最近家で新たに仔犬を飼いはじめました。 もう、あまりにも可愛すぎて、やるべきことに集中できません。 以前も犬を飼っていたことはあるのですが、こんなに可愛いと思うのは初めてかもしれません。 もちろんしつけや世話が必要ということもありますが、それ以上に可愛いすぎて、つい抱っこをしたり一緒に遊んだりして、気づけば時間が浪費されていると、という状況です。 家にいる時はべったりです。 とっても癒されるし、幸せな気持ちに浸りながらも、気持ちを切り替えなければマズイと思っています。 やるべき事も山積みなのに、やるべきことに集中できません。 また、溺愛しすぎるのもいろいろな意味で良くないと思います。 どうしたら気持ちを切り替えられるでしょう?
死にたいと考えることは極端な発想だとよく聞きますが、生きようと思うことが極端ではないと言い切れる根拠はどこにあるのですか?
社会不信の塊です。 地球環境のためにも人類は即刻滅びるべき、としか思えません。 何をしたって気づいた時には全てが手遅れになっている茹でガエルになる未来しか見えないとずっと感じてきました。 自分の力も人間の力も信じていませんし、上位存在がこの世界を調整してくれるわけでもない。つまり、この地球は人間が食い潰して終わるしかありません。それを防ぐために人類滅亡を唱えるべきはずの権力者が、私利私欲の筆頭に立っているのだから始末に追えません。 私自身の人格が終わっているのはもうご承知のことと思います。なので私の人生ももう終わっています。ずっと、「辛いから死にたい」だけでなく「コイツ、いなくなればいいのに」「死ねばいいのに」という、普通の人が他人に対して軽率に向ける殺意を自分自身に向けてきました。自分を大事にすること、自分を満たすことを自分にも他人にも許しません。 生きていることそのものが何かの間違いであり思い上がりとしか感じられません。生き物は本能のために暴力を振るわざるをえない、他者を迫害することに快楽を覚える器官を持って生まれるものですから、生命があることそのものが世界の害悪としか考えられません。 私が他人の話を聞けないのは、私の話が聞かれないことが長い間当たり前すぎて、聞いてもらいたい欲が異常に膨張しているせいです。 そして、聞いてもらえるような話し方も価値のある話も持っていないから、この世界に私が生きて良い場所なんてありません。 この世界がもっと良いものだったら私だってこんな腐った脳みそしてません。けれどこの世界が良いものでないという事実がこうさせるのです。そんなことをいくら言おうが、また他人のせいにして、と私の人格的価値が低いことの証明以外にならない虚しさを繰り返してきました。私が速やかに死んだほうがいい人格をしているのは私が一番知っています。「そうです、私が悪かったです」以外の返事を許されませんでした。納得することを許されませんでした。私よりも世間体の方がずっと大事だという事実を幼い頃から突きつけられて育ちました。個より全が大事だと染み込まされて育ったから、誰もが幸せになろうと苦しむこの世界が理解できません。苦しいなら死ねる世界を作るほうが大事なのではないでしょうか。 人間だろうと動物だろうと苦しみから逃れられないから、私は生命であることを拒否したいのです。
私は2度目の結婚を去年しました 上の子は4歳で前の旦那との子供です。 下の子は生後2ヶ月で今の旦那の子供です。 彼の両親方との仲も良好な方です。 離婚を気に常識的な事などしっかりしなくちゃという気持ちが強くなり子供たちにも厳しく育てるようになりました。私自身両親が離婚しているので、挨拶から何からよく教え当たり前の事は子供に教えてきました。 ですが旦那の従兄弟親戚などが集まる場では周りの目を気にしすぎて上の子がのぼせて走り回ってたり恥ずかしいせいか挨拶できなかったり何かしたらだから離婚したんだろなど親がこうだからこういう子供なんだとか偏見に見られている感じがする時があるんです。 これは直らないのでしょうか、なので間違った育て方をしまったのかと私自身責めることの方が多いのです。 若気の至りで腕に根性焼きが複数あり 背中にも刺青も入っています、 だから余計弱みを握られてる感じもして。 私と旦那は性格も正反対で 私はきつい性格で物事をはっきり言うタイプなのでよくキツイだったり怖いだったり思われがちな部分がありそれはそれで自覚もしています。 旦那は初婚なので子供の事は私に比べてわかりませんそれも理解はしています。 ですが子供の事を従兄弟のお嫁さんにわざわざ聞きます。私だって子供は育ててきたからこそプライドだってあります。従兄弟に聞く分にはわかりますがなんでわざわざお嫁さんに?って思うのです。 会えば話す程度だったみたいですが 伯父が亡くなって従兄弟たちが集まった頃から なんだか余計仲良くなった気がします 前々から綺麗で可愛い人だよって聞いていたので そんなに絡みたいのかとかと思ってしまいます 派手めで私と系統も似ていて 性格は私と正反対ですが(笑) 前の旦那とは彼の不倫で離婚しました。私の地元の友達と。なので女性関係になると変に勘ぐってしまうんです何もないのはわかっているのですがこの嫉妬心もどうすればなくなるんでしょうか。 彼が女性を見る目自体嫌で男はそういう生き物だって何度も言い聞かせていますが実際問題口では何も言いませんが態度に出てしまったりするんです。 どうしたら心を広く持てるのでしょうか 愛されているかを不安になったりもしてしまいます。
最近特に「自分のこと」しか考えられなくなって来ています。 私は子供の頃から「気が利かない」「もっと人に優しくするように」と育てられたので、素直に「自分よりも他人の気持ちを考えるように」して来ました。 また、まだ物心ついたばかりの頃、両親が大喧嘩をしている時。 「もし父か母のどちらかが相手を殺したら自分は犯罪者の子供になるんだな」 と落ち込んだ際に。 「今両親は大変な思いをしているのにどうして自分は自分のことしか考えられないんだろう」 と心に病んで以来、自分の事を卑しい汚い生き物のように思うようになりました。 思春期の頃までは本当に「自分の事ばかり考える事」を悪として、できるだけきょうだいや友人のことを考える様にして来ました。 それは「相手が喜んでいるのが嬉しい」という純粋なものからでもあったのですが。 成長するにつれて少しずつ「どうして私ばっかり相手のことを考えなければならないのか」と思うようになり。 進学の時に「お前のせいで他のきょうだいが進学できない」と言われ諦めた時あたりから。 だんだんと「優しくすることは損だ」と考えるようになりました。 そして家族に冷たく当たるようになってからは、あんなに「お前は気が利かない」と言った親から。 「子供の頃はあんなに優しかったのに」と嘆かれる様になって、ますますその想いが強まり。 社会に出てからは「”優しい人”とは”何をしても許される人”」なのだとでも言う様に理不尽な扱いを受ける人々を見て。 人間というのはただ「自分のためだけに」生きる方が人として正しいのではないか。 得をする事がなければあえて相手のために何かする必要はないのではないか。 と考えを改め「相手から依頼があった時」や「自分に十分なリターンがある時」だけ人に優しくすればいい。と思うようになって来ています。 多分私は本当は人間が嫌いなんだと思います。 それでも「誰かが喜んでいる」所を見るのは好きです。 なのに「自分の役に立たない人に親切にして何になるのだろう」とも考えてしまいます。 本格的に心身に異常をきたして通院をするようになってからは、本当に自分の事しか考えられません。 常に「自分が」「自分が」と己を基準にしか考えられないのです。 このままでは社会からどんどん孤立していってしまいそうで恐ろしいです。 何かアドバイスのようなものをいただけたらと思います。
どこかで「人間は躾けられた肉」と聞きました。 (「地獄」という概念を作ったのは躾けられない肉に対しての犯罪などへの抑止力だったりするのでしょうか。) 私は他と比べても人間としてよく躾けられた肉だと思います。私の色んな事への罪悪感は、躾けがうまくいっている証拠であると気付きました。 躾けなんてされなかったら少なくともこんな大きな罪悪感は抱かなかったはずなんです。 正義も悪も、「誰かにとって」でしかないのに、それを押し付けられて自分のものにさせられて、それに苦しめられます。 でもそれがなければ社会は回らないし平穏はないというので皮肉な話です。 道徳だ善悪だなど馬鹿げた事をと過去の自分を笑い飛ばしてやりたいのですが、私のものにされていた倫理感が罪悪感となって襲ってきます。 今、心に余裕が無いです。毎日泣いています。食欲もないしずっと眠っていたいです。相談文も冷たい書き方になっているかもしれません。不快な思いをさせたら申し訳ありません。 今私を支えているものがなくなったら死ぬつもりです。新たな支えは探しません。代わりがあるという証明になるからです。 (支えというのは最近8周年を迎えたゲームの事です。プレイヤーに寄り添ってくれるんです。ただのデータ。それでも私の命綱です。) 今までの盗みや殺しや心を傷つける事を、「罪悪感を感じると正常な事」「恥ずべき事」「悪い事」だとして躾けられなければ、もっと言えば生まれてこなければ苦しまなかった筈なんです。 私は自分を許せません。だから罪悪感は一生背負うことになります。もう自分を恨む事しかできない。 沢山の魚を怠惰と過信で死なせてしまったので、もう魚は飼いません。猫を飼って猫の自由を奪っているのでもう飼いません。 トカゲを炙り殺したのでもう小さな生き物に触りません。悪口を言って自分を苦しませたのでもう言いません。 どれも取り返しがつかないでしょう。ほら、やはり自分を憎むしか無いんです。もうやらないったって全てが元に戻るわけじゃ無いんです。 地獄はいいですよね、もう誰も傷つけないで済むのですから。 私はもう何をどうしたらいいのでしょう。どんな大きな罪悪感を背負っても何に祈っても何の得にもならないのに、誰も救われないのに、なくなった命は帰ってこないのに。 乱文で申し訳ありません。答えて欲しいのは最後の質問です。
今はそれなりに平和に生きています。衣食住に困ってもいないし、まだ戦争に巻き込まれているわけでもないと思いたい。世界的に見ればものすごく贅沢な生活をしていると感じています。だからこそ、この生活が終わることを恐ろしく感じ、また、今の生活を続けることに罪悪感もあります。 人間でも、自然界でも、未だに殺生は行われ続けています。私も肉や魚を食べることだってありますし、コーヒーやチョコレートを口にすることだってあります。けれど、これ自体が何かへの加害、搾取であることも事実です。電気や水を使うことは自然破壊に繋がります。けれど、この生活を誰かに明け渡せと言われても拒否してしまう浅ましさがあります。 今の生活は何の根拠も無しに何故か成立している宙ぶらりんなもので、ちょっとした間違いで崩れ去ってしまいます。そして、世界的に見ればそのバランスは日に日に悪くなっているように思います。終わるかもしれない生活、何かを傷つける生活を続けるのが怖いというのに、どうしても、今の生活が続くことを望んでしまいます。 安心して生きていたいだけだけど、自然界で天寿を全うできる生き物は少数派なのだろうという現実、解決策が見つからず悪い方へとばかり進む人間社会、オカルトな視点から破滅的根拠ばかりが積み重なる7月5日(都市伝説、占星術、仏滅)。これらが重なり、今になって自分の命と生活を惜しんでしまいます。 生物の命や感覚や自我を作り出しているのは、脳味噌や神経などの生体反応でしかありません。つまり、例え死んでもまた物質世界のどこかに生まれてしまいます。それが恐ろしい。死よりも、死に至る苦痛が恐ろしいのです。 要約すると「未来が怖い」ということになるのでしょうか。全てを忘れて自分の生活に集中していれば心は楽ですが、それは正しいことではないように感じられる。かといって、自分の全てを投げ打って他者の為にだけ生きる正しさを実行する勇気もない。そして、いつかはどう足掻いても残酷な流れの中に放り込まれる。それはこの命のうちかもしれないし、この命が終わってからかもしれない。けれど、いつか必ずそれは起こる。極楽浄土が本当にあればいいけれど、人間が発生する前、恐竜の時代にも極楽浄土はあったのでしょうか。 とりとめのない文章になってしまい申し訳ありません。解決策などないことも知っています。世界は信じるに値しますか?その根拠は?
私は、子どもの頃から、人類の、目を覆うばかりの傲慢さが どうにも許し難くて... そのような思いばかりが充満している者であることを、そろそろ白状しなければ、と考え始めたところでしたので、 再三になりますがお邪魔いたします もう50年間も抱えているコトですから、ご応答頂けますとしても、ずっと後日でけっこうでございます。 私は、人間として生まれた者であれば物心がつく頃までに当たり前に辿り着くはずの 「人間のステージ」に、私は上がりそこなったまま.. そのような感覚の者です 土地というもの(この星の命とも言える「表土」)が人間の持ち物になっていること自体あり得ない!! という思考回路しか持ち合わせない者ですので、頭も心も現実の社会にはまるで向かず、耳に入ってくるニュースの大半に強い違和感を覚える日々です 自分の感覚(センサー?)を緩衝材でグルグル巻きに包み込み、何も感じないようにしないと対処できないことも生じています (絵本一つにしても、例えば、のどかな野中の池、その周りに集まる動物たちの交流、といった、一般には「かわいらしいお話ね」と言われる類の話にしても、私は 『現実には、そのような池も、ある日突然、巨大な機械がやってきて潰されてしまうわけで・・』という思いが重たき過ぎて、甚だ受け入れ難く・・) 明治維新以前の日本は、戦闘を避ける知恵(人類の珠玉ではないでしょうか?) を会得していただけでもすばらしいことですが、この天体の一生物としての、身の丈に合った文化であったと思われます 西洋の産業革命以降、加速度的に変容してしまった文化は、まさに 兼好法師の言われる『 煩悩の増長したるもの』(徒然草38段)であると思えて仕方ないのです 東大寺の大仏建立時、聖武天皇の詔の中 《動植咸栄》との文言 (人類だけが栄えることは過ちである、と私は意訳させて頂きたく思ってしまいます) これは仏教の影響も大きいものと思われるのですが...? 実現は極めて困難、いえ不可能なことであっても この星に生を受けた成員として けっして忘れてはいけないコトを、 我々生き物の まん真ん中に通っているはずの一本の心の柱を、 繰り返し繰り返し、うったえ続けていく必要があると思うのですが... 戦争という、人類の愚かしい文明から抜け出すには あらゆる兵器の全廃しかない、と訴えることと同じく。
はじめまして 最近、正信掲、歎異抄、大無量寿経、スッタニパータを読んでいます。 読んでいて、不勉強ゆえ以下の疑問が湧いています。 子供を作ることは、愛すべき我が子を、厭うべきこの世に呼び出す行為とも思われ、子を思えばこそ作るべきではないように思えます。以下、詳述しますのでどうかご指導ください。 ブッダは、欲望の支配からの自由、ひいては輪廻転生からの解脱を説かれます。 その前提として、人(を含む生き物は)煩悩具足の凡夫であって、他の生物を殺生し食べねば生きられず、醜い体をもつ哀れな存在だと捉えられていて、「再び母胎に入ることのないように」と仰います。 つまり、私達が子供を作ると、上記の哀れな存在を生むことにはならないでしょうか。子供を作らねば、輪廻転生の苦もなくなるのではないか、と思えているのです。 しかも、子を遺して自分が世を去る時後ろ髪を引かれ、絶つべきこの世への執着が、子供の存在によって強まるようにも思えます。 確かに、「人身受け難し 今既に受く」「大海に浮かぶ板の節穴から盲た亀が顔を出すより難しい」とも言われます。しかし、これは、どうせ生まれるなら、他ではなく、仏法を聞ける人身に生まれることの有難さを説かれたものであって、生まれること自体の素晴らしいとのお考えでないようにも思えます。 また、生まれることの幸不幸は本人の捉え方次第とも思われます。しかし、もし子が生まれ、「生まれたくなかった。なぜ厭うべき仮の世に産んだのか」と言われたら、答えに窮してしまいそうです。 この問に答え得るブッダのお考えをご指導ください。できれば、それが書かれている文献の名前と場所(第何章のどの辺りか)もお教えくだされば幸甚です。 どうか、宜しくお願い申し上げます。 (以下、ご参考です) 一五二 さまざまな欲望の対象への、深層の欲望から超脱するようにせよ。そうすれば、もはやふたたび母胎へ入って輪廻転生することはなくなるであろう。(スッタニパータ 荒牧典俊著) 二三五「過去の業は絶えた。未来の業もあり得ない」と、賢者は、来世に執着せず、種子を絶やし、自己存在の芽を未来にまで伸ばしたいとの願いを捨て、油の切れた灯のようにふっと消えてしまう。 三三九 二度と輪廻の世に舞いもどってはならぬ。 三四〇 たえず身体に注意を向けて、その醜さを思い知れ。厭い離れる心に満ちてあれ。
私は離婚して子供2人を連れ一昨年実家に帰ってきました。父は昔から自分の思うようにならないと不機嫌になり怒り出すことがありました。自分のことは棚に上げ人には完璧を求めるような感じです。そのため、子供たちに事あるごとにダメ出しばかりをしている状況です。いつかは、8歳の娘が食べたアイスがそれはワシが買ってきたやつだ!と本気で怒鳴る始末。今朝は、父が飼っている金魚に娘が餌をあげていたら、ワシがもうあげとるのに勝手なことをするなと朝からガミガミと怒っていました。私からしたら生き物のお世話をしているので、むしろ偉いねと褒めるべき行為だと思いますが、父からしたら虫の居所も悪かったようで、孫にあたると言う状況でした。また、子供たちが電気を消し忘れたりすることもあるため、毎日のようにガミガミガミガミ。たしかに電気代などのことを考えると小言も言いたくなるとは思います。結果、電気を消し忘れるからと、階段の電気を取り外し、光の少ないセンサーライトへ交換されました。そのため、夜中にトイレに行く時など暗いため子供が階段から落ちるのではないか?怪我したらどうしよう?と心配が絶えません。しかし、それを父に伝えると、ワシは子供が怪我するより電気代の方が気になる!と言われる始末。親には離婚で戻ってきた私を受け入れていただき本当に感謝はしていますが、このまま、毎日朝からガミガミと子供に小言を言っている状況を見ていると、子供の教育上良くないのではないか?と言う心配がでてきています。このような父と生活していく上で、どのようにして行ったら良いのでしょうか?私たちが出て行けば済む話では?と言われるかもしれませんが、昔からそのような才覚のため、今度はその矛先が全て母に行くかと思うとそれもためらわれます。まとまりのない文章で申し訳ありません。回答よろしくお願いします。
先程、寒いのに蚊が飛んでいたので殺してしまいました。菩薩心を持ちながら感謝の気持ちを持ちながら申し訳ない感情で、手を洗剤で洗い手に付いていた細菌を信じられない数で殺してしまいました。しかし人生上手くいっている人は細菌など意識すらしないでしょう。感謝や申し訳ない気持ちすらなく手を洗い成功しています悟りに近いのでしょうかね。 はてさて、これらの生き物は輪廻転生するのでしょうか? 私にはお婆ちゃんがいましたが、認知症になり自分すら認識できていませんでした。 お婆ちゃんが亡くなりましたがお婆ちゃんという根底の存在?アートマン?それってなんだったのでしょうか。自分すら認識できない彼女の根底の意思とはなんだったのでしょうか? ISISというテロ組織が色々ロケットランチャーで1人を殺害する動画を作っていました。 ロケットランチャーで跡形もなく粉のようになっていました。 死んだ彼はなんだったのでしょうか?原子が組み合わさった物としか思えませんでした。 私が輪廻転生して、また再び人に生まれたとします。それは私ではないのでは?私とは?今の私というのも曖昧です。記憶を喪失したら私? もしそれも私なら今IQが高い人のみ輪廻転生できて、自分すら認識できない人間は輪廻転生してまた人間になったら自分すら認識できない存在? 少子化とは言いますが70億人に人口が膨れています。 さて、それまでの輪廻転生があるとしたら60億人ほどの魂はみんな人間界に一斉に来れたの? 死というのは、ただ肉片になるだけではないでしょうか?そうとしか思えない感情が湧いてきます。 踊って唱えるだけで悟りを得れるのなら、知能の低い人や認知症もそれができないとおかしいでしょう。 やはり救いはなく、死という拷問に近い形の苦しみを受けて全てが抹消されて苦しい気持ちを得たという事実だけが残るのではないでしょうか。 もちろん人生楽しんだ恵まれた人は生まれつき遺伝子や環境に恵まれてるので、仏教も興味なくて人生に何の疑問も持たなくてただただこの世界は楽しみだったという感情に溢れてるんじゃないですか。(それこそもはや輪廻転生のせいというか生まれつきの条件を輪廻転生側が選ぶという暴挙) まあなんであれ死んでも輪廻転生なんてないし素粒子になるだけだよね。
・常態化するJアラート、危機感が薄れ切った頃に直撃弾、甚大な被害と日本列島に広がる地獄 ・経済破綻、下がる生産性、増える消費、選別される生存権。破壊と略奪、犯罪、弱者切り捨てが正当化される社会 ・他人に対する不信感と軽蔑が社会を支配し、一部の有能な人間しか生き残れない。諍いは当たり前となり、誰もが誰かを憎みながら生きる ・人々の無理解、「自分が苦しいのだからお前も苦しめ」が常識となる。誰もが他人の幸せを恨み、壊そうとする ・弱さへの無理解。正義を語る破壊行為 ・最早遠くないであろう第三次大戦 どこを向いても絶望、絶望、絶望しかない。こんな問題だらけの世界でどうして平気でいられるのでしょうか。どうして平気なふりをしなければならないのでしょうか。 成功体験の多い人間が世界を動かすから、地獄で這い蹲っている人間は救われない。自己責任。 弱さは理解されない。自業自得。 人心は荒み、社会は乱れ、環境は汚される。人間という生き物にとことん嫌気がさしているのです。生きることことを徹底的に拒絶したい。 どうせ若輩者の偏った思考なのでしょうか。年齢を重ねればどんな形であれ生きることを肯定できるのでしょうか。 嘆きは簡単に見つかりますが、幸せを見つけるのは簡単ではありません。 もうなにもわからない。 誰もが嘆きながら仕方なく生きているのではないのでしょうか。 何度希望を持とうとしても、結局は絶望に帰ってきてしまう。 何も感じたくない。 こんな世界で何を信じて、何を希望として生きていられるのでしょうか。 一切の希望を棄てたならば楽になれるのでしょうか。 あるいは、私が何かを拒絶、排除しているのならばそれは何なのでしょうか。 絶望予想は荒唐無稽なものなのでしょうか。それとも改善に向けて動かなければならないものなのでしょうか。 希望を持ちながら生きることに疲れました。どんなに希望を持ったところで薄氷の上、砂上の楼閣でしかないからです。 何を頑張ったところで、近いうちに全て破壊されるのですから。 ……本当は諦めたくないのかもしれません。絶望的な未来なんて迎えたくない。 けれど、絶望は簡単に見つかります。沢山の人々が絶望を語り、そっちの方が希望よりもずっと現実的なように思います。 野坂昭如氏は言いました。「日本にお悔やみを申し上げる」と。 諦めて地獄を生きるにしかないのでしょうか。
「恩を仇で返す」と言うよりこの場合「好意を仇で返す」、の方が合ってるかもしれません。 まず、私と旦那は野良猫を保護する活動をしています。いろいろな意見があるのは承知していますが、自分は意義ある活動だと思ってやっています。 そこでとある生き物関係のコミュニティで「野良猫問題が近所で起こっていて、解決の為にこの猫を捕まえようと思っている」と言っている人がいました。 私にはその知識があるのでこうしたらいいよ、などと教えてあげたんです。 そうしたら彼女から「私はアンタみたいにやろうと思ってもお金も時間もない。かけたくもない。というか、アンタはそう言ってアンタの問題を私に押し付けようとしているんじゃないのか。だからアドバイスをくれたんだろう」と言われました。 アンタの問題というのは、私は行方不明になった飼い猫を探していて、以前似たような猫を見たかもしれないと言う彼女と話をした事がありました。でもまだ見つかっていません。なのでもし捕獲が上手くいったらシェルターに連れて行く前に写真の共有をお願いしたんです。そうしたら「でも近所で迷いネコのチラシを見たり猫の名前を呼んでいるのを聞いた人間はいない。アンタにこの事を任せていたら埒が明かない。アンタの猫探しを私に手伝わせるな」と言われました。 そりゃ私達が活動する夜中の2時3時に起きてる人は稀でしょう。私達にも生活があるので1日のすべてを活動に充てることはできません。 あと、以前話をした時にはまた情報があったら教えてください、と伝えただけで私達に任せて、なんて言っていません。捕まえてくれとも頼んでいません。どうせ捕まえるつもりなら、とお願いした写真の共有は迷いペットについての情報を交換する場だったので、してはいけないお願いだったとは思いません。 こちらは彼女がやろうとしている事が成功すればいいな、と思って知識を共有しただけなのに、彼女の勝手な思い込みで私の活動を否定され、好意を仇で返されて傷つきました。 最初はシェルターに引き渡すと言っていた彼女は最後に「アンタの猫だとしても捕まえたら保健所行きで殺しちゃうからね」とも言ってきました。 そんなつもりで言ったのではない、と言った所でこういう人間は聞く耳を持たないと思います。このような、一方的な思い込みで好意を仇で返してくる人に出会った場合、どうやって心を静めたらよいのでしょうか。
はじめて質問させていただきます。 その前に、私がこのサイトに出会った経緯を少しお話させて頂きます。 私が幼稚園生の頃から高校卒業するまで、毎日、父親の命令で「般若心経」を写経させられていました。 父親は死ぬまで無宗教で、子供たち(私と弟の2人)に仏教に関して話してくれたことはありません。 父に尋ねても写経を強いる理由は教えてもらえませんでした。 思春期には、写経しながら心の中で父を罵倒していました。おかげで仏教が大嫌いな大人に育ちました。 しかし、40代になった今、仏教に親しみを感じるようになりました。 そのような経緯で、このサイトを知りぜひ相談してみたいと思いました。 反抗期の娘にとって、共感してくれた人は「味方」、共感してくれなければ「敵」という考えなので、少しでも違う意見を挟むと、言い合いになります。 また父親には従順で、母親の私にだけきつい言葉で、批判してきます。 でもそれはどこの家庭でもあることだと思います。 問題は私にあります。 先に書きましたように、毎日正座させて幼い子供たちに写経させる家庭環境は父親が強く、母に決定権はありませんでした。 私は、両親に口答えも反抗もしませんでした。私は反抗期がありませんでした。 私が反抗しなかった理由は、父親が怖くて逆らえなかったからです。 また、父の一歩後ろにいる母を傷つけることはできませんでした。 でも、本当の理由は、親といえども理不尽で不完全な存在であるということを前提に親と向き合っていたからです。写経など理不尽の極みだと思っていたからです。 反抗期のなかった自分を偉いなどとは思いません。 ただ娘の反抗に、まったく理解ができないのです。 夫は「おまえは反抗期がなかったから、娘の気持ちがわからないんだろう」と言います。本当にわからないのです。 穏やかに接しても、私の意見をいっても娘の攻撃は変わりません。 今私は理解のできない生き物といる気がします。 娘に対する嫌悪感を持て余してしまいます。 自分も反抗期があったなら、娘の気持ちもわかるのでしょうか。 でも過去に戻れるとしても父母に反抗する気は起りません。 厳しいご意見でもかまいません。 お言葉をいただけたら幸いです。
私の知る情報のみでの考えです。 ご気分を害されてしまうかもしれませんので、先にお詫び申し上げます。 私はお寺さんでよく参禅しております。 時々お話を聞いていますと、色々と疑問が出てまいりました。 お寺では精進料理と思っておりましたが、時には肉も魚も食されるそうです。 外食にも出掛けられ、肉魚お酒など好きに召し上がられます。 お接待で出された場合は、残して捨てられてしまうくらいなら 犠牲になった命ももったいないので頂くのは分かりますが、 自分から望んで食べるのは何故なのでしょうか。 私も普通に食べてきておりましたが、海外の電気も水道もない村に行ったことがあり、 牛やヤギの首をナイフで切って殺して解体して刻んで…と全て見てしまい、 それから食べたくなくなりました。魚も、網がかけられれば必死に逃げます。 人間は自分や他の人の肉を削いで食べようとはほぼ絶対にしませんが、 その他の生き物に対しては美味しいと言って頬張ります。 その時点で人間(自分)より下に見ているのではないでしょうか? : お寺のご子息の多くの人は、人前では真面目にはされておりますが、 嫌々なりました、仕方なくなりましたと言われます。 お坊さんになりたくてなった方にお寺を継いでもらおうとしないのでしょうか? : お坊さんと言えど男性ですので性欲があるのはもちろんですが 参禅者にセクハラをしてくる住職には正直減滅いたします。 お金があるのなら、お店に行けばいいと思うのです。 またお金をお持ちの方は、金があるから…と余裕を見せますが、 そんなにあるなら困っている所に寄付でもすればいいのではないでしょうか? : 真面目に誠実に仏教を学び、実践しているお坊様はどこかにいらしゃいますでしょうか? そういった方がいらっしゃればそちらに参ってみたいです。
度々の質問大変申し訳ありません。 愚痴に近くなってしまうのですが聞いていただきたく、質問しました。 母の不倫について、自分なりに気持ちを整理してみたのですがどうしても母のことを許すことができなくて、自分でもどうすればよいのか分かりません。 やっぱり家族に嘘をついて男の人と旅行まで行ったことが許せないし、私に気づかれてもなお関係を続けたことに対して、どうして!?という気持ちになり、同じ女性として、娘として気持ち悪いと感じてしまうのです。多分ですが2人の間には性行為もありました。母のお腹の中で育ち生まれた私は、夫と未成年の娘がいるにも関わらず、他の男性とみだらな関係になったことがどうしても許せないし、私の生まれて来た道がけがれてしまったような気がするのです(生々しい表現でごめんなさい)。 また素直に謝ってくれれば今の感情に少し変化があったのかもしれませんが、母は、夫が悪い、許してくれない娘が悪いの一点張りです。また私に対して酷い言葉もたくさん言いましたし、警察呼ぶと怒鳴られたこと、物を投げつけられたこともありました。 もともと私と母はとても仲良しでした。というよりは私が母に合わせていました。しかしそれは間違いだということに気がついてしまったのです。今までそれによって、自分の感情をどれだけ押し殺していたのでしょう。苦しかったです。 気づいたところまではよかったのですが、母は私と違う娘を認めてくれないのです。 私は母に傷つけられ、更には母に人生を奪われてしまうのでしょうか?苦しいし、許せません。 今まで育ててくれた両親にはとても感謝しています。しかし私はこの出来事により、男女の恋愛関して不快に感じることが多くなりましたし、人間は簡単に嘘をつくことに失望を隠せません。今まで、人間は色々煩悩を抱えてはいるけれども、学問や生きることを通して、なんとか向き合っていく生き物だと思っていました。でもそれは違うのかもしれません。嘘をついて得をする人もいます。この世の中は不平等です。 今まで精一杯生きてきましたが、やはり限界です。母のことは許せませんし、もうこれ以上は頑張ることができません。 先日学校の先生が、この環境の中よく頑張って毎日通ったね、と褒めてくれました。私なりに本当に頑張ったつもりです。もう誰かに甘えてしまいたいです。 どうすればいいですか?
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6541159 https://news.yahoo.co.jp/pickup/6541204 https://news.yahoo.co.jp/pickup/6541192 https://news.yahoo.co.jp/pickup/6541178 世界はどんどん破滅に向かって進んでいくだけです。こんな世界に希望や将来の前提を持つこと自体が間違いなのです。こんな世界の何に感謝しろと。しかも死んでもまたこんな世界に生まれてしまうのです。極楽浄土なんて科学的に実証されていないということは、結局はこの世界で死んで生きて死ぬしかないのです。 人間がこの世界をもう改善できないことは上記のニュースだけで十分すぎるほどに証明できます。だから日本人も危機感を持たなければならない。とりあえずここではレスポンスが得られる、確実に読まれているのでまずはここから始めています。後々になって「安楽に滅びる道を本気で追求すべきだった」という私の主張が正しかったことが発覚しても後の祭りですからね。いずれ日本も戦争に巻き込まれてしまうのだと予言しておきます。人間の行き着く先がこれしかないので。私が絶望しているのは、その日が私が思ったよりもずっと早く訪れそうなところです。 もう私達は安穏と生活することはできません。絶望的な未来しか残されていないと覚悟すべきです。 いじめが常態化し、教師と生徒が互いに見下し合う環境で育ってきました。委員会や部活などの組織は悉く崩壊し、強くて利己的な人間だけが幸福になる世界でした。冷戦終了やキューバ危機回避を知らないので、人間という生き物は組織になると碌なことにならない、衝突を回避することはできないという認識が強いです。そして国際社会はいま、未曾有の危機に直面しています。人間は今の危機を回避する方法を得ることはできません。残されているのは破滅のみです。だからまともに生きるなんて馬鹿らしい。道徳はすでに踏み躙られています。こんな世界の何を信じているのですか?どうしてこんな世界に仏教を信じられているのですか?私達に未来がある根拠なんてどこにもない。破滅の根拠だけが積み上がる。この人生はもう終わりだし、次の生命はどうしたって非人道的世界です。こんな中で存在規模の被害者意識を持つなという方が不可能。
こんにちは… 僕は過去に人を傷付けてきた、そして人から傷つけられてきた。その記憶は保育園児の頃から中学生までのものです。 今になってその過ちに気付いたわけじゃないです。当時は先生に怒られ、人の泣き顔を見て「その場で反省し」謝れたことがほとんどでした。 最近では過ちを犯した自分自信を責め続けて、「きっと他に嫌がらせ、嫌味を言ってきたに違いない」「やった方がすぐ忘れるし、それを楽しい思い出と捉えるから自分もきっと忘れてるんだ」「そこに陰湿な自分がいた」となる…これが妄想なのか事実なのかも分からない 今までの学生活で、自分は部外者として見てきた同級生の悪事などを遠くもしくは近くで見てきたこともあるので、実は自分も同じことをしてきて人を傷付けたことを忘れてるだけではないのかという所に行き着きました。 このことを第三者に相談した時ある人は「みんな通る道だよ」「そんなこと考える人に限って何もしてないよ、そもそもそんな奴じゃなかったよ?」「思春期だからね」「子供は残酷」「そんなこと忘れてるよ、気にするな」「今が暇だからそんなこと考えるんだよ」と僕のことを責めずに、アドバイスをいただきました。 昔から心配性、神経質な性格でしたが、僕は罪深い生き物、不器用で後になって何もかも気付く、謝れたとしても意味あったのかなという考えで捻くれ者です。 今になって気付いたことじゃない、人を傷付けた痛みの方が大きいのは理解したはず、でもホントはできてないんじゃないの?日々感情の浮き沈みがすごくどうすればいいのか正直分かりません… ニュースで見る、犯罪、不倫、いじめ、自殺の記事またはそれらに向けられるコメント全て自分に言われてるようです。。。 ごめんなさい。 長々とすみませんでした。 ですが、この機会にまたお話しを聞いていただきたいと思いさせていただきました。
うつ病になって5年ほどになります。 職場でのいじめ、パワハラが原因でうつ病と診断されました。現在は、実家で両親、弟と私の4人暮らしです。私は障害年金を貰っています。 現在は、家で穏やかに過ごす分には特に問題がないのですが、社会復帰、再就職に対して全く前向きになれません。 小中高といじめを経験し、大学では友達は作らず孤立していました。 弟が生まれながらの障がいを持っており、自分は姉として手のかからない、親に心配をかけない優等生でいなければならないとずっと考えてきました。 うつ病になった時、家族の役に立てないという点に1番ショックを受けました。 うつ病になって2年目くらい、家の中での生活がある程度出来るようになり、アルバイトを何件かしましたが、どれも人間関係で上手くいかず1ヶ月以内に辞めてしまいました。 日々、減っていく貯金に強いプレッシャーを感じています。 両親共に高齢で、いつまでも支えてもらう訳にもいきません。 母は、私には自立して一人暮らしをして欲しいそうですが、年金のみではその資金を蓄えることもできません。 現在、趣味のイラストの依頼を受けて月に5000円程度の収入があります。外で働くのが辛いなら、趣味を極めてそれを仕事にするのも1つの案だと思うのですが、最近はそれを頑張るのも辛く感じるようになってしまいました。 どのような世界にも上には上がいて、自分が必要とされるビジョンが浮かばないのです。 私は動物が好きです。 今はうさぎを飼っています。 生き物との時間は私を穏やかにさせてくれますし、死にたい気持ちになった時も、このうさちゃんを守ってあげられるのは私しかいないと思うとなんとか思いとどまれます。 たくさんの動物と穏やかに生活したいという夢を友達に話したら、「叶えたい夢があるなら、つらくても苦しくても頑張らないとダメだ。何もしなかったら叶わない。貴方は本当は出来るのに頑張れてないのでは?」と言われました。 私は、うつ病や過去の経験の辛さに甘えているのでしょうか? 再就職を目指して、就労支援を受けた時も支援員から就職に対する意欲が見られないと言われました。 社会に出ることは怖いです。 それでも、頑張らなくてはいけないのでしょうか? 私のような人間は、国の支援の範囲で質素な暮らししかできないのでしょうか。
私は、少なくとも幼少期には同性愛者としての自覚は全くなく、むしろ同性愛というものは奇異なものであるとの認識を持っていました。そのような認識が変わったのは、私がある特殊性癖に目覚めてからです。 特殊性癖の名称は伏せますが、その性癖を持つ人々の多くは同性愛ないしは両性愛者で、異性愛者が少数派となっている特殊なコミュニティでした。その性癖に長く触れている内に私自身も同性愛者になっていました。現在までに男性と体を重ねた回数も10はくだらないと思います。 「同性愛である自分」ということに嫌悪感はありませんし、「同性愛」であることと社会とのつきあい方についても強い不満を感じてはいません。ですが、一つコンプレックスがあります。それは、「自分が同性愛者であるのは、女性と付き合うことに自信がないからではないか?」ということです。 私には彼女を作って付き合ったという経験は全くありません。もちろん性交の経験もありません。しかし女性に性的魅力を感じないわけではありません。 つまり私は、「両性に性的魅力を覚える」のに「男性ばかりと行為をしている」ことになります。この性別間の不均衡について、現在の私は次のように考えています。 1.男性の方が行為までのステップが少ないし、ハードルも低い 2.一方で女性はステップもハードルも高く、女性という生き物自体気難しいもののように思える 3.「だったらどっちもイケるんだし男でいいじゃん」 4.…と自分は考えている(無意識にせよ意識的にせよ) そこでお訊ねしたいのですが、 ・以上なような考えはそもそも自分の内面をきちんと観察できているのか。単に卑屈になっているだけではないか ・以上の考えが自己を捉えられていたとして、そのような姿勢は不誠実でないか。性欲を解消してくれるものとして男性を捉えるのは非倫理的ではないか。改めるべきではないか ・改めるべきだとして、それを理由として女性と付き合うのは余計不誠実ではないか。女性を、自分のコンプレックスである「女性経験のなさ」の解消のために利用するのは非道ではないか 以上のような悩みに対してみなさまのご意見を聞かせて頂きたく思います。 赤裸々な質問になりますが、どうかよろしくお願いします。