人のニーズに応える事と依存の違い
二つ目の相談(質問)を失礼します。
一日に二つも投稿してすみません…。
いつ頃からか、自分自身の感受性とは別に「これはあの人が喜びそうだ」という感情があります。
『これ』は、本やネット記事だったり、自分の考え出した何かしらの哲学や作品など多岐に渡ります。
誰かに『必要そうなもの』がふと浮かんで、それを、それとなく差し出す感じです。
そうした何かを見つけると、思わず買ってしまったり情報を共有したりします。
ピッタリとハマった時には、何とも言えない喜びを感じます。
時々、思ったよりウケずガッカリする事もありますが、それはまだ『人間的』な、持つだけならそう悪くはない感情であるように思えます。
それだけなら、「これもきっと、自分の優しさの形なのだ」と思えます。
ただ問題は、その行為を『いつか距離を置こう』と思っている気の合わない同居の母親や、私への依存の気質があって、余り世話を焼くのは良くないなと内心思っている同い年の友人など。
自分に向けられる『親切』への感受性が低い人にも行ってしまう事です。
言っては悪いですが2人とも、比較的思い込みの強いわがままな性質です。
私だけでなく、他から受けた親切や刺激も、自分の中でより悪い方向に歪める癖があります。
そして、私以外には比較的朗らかに接します。
恐らくは私に甘えているのです。
その度に、私自身はモノ扱いされているような劣等感が募ります。
きっと、何の世話も焼かずに、「そうだね」で済ませれば良いのでしょう。
でも、余りに行き過ぎた偏りを見るとつい諭そうとしてしまい、つい強く抵抗してしまいます。
前述のように、必要そうな支援や情報やモノを差し出しては振り払われながら…。
そんな時にふと、自分が『親切』や『お節介』だと思って肯定しているものは、相手に自分を認めさせ、世話させる為に編み出した手法で、ある種の依存なのではないかと不安になりました。
そう思うと、自分が行う『もっと良く見えるように』『分かりやすいように』という気遣いも、エゴのように思えてきました。
自分の意見だと思っているものは、相手の『聞きたい事』なのでは。
『私』だと思っていたものは、親や友人から渡されるモノをより多く得る為に、その裏のニーズを汲み取っていただけなのではと。
ならば、与えられた環境に適応することと、依存の違いはなんなのでしょう。
有り難し 1
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