで幸せになれる!」とまたまた嬉しくなりました。 長くなりましたが、これって「阿弥陀さまに仏縁をいただいた」と認識しても問題ないですかね? 法華経の解釈とかあくまで自分の解釈なので、勝手な思いあがりかと思い少し心配になりました。

有り難し有り難し 82
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朝に礼拝、夕べに感謝でいいでしょうか

今年1月に息子を自死で亡くしました。 息子が居なくなった時から、少しでも息子が温かいところに迎えられるように、毎日お経を読んでます。 浄土宗のお勤め、香偈、三宝礼、四奉請、さんげ偈、開経偈、四誓偈、本誓偈、摂益文、総回向偈、総願偈、三身礼、送送偈 そして、読んでいる間、お仏壇の前で、泣いてばかりいます。 泣きながら読んでいます。 これではいけないなと思います。 お経は泣くためにあるんじゃないと思います。 今日からは南無阿弥陀仏を何回でも唱えようと思います。 その時間なら、涙も我慢出来るかなと思います。 息子がが居なくなった時から、お仏壇の周りを花で飾り 息子がいるところが、こうであって欲しいと天界を再現しているようにしていました。 自己満足?といいますか自己安心です。 こういうところに息子は居るんだろうな、という安心感でお飾りをしています。 でも、綺麗に飾った花も、色あせてポトポトと花びらを落とし 慌てて、新しい花を買いにいったり・・・ まるで花を落とすことがダメであるように・・・ 自然にさからっても仕方ない・・・ 今のお花がダメになったら、お仏壇に納まる、ささやかだけと1輪2輪のお花を飾ろうと思います。 こちらの世での現実的な話、見えるのもに惑わされずに 朝に礼拝、夕べに感謝。 と言う気持ちで息子に出会えた幸せ、今日生きていられる感謝。 お仏壇には南無阿弥陀仏を唱えるだけでもいいでしょうか? それなら、毎日の泣く事も少なくなりそうな気持がしました。

有り難し有り難し 9
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修行をするとは?

この一年、私の病気のこと、私の労働環境について考えました。 結論は、「私が考えても改善策が見つからない」ということです。社会の1つ改善すると、別のところが負荷がかかり、そこを改善すると新たな分野に負荷がかかる。そして、スタートに戻ってくるのです。だから、解決は難しいと考えています。 では、なぜこのような苦しい状況になったのかと考えてみましたが、「楽したい」という欲や「自分で守るべきところまで人にさせ、いいところだけ自分のものにしたい」という欲が大きくなってきているのかなと思いました。 この点で欲を持ちすぎるといけないのかなと思いました。何か、世も末だなと思います。人に対してどうすることはできませんが、私自身はこれからの生活を見直していこうと思っています。 現在、精神的な問題で仕事を休んでいます。 精神的に不安定になったり、身体面で入院したりしましたが、本を読む時間はたくさんできたので本を読んでいました。 病気を薬に頼らなくても済むように、これまでの原因は根本的に解消したいと思い、症状に関する情報も集め、実践してきました。 私は、「過剰適応の適応障害」と言われました。適応できなかったのではなく、頑張りすぎちゃったようです。でも、これでも、与えられた仕事は、6割ぐらいに抑えていました。このような働き方を改善できないかと考えていました。 でも、私は、暗い気持ちにもなっていません。趣味を作ろうといろいろチャレンジしてきました。そのうちの1つにゴスペルを始めました。私は、英語が苦手なので、歌詞をあまり理解できませんでしたが、この前、レッスンで歌っていて歌詞の意味が理解できました。家に帰ってきて、歌いましたが、いい英語の歌詞だなと思いました。 それで、ふと思ったのです。修行として、日常的にお経をあげると、お経の内容も理解できるようになるのかなと思ったのです。もしかしたら、お経(歌)に向かう姿勢も大切なのかなと思いました。念仏を唱える修行をしているうちに、突然に世の中の道理が分かるようになるという仮説をたてました。これが分かるようになるのは、いつか分かりませんが。 お経をあげていると、内容が分かるようになりますか?

有り難し有り難し 8
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読経

昨日、母の初盆で自宅にお坊さんに来ていただき、読経していただきました。 今まで無宗教だのあの世は信じないだの威勢のいい言葉を並べて生きてきましたが、母の死に直面して、純粋に「苦楽から解放されてあの世では安らかに過ごして欲しい」との思いで父方の宗派の浄土真宗大谷派のお寺さんにお願いして節目の法要をお願いしています。 お坊さんの法話で、私たちが心配しなくても極楽浄土で過ごされているから心配は無用なんだとの旨を教えていただき、少しずつ自分でもネットで調べて仏教に触れ、今まで無知だった仏教に対しての印象も段々と変わってきました。 そんな私のお坊さんに対する疑問ですが、母の法事のお坊さんの読経中は生前の母は「こんなことあったな」「あんなことあったな」と色々思いを馳せたり、お坊さんの「南無阿弥陀仏」が聞き取れた時はお坊さんの言葉に重ねて頭の中で南無阿弥陀仏と唱えているのですが、未熟なものでそのうち「お経長いな」とか「お坊さん、歌うまそうだな」とか「お経は何て言ってるのかな」とか色々と雑念がわいてきて、母や法事と無関係なことを考えてしまいます。正直お経の意味すら知らない自分が読経に合わせて手を合わせることに意味があるのかなんていう素朴な疑問もよぎります。 自分でも失礼だと思うし、「せめて今日ぐらいはお袋や先祖さま、お袋も可愛がっていた先代のペットのことを考えてやれよ!」と自分自身に突っ込みをいれたくもなるのですが、失礼な言い方ですが読経に自分でか「飽きてしまってる自分」もいるのだと思います。 そこでお坊さん方にお聞きしたいのですが、法事はもちろんこれからも参列する機会もたくさんあると思いますが、お葬式やお通夜など含めてお坊さんの読経中はどういった心持ちでいるべきなのでしょうか? もし同じような雑念が出てきてしまったら、どのように持ち直す?脱線を修正したらよいでしょうか? またお坊さんたちは自身のお勤めの際、どのようなお気持ちで読経なさるのですか?例えば劇の時のように、感情を込めてそのたちばになりきるように、お経の中の言葉の意味に思いを込めて唱えられるのでしょう?また同じような雑念がわくことはありますか? 子供じみた質問で申し訳ありません。

有り難し有り難し 15
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読経が何故供養になるのか教えてください。

お経を読むことがなぜ先祖や自分に関わりのある仏様の供養につながるのか? 大変罰当たりながら、そのような疑問を抱いてしまいました。 仮に例をあげますと、日蓮宗では法華経を読んで先祖供養などをされると思います。 法華経は釈迦が悟りを開いて亡くなられる前に最後の教えを説いたもので、 数ある経典の中でも最上の教えとされていると聞いたことがあります。 その素晴らしい教えを守り、帰依しますと宣言する=「南無妙法蓮華経」と題目を唱える。という事になるのでしょうが、なぜそれが供養につながるのか疑問です。 自分は先祖や仏様との何らかのつながりがあるから、その自分が題目を唱えることで先祖や仏様の過去の罪が軽くなり救われる。=先祖や仏様も成仏できるという考え方も確かに一理あると思います。 しかし、お経というのはただ聞いたり意味を知らずに読んだりすれば、まるで呪文のようでいかにも効果がありそうに思いますが・・・。 現代語に訳して意味を分かるようにしてみると、一つの物語をただ読んでいるにすぎないように思えてしまいます。 とてもありがたい教えが書かれていることは理解していますが、客観的に考えれば子供に絵本を読み聞かせているようなものではないかと思ってしまうのです。 子供ではなく対象が先祖や仏様へ、絵本がお経という物語へ変わっただけではないでしょうか・・・。 物語を読み聞かせる行為がなぜ供養につながるのか? 先祖供養のためによくお経を読む者として、大変疑問に思っています。 どうか教えてください。

有り難し有り難し 101
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